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夕食会・午餐会感想レポート

2020年7月午餐会「薬師寺国宝東塔大修理―10年の軌跡」

夕食会・午餐会感想レポート

7月20日午餐会

7月の午餐会は、薬師寺執事松久保伽秀氏により「薬師寺国宝東塔大修理―10年の軌跡」のお話を聞きました。

この大修理は平成22年(2010)平城京遷都1300年祭を期して立ち上げられた事業で、10年の歳月を経て、このほど成就したというものでした。私は偶然にもYouTubeで、四編からなる「薬師寺東塔大修理」の動画を見つけ、概要をつかんでから、この席に臨むことができました。

修理が重ねられ、記録が残っているだけでも、1600年代半ばを第一回として、昭和25年(1950)まで、五回の修理がなされてきたとのこと。この塔は、舎利をおさめて祀る墓にあたるわけで、ブッダへの敬虔な祈りがこめられたものです。心柱を中心において塔を支える工法は、我が国に残っているだけで、まさに世界遺産そのものです。

今回の修理の課題は、建物基礎部分の補強と心柱の補足、構成部材の組みなおしであり、心柱の腐食防止、柱の沈下防止、軒先の垂下への補足、塔最上部の相輪の保存管理が施されました。

塔を解体し、構成部材全てを点検し、使えるものは補強し使うという方法ですが、古い材木の方が使い続けられるということには驚きました。鎌倉期くらいの材木は、山に人の手が入るようになり、成長が速い分、年輪が粗くなり、材質は弱くなるのだそうです。確かに両方の断面の写真が並べられると、古い材木の詰まった年輪が見えて、材質の良さが分かります。

高さ34m、総重量450トン。1300年前、人力でよく組み上げたものだと、改めて、その技術力を知らされます。

岡倉天心が古寺の荒廃を嘆き、「古寺宝物調査」に着手し、「古寺保存法」の施行にこぎつけた遺志がここまで受け継がれていることを思います。

私が在職した会社の本店ビルは、昭和54年(1979)竣工ですが、立地区域の再開発計画で、取り壊しの方向とのこと。いとも簡単に壊され、大量の瓦礫が捨てられます。古寺保存と対極の動きです。

薬師寺東塔大修理の総工費は28億円とのこと。工期10年であり、年にならすと、3億円。これで100年持つとなると安いものではありませんか。

奈良の空は青く広いと言います。落慶法要の日が待たれます。

(東北大・経 小松 正佳)


薬師寺は創建1300年になるとのこと。1300年前に思いを馳せながら講演を聞いた。

京都生まれ、大阪育ちの小生にとって、薬師寺は、小・中学校時代、何回も訪れており、少年時代の思い出も重なる。ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲(佐々木信綱)という短歌が思い出された。

薬師寺には、もう長年訪れていない。再建された西塔も見ておらず、東塔大修理のことも知らなかった。

薬師寺は、天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病平癒を祈願して建立、平城遷都に伴い移転された。(東塔は、おそらく遷都後の新築とのこと。)卒塔婆である30mの心柱の回りに、36本の柱と屋根、裳階を組み上げ、三角形の梃の原理による微妙なバランスの上に立ち上がっている由。こうした技術が既に1300年前にあり、現代の宮大工にまで引き継がれていることは、驚嘆に値する。木材について、奈良時代の木が、人により育てられた鎌倉時代の木より、よく残っていたとのこと、また、心柱の腐食補修や軒先垂下の補強など興味ある話であった。建築材料の90%は昔の儘とのことであるが、どのような姿になったのか、新たに耐震補強を施したとのことであるが、果たしてどうなのか、近く訪れてみたいと思う。

また、解体により、新鋳の和同開珎が発見された由。心柱の頂の器に「赤い玉」があり、道昭が玄奘三蔵より仏舎利として与えられた「赤い実」を納めたとの古文書の記述との一致が見られたとの話もあった。

仏舎利とされている「赤い玉」が一体何であったのか。質問をしたかったが、仏罰があるかもしれぬと差し控えた。機会があれば、伺ってみたい。

(京大・法 神谷 武)