学士会アーカイブス (今月)
機械と生命そして経済 佐和 隆光 No.771(昭和61年4月)
機械と生命そして経済
佐和 隆光
(京都大学教授)
No.771(昭和61年4月)号
社会科学、とくに経済学の歴史を辿ってみると、さまざまな学説が、機械または生命体の類比(アナロジー)として組み立てられてきたことに、否応なく気づかされる。
戦後の日本経済に関わる論争の嚆矢とされる「在庫論争」の論客、後藤誉之助と下村治の両氏の立論の背後にもまた、「機械の論理」と「生命の論理」のコントラストを鮮やかに読み取ることができる。電気工学科出身の後藤氏が、機械とのアナロジーとして日本経済をとらえがちだったのは、きわめて当然のこととうなずける。つまり後藤氏にとって日本経済は、一個のシステムであり、システムへの入力(公定歩合、公共投資など)を「操作」することにより、システムの出力(国民総生産、物価、国際収支など)を適宜に制御できるし、またそうしないと日本経済というシステムは破局に陥るであろうと考えておられたように見受けられる。このような社会工学的な発想は、べつだん後藤氏に特有の発想というわけではなかった。ケインジアンと呼ばれるエコノミストや、一昔前までの官庁エコノミストの誰しもが共有する、きわめてありふれた経済観にほかならない。
こうした機械論的経済観に相対するものとして、生命体論的な経済観がある。資本主義経済の生成・発展・没落の過程を説くマルクス経済学は、生命体とのアナロジーにおいて経済をとらえるものといえる。また、ケネーの『経済表』が人体の血液循環とのアナロジーとして、ルイ王朝の宮廷医フランソワ・ケネーにより発案されたことも、旧聞に属することであろう。
日本経済を生命体とのアナロジーとして考える下村治氏は、昭和三十年当時の日本の官庁エコノミストのあいだでは「異端」というにふさわしい存在であった。下村氏は、三十年代前半期の日本経済は「歴史的勃興期」にあるといい、悲観論者や慎重論者の多いなか、ひとり敢然と成長経済の未来を楽観視する論陣を張ったのである。下村氏は、たんに日本経済を生命体にアナロジーすることにより、大局的に日本経済を論じたにはとどまらなかった。生体の恒常性維持機能(ホメオスタシー)だとかフィードバックなどのコンセプトを経済分析に積極的に取り込むことによって、下村経済学は類稀なる高度のソフィスティケイションをも兼ね備えていたのである。
話は二十年先に一挙に飛ぶが、昭和五十年代の初頭、経済学に予期せぬ革命が起きた。『一般理論』の刊行(一九三六年)以来四十年にわたり、先進資本主義諸国の政策運営の基調をかたどり続けてきたジョン・メーナード・ケインズの経済学に対し、新しく起こった学派による根源的(ラディカル)な挑戦状が突きつけられたのである。もちろんそれまでも、ミルトン・フリードマンやフリードリッヒ・ハイエック等により、ケインズないしケインジアンの経済学は、折に触れての批判にさらされてきた。だがしかし、経済学界の主流はあくまでもケインジアン達であり、また欧米そして日本の政策運営の基調は、ケインズ主義的というにふさわしかった。そのため五十年以前までは、フリードマンやハイエックのケインズ主義批判は、せいぜい犬の遠吠えのようにしか聞こえてこなかった。
先に触れたように、ケインズないしケインジアンの経済思想は、あくまでも機械論的である。ハイエックがケインズ主義をして「理性の濫用」あるいは「知的驕慢」と非難するのは、経済を「制御」可能な対象であるかのように考える、ケインズ主義者の態度を標的に据えてのことであった。
今から四半世紀ほど前、アメリカ合衆国の大統領にジョン・F・ケネディが選ばれた頃、米国に限らず地球上のいずこにおいても、「理性」への信頼は最高潮に達していた。ケネディ政権の発足と同時に、東部エスタブリッシュメントと呼ばれる知的エリート達が続々とワシントンに馳せ参じ、差別、貧困、不平等、南北問題などの諸問題を、「理性」を動員することによって克服することを目指した。ケネディ大統領のあとを襲ったリンドン・ジョンソンは、「偉大な社会」(グレート・ソサエティ)の建設という目標を掲げ、理性の導く進路を一路邁進しようとした。
ケネディ、ジョンソンの民主党政権を支えたリベラリズムの経済思想は、市場万能を説く新古典派の経済思想に、ケインズ主義をミックスさせた「新古典派総合」と通称される経済思想であった。市場万能の経済体制が、所得分配の不平等、環境の汚染、人種差別など、数々の社会悪をもたらすであろうことを自明の前提にすえた上で、そうした社会悪にとどめをさすために、政府の計画的介入ないし管理は不可欠の手段であると考える。つまり、生体としての市場経済の機能を認めながらも、それが不完全であるとして、薬物による補完を不可欠とする経済思想が、ワシントンのみならず、東京霞ガ関の官僚や政治家の「通念」としても、あまねく席巻していたのである。こうした機械論的な経済観は、その当時進展しつつあった重厚長大の技術革新と、二人三脚さながらに歩調を合わせるものであった。
昭和五十年代に入って間もなく、潮の流れはその向きを逆転させはじめた。健康な生命体とのアナロジーとして経済をながめる、古典派の経済思想が、とつじょ復活したのである。健康体への薬物投与は、百害はあっても一利すらないはずである。なぜこの時期に突然、潮の流れの向きが変わったのか。その理由をいくつか挙げておこう。
第一。四十八年に突発した石油危機に対処せんがために、「減量経営」という名の企業合理主義が復権したこと。石油危機の直前までは政府主導型の経済運営が、日本の政策運営の基調をなしていた。また企業は利潤を社会に還元すべきである、との社会的責任論が盛行してもいた。石油供給の途絶を目前にして、公害防除だとか福祉社会の建設などといったきれいごとをいってはおられない。企業みずからの力によって石油危機を克服したとの自信は、シーソーの反対側に座る政府を、奈落の底に沈めることになったのである。
第二。ソルジェニーツィンの『収容所群島』の刊行、物理学者サハロフ博士のソビエト体制批判、ベトナム戦争終結後の顚末、ソ連のアフガニスタン進攻、中ソ対立、ポーランドの内紛など、社会主義のイメージ・ダウンに連なる一連の事件が相次いで起こったこと。もとを質せばケインジアンの経済思想は、社会主義に対するアンビバレント(愛憎共存的)な感情と、切っても切れない関係にある。市場経済の枠組みを前提としながらも、計画の要素をそれに加味していく。こうした発想は、社会主義経済への熱い思い入れに根ざすものといわざるをえまい。
第三。科学技術万能思想が後退したこと。とくに昭和四十年代の後半から、生命、健康、環境に対する関心がことのほか高まり、その半面、重たい機械に対する関心が薄れたことが挙げられる。その結果、経済を見る視座においても、機械の論理が後退し、代わって生命の論理がひときわ精彩を放ち始めた。
第四。教育水準の向上と大衆化、そして「情報化」の進展が、「賢明な政府と愚かな大衆」という構図に代わって、「賢明な大衆と愚かな政府」という逆転の構図を生みだしたこと。ケインズ主義者の経済観が、前者の構図を前提としてきたことは、もとよりいうをまつまい。その構図を逆転させれば、市場万能の古典派の経済観がおのずから蘇ってくるのである。
第五。昭和三十年代の高度成長への意気込み、そして四十年代の福祉社会建設の意気込みは、理想を掲げその達成への手段を講ずるという「社会設計」の思想と不可分に結びついていた。ところが五十年代に入ると、社会設計の可能性に対する懐疑の念がとみに強まった。理想主義を掲げての社会設計は、たんにその目標を達成できないばかりでなく、逆効果を生むやもしれぬ。だとすれば、手をこまねいて問題解決を市場に委ねる(レットイットビー)方がまだましではなかろうか。
こうしていまや機械論的な経済観はすっかり色褪せ、それに代わって生命体論的な(市場万能の)経済観が、あまねくはびこり始めた。アメリカのレーガン政権、イギリスのサッチャー政権、そして日本の中曽根政権の経済政策は、まさしく生命体論的な経済観に裏付けられたものにほかならないのである。
「機械の神話」の時代は確かに終わった。経済学の世界では、いまや「生命の神話」の時代が到来したというべきなのかもしれない。だがしかし「生命の神話」もまた、あくまで「神話」であることを忘れてはなるまい。いかなる神話であれ、それが築く「神話の時代」が未来永劫まで続くなどということは、どだいありえないことなのである。
(京都大学教授・東大・経博・昭40)