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学術・文化の発信と交流Ⅱ

長岡半太郎氏長岡半太郎氏

1891(明治24)年10月に発生した濃尾大地震は、多くの学者が被災地の調査・研究を行い、日本の地震学が発展するきっかけとなりました。学士会誕生の発端となった、加藤弘之氏の謝恩会で創立委員に指名された5人のうちの1人、田中館愛橘氏は日本の地球物理学の先駆者で、濃尾地震の震源地であった岐阜・根尾谷の断層を調査し、地震研究の必要性を訴えました。學士會月報には翌年、物理学者で後の大阪帝国大学初代総長となる長岡半太郎氏とともに「濃尾地震に随伴せる等磁線の変位」を寄稿しています。

発生当時、地震学を専攻する大学院生で後に日本における「地震学の父」とも呼ばれる大森房吉氏は、その余震に関して研究しました。1894(明治27)年に本震から時間とともに余震の回数が減少していく経過を表す大森公式を発表。翌年1月、學士會月報に「余震に就きて」という論文要旨を掲載したほか、幾度も地震観測に関する報告を行いました。東京帝大理学部地質学・採鉱学科の最初の卒業生であった小藤文次郎氏は、発生約2週間後に現地調査を行い、その後に断層地震説を唱えた人物です。學士會月報には「馬来群島地質構造」「韓国南部地勢概況」などが掲載され、大正期に朝鮮半島なども視野に入れた日本列島の地体構造論をまとめました。

小藤氏の弟子であった山崎直方氏は、立山で氷河地形の山崎カールを日本で初めて発見するなどした近代地理学における最大の功労者で、日本地理学会を創設したことで知られています。學士會月報の誌上では、万国地理学大会や万国地質学大会に参加した際の報告を行っています。

田中館氏とその弟子で理学博士の田丸卓郎氏は、日本式ローマ字の普及推進論者として知られ、田丸氏が學士會月報に1907(明治40)年1月から3月にわたって連載した「拙著『羅馬字文の書き方・附・日本式羅馬字の論』の弁」が、誌上での白熱したローマ字論争を引き起こしました。

田丸氏は初回の文中で、ローマ字を国字にしようと言えば反対論者は多いはずだが、日本語をローマ字で書くときにどういう書き方がよいかを問うために寄稿した、としていました。しかし、これに対して、当時、東洋史が専門の東京帝大教授で後に國學院大學学長となる市村瓚次郎氏が「羅馬字論者の反省を求む」との題で同年4月と5月に、多田重豫氏が「羅馬字会の滅亡を欲す」を6月にそれぞれ寄稿して反論。田丸氏が7月と8月に「ローマ字反対の議論」で応戦し、再び9月には多田氏が「田丸博士の駁論を駁す」として反駁論を展開したのでした。

大河内正敏氏大河内正敏氏

茶話会の始まった大正期は、第1次世界大戦とその後の世界情勢の移り変わりや、国内の大正デモクラシー、重化学工業化、婦人参政権問題などへの関心が高まり、講演、月報ともこれらをテーマとしたものが多く論述されました。世界の動向については、工学博士で貴族院議員でもあった大河内正敏氏の「欧州の戦乱と兵器」、中国哲学者でハーバード大学教授も務めた服部宇之吉氏の「米国旅行談」、元外務大臣の石井菊次郎氏の「戦後欧州の状態に就て」などが茶話会での演題になりました。

小山内薫氏小山内薫氏

一方、政治・経済・社会の話題に偏りがちななか、民俗学者の柳田国男氏による「支那クーリーの話」、劇作家の小山内薫氏による「国劇の将来」と題する講演も行われるなど、やわらかめの話も取り上げられました。

1921(大正10)年、文部省に臨時国語調査会が設置され、一般に使われる漢字を2000字弱に絞り込む「常用漢字表」や「国語仮名遣改定案」などが相次いで立案されると、學士會月報では国語国字問題の議論が過熱。1926(大正15)年は夏以降、ほぼそれに関する寄稿一色となりました。合わせて、ローマ字論争も再燃し、昭和初期まで、漢字、仮名文字、ローマ字をめぐって様々な論戦が誌面上で繰り広げられました。

昭和期の月報は、昭和10年代前半まで、それまで中心となっていた時事問題や海外の滞在記などに加えて、音楽などの芸術論、健康問題、登山や旅行といった趣味の話など、内容が多彩になり、世情の安定と月報を通じた会の活動の充実が感じられるようになりました。

しかし、その月報の寄稿と、茶話会や新たに始まった午餐会における講演のテーマは、次第に変化していきます。1935(昭和10)年12月の午餐会で「ナチスの世界観」が取り上げられたのを始めとして、講演テーマはほぼ欧米や「支那」を中心としたアジアなどの国際情勢に関するもののみとなります。月報には1936(昭和11)年に「神の導ける大日本の使命」の論文が掲載され、1942(昭和17)年の表題のほとんどには「大東亜」「南方」という文字が見られるようになります。そして、第二次世界大戦末期へと向かう1944(昭和19)年、午餐会の開催、月報の発行がともに途絶えました。

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