学士会アーカイブス (今月)
学者と戦争――有沢先生を偲んで―― 脇村 義太郎 No.798(平成5年1月)
学者と戦争――有沢先生を偲んで――
脇村 義太郎
(日本学士院長・東京大学名誉教授)
No.798(平成5年1月)号
一九九一年の十二月二日に、NHK教育テレビが、日米開戦五十年を記念して特別番組を企画し、連続放映いたしました。その第一回は、「交渉実らず・日米戦回避にかけた男たち」で、日米交渉が手詰まりのまま暗礁に乗り上げていた開戦前のある時期、両国の民間人が政治問題解決の糸口を探り民間外交を進めていたものの、遂に交渉は実を結ぶことなく決裂していった様子を、証言テープや豊富な資料をもとに検証したものでした。その翌日の二回目は、「新発見・秋丸機関報告書・有沢広巳と太平洋戦争」と題し、経済学者の有沢広巳先生が陸軍省の依頼で英米の戦時経済力を調査・予測した「英米合作経済抗戦力調査」が発見されたことから、戦時下の学者達が戦争にどのようなかかわりを持っていたか、また、研究者の良心についても考えさせるという番組でありました。そこで本日は、この二つのビデオの解説を兼ねて、太平洋戦争と学者とのかかわり合いを、有沢先生のご苦労を偲びながら、その一端をお話申し上げたいと存じます。
学者と戦争ということで思い起こしますのは、かつて日本とロシアが戦争になった時に、戦争の発生すら知らないで専門の研究に没頭していた東大の教授がいたということが評判になったことがありました。ところが他方では、シベリアのバイカル湖まで占領しろといったような過激な開戦論を唱えて辞任に追い込まれた法科大学の教授もおりました(七博士日露開戦論纂、明治三十六年十二月二十九日発行)。そして、その処分が一つのきっかけとなって総長の責任問題にまで発展し、当時の山川総長がついにお辞めになるという事件が起きました。
当時東大で美学・美術史の講座を担当していた大塚保治教授は、日露戦争の始まる直前に、学者としてこの戦争を黙って見逃すわけにはいかないと、「ロシアにおける平和論者――トルストイと画家エレスチャン」という題の特別講義をされたという記録を、私は最近発見しまして、法学部七博士の勇ましい開戦論と比較して感慨を新たにしました。ちなみに、東大の美学・美術史の講座は、明治十一(一八七八)年に来日したアメリカの哲学者・美術研究家フェノロサによって始められたもので、これはパリの大学と殆ど同時か或いは少し早かったとも言われております。
私自身は海運・海上保険が専門でございますが、当時の東大経済学部の研究室主任大内兵衛教授の指示によりまして、工学部で船舶工学を研究し、さらに、船舶の燃料としての石炭と石油のいずれを研究すべきか、船舶工学の井口指導教授に相談しましたところ、言下にこれからは石油と言われ、第一次世界大戦直後に東大工学部に新たに開設された石油講座を二年間受講し、実際に油田や製油所等の実地研究をいたしておりました。折りしも満州事変が起こり、日本が満州に進出するには石油が不可欠で、しかも外国は満州に対する石油輸出を拒むということもありまして、石油と戦争というものを真剣に研究せざるを得ない、さらに「戦争か平和か」という問題に深い関心を払いながら、石油の研究を進めておりました。
そこで二年半余りの間、私はヨーロッパやアメリカを中心に世界を廻って現場を見学して研究して参りました。幸い、シェル石油ではイギリスは勿論のこと、フランス、イタリー、トルコ、ルーマニア方面の施設を殆ど見学させてくれました。ドイツでは石油と人造石油との関係を可能な限り調査しましたし、アメリカではスタンダード石油から、私の見学したいところは全部見せてくれるという扱いを受け、ニューヨーク、ルイジアナ、テキサスの油田・製油所を丹念に見学することが出来ました。さらにカリフォルニアにおいては、ロサンゼルス、サンフランシスコを中心に油田、製油所のほか、日本への供給力を調査するため、新たに開発されて大噴油を続けている奥地のケトルマンヒルズの油田まで出掛けていきました。ところが、アメリカ滞在中に支那事変が起こり、日本に着いてみますと、戦争と学者の関係は急激に難しい問題になっておりました。
当時の東大経済学部では教授たちの考え方が二分されておりました。学者は静かに自分の専門を研究していればいいんだという考えに対して、単に戦争の研究をするだけではなく、明治神宮へ戦勝祈願の参拝をするとか、南京陥落を祝うために二重橋へ行進するといったデモンストレーションを行って、戦争への士気を鼓舞すべきだという考え方とが対立しておりました。こうした雰囲気は経済学部ばかりではなく、東大全体へもひろがろうとしていたのです。帰朝早々私もこうしたデモンストレーションへの参加をすぐ誘われたのですが、自分の専門を静かに研究したい、折角研究してきた戦争と石油の関係をまとめたいからと団体行動への参加を断わりました。しかし、私はその直後に「教授グループ事件」で逮捕され、起訴となり約一年半後の昭和十四年の夏の終りに保釈の身となって自宅に戻って参りました。釈放されたとき、幸い私は余りやかましい制限はつけられず、その後は警察憲兵の自宅への訪問はありませんでした。世界の情勢は、少し前から起きていたノモンハン事件で日本が徹底的に叩かれ、ちょうど休戦が成立しましたが、他方、ドイツがポーランドに進出したことに対して、イギリス、フランスがドイツに宣戦布告、ヨーロッパの天地に緊迫した事態を迎えておりました。
こうした状況の下で、第二次世界大戦が起こって日本も参戦することになると考えた陸軍省は、学者を集めて戦争の為の経済的な研究を始めようと発足させたのが、秋丸次朗主計大佐を班長とする陸軍省戦争経済研究班、いわゆる通称「秋丸機関」でした。その秋丸機関が出した研究成果は、長く秘密となっていましたが、一九九一年十二月の日米開戦五十周年の記念日を前に、NHKが「新発見・秋丸機関報告書・有沢広巳と太平洋戦争」と題してテレビで放映したわけです。
このテレビは、秋丸機関のうち有沢先生の英米班が調査した報告書の一冊が見つかったことから、それを秋丸さん本人にお見せして、いろいろお話をお伺いしたという内容です。秋丸機関の報告書全体は今日依然として不明で、有沢班のそれは「英米合作経済抗戦力調査」の「その一」となっているものだけの発見で、「その二」があるのかないのかさえもわからない、現在「その一」だけが東大経済学部に保管されているのであります。
有沢先生はご生前所蔵されていた図書の大部分を中国社会科学院にご寄贈になられました。しかし、先生が研究未完成のため、そのとき手許に残しておられたドイツ・ワイマール時代関係の資料は、どうか東大経済学部にご寄贈願いたいと私から生前先生にお願いいたしましてご了承を得ておりました。奥様もそれはよくご承知しておられたのですが、一周忌をお迎えになる前に奥様が突然亡くなられましたので、ご遺族の方に、先生のワイマール関係の書物だけではなしに、先生が残しておられた研究ノートや、その他の関係資料類は、ドイツ、日本の経済研究にとっての正に貴重な資料と思いますので、なるべくならば東大経済学部で預からせていただきたいとお願いいたしました。ご遺族の方のご意向で、東大出版会の石井和夫君その他のお弟子の方々が整理をして、ご遺族の方が手許に残しておきたいという書物以外は経済学部の方でお預かりすることになり、書物や資料・ノート類もすでに整理・分類が終わって目録が印刷されております。その整理の際にこの秋丸機関関係の報告書が一部発見されたのであります。そんなものの残っていたことは有沢先生も或いはご存知なかったのではないかと思います。
私も今度研究室の貴重資料室に保存されている有沢先生の寄贈された書類、資料類を全部拝見いたしましたが、私が見た限りでは、ややこれに関連しているのではなかろうかと思われるものに、海軍の伏下主計大佐関係の書類が一つありました。しかし、これは秋丸機関とは全く関係なしにつくられたものらしく、どなたがお書きになったのかわかりません。有沢先生がお書きになったものではなく、大内兵衛先生の御宅におられて、海軍のため終戦工作をしておられた伏下大佐から渡されたものと推定されます。それから、東大が預かっている書類のほかに、私は、別に秋丸機関の出していました資料関係のカタログとか、関連資料を数部入手して持っていますが、そのカタログを見ましても、どうも日本には秋丸機関の報告書は残されていないようです。秋丸機関では持っていた書物、資料類を陸軍省主計課別班という名前で残しているのですが、その中にも秋丸機関そのものの報告書は残っていないのです。ただ一冊私の手許にある陸軍省主計課別班の若干の資料のうちに「抗戦力判断資料第三号第三編 資本力より見たる独逸の抗戦力」というのがありますが、これは秋丸機関のドイツ班慶應大学武村忠雄(応召中)他二名の執筆したものであり、序文で詳しくドイツの経済抗戦力の研究の内容を述べております。いまのところ日本にはどうもこれ以外には見つかっていないと考えられます。ただし、秋丸機関に入っておられた方々が秋丸機関での研究をもとにして自分の名前で出版されたケースもあります。たとえば武村君などの戦争中の出版は、どうも、秋丸機関での研究をもとにしたのではなかろうかと考えられます。有沢先生はそういうことは一切なさっていないと私は思います。それが私が申し上げて置きたいことの一つでございます。ですから秋丸機関の全体の報告書は本当にはわからないのですが、相当膨大な研究であったと思います。秋丸機関は日本班、英米班、ドイツ班、ロシア班、政治班(蠟山教授、木下教授)とわかれていて、それぞれ、報告書を出していた筈で、秋丸機関の報告は、非常に膨大なものだったろうと私は思っております。全体として、総合的結論を出していたかどうかもわかりません。しかし有沢班、すなわち、英米の戦争経済力の研究が、最も重要な部分であり、日本、ドイツの戦争経済力は一九四〇~四四年において、すでに限界にきているという判断が中山班、武村班で出ているのに対し、英米、殊に人口、労働力、資源に余力の多いアメリカ戦争経済力の発展の見通しが最も重要であって、そのアメリカには人口、資源は大きな余力があるという判断になっていたことは間違いありません。
秋丸機関につきましては、有沢先生はご自身の回顧録の中に「秋丸機関が四分五裂になった」というタイトルで回想をまとめておられますし、また、秋丸さんが有沢先生の追悼録の中に「秋丸機関の顚末」というものを書いておられます。これ以外に、秋丸機関のことについては、秋丸機関に参加した人達で詳しく書き残したといった類のものを、今迄のところ私は見たことがありません。ところが、記録として残されている秋丸さんと有沢先生の書いておられるところを見ますと、殊に岩畔大佐の意思と秋丸さんに指導されて有沢先生などの研究した狙いとは、必ずしも一致していないのです。そもそもスタートで、重要な食い違いがあったのではないかと考えられます。これが悲劇の生まれた原因と私は考えます。
秋丸さんは満州から呼ばれて東京へ来まして昭和十五年九月着任しましたが、そのときは陸軍省の軍事課と主計課と両方に籍を置くという形になっておりました。そして着任と同時に陸軍省に出頭すると、秋丸さんは軍事局軍事課長の岩畔豪雄大佐のもとに連れて行かれ、そこで自分の新しい任務を大佐からいろいろ指示されました。岩畔大佐の言うには、ドイツと英仏が開戦となっている、日本・ドイツ・イタリーの間に結ばれている三国同盟から、日本が参戦すれば英米相手のトータル戦争になると考えられる。英米の総力相手に戦うとなれば短期決戦は考えられず、長期の軍事・経済戦争となる。将来の軍事的戦争については陸軍ではすでにいろいろ研究して備えている。しかし、経済的な戦争のやり方についての研究が今迄全然ないので、それをやってほしい、それが君を招いた目的だと言われました。秋丸さんはどうしたらそれが出来るか、これまでそういう研究はしていなかったので困っていたところ、主計局が早速予算と人をつけてくれることになり、九段の偕交社の一室を借りてそこで勉強し、いろいろ構想を練り始めたのです。仕事を始めると、陸軍の方からまた人をふやしてくれたり、外部の人を募集したりしてだんだん人数もふえて二十人ぐらいになったので、偕交社を出て麹町の第百川崎銀行支店の二階を借りてそこに事務所を置いたのです。そして有沢先生を調査の中心人物として迎えるため、先生のゼミナールを出た主計局の人を通じて先生に接触を図りました。陸軍では秋丸さんの前任者が経理学校から東大に来て有沢先生の聴講生としてゼミナールに参加しており、その先輩から、秋丸さんは有沢ゼミに参加するよう指示されていましたが、不幸にして有沢先生のゼミナールに採っていただくことが出来なかったので、有沢先生の講義だけを聞いて東大を卒業したとお書きになっている。それが秋丸さんと有沢先生とのそれまでのかかわりなんですが、こんど有沢先生は、秋丸さんから研究を手伝ってくれと直接依頼されただけではなしに、岩畔大佐にも会っておられて、研究を引き受けておられます。
有沢先生は岩畔大佐についてはあまり詳しいことはお書きになっておられませんが、秋丸さんの著書によれば、陸軍省軍事局の第一課長で軍政の中心人物であるとしておられます。有沢先生はそのとき、自分は治安維持法違犯事件の被告で保釈になっている身だが、それでいいかどうかということを念を押したところ、そういうことは心配ないから自由に研究してほしいと言われたのです。秋丸機関ではいろいろな人を十五年の年末から翌年の二月ぐらいの間に組織しております。しかし、人を集めるのにしても、ほかの方がどういう形でどうして集められたかなどは、有沢先生自身全体を十分にはおわかりではなかったのではなかろうか。また、そういう方々が集まって共同の研究をしたということも考えられず、各班は各班で別個に組織され研究を進めたのではなかろうかとも考えられます。
国内関係は中山伊知郎先生、その下に一橋大学の統計学の森田優三さん、英米班の中心が有沢先生、それからドイツ班は慶應大学の武村忠雄さん、それ以外にロシア班があり、それから南方班もありました。南方班が大阪大学の名和統一さん、それからソ連が当時和歌山高等商業から立教大学へ移ってきた河上先生門下の宮川実君で、それがロシア班と秋丸さんが記述されていますが、彼は有沢先生の班で先生の協力者であったと有沢先生はお書きになっております。私は組織に関するお二人の記述を読んでいて、有沢先生は全体を必ずしも的確にはご存知なしに英米班のことだけを責任を持っておやりになったのではなかろうかと感じたのでございます。当時宮川君につづいて立教大学経済学部に関係し、私のゼミを出て野村証券に入って、このころ立教大学に移っていた神野障一郎君に問い合わせましたところ、彼の証言によりますと、当時立教大学にはアメリカ研究所というのがあり、宮川君は立教にきてそこに関係されたことから、秋丸機関の英米班に関係することになり、神野君もその関係から秋丸機関の有沢班に顔を出したところ、顔見知りの有沢先生から何かアメリカ関係の新しい資料はないか、とお尋ねがあったという思い出話をしてくれました。
秋丸機関での実際の仕事は、英米相手にどんな経済戦争を進めたらいいかを研究してくれというのが岩畔さんの注文でありましたが、秋丸さんと有沢先生との間の話は、日本の経済戦争の力、持久力の調査というようなこと、それから有沢先生は、英米が合作したときの経済抗戦力を調査しようとお考えになったのです。そして最後に総括して、日本の経済戦争力と英米の経済戦争力とはどのくらいの差があるかを研究することが主たる任務だと、有沢先生なり有沢班の人達全員がお考えになって、そういう研究を中心になさったことがこの有沢先生の報告書および武村班の報告書から判断され、中でも一番の基礎的調査は「国富及び国民所得の測定」におかれていることがわかります。
報告書を見ますと、日本の経済戦争力と英米合作の経済戦争力との差は一九四一年において一対一○という大きな差がある。いまや日本、ドイツは労働力、資源からみてすでに限界であるが、英米、殊にアメリカにはまだまだ余力がある。経済戦争力は英米は、戦争状態になって一年ないし二年のうちには、日本との差は一対二〇くらいの差が出来てくるという結論でした。
ところが、いよいよ秋丸機関が結論を出さなければならない、少なくとも研究報告をまとめてもらいたいということを秋丸さんから督促され、各班がそれぞれにまとめて秋丸さんに報告をしたわけです。そして秋丸さんがそれを陸軍の内部で報告をするときには、少なくとも有沢先生はそれには出席されていない、自分の班の報告を秋丸さんに出したきりで、陸軍の最後の会議には先生は入ることをされておりません。従って有沢先生の報告は岩畔さん或いは一段上の杉山参謀総長などには秋丸さんを通じて報告されたということになります。そしてそれは、「非常によく調査が出来ている」と評価しながらも、しかし結論は国策に添うものではないという判決を下され、したがって報告書はあとに残さないよう全部破棄焼却するということになったのです。
この「国策」というのは、日本が英米を相手に戦争をするということであって、一対一〇とか一対二〇の大きな差がある、開戦してはいけないとか、開戦には慎重にとかということはこの場合は問題ではない。戦争するとなったときにはその大きな差があるので、どんな経済戦争を行ったらいいかということを有沢班に研究してもらいたいと考え、岩畔さんはそれを秋丸さんに指示した。ところが、報告では戦争は出来ない、開戦は慎重にという結論になったので、国策に反するという判断が下されたのは当然なことでしょう。有沢先生のお書きになっているところと、秋丸さんが岩畔さんの希望としてお書きになったものとをつき合わせて見ますと、両者の間に食い違いが起こっているということを考えなければなりません。しかし、それは何も有沢先生の班だけではなくて、ほかの班も大体みなそういうふうに考えて、研究をまとめられたのではなかろうかと思われます。
私は最近、森田優三教授に、経済戦争をするには、一体どういう経済戦争をしたらいいかということの研究が、岩畔さんの狙いで、英米の戦争経済力にはどんな弱点があるか、その弱点をどうすれば突けるのか、どんな方法があるかということが研究のポイントだったのではなかったのですかとお尋ねしたところ、森川教授は、そんなことは統計学者の自分たちに要求されても出来ぬ相談だと答えられました。結論として英米相手に日本は容易には戦争をすべきでない、慎重にという結論に終わっているわけですから、岩畔さんはそれから先のことを聞きたかったのは当然でありましょう。
秋丸機関の研究について私がもう一つ疑問に思っておりますのは、秋丸機関の研究報告書が、一九四一年に出版されたアメリカの経済構造に関するレオンティエフの報告書を参考にしたのではないかということです。四一年にアメリカで出版されたレオンティエフの新刊書が、秋丸機関が報告書を出す四一年の前半に日本に届くということは考えられないことで、また、それを使って秋丸機関が研究するという時間的余裕もなかった筈ではなかろうか。私は二人の方にその疑問を確かめてみようと思いました。その一人、都留重人君にレオンティエフのあの研究は一体いつ出版されたのか、彼の研究はいつから始められていたのか、と尋ねましたところ、彼は本が出たのは四一年だが、それより二、三年前からレオンティエフがハーバードでそういう研究をして、その結果を機関雑誌に論文のかたちで発表していたことは知っていたということでありました。もう一人は、近代経済学を戦後築き上げた一人で、文化勲章を頂いている安井琢磨君です。彼と私は戦争中に、レオンティエフの『アメリカ経済の構造』に関する研究の話をした記憶がありますので、安井君にそのことを確認してみました。彼はレオンティエフが三年ほど前からハーバードの雑誌に論文を続けて出しているのを読んでいて知っており、その論文が本になるという予告が出たとき、直接ハーバードへ注文したところ、四一年に自分の手元へ新刊書が一冊届いていて持っていたという返事でありました。そこで私は、あの本を半年ぐらいで読んで日本の戦争経済力の測定に適用出来るかどうかと聞きましたら、あの数字はアメリカの一九二九年前後と三〇年代の中頃の数字を基にして計算して、数年がかりでつくり上げた議論であって、あの本を見たからといってすぐに日本の計算を右から左へ出来るものではありません、というのが安井君の私に対する回答でありました。
先程申し上げましたように、秋丸機関発足当時の内外の情勢は、ノモンハンで日本陸軍が大敗を喫し、一方、ドイツはポーランドに進出して、ソ連とポーランドを分割したことから、英仏がドイツに宣戦を布告するといった状況に陥っていました。場合によれば、第二次世界大戦となり、日本も参戦することにならぬとも限らない。そう考えているときに、次の世界大戦は武力の戦争だけではなく、経済戦争も考えなければならないということになって参りました。そこで日本陸軍は秋丸機関を組織し、多くの学者を動員して研究を始めた。その評判が外部にも伝わってきて、それを聞いた日本海軍は、自分たちもそういう研究組織を持たなければならないのではなかろうか、だれかそういうことを組織出来る学者はいないだろうかということで、私の存在を思い浮かべて、私の意見を聴取されることになったわけです。
私は、陸軍の組織した研究には、有沢先生や中山先生が関係しておられ、それ以上の適当な人はいないのではなかろうか、東大経済学部においては、わずかに大河内一男君が何かいい考えがあるかも知れない、それから政治的な問題の学者の参加が必要で、陸軍は?山君らにお願いしているらしいが、私は東大の矢部貞治、岡義武両君が適任だと推薦いたしました。海軍はその方々の就任を責任者から法学部長、経済学部長を通じて正式に接触し依頼したようです。岡君は、自分はそういう問題には関係出来ない、ということで断られたが、矢部君は法学部長の田中耕太郎先生を通じての交渉を承諾され、大河内君も承諾の意思があったのですが、森荘三郎経済学部長が反対したため、断ったということを大河内君から聞きました。後日矢部君が、どうしても経済学者抜きでは戦争問題は考えられないから、経済学者を入れてほしいと強く要請され、学者を海軍大学の研究班に集めることにし、海軍は田中耕太郎法学部長などと交渉し、田中法学部長、矢部君、田中二郎君のほか、経済学者では大河内君ほか、慶應大学の永田清君の参加を得て研究組織をつくって、戦争に対する研究を始めたのです。矢部君は終始東大経済学部のいわゆる積極的な戦争推進派を忌避したことがうかがわれます。
その当時、近衛文麿さんらが新体制運動を始めました。これは後藤隆之助君が参謀でしたが、かねてその主催する昭和研究会で矢部君をよく知っていた後藤君は、彼をこのとき近衛さんに紹介したのです。すると近衛さんはすっかり矢部君に打ち込んでしまい、新体制運動に最高のブレーンとして迎えられたのです。近衛さんの新運動の綱領、声明はすべて矢部君の執筆するところのものでした。したがって近衛さんの運動の実態は矢部君を通じて海軍にもすぐわかるようになり、海軍にとっても好都合となりました。海軍で軍令部の調査課と海軍大学の研究班を統率しているのは高木惣吉大佐で、その下に矢部君と有名な天川勇嘱託の二人のコンビが出来ておりました。天川君は慶應大学のスタッフで、海軍省調査課の専任スタッフとして高木氏の下で働いていた人です。この人がまた矢部君の協力者としてコンビを組んで活躍し、昭和十九年の東条内閣倒閣のときには、これら数人の人達が倒閣運動(十九年七月)の中心になったのです。二十年になり、高木氏が井上次官の下で特別任務をもつことになって調査課を去った後、天川君が追放されることになったとき、矢部君も天川君とコンビで働いた責任があるからと、自ら海軍から身を退くことになり、昭和二十年の終わりには東大法学部もやめておられます。戦後には中曽根康弘氏の後を継いで拓殖大学の学長となって学界に復帰され、『近衛伝』二冊を書いて、志のあるところを述べております。彼の死後、門下生と称する中曽根氏と親友の東畑精一氏の尽力で公刊された膨大な矢部日記四冊(後に留学中の二ヵ年の日記、私家版として追加出版)が、戦中戦後の貴重な日本の政治史資料であることは間違いありません。
秋丸機関を発足させた岩畔さんは、陸軍省切っての軍政家で、その中心の実力者であり、総力戦に備え、さらに中野学校を設立し、思想戦、謀略戦等あらゆる戦争手段の研究をしておられました。秋丸さんに与えた使命は、日本でも総力戦に備えて企画庁を設けて総動員の準備をしてはいるが、手ぬるい。いかなる経済戦争をやるべきか、それを研究してくれというもので、それに必要な経済学者を動員するといって、有沢先生にも自ら会って懇請されたことは間違いありません。英米相手に安易に戦争すべきではないと確信していたからこそ、開戦の鍵をにぎっていた岩畔さんは、昭和十六年三月という重大な時期に日本を発ってアメリカへ渡ったのです。そのことは有沢先生も秋丸さんも何も触れておりませんが、実はその前から米カトリック伝道教会の神父二人が日本に来ておりまして、岩畔さんとの間で日米間の険悪な情勢は何とか出来ないものだろうかということを折衝していたのでした。この一連の経緯をNHKが「交渉実らず・日米戦回避にかけた男たち」というテーマでとりあげ、一九九一年十二月二日テレビ放映したわけです。
野村吉三郎さんがお書きになっている『米国に使して』という日米交渉を中心とした回顧録があります。その中で野村さんは、昭和十五年十月に松岡洋右外務大臣からの呼び出しで、富士の裾野の静養先から東京へ出てきたところ、大使になってアメリカへ行ってもらいたいということを頼まれたと書いておられます。ところが、当時の陸軍、或いは日本は、どうしてもドイツ、イタリーと一緒になって進むという考え方でありましたので、野村さんは、これでは日米間の交渉もうまくいく筈がないと判断してお断わりになった。重ねて頼まれても、現状では日米間の妥協は見出せないということで依然として固辞しておられました。しかし、最後に豊田貞次郎海軍次官から、海軍としてはどうしてもアメリカと戦争は出来ない、ぜひあなたに行ってもらって日米交渉をまとめてもらいたい、それは海軍大臣の意向でもあるからと強く懇請されて、結局野村さんは、海軍からの強い要請であればと決意した。しかし海軍だけの協力、バックで動くわけにはいかないので、野村さんは、朝鮮、満州、さらに中支を視察して、現地の人々の意見を聞き、現状を十分認識した上で、二月に日本を発ってアメリカへ赴任したのです。
これは私も今迄知らなかったのですが、野村さんの回顧録によりますと、海軍だけの希望で行ったのではだめだから、中国視察後陸軍と折衝し、やはり陸軍のしかるべき人が自分を扶けてくれなければ、日米交渉はうまくいくはずがないと強く主張したところ、陸軍が軍政家の岩畔大佐を推薦してくれたので、岩畔さんに扶けてもらうことにし、三月に岩畔さんは日本を発ってワシントンに赴かれた、と書いておられます。前に触れました通り日本に来ていた米カトリック伝道教会の神父達が、どうしても日米間の戦争は避けるべきで、自分達が一役買いたいと岩畔さんと接触を始めていたのでした。岩畔さんは、フランス語の出身で、アメリカ人とは自分一人では直接の話は出来ないからと、もと大蔵省にいて、高橋是清大臣のもとで仕事をして、いまは民間に出ている井川忠雄という人を介添え役に連れて、そしてその神父達とアメリカで交渉を始めたのではないかと思います。野村さんの著書によりますと、自分が陸軍のしかるべき人を連れて行きたいと陸軍に頼んだら岩畔さんがついて来た、つまり、岩畔さんが陸軍から推薦されて自分の手伝いに来てくれたのだ、となっております。
野村さんが二月から三月、四月とルーズヴェルト大統領或いはハル国務長官と数回会っているうちに、今度はハル長官の方から日米間の懸案を解決するアメリカ側の提案が示されました。それは、どうも岩畔さんらと神父達との間でまとめた案をアメリカ側へ持って行って、神父達の後援者で、ルーズヴェルト大統領の選挙委員長をいつも務め、その功績によって郵政長官となっていたカトリック教徒のウォーカー氏が取り次いでハル長官に渡され、大統領の了承を得て、ハル長官から野村さんにアメリカ側の提案として、正式な外交ルートに乗せられたものだと思うのです。岩畔さんもその時にはワシントンの大使館で野村さんと連絡をとっており、この案なら日本陸軍も「のむ」ということで、四月十八日に野村さんもその提案を「日米了解案」として本国政府に打電したわけです。それは、満州国の承認と引換えに日本は大陸・仏印から撤退する、重慶と南京政府の統一にアメリカが協力する、ルーズヴェルト・近衛洋上会談で最終的に決定するという骨子の電報で、アメリカ側の「柔軟」な態度として歓迎されるものでした。それを見た総理で臨時外務大臣の近衛さんは喜んで、これならば妥協が出来るということで大本営政府連絡会議に諮り、陸軍大臣も海軍大臣も了承するに至りました。ただ残念なことには、松岡外務大臣が三月に発ってドイツ、イタリーに行っていて不在でした。
三月上旬松岡さんは、タイと仏印との問題をある程度解決して、日本が仏印方面に進出する下地をつくっておいて、訪ドの途につき、途中モスコーでスターリンに会って、それからベルリンに入っております。ベルリンではリッベントロップ外相に会い、またイタリー国境でムッソリーニに会って、そしてまたベルリンへ戻って、そこからモスコーに向かったわけです。その折ドイツ側からは、スターリンと約束してもそれは全然当てにならないから、スターリンとの外交約束は絶対にするなと止められていたのです。松岡さんは、再びモスコーへ入ってスターリンに会ってみても、初めはやはり簡単には中立条約の約束は出来そうになかったのですが、独ソ戦の近いことを危惧していたスターリンが、最後には急に態度を変えて、不可侵条約を結ぼうと提案してきたので、松岡さんは喜んで中立条約を約束したわけです。松岡さんとしてはこれでドイツ、イタリー、ソ連をしっかり自分の味方にして、その力を背景に今度はアメリカと日米和平の会談をしようと、現にモスコー駐在のアメリカ大使にそのことを言外に示して意気揚々として帰国の途についたのでした。
ところが大連まで来る途中、日本から日米交渉が進捗しているので、直ちに帰国するようにという要請を受けた松岡さんは、外務大臣である自分が全然関知しないところで「了解案」が出来上がったということに、ちょっとつむじを曲げてしまった。そしてしばらく大連に止まっていようとしたのですが、飛行機まで廻されたので帰ってこざるを得なかったのです。
立川の飛行場に自ら赴いて松岡さんを出迎えた近衛さんは、帰途の車中で日米了解案を説明し、すぐ了承してくれるよう松岡さんを説得するつもりだったようです。この日は、このまま首相官邸へ直行し、首相や閣僚たちに帰朝の挨拶をする予定でしたが、松岡さんは首相官邸に行く前に、二重橋で皇居遥拝をしてヨーロッパ外交の成功を遥かに報告したいと言い出したので、近衛さんはその説明を大橋忠一外務次官に頼んで、松岡さんとは同乗せずに先に帰ってしまいました。大橋さんが松岡さんの車に同乗して、日米了解案及びルーズヴェルト・近衛洋上会談の経緯を話しましたところ、松岡さんは、外務大臣の自分を抜きにして進められてきたこの「日米了解案」に対する最終決定を、いましばらく考えさせてくれと回答を保留させてしまったのです。
この間アメリカ側としては、せっかくこれならお互い話が出来るのではないかと言ってハル長官から野村さんに伝えて、野村さんもそれを日本に伝えた提案だったのに、松岡さんが帰って十日たっても返事が来ない。ハル長官もルーズヴェルト大統領も、松岡さんに対してはもともと根深い不信感を抱いており、松岡外務大臣の任期中は、交渉も進展しないだろうという見通しを持っていましたし、その後ハル長官自身が体を悪くしたこともあって、交渉が中断してしまったのです。近衛さんとしては松岡さんを説得しようと試みたのですけれども、両者の意見が並行したまま対立が続き、松岡さんが自分の修正案を持って連絡会議に現れたのは十日以上も経ってからでした。これが軌道に乗りかかっていた日米間の交渉の大きな逆転機になったとも言えるのです。その間にドイツが六月二十二日にソ連へ侵入するという事態が発生いたしました。これを受けて、一体日本は北進するのか南進するのか議論が割れて沸騰した挙句に、近衛首相は閣内不統一を理由に辞職し、松岡外相を豊田外相に代え内閣を再組織しました。そして、陸軍の要求で南進の方針を決め南部仏印進駐が実施されるに至ったのです。これで、いよいよ日本も戦争の決意を固めたと読んだアメリカ政府は、すかさず日本の在米資産凍結を宣言しました。この時点ではまだ石油の輸出禁止措置は採られていなかったのですが、しかし資金を凍結されるということは、せっかくの石油も買うことが出来ないということです。アメリカは資金凍結をしておいて、南部仏印から一定の期間内に早く撤退しなさい、そうすればまた何とか話をつけるというような勧告をしてきました。日本は南部仏印まで行ってしまっては騎虎の勢いでそれを撤退するというわけにはいかない。アメリカの言う期限内に撤退しなかったので、今度は八月上旬に石油輸出禁止の追い打ちをかけてきたわけです。これが結局日米交渉が手詰まりのまま、暗礁に乗り上げた最大の原因であると言えます。その時に近衛さんが打開策として洋上会談を提案したわけです。これは先の神父達と岩畔さんとの間の協定がまとまった暁には、最後にはルーズヴェルト大統領と近衛さんの二人の洋上会談で手を打とうということになっていたのです。近衛さんはその会談をいまこそ開いてそこでもう一遍話を元へ戻そうと提案したのですが、この期に及んで一体何の話をするつもりかと国務長官に断られる始末で、結局岩畔さんは十六年の八月末に交渉見込みなしということで日本へ帰って来ました。岩畔さんは帰ると同時に、アメリカの近情をつぶさに見てきたことから、日本はアメリカとは戦争出来ないという結論に達したと思われます。そして、一番新しいアメリカの経済力を見るのに絶好の本だということを誰かに教わってか、出たばかりのレオンティエフの本を三冊、秋丸機関へ送ったのではなかろうか。たぶんそのころに秋丸機関の最終報告が陸軍に否決されて、そして秋丸機関の解散ということになったので、レオンティエフの新刊は間に合わなかったのではなかろうかと思うのです。
ここで秋丸さん、岩畔さんのその後の経過を申し上げますと、秋丸機関の人員および総ての研究の始末をつけたのち秋丸さんは、第十九師団の主計長としてフィリピンに行かれました。一方、岩畔さんは帰国以来直ちに、各方面で、アメリカの平和経済から戦争経済への転換の実状、その戦争経済力の急速な増大ぶりから、日米の戦争経済力差は、とても戦争など出来るような生易しい開きではないことを講演して廻り始めました。東条陸相はそうした見解の発表をとどめ、八月末には近衛師団第五連隊隊長として仏印にとばしてしまいました。岩畔大佐は十六年十二月八日開戦と同時に第五連隊長として、シンガポール攻略のためにマレー半島上陸作戦を行い、マレー半島を横切ってマラッカ海峡に沿って南下してシンガポール攻略に参加し、その占領に成功します。たまたまマラッカ海峡に沿って南下の際、豪州兵の守る陣地を突破し、守っていた豪州兵を捕虜として捕らえて置いておいたところ、あとから師団司令部が来て、その捕虜をいかにすべきかと尋ねた指揮官に、豪州兵を適当に処置しろと言って司令部は前進していったため、あとで銃殺して本隊を追ったのであります。そのときに目隠しをして銃殺しようとしたら、豪州兵が目隠しは要らないと言うので、そのままで銃殺したのですが、実際は、鉄砲があたらないのに死んだように見せかけて倒れた豪州兵が二人、三人おりまして、それがその夜海峡を渡ってスマトラに逃れて、そして日本がスマトラへ落下傘部隊を降ろす以前にスマトラを経て母国に逃げ帰ったので、捕虜虐殺の事情が明らかにされたのであります。
戦後になって東京に連合軍の総司令部が設置され、オーストラリアから捕虜虐殺の調査団がシンガポール戦の最中虐殺を逃れた人々を証人として連れて東京に来ました。そしてマレー上陸作戦に参加して、生き残っている近衛師団の兵隊を先ず全国から集めました。そして連日に亙って兵隊を調べ、具体的に銃殺に参加した兵卒を発見し、順次近衛師団の将校を司令部に喚問して、師団長以下、捕虜虐殺に関係した将校を確認し、正式の軍法会議にかけずに捕虜の虐殺を実行したとして、命令したり、実行した将校を確認し、最後にそれをBC級戦犯裁判にかけ処分したのです。幸いに岩畔連隊長は免れましたが、師団長以下関係将校は処分されてしまいました。二、三名の将校は逃走したものの、平和条約発効後まで逃れ通した者は、一、二名でした。銃殺を実行した兵隊は上官の命令で実行したのであるとして放免されております。
この捕虜問題につきましては、イギリスが日本軍の捕虜虐待を非常に厳しく追及しております。第二次世界大戦におけるナチスの新しい戦争理論は、捕虜は働かせて労働力の不足を補う、また占領した土地の資源でわが方の資源不足を補うというもので、日本もそれと同じことを政策として行ったわけです。従来は捕虜を大事に扱って、まあ遊ばせていたのですが、この戦争では、絶対にそういうことはせずに、殺した場合もありますし、殺さないまでも強制労働をさせたということで、捕虜虐待がドイツでも日本でも問題になったわけです。私が在英日本公館から頼まれて、捕虜虐待の問題をあまり宣伝しないようにして欲しいという交渉を行ったときに、イギリス側の主張は、捕虜が何か悪いことをしていれば、それは裁判に基づいて殺せばよい、その裁判がよかったか悪かったかは裁判した人間が後で責任を問われるだけのことである。上官の命令だからと言ってただ勝手に殺すのは違法だと責められました。私は、しかし日本の兵卒は上官の命令は天皇の命令だと言われているから、命令されたら応えざるを得ないと反論しますと、兵卒の場合は認めるが、将校以上は捕虜条約を十分知っているはずだから、裁判にかけないでただ勝手に適当に処分しろと言われたからといって殺したら、それは命令した将校も実行した将校も全部責任があるというのが相手の言い分でした。では日本都市に対する無差別攻撃や原爆投下はどういうことなのかと言い返しましたら、君は恋愛と戦争においては、どんな手段を使ってもいいということを知らないのか、しかし、捕虜はもう戦争しませんと言って白旗を揚げて降参しているのだから、それをすぐ殺すということは許されない。どうも日本軍はその点をよく知らないのではないか、と言って私はからかわれたのです。
岩畔さんは、シンガポール作戦、ジャワ作戦の後ビルマに転戦し、最後にはインパールでなく、南部海岸線からインド進出を企てた軍で指揮しておりましたが、イギリス軍の強力な反撃に遭い、包囲されて苦戦していました。ところが十九年七月東条内閣が倒れ、小磯内閣が成立すると、すぐ反東条の岩畔を軍の中央に呼びかえせと、陸軍中央部に転任命令が出たのですが、不運にもイギリス軍の堅い包囲網を突破出来ず、終戦まで帰国出来なかったようですが、インパール攻撃の敗走とは異なり最後まで頑張られたのは岩畔将軍のすぐれた統率力と感心しました。戦後、戦犯にはならず、幸いに生き残りました。その後岩畔さんは、京都産業大学の理事となり、世界問題研究所を主宰し、約二十年間を費やして『戦争史論』(一九六七年)という大冊の本をお書きになっています。これを今度私は初めて繙いてみたのですが、前編と後編とにわかれております。後編では今後の予想が書かれておりまして、第一次世界大戦つづいて第二次世界大戦が起こり、それも終わったがこれで戦争が終わったわけではない。必ず第三次世界大戦が起こると確信して、どういう形で行われるだろうかということまで予想しております。
この『戦争史論』は陸軍切っての秀才といわれた岩畔さんの研究になるもので、その特徴は西洋の戦争だけではなしに東洋の古今の戦争の歴史も併せて研究しているということを誇っています。従来の戦争論というのは、ナポレオン戦争を中心として研究したクラウゼヴィッツの『戦争論』であります。それから第一次世界大戦のときにはルーデンドルフが出てきて、いわゆるトータル・ウォー――総力戦の理論をつくり上げたわけなんで、これが今迄の戦争論の最後の発展でした。また、海上においても陸上戦に基づいて出来たクラウゼヴィッツの理論を海上に適用した場合にどうなるかということを、イギリスではなくて、アメリカのマハンが、十九世紀の終わりから二十世紀の初頭にかけて研究し、はじめに十八世紀と十九世紀の海上権力史論をまとめました。こうした海上戦争理論を研究し講義するため、マハンが主張してアメリカは海軍大学をつくり、世界中の注目を集めることになりました。そこでは、たまたま始まった日露戦争の海戦を早速とり上げて、マハンは、東郷作戦を研究批判したのです。これに注目した日本海軍の理論的指導者となる若い秋山真之はアメリカに留学して海軍大学に聴講生としての入学を運動したのですが、アメリカの次の仮想敵国の海軍軍人の聴講は許されませんでした。アメリカ海軍はマハンの理論によって養成された将帥たちに指導され、海上、空軍、水中三部隊の立体作戦をもとに渡洋作戦をもって日本海軍を撃破して勝ったのです。
最後にこの岩畔さんの『戦争史論』についての私の通読した感想を述べるとすれば、クラウゼヴィッツ、ルーデンドルフや海上におけるマハンの戦争理論などの上を行く新しい戦争理論として岩畔さんはお書きになったのでしょうが、これを石原完爾さんの戦争論と比較いたしますと、戦争理論としては、石原さんの方が一段上ではなかろうかというのが私の感想でございます。石原さんは陸軍駐在武官としてヨーロッパに駐在している間に、戦史をかなり研究して世界最終戦理論をまとめられたのであります。
有沢先生は、第二次世界大戦に日本が参加すべきか否かの岐路にたったとき、先生はその専門とする立場から米英を相手とする戦いでの困難を確信し、開戦すれば、国は破滅の途を進むことは必至と信じて、国策の決定を軽々にすべからざることを警告して苦心された事情を、その当時の戦争と学者とのかかわり合いの一点から検討して、あらためて先生のご苦労のあとを偲んだ次第です。
どうもご清聴ありがとうございました。
(日本学士院長・東京大学名誉教授・東大・経博・大13)
(本稿は平成4年2月10日夕食会における「有沢先生を偲んで」および6月22日午餐会における「学者と戦争」の両講演をもとに編集構成したものです)
以上