謝恩の情Ⅱ
加藤弘之氏より13歳年下だった濱尾新氏は1872(明治5)年3月、前年に設置されたばかりの文部省に入省しました。そして、南校、その後身の開成学校、東京開成学校の監事を務めます。この時代の監事は、今の大学でいえば学生部長のような職務で、ほとんどの学生が暮らす寄宿舎で彼らと寝食を共にし、いろいろな面倒をみて、監督する役目でした。
就任当初、濱尾氏はまだ24歳。封建時代の気風がなお強く残っていたころであり、血気盛んで議論好き、反抗的な学生たちに、年齢もさほど変わらない濱尾氏は寛大な心で接して受容しました。大久保利通の次男で入舎生であった牧野伸顕氏は、後の學士會月報の濱尾氏追悼録に「随分乱暴したものですが、併しどんなに生徒が暴れようが、議論しようがそんなことは頓着されない」人物だったとし、その上級生であった斎藤修一郎氏も自著で「前後各時代の監事を通じて濱尾の如く誠実な熱心な、活動的な良監事はなかったろう」と評しており、多くの学生の信望を集めていました。
1874(明治7)年に学校長心得となった後、当時の学校長が渡米の帰途で客死。濱尾氏はその留守中から学校長代理として、27歳の若さで実質的に東京開成学校を運営し、行政家的教育者の手腕を発揮しました。そして、1877(明治10)年の旧東京大学の誕生で加藤氏を補佐する綜理補(後に総理補)となったのです。
濱尾氏は再び文部省に戻った後、1893(明治26)年に帝国大学第3代総長に就任し、4年後に文部大臣になるまで務めました。この間、欧州に倣った大学の講座制や、各分科に教授会を設けるなど、今日の大学の教育形態の原形を構築する功績を残しました。その後の1905(明治38)年、濱尾氏は再び東京帝国大学の第8代総長を務めます。この2度目の総長時代、大学では今も東大のシンボルである銀杏並木を構内に植樹させたことは有名ですが、そのころ基礎固めと発展を期していた学士会の活動についても会員の1人として、熱心に支えました。
学士会の会員数は年々増加し、大正期に入るころに1万人に達します。当時は、神田錦町の東京帝大の旧建物の一部を仮会館にしており、増築を重ねていましたが、短期間で手狭になり、会員から会館建設を望む声が高まっていた時期でした。
そうした中、東京帝大が旧東大医学部本館で時計台と呼ばれていた建物を、改築のために取り壊すのに伴い、学士会がその古材を譲り受けて仮会館を増築するという計画が持ち上がりました。これは従来の仮会館の建物と連絡する形で新たに会館を建てる計画で、実質的には本館の新築工事に等しいものでした。
学士会は1910(明治43)年4月、この計画案について総長の濱尾氏に申請しました。濱尾氏が理解を示してまもなく許可したのを受け、学士会は建築設計を練り上げて着工。1912(大正元)年末に、西洋風の木造総2階建ての新館が完成し、学士会は初めて会館と呼べる施設を持つことになったのです。
関係者の喜びはひとしおで、學士會月報に写真などを載せて落成披露会を大々的に予告。完成翌年の1月30日、建設に助力した浜尾氏らを招いて第1回披露会を、2月11日には多数の会員を迎えて第2回披露会を開催しました。会員数1万人突破、月報300号到達という慶事も重なり、新会館は祝賀ムード一色となりました。
ところが、その僅か9日後の2月20日、悪夢のような出来事が起こります。未明に神田三崎町で発生した火災が烈風により小川町(一部が現・神保町)の書店街など2598戸を焼く大火となり、その火の手で錦町の学士会館も焼き尽くされたのです。
この時まだ印刷所にあって焼失を免れた月報300号は、300回刊行の記念号であるとともに、濱尾氏らの新館落成を喜ぶ祝辞が掲載されていました。この月報に、会館の被災を告げるビラを挟み込まなければならない悲しい事態となりました。
しかし、この不幸に負けず、学士会はすぐに会館の建て直しに向けて奮起します。火災翌月には再建の方策について話し合う協議会が、濱尾氏の発意により開催されました。濱尾氏が座長となり、後に学士会理事長となる阪谷芳郎氏らが出席。そこで学士会が寄付金を募り、独自に再興を目指す方向性が示されたとみられています。
濱尾氏はこの時、途中退席して大学総長事務取扱者に座長を引き継ぎましたが、その後再建計画推進の中心となる阪谷氏が書き残した覚書や談話等から、学士会創立に当たって加藤弘之氏が謝恩会の席で創立委員を指名したのと同様に、濱尾氏も学生時代からの足跡を知る阪谷氏らを呼んで事前協議し、学士会の再興事業を託したことがうかがえます。
以後も学士会顧問として会館建設に情熱を傾けてきた濱尾氏は、1925(大正14)年9月、再建計画によって現在の学士会館が竣工するのを待たずに逝去しました。
学士会の長い歴史の1つの節目ともなった月報300号に寄せた祝辞の中で、濱尾氏は次のように述べています。
「専門を同じくする者はもちろん、その専門を異にする者も互いに連絡して利便を図り、事業を進捗せしむることは公私のため巨益あることなれば、大学同窓の諸君はこの学士会の大会同を利用して、益々親密にして相互の便益を図り、宜しく同窓たるの実りを挙げられることを希望します」
この寄稿の表題でもある濱尾氏の「希望」は、それからおよそ100年の時を重ねた今も、学士会の理念としてしっかりと息づいています。