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謝恩の情Ⅰ

日本の旧帝国大学の流れを汲む大学の出身者によって構成されている学士会。その創立は、1886(明治19)年に遡ります。この年は官立の旧東京大学が帝国大学令の公布を受けて改組され、「帝国大学」(後の東京帝国大学、現・東京大学)と名称を改めた年に当たります。以来、学士会は各地に創設された帝国大学と共に、その卒業生らを会員として130余年の歴史を歩んできました。

後年 、その跡地に現在の学士会館が建設された大学予備門(旧東京大学)付近(明治21年、ニコライ堂から撮影)後年 、その跡地に現在の学士会館が建設された大学予備門(旧東京大学)付近
(明治21年、ニコライ堂から撮影)

学士会の誕生のきっかけであり、いまも底流で脈々と受け継がれてきているもの。それは、いわば謝恩の情です。まず、学士会の黎明期を語る上では、欠かすことのできない2人の「恩師」の存在があります。

1人は加藤弘之・旧東京大学初代総理。そして、もう1人は、加藤氏の旧東京大学総理時代に補佐を務め、後に帝国大学総長となった濱尾新氏です。2人は偶然にも但馬(現・兵庫県豊岡市)の出身で、共に日本最初の総合大学の礎を築いた立役者ですが、学士会の草創に深く関わった人物でもあるのです。

加藤氏は、江戸期の1860(万延元)年に東京大学の淵源である蕃書調所の教官となったのを始めとして、改称された開成所、東京開成学校などで教鞭を執り、東京開成学校(法・理・文の3学部)と東京医学校(医学部)が統合した旧東京大学の総理(当初は綜理)に就任しました。

日本で初めて立憲思想を紹介した『鄰草』を著すなど、時流であった西洋の学術と研究を進めてきた一方で、国学や漢学の教師を養成するために文学部に古典講習科を設けるなど、幅広い視野でわが国近代の教育界を先導しました。

その後に官・学界の多くの要職を担い、明治の総帥ともいわれる加藤氏でしたが、その人柄は良く、学生生活にもきめ細かい配慮を見せていました。統合当初、法・理・文の3学部と沿革の異なる医学部の孤立を解消するため、ボート部員に医学部の学生を積極的に勧誘させるなど、学生間の交流やスポーツの奨励にも心を砕きました。また、好きな哲学の話になると、学生と友達のように接して意見を交換したといわれています。

そして、後に「明治十六年事件」と呼ばれる学内騒動への対応に、加藤氏の心情の温もりが強く感じられます。自由民権運動への弾圧や松方デフレなどで政治・経済情勢が混沌としていた1883(明治16)年10月、学生たちは政治活動参加の禁止や寄宿舎の管理取締強化等で不満を募らせていました。それが、留別の酒宴が恒例となっていた夕刻の学位授与式の開始時間を、朝に変更されたことを機に爆発。式をボイコットした上で、上野から日暮里原野へ繰り出して酒盛りをし、気勢を上げて帰校すると、板塀や木柵を壊し、舎監室などを荒らすという暴行事件に発展しました。

この事件の報はすぐに時の政府首脳にも伝えられ、処分は関係者146人全員退学という厳しいものとなりました。文部省は人材のほしい諸官署への影響を恐れて、一律処分の再考を大学側に求めましたが、加藤氏は罪の軽重を立証できないとしてこれを拒みました。この時、加藤氏の念頭には既に、将来のある優秀な学生を離散させないための「全員復学」の構想があったのです。そして、処分発表からわずか1カ月足らずで、情状を考慮するという形で再入学許可申請を提出し、翌年5月までに全員を復学させました。この中には後に大臣や著名な学者になった学生もおり、彼らを加藤氏の温情が救ったのです。

旧東京大学が帝国大学に改まる明治19年1月、加藤氏は9年間で総理の職を終え、元老院議官に転出することになりました。その慈父のような人柄の加藤氏は多くの学生から慕われており、同年4月18日、卒業者や学生、教官ら122人が小石川植物園に集まり、「加藤弘之先生」謝恩会が開かれました。謝意に満ちた会の席上、このような親睦会を続けていきたいとの機運が盛り上がり、その場で加藤氏が創立委員として卒業者5人を指名しました。これが、日本で最初の大学同窓団体である学士会の誕生の発端となったのでした。

創立の発端となった加藤弘之先生謝恩会(明治19年4月18日、小石川植物園にて。出席者122名)創立の発端となった加藤弘之先生謝恩会
(明治19年4月18日、小石川植物園にて。出席者122名)

5人の創立委員はその10日後、早速、会名や規則について協議。草案をまとめて卒業者や教員に通知し、集会での討議を経て、「学士会」の会名と会員資格などを決めました。そして、同年7月、学士会が正式に創立されたのです。

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