学士会アーカイブス (今月)
私の棋士人生 加藤 一二三 No.928(平成30年1月)
私の棋士人生
加藤 一二三
(将棋棋士)
No.928(平成30年1月)号
要旨
一九五四年、史上最年少(当時)のプロ棋士としてデビューし数々の大記録を打ち立て、「神武以来の天才」と呼ばれた氏が、戦後の将棋界を振り返る。また、引退後に始めた音楽活動についても〝夢〟を語る。
少年時代の思い出
私は一九四〇(昭和十五)年、福岡県嘉麻市の嘉穂郡稲築町(当時)で生まれ、小学校時代までそこで過ごしました。将棋を覚えたのは小学四年生の時です。
ある日、朝日新聞の将棋の観戦記で、「A棋士が素晴らしい攻め方をした。受け方は幾つかあるが、どれもいい手ではない」という内容を読みました。その瞬間、私は「そうか、将棋には一番いい手があって、それをずっと指していけば勝つんだ。私はこの世界に向いている。私はプロの棋士になれる」と直感しました。朝日新聞は今も順位戦の観戦記を掲載していますが、もしこの記事を読んでいなかったら、私の人生は変わっていたかもしれません。
こうして私は将棋に夢中になり始めました。しかし、近所に強い人がいた訳でもなく、戦後間もない頃なので、将棋の本などもありません。それでもだんだん強くなっていきました。後年、羽生善治さんに、「加藤先生は子どもの頃、どうやって将棋を勉強されましたか」と訊かれ、「あまり勉強していないんですよ」と答えたら驚かれたことがありますが、本当にほとんど勉強しないで強くなりました。
小学校六年生の時、大阪の将棋会館で板谷四郎先生に飛車角落ちでご指導を頂きました。その日、将棋会館では当時の将棋界のホープ、大山・升田両先生の対局があり、対局を終えた升田幸三先生が私の対局を観戦し、「この子、凡ならず」と褒めて下さいました。
大山先生とは既に面識がありましたが、升田先生にはその時初めてお目にかかりました。その後、両先生とは公私にわたって長いお付き合いになり、特に升田先生には結婚式の仲人もして頂きました。
ある二人の棋士が生涯に戦うのは、平均で約五十局ですが、大山先生と私は公式戦を百二十五局戦いました。これは歴代最多の対局数です。升田先生とも約六十局戦いました。どれも激闘でした。ちなみに大山名人は通算勝利数が歴代第一位(千四百三十三回)、二位が羽生善治さん(千三百八十四回・二〇一七年十月十日時点)、三位が私(千三百二十四回)です。
将棋は古代インドで生まれたと言われています。これが西に伝播し、ヨーロッパに入ってチェスになりました。一方、東に伝播したものは、シルクロードを経て奈良時代の日本に入り、将棋になりました。伝播の過程で将棋のルールは様々に変わり、今の将棋も日本に伝わってから日本人が作り替えたものです。
近代になると、一九二四(大正十四)年に東京将棋連盟が設立され、その三年後、関西の棋正会と合同して日本将棋連盟になりました。
一九三五(昭和十二)年、連盟は毎日新聞社(当時、東京日日新聞)と契約し、名人戦を開始しました。この時、終身名人という制度が廃止されました。名人戦が始まったことでプロ棋士に契約金が入るようになり、棋士の生活が安定しました。現在、名人戦は朝日新聞社と毎日新聞社の共催で行われています。「名人」というタイトルは今も棋士にとって最大の目標です。
「神武以来の天才」と呼ばれて
一九五四(昭和二十九)年、私は十四歳七カ月でプロ入りしました。二〇一六年に藤井聡太四段(十四歳二カ月)に抜かれるまで、六十二年にわたって私が最年少記録を保持しました。なお、私のプロ入りを機に、将棋連盟は公式戦の棋譜を保存し始めました。棋譜は大変な文化遺産ですから、嬉しいことです。
私はデビュー後も四年連続で昇級し、十八歳でA級八段に昇格したので、「神武以来(このかた)の天才」と呼ばれました。一九六〇(昭和三十五)年、二十歳の私は初めて第十九期名人戦に挑みましたが、大山名人に敗北を喫しました。
一九六二(昭和三十七)年、読売新聞社主催で十段戦が始まりました。これは名人戦に次ぐ大タイトル戦で、現在は竜王戦と呼ばれています。十段戦は、大山康晴名人が第一~三期を升田先生に三連勝し、第四~六期を二上達也八段に三連勝していました。つまり大山先生が十段戦を六連勝中で、まさに全盛期でした。
一九六八(昭和四十三)年、第七期十段戦が開催され、二十八歳の私は大山名人と激突しました。十段戦は二日制です。一日目は夕方まで戦い、翌日午前九時から対局を再開します。
第四局の第一日目は十二月三日でした。この日、私は対局が翌日に持ち越しになってからも、最良な手は何か、五時間近く考え続けました。しかし、深夜になっても答えが得られず、仕方がないので十二時近くに就寝しました。
話はそれますが、私はこれまで経験した二千五百五局のうち、前日に寝付けなかったことは三回ぐらいしかありません。我ながら「勝負師に向いている」と思っています。また、私たちプロは対局の年月日をよく覚えています。将棋は平均百二十五手で勝負がつきますが、私たちプロは、たとえ五十年前の将棋でも棋譜を見れば、指し手のほぼ全てを鮮明に思い出せます。
十段戦の話に戻ります。二日目の午前九時、盤の前に座ってからも私は最良の手を考え続け、二時間後、ようやく閃きました。一手を生み出すのに七時間もかけたのはプロになって初めての経験だったので、自分で自分の指した手に感動しました。おこがましいけれど、「自分の一手を将棋ファンや後輩棋士に書き残せば、私が感動したように感動をしてもらえる」と思い、棋士の社会的な存在意義を確認しました。
翌年一月七日、私は大山名人に勝利し、プロ入り十五年目にして初のタイトル獲得を果たしました。私はデビューの時から脚光を浴びていたので、「我ながら才能もあるようだし、将棋はなんて面白くて楽しいのだろう」という気持ちで将棋を指してきましたが、この十段戦で将棋の奥深さを垣間見、「これなら生涯元気にトップで戦っていける」という自信が付きました。
しかし翌年、私は十段戦に挑んできた大山名人に敗れ、十段を取り返されてしまいました。心理的に追い詰められた私は危機突破の糸口を信仰に求め、一九七〇(昭和四十五)年のクリスマスに洗礼を受けました。
名人獲得と、コルベ神父にまつわる思い出
一九七〇年代になると中原誠さんの全盛期となりました。私は名人戦や十段戦で中原さんに挑んでは敗北を繰り返しました。しかし、三回目の挑戦となった第四十期名人戦でついに中原さんに勝利し、四十二歳にして念願の名人になりました。一九八二(昭和五十七)年七月三十一日夜九時二分のことでした。これは棋士になって最も嬉しかった出来事なので、二分というところまで細かく覚えています。
私はこの時の棋譜を五十回以上研究しましたが、驚くことに、終盤で九九・九%負けていたのを、私がひっくり返して勝っているのです。本当にあり得ない逆転勝ちでした。クリスチャンである私は、「これは神様のお恵みだ。誰でも然るべき振る舞いや生き方をしていれば、神様は必ず報いて下さる」と思わずにはいられませんでした。
この年の十月十日、コルベ神父が列聖され、バチカンで列聖式が行われました。コルベ神父はアウシュヴィッツ収容所で若いポーランド人の身代わりとなって餓死室に送り込まれ、最後は薬殺されました。イエス・キリストは、「人がその友のために命を捨てる。これより大きな愛はない」と教えましたが、コルベ神父はそれを身をもって実行されました。コルベ神父の趣味はチェスでした。私は自宅の居間にコルベ神父がチェス盤を前に笑っている写真を飾っています。
一九八二年は私が名人になった年であり、コルベ神父が列聖された年でもあります。私はバチカンに行って列聖式に参列しました。とてもいい思い出です。
将棋界の生き証人
私は、一九三七(昭和十二)年の第一期木村義雄名人から、現在の第七十六期佐藤天彦名人まで、歴代の全名人と対局し、時に共に旅をし、仕事をし、食事をしています。私は文字通り、将棋界の生き証人です。
例えば、大山先生は私よりもかなり年上ですけども、将棋の上では良きライバルで、何度も熱戦を繰り広げました。私はよく天才と言われましたが、「加藤は大天才だ」と書いて下さったのは大山先生お一人です。私はお返しに、「大山先生は天才であると同時に勝負師です」と申し上げました。
大山先生の本を読むと、「自分は意地でも勝つ」「意地でもこういう戦いをする」という言葉がよく出てきます。岡山県出身の大山先生は十二歳の時、プロを夢見て、お父さんに連れられて大阪の木見金治郎八段邸を訪ねました。そこで木見門下の棋士と指したところ、木見先生に「全く見込みがないから、お父さんと一緒に帰りなさい」と言われました。
ところが、大山少年は帰らずに残りました。この時、大山少年は「意地」を会得したのだと思います。ここで踏みとどまった結果、大山先生は将棋界で大偉業を成し遂げました。大山先生は、十二歳の時の心意気、まさに「意地」を生涯持ち続けたのだと思います。
将棋は、次の一手の可能性が十の二百二十乗あるそうですが、私の場合、ある盤面を見た瞬間、直感的に指し手が閃きます。九五%の確率でそれが一番いい手です。ちなみに、大山名人は「直感的に浮かんだ手が最良である確率は、九〇%」と書いています。
後から思いついた手の方が、成功率が高いこともありますが、成功率が五分五分の場合、私は直感で思いついた手を選び、実際それで勝っています。おそらく直感で思いついた手は無心の結果なので、一番正確な所を捉えているのに対し、後から思いついた手は「勝手読み」と言うのでしょうか、無意識のうちに自分の都合のいいように読んでいるからでしょう。
引退と藤井聡太四段
二〇一七年六月、私は七十七歳で正式に引退しました。その直前、カトリック教会で「ゆるしの秘跡」に与かりました。いわゆる「告解」です。教会の中にある告解用の小部屋で神父と向き合って話をするのです。勿論、神父には私の名前などは分からないようになっています。この時、神父から「あなたは仕事が嫌いですか」と尋ねられたので、「好きです」と答えたところ、「では、仕事をしなさい」と言われました。
もしも神父にこう言われたのが教会の門の前だったら、私は額面通りに受け取っただけだったでしょう。しかし、ゆるしの秘跡という、神様が最も豊かな恵みを人に与える場で言われたので、私は「神様に〝あなたには、まだすべきことが沢山ある〟と言われた」と受け止めました。
すると、藤井聡太四段が彗星の如く登場し、彼が勝つたびにテレビ局から、「藤井さんの魅力について語って下さい」という依頼がくるようになりました。二〇一六年十二月二十四日、私は藤井聡太四段と彼のデビュー戦で戦っています。藤井さんは今十五歳です。彼の今後の課題は、私のように連続昇級し、十八歳か十九歳でA級八段になることです。それができれば、間違いなく天才と言われます。
彼は大変素晴らしい人柄です。彼がインタビューで、「加藤先生が引退されるのは、やっぱり寂しい」と言ってくれた時には、自分の引退をさばさばと受け入れていた私も、うるっときました。
「将棋史上、最も将棋の研究をした十五歳は、私でも大山名人でも升田名人でも羽生善治さんでもなく、藤井さんだ」とも思います。彼は時の経つのを忘れて将棋の研究に没頭しています。既に基礎ができあがっているので、ぶれることもありません。ただし、今は非凡な若手棋士が大勢いるので、私のように一年に一回確実に昇段するのは相当難しいと思います。
とはいえ、私の引退と入れ替わるように藤井さんが登場したのは、この上なく素晴らしいタイミングでした。あるタレントさんに、「加藤さんも藤井さんも、すごい強運の持ち主だ」と言われましたが、私はクリスチャンですから、神の思し召しを感じます。
余談ですが、現在、若手棋士たちがコンピュータを練習に採り入れていますが、私は「それはやめよう。身に着かないよ」と警告しています。コンピュータは定跡ではない手で来るので、気持ちが悪い。定跡は美しい手ばかりなので、それをしっかり学んで欲しいのです。子ども達には、①入門書を読むこと、②飛車、角、桂馬、香車の六枚落ちから始めること、③日曜日のNHKの将棋講座を見ることを勧めています。私の場合、小学校四年生の時に両親が買ってくれた詰め将棋の本が、とても役に立ちました。
聖書の話
一九八〇(昭和五十五)年、私はイスラエルに一週間の旅行をし、その後にバチカンを回りました。
旧約聖書は古代イスラエル民族の歴史物語で、創世記第一章を除くと、多くの記述が史実として確認されています。登場人物の中で私が最も好きなのは、イスラエルの王ダビデです。
イスラエル人がペリシテ人と戦争になった時、羊飼いの少年ダビデが敵方のゴリアテという大男と一騎打ちをすることになりました。聖書はこの場面を、「ダビデは戦いの場に走った」と表現しています。ダビデの自信や戦上手がよく表れていて、私の大好きな表現なので、色紙を頼まれるとよくこの言葉を書きます。
話を戻します。羊飼いの少年ダビデは、鎧づくめで大槍と剣を持つゴリアテに対し、投石器で立ち向かい、見事ゴリアテの額に石を命中させます。ダビデは剣を持っていなかったので、昏倒したゴリアテから剣を奪い、ゴリアテの首をかき切ります。
ダビデはこのように勇猛果敢でしたが、同時に竪琴の名手でもありました。ダビデの仕える王サウルが夜毎に気が塞ぐようになると、ダビデは王のそばで竪琴を奏でて王を慰めました。すると、王は気が晴れやかになりました。私がダビデを好きなのは、文武両道で、音楽が巧みだからです。
音楽の世界でも活躍
私は音楽も趣味にしています。以前、私は民放の特別番組で、王子ホールでベートーヴェンの交響曲第五番「運命」の三分間版を指揮しました。山形県天童市のホールでも観客千二百人を前に、ヴェルディのオペラ「リゴレット」に出てくる「女心の歌」の一番を日本語、二番をイタリア語で歌いました。
この時、指揮とオペラ歌唱を指導して下さったのが、東京藝術大学の青島広志先生です。青島先生は、「加藤さんの声はテノールで、音程がいい。加藤さんなら藝大の特枠で合格します」と褒めて下さいました。
最近、私はピコ太郎こと古坂大魔王先生に作詞作曲をしてもらいました。古坂先生は、「最初に会った時は変わった人だと思ったけど、後日、加藤先生の棋歴データを見て本当に驚いた」と仰り、私が棒銀という戦法を得意としていたことから、次のような歌詞を書いてくれました。
♪金矢倉 銀矢倉 精魂込めて 大駒を竜と成し玉を詰める 基盤 戦場 騎士 勲章 神武以来天才よ 魂揺さぶる 無敵の棒銀 ひふみんアイ ひふみんアイ ひふみん愛♪
私が素晴らしいと思ったのは、「金矢倉、銀矢倉」という専門用語です。私は「金矢倉」で五百局ぐらい勝っています。「大駒を竜と成し、玉を詰める」の「大駒」とは、飛車や角のような強力な駒のことです。「基盤」とは将棋盤です。「騎士、勲章」とは、私がローマ法王から授けられた騎士勲章のことです。
最後の「ひふみんアイ」とは、相手側に回り込んで盤面を見る動作を指します。一九七九(昭和五十四)年二月七日、秩父市の美やま温泉で中原誠名人と戦った時のこと。一日目の夕方、指す手に窮した私は、中原さんが席を外した𨻶に中原さんの側に回り込んでしばし盤面を見ました。すると、「5五歩」という素晴らしい手が浮かんだので、それを指して王将のタイトルを獲得しました。
私がすごいと思ったのは、マツコ・デラックスさんが、「〝ひふみん愛〟の〝愛〟は、加藤さんの生涯のテーマだよね」と言ってくれたことです。「ひふみんアイ」は、将棋でいい手が見つかった時の「アイ」で、「目」のことだけども、古坂先生は「愛」と引っ掛けてくれているのです。
古坂先生ことピコ太郎さんが作った曲「PPAP(ペンパイナッポーアッポーペン)」は、世界中で一億人以上の人がユーチューブで見ました。その結果、古坂先生は国連開発計画の「持続可能な開発目標」の宣伝役に大抜擢され、ウガンダ共和国の観光大使にも任命されました。
私の曲もユーチューブにアップされ、既に十六万人が見てくれています。もしかして一億人が見てくれたら、ピコ太郎さんのように、世界の檜舞台でお役に立てるかもしれません。
(将棋棋士・早大中退)
(本稿は平成29年10月10日夕食会における講演の要旨であります)