学士会アーカイブス (今月)
ひとびとの地中海世界 片倉 もとこ No.895(平成24年7月)
ひとびとの地中海世界
片倉 もとこ
(国際日本文化研究センター、国立民族学博物館、総合研究大学院大学、各名誉教授)
No.895(平成24年7月)号
あかるい陽光をうけてよこたわる地中海のほとりでのことであった。
産気づいたらしい一人の女のまわりに、たちまち、集まってきたひとたち。海の向こうからもアフリカの奥からも、かけつけてきたかのよう。服装も顔の色も実にさまざま。ただ、みな、いちように心配顔。
「トルコ人らしい」
「いや、日本人のようだ」
「そんなことはどうでもいい」
「早く病院へ」
旅人を助けるジワールとよばれる古来からのならわしは、ひとびとのあいだで、やわらかにいきていた。
海のほとりに大きな産院がある。そこに、どのようにしてつれてこられたのか、気がつくと、顔に年輪をきざんだギリシャ人らしい看護師さんが、しわくちゃの笑顔でのぞきこみながら、「新米母さん」の右手をそっとにぎっていた。左手はトルコ系らしいぽっちゃりした若い看護師さんの手につながっていた。医学部と薬学部の両方で勉強したという女性医師が、「アル・ハムドリンラー(神のおかげで)赤ちゃんも元気よ」と、自分のこどもが生まれたように喜びを満面にたたえていた。アラビア語のアクセントから判断するとエジプト人らしい。たしかめてみることは、はばかられるようなトランス・ナショナルな雰囲気が、そこには漂っていた。いきだおれになった異国の女性(実は半世紀ほど前の私め)を、協力して病院までつれこんだのは、国籍もさまざまなひとたちだったろう。それを、なんのこだわりもなく受けいれた大病院で、日本人の小さないのちが、この世界への生をうけたのであった。
地中海の青と空の青のとけあったアレキサンドリアでギリシャ人、エジプト人、フランス人、モロッコ人……地中海世界のさまざまなひとたちにたすけられて、この世に生まれでた赤ん坊は、日本人の子孫らしく、ほっぺの谷間に、お団子のような鼻が、ちょこんとある女の子だった。新生児室には、さすがクレオパトラの末裔にふさわしく鼻の高い美男美女の赤ん坊たちが、ずらりとならんでいた。たくさんならんだ同じ小さなベッドのなかから、典型的な「にっぽんの女の子」を識別するのは、至極かんたんであった。
この女の子も、いまでは四〇歳をこし、ふたりの男の子をそだてながら、ワシントンD.C.の世界銀行を基点に、飛行機で世界をとびまわっている。あの新生児室の赤ん坊たちも、地中海のほとり、アフリカ大陸から飛び立って、いまや地球各地にちらばっているのかもしれない。
そもそも、地球上の人類すべての祖先は、ほぼ七〇〇万年前にアフリカで生まれ、北のほうへ、すなわち地中海の方向にあるきだしたのだった。「直立二足歩行」が共通の特徴である人類のなかから、原人や猿人からわかれて区別される「人間」が出現しはじめたのは、人類の一部がアフリカ大陸から移動しはじめたことによる。それは移動による壮大な地球開拓につながるものであった。
移動は出会いをともなう。絶滅したといわれる旧人ネアンデルタールと新人とのあいだに子どもが生まれていたことが、最近あきらかにされたが、ユダヤ人とアラビア人の混血も、ごく自然のことで、地中海地域に英仏によってイスラエルが建国されるまえは、ユダヤもアラブも隣人同士のつきあいをしていた。現在のパレスチナ情勢からは、ありえないだろうと思われているイスラエル人とアラビア人の結婚さえもみられる。
イタリア、シチリア島にちかく、地中海のほぼ中央にあるマルタ島で、ユダヤ人(元イスラエル人)とアラビア人の仲のよい夫婦が穏やかにくらしていた。出会ったばかりの人を、すぐさま自宅に招くのは、このひとたちのならわし。海のみえる家で、もてなしてくれながら、「わたしたちユダヤ人とアラビア人は食べ物も、ほとんど同じだし、生活のしかたもよくにているのよ」「イスラエルにいたときは、シナゴグでくりかえし『過去の悲惨な経験をわすれるな』と、いやになるほどきかされたの」などとはなした。
ニューヨークで生まれ育った彼女は、キブツの思想に共鳴してイスラエルにわたったが、「悲惨な経験」を、こんどは、イスラエル人がパレスチナ人におしつけていることに矛盾を感じて、いたたまれなくなったという。夫はアラブ首長国連邦のラッセルハイマ出身で、ヴァスコ・ダ・ガマの水先案内人をしたイブン・マージドの末裔だという。航海に関しては、アラビアがヨーロッパより、はるかに先をきっていたのだと、若い妻の前で、いばってみせる。
マルタ島は、マルタ騎士団など十字軍で知られているが、ここには、イスラーム教徒たちのトルコ風の大きな墓地もあり、この島で暮らすリビヤ人その他のイスラーム教徒たちが、首都ヴァレッタのモスクにあつまっていた。壁には、当時の最高指導者カッダーフィの妙に大きな肖像があった。偶像を禁止する、したがって肖像画などを、かかげることもよしとしないイスラームにそぐわない雰囲気だな、と、そのとき、わたしは首をかしげた。そこにいたひとたちは、「マルタの手編みはいいよ」などと屈託ない様子だったが。そのとき手にいれた赤いカーデガンを着て、今この原稿を書いている。リビアの「アラブの春」が一段落したいま、あの肖像はどうなっただろうか。
ピカソの生まれたスペイン南部マラガの街には、「エジプト・レストラン」と、書かれた看板が大きなカトリック教会の横にあった。店主のハミースは、わたしに歓迎の意を表してエジプト風スペイン料理を用意し、マラガに留学している学生たちを集めてくれた。そのなかにいた大学院生夫婦は、是非きてくださいと市外地にある自宅にまねいてくれた。小さなアパートの部屋には、手料理がテーブルいっぱいにならべられていた。「あら、きれい!」と私が感心したら壁に飾ってあった紺青のミスバハ(イスラームの数珠)までプレゼントしてくれた。あれから二年、つい先日うけとったメールでは、来年、赤ちゃんが生まれるんだ、それまでに、ふたりとも博士論文をしあげるつもり、とあった。
ひとびとの出会いを増幅していくハミースはエジプト人で、「僕は動くのがすきなんだ」とウイーン、フランスを経てスペインにやってきた。「明日は、おばあちゃんのところにあずけている下の娘をむかえにいくんだ」。彼の母はモロッコに住んでいるという。地中海の向こう側なのに、まるで隣家に行くような気軽さ。舟でモロッコ側のタンジェにわたる。タンジェは、イブン・バットゥータの生まれ故郷。彼はメッカ巡礼を経てインド、デリーで八年、各地をまわり、中国まで三〇年間におよぶ旅をつづけ、五〇ヶ国あまりを巡ったのだった。その大旅行記は、家島彦一や前嶋信次などにより立派な日本語訳にもなっている。
ハミースは妻のライラに、「僕がいくよ」と、海を見ながらいう。はじめはライラが行くことにしていたらしい。女もよく動く。ナイル河の肥沃な土地で、じっと農耕にたずさわっていると一般におもわれているエジプト人もよく動く。イブン・バットゥータの血が、ながれているからだろうか。その日は、黒い波が吼えるように狂っていた。あんな地中海もあるのだ。心配しながら待っていたわたしたちのところへ、翌々日には可愛い娘シャーヒンダを抱いてもどってきた。疲れた父親ハミースの顔。動くのが好きでも、移動にはエネルギーをつかうようだ。
リゾート地として人気のある太陽海岸コスタ・デル・ソル沿いにも、小さいモスクがあちこちにあるが、フィレンフィローラのモスクは大きくて美しい。イマームは、カナリア諸島からやってきた人で、スペインのムフティ(イスラーム世界の権威)にも任命されている。モスクでは、コーラン教室をひらいたり、家では、奥さんやモロッコ人のお手伝いさんといっしょに台所に立って料理もする。食べ物を孫の小さな口にはこんでやったり、イスラームのお祈りのしかたを、おしえる好々爺でもある。「EU以来、経済は苦しくなったけど、スペインのほうがいいなあ。フランスは住みにくい」などと、アフリカ大陸がみえそうな海に面したバルコニーで日没のあとも、おしゃべりに興ずる地中海世界のひとびとだった。
人類のほとんどすべてが国民国家を単位として生活することになったのは現代の大きな特徴だが、一八世紀のフランスが先がけ、一九世紀のヨーロッパでそのモデルができたのだった。老舗のフランスは政教分離を固守するあまりに、イスラーム教徒のスカーフ禁止にまでいたり物議をかもしだした。
このライシテ、政教分離の思想は、トルコにもはいりライクリッキとよばれている。イスラームを近代化の阻害要因と考えたムスタファ・ケマル(後の初代大統領アタチュルク)らによって、ライクリッキは一九三七年には憲法にも明記された。しかし、国民の大半が、イスラーム教徒であるトルコでは反発が根強く、イスラーム化の流れは強まり、二〇〇七年には、初のイスラーム系大統領も選出され、最近はイスタンブールの街にも、スカーフ姿の女性たちがふえてきた。フランスとトルコはともに、政教分離をうたっているわけだが、人々の動きは、まったく異なった様相を呈している。
近年、世界中で急増するムスリム(イスラーム教徒)は、ヨーロッパにも集まり、移り住む人も増えているが、タウヒード(一化の思想、政教分離はしない、多様性の統合)の理念を根本とするイスラームを、地中海の北側では、九・一一事件ともあいまって排除する傾向にある。西欧文明的価値にあわないものを、特殊なものとして、きりすてようとする傾向がグローバル化し、一方、ローカルだとみなされる価値は自己主張をしようとする。グローバル化が未熟だから固有文化の反発がおこる、のではない。イスラーム主義者がモダニストであることもおおい。グローバル化の進行に触発されて、パティキュラーな価値の高揚がおこってきた面もある。「アラブの春」と一様に総称されるものも、それぞれの特殊性をもつ複雑な様相を露呈している。一つの価値基準をグローバル化する流れが強まる今日、「グローバル・スタンダード」をユニバーサルな価値に、どうつないでいくかが人類社会の今後の課題になるだろう。
早春の日ざしがはいりこむ書斎で、ひさしぶりにアラビアのお香をくゆらせていたところに、在日エジプト大使館からメールがはいった。
「コプト正教会の教皇アレクサンドリア総主教シェヌーダ三世が、二〇一二年三月一七日カイロにて逝去されたことを謹んでお知らせいたします。弔問の記帳は下記の通りです」
大使館内の「ファラオニック・ホール」に、キリスト教徒もイスラーム教徒もユダヤ教徒も世界のあちこちから移動してきているさまざまなひとびとが、とりどりの服装で静かに、かけつけていた。
多様なるひとびとが、やさしく集うありさまは、昔日、地中海のほとりで、いのちの誕生に手をかしてくれた人たちを彷彿とさせ、憂愁のなかにも、ある種の希望をかいまみせてくれるようであった。
(国際日本文化研究センター、国立民族学博物館、総合研究大学院大学、各名誉教授・東大・地理博・昭49)