夕食会・午餐会感想レポート

6月20日午餐会

 平清盛を私は、日本の中世史上最高の経綸の才に富む英傑であったと思い込んできた。それは確か旧制中学の日本史の授業で教えられた「平清盛は大輪田の泊りを開き、瀬戸内海航路を整備し、日宋貿易の振興に尽力し・・・・・」というくだりに心をうたれたからであった。これがどれほど偉大な構想であり事業であったかは、中学生でも理解できた。
 反面、清盛悪人説は、当時全く読んだり聞いたりしなかったわけではないが、まとまった知識として記憶には入らなかった。今回、上杉先生の考証充分なご講演を拝聴し、とくに最後の十訓抄という強力な仕上げで清盛悪人説は殆ど消えて良質な知識として記憶におさまった。
 ただ、先生もおっしゃったように、清盛の死の3,4年前の行動が清盛悪人説を全く消し去るのを防止しているのかもしれない。後白河法皇と清盛とのこの抗争は、おそらく国家のあり方に関するものであったろうから両者ともに譲らず、武力の点で劣る法皇側に多数の犠牲者が出る結果となったのであろう。
 さてこうなると、私のうんと若い日の清盛礼賛がムード先行であるのが気になってきた。日宋貿易は清盛と日本国に一体何をもたらしたのか。それとも殆ど収穫がなかったか寧ろお荷物になったのか。ぜひとも知りたい。
 このような経済に関する判断は、莫大な宋銭の流入という事態があったらしいことも考えると至難な技になると予想される。私にはどなたが専門家なのか見当もつかないが、午餐会に講師としてお招きしていただければ幸いです。

(阪大・工、白井 二實)


 明治大学の上杉和彦教授の話を興味深く聴かせていただいた。その中で、2つの点が印象に残った。1つ目は、歴史は、後の権力者やその当時の敵方・味方両方の怨念やイデオロギーによって作られるということである。平清盛の極悪非道説は治承元年から3年に掛けての清盛の後白河上皇一派に対する非情な仕打ちが、怨念を生み、悪人説を作り出したという解釈は説得性を持つ。清盛没後830年も経つと文献の数も少なく、時の権力者だけでなく、庶民の勧善懲悪等の趣向によって如何様にもストーリが構築され後世に残っていく。また、人間は100%悪人もいないし、善人もいないので、悪の部分を取り上げて誇張することも出来る。歴史の中に登場する人物の評価は「現在的意味」においても大きく異なってくると思った。
 2番目に感じたことは、中世の幕は源頼朝ではなく、平清盛によって切って落とされたという新しい解釈は私も賛成である。平安末期と鎌倉時代の境目に生まれた清盛は、経済的基盤を貴族的な性格を持った荘園や公領に依存し、且つ、権力は新しく生まれた武士社会の武力に頼るという中途半端な体制に縛られた。これが平家による支配体制の限界を如実に表している。しかし、清盛が中世の武士社会の先鞭を付けたことは明らかである。誰が歴史の創始者かを考えることも歴史を学ぶ醍醐味であると改めて思った。
 学士会午餐会の刮目すべき講演内容であった。

(東大・工、武田 英次)

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