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学術・文化の発信と交流Ⅰ

学士会は、同窓団体であると同時に、学究的な活動団体としての色合いも強く、創立以来、時代の最先端の学術と文化の発信と交流を連綿と続けてきました。

学士会を拠点に、当初から数学物理学会をはじめとした様々な学会や研究グループが会合を開いてきましたが、学士会自らも主催する講演会や、発行する会員誌『學士會月報』(現・『學士會会報』)を通じて、会員間での幅広い知識の共有を促進してきました。

臨時総会において講談会開催を決議臨時総会において講談会開催を決議

学士会主催の講演会は、1890(明治23)年7月に神田錦町の旧帝国大学講義室で「第1回通俗学術講談会」を開いたのが始まりです。第3回内国博覧会の開催に合わせて行われたもので、その最初に「開会の趣旨」の表明に学士会発足の端緒となった加藤弘之氏が演壇に立った後、「商法に就て」(朝倉外茂鉄氏)、「天文学の効益」(寺尾寿氏)などの演題で、8日連続で計24人の博士、学士が講演しました。この講談会は翌年以降、名古屋、仙台、大阪、京都でも開かれ、いずれも多くの参会者が訪れる盛会であったとされています。

明治期は學士會月報を中心に各界、各分野最新の情報の交換がなされてきましたが、大正期に入ると、講演をセットにした「茶話会」が恒例行事としてスタート。机上の論議だけでなく、継続的な実践活動が本格化しました。昭和期には、現在の学士会館の落成後、「午餐会」が始まり(茶話会は昭和13年で自然休会)、戦後になって新たに「夕食会」も食事を交えての講演会として定例化し、現在に至っています。

1887(明治20)年の創刊後に休刊、翌年1月に復刊した學士會月報は当初、電話の敷設、鉄橋の架設といった発達期に入ろうとするわが国の社会施設の整備の様子を伝える報道のほか、大学の運動会、会員の結婚、海外への留学についての記事などいかにも同窓団体らしい誌面構成となっていました。

坪井正五郎氏坪井正五郎氏

それが、同年10月の月報には、人類学会を創設した理学士の坪井正五郎氏による埼玉県横見郡北吉見村(現・比企郡吉見町)の古墳時代の遺跡「吉見百穴」の発掘調査報告が寄稿されました。これは発見された多数の横穴が住居であったあと葬穴に利用されたと想定する内容で、後に住居ではなかったとする説を唱えた研究者と論争になりました。月報では、掲載された次号に、“百穴の次”として理学士の山縣修氏が出雲・因幡(島根・鳥取両県)の古墳に関する記事を寄稿。それに対して坪井氏が見解を併載しました。誌上で初めて学術論議が交わされたもので、当時、学士会の委員を務めていた坪井氏はこれを奨励していました。

坪井氏は、人類学、考古学といった専門にとどまらず、様々な物事について数多くの文章を月報に寄せ、1899(明治32)年からは「うしのよだれ」という連載を亡くなるまで16年にわたって執筆。その機知に富んだ筆致が読者の感興を呼び起こしました。

菊池大麓氏菊池大麓氏

1889(明治22)年2月の大日本帝国憲法の発布は、帝国大学の制度的な位置づけについて大学関係者の間に議論を巻き起こしました。學士會月報には、大蔵官僚で後に蔵相、学士会理事長となる阪谷芳郎氏が「帝国大学独立按」を寄稿したのをはじめ、沢柳政太郎氏の「帝国大学之独立」、嘉納治五郎氏の「帝国大学独立策」が、それぞれ連続して掲載されました。内容に多少の差異はあるものの、概ねは帝国大学の運営について、行政府と議会の干渉を排除しようとする主張でした。

このころには、仏教哲学者で「諸学の基礎は哲学にあり」という教育理念のもと1887年に哲学館(現・東洋大学)を創立した井上円了氏が「哲学館将来の目的についての意見」のほか、「大学生頭蓋の平均寸法」「日本一周記緒言」など興味深い表題で月報向けに数多く執筆しています。また、後に東京帝国大学、京都帝国大学の総長を歴任する菊池大麓氏を師とした数学者の藤沢利喜太郎氏は、「楕円函数の掛け算に関する研究」を學士會月報に発表。欧州の本格的な数学を研究して日本で後進に教える一方、1900(明治33)年に第2回万国数学者会議がパリで開かれた際は、日本の代表として和算について講演しました。

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