学士会アーカイブス (今月)
読書する怠け者 西尾 幹二 No.770(昭和61年1月)
読書する怠け者
西尾 幹二
(電気通信大学教授・文芸評論家)
No.770(昭和61年1月)号
ある若い未知の読者と書簡を交す機会があった。ときおりそういう機会はあるのだが、印象に残る例は少ない。本を読む若い人が少なくなったと言われてから久しい。それは言葉に躓く人が少なくなったということでもあろう。ところがその読者は、私の本の中のたったの一語にひっかかったという。ある私の表現に抵抗を覚えたらしい。そこで、礼儀正しい質問状を寄せて来たのだが、いい加減に読み飛ばさずに、ともかく気になった一語の意味を問うて来た真剣さが私には嬉しかった。ここでは、読書とはいったい何かを考えさせられた、この私の一年程前の経験を、順を追ってご披露してみようかと思う。
七年前に私は新書版で『ニーチェとの対話』という小さな本を書いた。「ツァラトゥストラ私評」という副題が示すように、難解と言われる十九世紀の孤独な作品の中から、私が任意に好みの言葉を抜き出し、自由な解釈や連想を語った、あまり学問的とは言えない書き方の小著だった。自分が当時真剣に考えていた諸問題を投げ込んではいるものの、研究とはおよそほど遠い勝手気儘な内容の本である。その読者――T・N君といま仮にしておくが――は、本の中の私の書き込みの一部が気になって、次のような文面の書簡を寄越したのである。
「拝啓 日に日に寒さが厳しくなる今日この頃でございます。ニーチェが試験とからんでいたこともあって、先生の『ニーチェとの対話』を図書館から借りて来て読みました。途中、時々ハッとするところがあり、考えさせられることの多い本だと思いました。小生、N大学の経済学部に在学しています。
ところで、先生にどうしてもお聞きしたいことがあって、こうしてお手紙を認めました。前掲書の八十四ページにある、『読み手もまた、他人の本を読むにはそれ相応の覚悟が必要だろう。もし優れた本を本当に理解したならば、場合によってはその本が読み手の人生を毒することがあるというくらいのことを、彼は承知していなくてはなるまい』(傍点T・N氏)という御言葉、さらさらと読んでいけば成程そうかも知れない、とも思えないこともないのですが、こうして一読した後も、どうもこの一節が、喉につっかえた魚の骨のようにしっくりときません。先生の比喩が分りません。
先生の右の御言葉は、その『優れた』書がその『優れる』と言われる所以と大きく矛盾するように思われて、これから生きて行く上での自分の一つの土台とすべきものが逆評価されたような気がして、どうも落着いていられないのです。
是非ともこの言葉の真意を教えて頂けませんでしょうか。お願い致します。
一月十七日 敬具 」
周知の通り『ツァラトゥストラ』には「読むことと書くことと」という節があり、次の言葉を以て始まる。
「いっさいの書かれたもののうち、私はただ、血で書かれたもののみを愛する。血をもって書け。そうすれば君は、血が精神であることを知るだろう。
他人の血を理解するなどは、簡単に出来ることではない。私は読書する怠け者を憎む。」
本を書く側と読む側との両方に、最も厳密な意味での「体験」を求めている章句である。しかも言語を介してこの本来の「体験」を他人に伝達することの困難、あるいは、他人の「体験」を後から本を介して理解することの絶望的困難への自覚を語っている言葉でもある。じつに強烈な問いを突きつけて来る一節だが、T・N君が疑問とした私の文章は、ニーチェからのこの引用文に私自身が突き動かされて、自由に付したコメントの中に出てくるのである。
平生の私なら、「優れた本は読み手の人生を毒するかもしれぬ」などという予言者めいた台詞はとても吐けないが、何しろこの本では、予言者ツァラトゥストラに触発されて、私自身も何者かに取憑かれたかのようにして書いているので、ついこういう思い切った表現を書き残してしまったものとみえる。
私は暫く日を置いて、次のような返書を認めた。
「前略 お手紙拝見しました。ご返事が遅れ申しわけありません。
あまり難しくお考えになることはないでしょう。
優れた本が人生にすべて有益であるなどというのは、ありふれた教訓家の考えに過ぎません。ショーペンハウアーを読んで自殺した人がいますし、『罪と罰』を読んで実際に自分もラスコールニコフのような犯罪を犯した人間がいたとも聞いています。それらの例は『誤読』以外の何ものでもないのですが、優れた本には人を誤読に誘い兼ねぬ要素があるものなのです。というより、『誤読』だから身を誤ったというのではなく、『正読』してもこの場合には危険は同じだ、とむしろ申し上げた方がよいかもしれません。優れた本を本当に理解するなどということは厳密に言うと不可能です。われわれは中途半端に理解しているか、あるいは誤解しているお蔭で、危険に陥らずに済んでいるのだともいえなくはないでしょう。
こうした例は極端なケースだとお考えになるかもしれませんね。慥に際立った例のつもりで書きました。しかしもっと平凡なケースでも、優れた書物を正しく理解しようと努めることが、実際に自分の人生にプラスであるとだけ考えることは、私自身の経験からも言えません。
私はある批評家に魅かれて夢中になってその人の本を読んだことがあります。その人のように考え、その人のようなスタイルで文章を書きたいと念じました。気が付いてみると、私は自分の文章が妙な模倣体になっているのに厭気がさし、そのうち自己嫌悪に陥って、どんな文章を書くこともほとんど不可能になってしまいました。自分の個性のつもりでやっていたことなのに、逆に、自分には何の個性もないのだということに否応なく気付かされてしまったのです。私に残されたのは無力感だけでした。
私は今、どうして自分が当時立直ることが出来たのか分りません。多分若さのせいと、多少の厚かましさのせいだったでしょう。
昭和文学史には小林秀雄に中毒した文学青年の屍が埋もれています。小林秀雄という大きな存在に圧せられ、せっかく文学を志したのに、中途で放棄した人たちの話は無数に耳にしました。自分にはとうてい及ばぬと思うと、やる気がなくなってしまうのです。小林秀雄の文学以外に、文学像を思い描くことが出来ず、かといってそれに自分の力はいかにも及び難く、模倣することも出来ず、さりとて脱出することも出来ず、結局身動き出来なくなってしまうのです。
ボードレールが、マラルメが、そしてランボオが、こうした数多くの屍を歴史に残し、その上を踏み越えて来たのでした。
こんな例のあげ方で、もうお分りいただけたでしょうか。本当に優れた書物は、ときにその読者の人生を歪めるほどの毒を内蔵しているとしても、珍しくはありません。聖書だって、仏典だって、例外ではありますまい。中途半端な書物にはそういう力がまったくありません。
若いときにそういう力に心の内部を踏み荒されることが果していいことなのか、悪いことなのか、私には分りません。若いときには自分の力がまだ弱く、踏み荒されたままで二度と立直れないこともあり得るからです。
優れた書物からさしたる影響をも受けず、ぼんやりと読んでぼんやりと人生を過ごすのも、必ずしも悪いことではないでしょう。人それぞれです。私は今多少そういう気持になっています。というより、書物のそういう読み方、理解の仕方(あるいは、誤解の仕方)しか、厳密に考えるとこの自分もついになし得ないのかもしれない、との感慨を日々深めている昨今だからです。齢をとってきたせいかもしれません。
それでは以上、ご質問への返事になったかどうか分りませんが、私見を述べてみました。
一月二十八日 敬具 」
暫くしてT・N君からまた手紙が届いた。
「拝復 依然寒い毎日がつづきます。有難うございます。御返事、拝読いたしました。この四枚の便箋を何度も読んで、僕は自分が今までの小さな殻から抜け出た、という気がいたしました。正直に告白しますと、一山越えた、という気さえしたのです。
『毒される』かもしれませんが、僕自身は優れた本を読んでいきたいと思います。僕よりも幾世紀も前にその足で大地を踏みしめた賢人たちの声を聞くことのできる光栄を、可能な限り享受したいと思っています。
それと同時に、本を読むとは何か、ということももっと突きつめて考えてみたいと思います。僕は先生の次の言葉が好きです。
『第一どうして人はそんなに本を読む必要があるのか。場合によっては本など読まなくても、人間は立派な生活人として一生をまっとうすることが出来るのである。そして、この観点を欠いたら、いくら多くの読書を重ねてもたいした稔りは得られないだろう』(八十四ページ)
これは大切な言葉だと思います。つい先日まで気が付いていないことでした。
〝優れた本の毒性〟――いったい何という言葉でしょう! 僕は先生から手紙を頂いてから、この言葉の下で暫く立ち竦んでいたのでした。優れた本というのは一体何だろう? とも考えてみました。優れた本の絶対的優越性。これは何としたものであろう。少なくとも民主的な価値などではまるでない、この位置。優れた本の強さ、そしてその毒。――
これからも引きつづき、問題意識をもって、その強さと面していきたいと思っています。
二月十三日 敬具 」
大変に素直な気持の滲み出ている、大学生らしい文面に、私は教訓家の役割を演じてしまった内心の羞しさをも忘れ、暫く気持の和む思いがした。しかし、読んでいておやっと気がついたことがある。T・N君は私の手紙の最後の文章に注意を払っていないのだった。「優れた書物からさしたる影響をも受けず、ぼんやりと読んでぼんやりと人生を過すのも必ずしも悪いことではないでしょう」以下の、自嘲めいた私の言葉は、彼の視野にまるで入っていなかった。再度疑問を覚えて折返し質問して来るということもなかった。若い人らしく、私の文章の影の部分は見えなかったし、興味も覚えなかったのであろう。
けれども、私はあの最後の文章で、シニシズムを弄んだのでもなければ、馬齢を加えて自信を喪い、自嘲に陥ったのでもない。私は事柄の持つ二重性を、多少曖昧な言い方でしか言えなかったが、示唆しておいた積りだった。
そこで問題を今いくらか本質的に考え直してみることにしよう。そうすれば良書に特有の「毒」という私の最初の主題の真意も一層はっきりして来るだろう。
私たち現代の人間は、とかく言葉で固定化されたものがそのまま文化であるとする通念に傾き勝ちな一面がある。文章化し書物化した世界のうちに、文化の動かぬ実体が存在しつづけているのだという錯覚に囚われ勝ちである。過去の優れた書物を研究する人が跡を絶たないのは、思うにそのためであろう。本についての本が出版点数の中の最大多数を占めているのも、この理由によるのであろう。けれども、本の中に、あるいは本という形で残された単なる言葉の中に、過去に生きた人間の精神が果して実体として存在していると言えるのだろうか。たしかに、記録され保存された言葉を介してしか、われわれは過去の精神に接近しようがない。しかし、残された言葉の中に精神がそのまま実在しているのではおそらくあるまい。言葉は精神へ至るための通路、精神を解くための鍵でしかないであろう。一冊の「優れた書物」は、しょせん比喩の世界でしかない。媒体でしかない。内奥は言葉の届かぬ処にある。だとすれば、表面の言葉だけをいくら分析し、解釈してみても、精神そのものには至り得ないのである。もしもわれわれが「優れた書物」に出会いたいと欲するなら、われわれ自身が言葉という手段を通過して、それに応えるものを持ち、共時的に相似た体験をする存在になることに成功しなくてはならないのだ。
一冊の書物を、一つの精神を「理解」するとは、おそらくそれらを単に読書することと同じではない。読者として単に知的に理解することと同じではない。われわれ後世の読者は、はるか昔に立派な行為人として生きかつ教えた一人の人間に、自らも同じ行為人としてどこまで接近できるかに「理解」の成否がかかっているといえよう。しかも、言葉という表皮的な手段を使用して――言葉は行為に及ばない――一冊の書物、一つの精神を再構成し、その内奥をいわば行為人として追体験することが求められているのである。歴史の理解とは、じつに途方もない課題だと言わなくてはならない。
「他人の血を理解するなどは、簡単に出来ることではない。私は読書する怠け者を憎む。」
この短章の発する問いの重い意味は、これでやっと明瞭になったと思う。「読書」という静的な認識者の姿勢では、書物の真の理解は到底なし得ないというほどの意味である。ところが、「私は読書する怠け者を憎む」(Ich hasse die lesenden Müßggänger.)という簡潔明瞭な言句を、『ツァラトゥストラ』のある新しい訳者は、「わたしは、暇潰しに読書するといった手合いを憎む。」と訳した。また、その一つ前の訳者は「わたしは怠け者の読書家たちを憎むのだ。」と訳したし、昭和の初期の名訳は「われは読むにあたって懶惰なる読者をば憎悪する。」と訳している。これらはいずれも、勤勉なる読書と怠惰なる読書の二つを想定し、原著者によって前者が肯定され、後者が退けられているといった解釈に基づく訳文であろう。つまり、「勤勉なる読書のすすめ」がこの短章の意味だというわけだが、果してそうだろうか。そんな解釈でいいのか。余りにも見当外れではあるまいか。
読書、すなわち言葉を読むことを通じての理解の限界、ないし不可能、そして他人の「体験」を理解するには自らの「体験」を以てせねばならないという自覚に、原著者の精神的態度があることは再度言うまでもないが、しかし、この観点は、知らないで済めば知らない方が良いのかもしれない。これこそがじつは優れた本のもたらす最大の「毒」に外ならないからである。例えば、明治以後、西洋文化を学んで来た日本の知識階級のうち、一体誰がこのような自覚によって認識の根底を揺るがされてきただろうか。ロンドンにおける漱石の内的分裂は「毒」に当てられた一例とも言えようが、しかし、大半の知識階級は、精神に異変も来さずに、西洋の詩人や思想家を静的に享受することを以て西洋理解と称した「読書する怠け者」にすぎなかったのではないのか。そして、この傾向は大筋として今なおさして変わっていないのでは?
しかしながら、目を西洋世界にだけ限定してみると、二十世紀の西洋の精神世界は、ある意味で十九世紀までの伝統文化に依存した「読書する怠け者」たちの学習展示室のようなものではないだろうか。現在の西洋文化は、十九世紀までの天才的な先駆者たちが「血をもって」書き残したものの複製にすぎないのでは? 模写にすぎないのでは? そういうもう一周り外側にある文明の変質の問題がある。だとすると、それを学んでいる私は一体どういうことになるのだろう。私におけるすべては、彼ら先駆者たちの許で一度は徹底的に考え抜かれ実行されたもののいわば再演であり、写し絵であり、繰り返しである。私はいかんともし難いその事実に今さら抵抗しようとも思わない。
過去の優れた書物を理解しようと努めても、厳密に考えると、「血をもって」書いた精神の真の「体験」は文明の今の状況下では成り立ち得ず、結果的には「ぼんやりと読んでぼんやりと人生を過す」ことと何ら変わらぬ平板な理解の仕方で過去の書物と対応している自分自身に、私は嫌でも応でも気付かざるを得ないのである。こう述べるのは自分で自分を見下しているからではない。優れた書物を「理解」することの本来の意味を厳密に考えれば考えるほど――従って人生に対し積極的であればあるほど――自分自身の現在の位置に対してわれわれは幻想を抱くことが許されないのである。
若いT・N君にそこまで分ってもらうのは矢張り難しく、また、最初からその積りもなかったが、同君宛の手紙の中に期せずして私が自分の内心を洩らしていたことが、後で考えてみると、私自身にとっても少なからず興味深い、有益な自己発見になったといってよい。
(電気通信大学教授・文芸評論家・東大・文博・昭33)