二十一世紀 期待される人間像
丹羽 宇一郎
(伊藤忠商事会長)
No.858(平成18年5月)号
はじめに
先ほど團藤理事長から、「言いたい放題言ってください」と言っていただきましたので、もう少し硬い話をしようと思っていたのですが、今の経営者はどんなことを考えているのか、経営者の考え方の一面でもご紹介できればと思っております。
サムスンという大変な勢いで伸びている会社の会長さんが、「経営は理論ではなく、体験であり、勘である」と言っておられますが、これも一面の真理かと思います。私の本日のお話も、教科書やドラッカーの経営書に出ているようなことではございません。経営の本にはない、私の体験に基づいたお話だということを、まず皆さんにお断りをしておきたいと思います。
ある著名な政治家が、三十年前の経営者と今の経営者はほとんど同じような仕事をし、同じような生活をしていると思っておられるのを知り、大変驚いたことがございます。この政治家だけではございません。経済界、学会、お役所の世界でも、人間というのは、自分の体験や時代背景、環境の影響を、相当大きく受けるし、それを簡単には変えられないのではないかと思います。マルクスの思想にしても、一八四八年に『共産党宣言』が、一八六七年に『資本論』の第一巻が出ておりますが、第一次産業革命の波が大陸に押し寄せた一八三〇年~四〇年という時代背景の中で、初めて生まれたもので、マルクスが今の日本や欧米で生きていたら、決してマルクス思想は生まれないだろうと、私は思います。
二十世紀はどんな時代であったのか
二十一世紀を考える上において、経済面から見て二十世紀がどんな時代であったのかを、まず考えてみたいと思います。歴史というのは、his story、これを縮めてhistoryになるわけですが、私は歴史家ではありませんから、言説より事実から二十世紀を概観し、二十一世紀の話に入りたいと思います。なぜなら、二十世紀の資本主義、市場原理主義の経済社会のシステムの百年の帰結が、二十一世紀の問題を突きつけていると考えるからです。
二十一世紀の、これからの百年を予想することは、とてもできません。フランスの思想家のモンテーニュは、「賢者は将来のことを予測したり、心配したりはしないものだ」と言っています。最近読んだ本でも、ハンガリーの哲学者のアービン・ラズロ博士は、「未来は予言するものではなく、創造するものだ」と言っています。これも正しいでしょう。ではありますが、私を含めて一般大衆というのは、ついつい予測をしたいと思うものであります。
二十世紀の始まる前に、日本の国民は何を考えていたでしょうか。一九〇〇年というのは、ちょうど日清戦争と日露戦争の間の年で、日本の人口は今のおよそ三分の一の約四千四百万人、平均寿命も四十四、五歳という時代でした。一九〇一年(明治三四年)一月二日と三日に、報知新聞が「二十世紀の予測」を二十二項目発表いたしました。当時の日本人が新しい世紀にどういう夢を見たか、私はその予測に大変興味を持って読みました。
簡単にご紹介しておきますと、ライオン等野獣はもう滅亡している。七日間で世界一周ができる。蚊やノミが滅亡する。遠くの人との話ができる。写真電話で買い物をする。電気が燃料になる。葉巻型の列車が、東京~神戸間を二時間半で走る。人間の身長が一八〇センチ以上になる。動物と会話ができるようになって、犬が人間のお使いをする。台風が一カ月以上前に予測されて、大砲で破壊できるようになる。というようなことが、百数年前の日本国民の夢であったわけです。
今ご紹介したもののうち、動物と会話ができるといったことは別としまして、テレビショッピング、電気燃料、七日間で世界一周、新幹線等、七割が実現いたしました。皆さんがエンジョイされている今の生活のほとんどが、この二十世紀、過去百年に起きたイノベーションの結果です。
二十世紀初頭の一九〇三年にライト兄弟によって開発された飛行機は、第一次大戦前には世界に二、三千機しかなかった。したがって、当時の軍隊には空軍というものはなく、陸軍と海軍しかなかった。第二次大戦前には、日本の飛行機は四千七百機、アメリカが一万二百機でした。それから三十年後の一九六九年には人類は月に着陸しているんですね。三十年間で飛行機の数はべらぼうに増えて、月に着陸するまでに技術の開発が進んでいるわけです。
一九〇〇年には世界に数千台しかなかった自動車にしても、フォード社の設立が一九〇三年。〇八年からT型フォードが販売され、二七年までに千五百万台が製造される。
皆さんが今健康でいられるのも、抗生物質や各種の薬、エックス線、輸血、手術、血圧計等々の開発があればこそですし、テレビ、携帯電話、冷暖房など、いろんなものが、ほとんど二十世紀に発明され、普及したものです。そのおかげで我々は、実に恵まれた生活を送ってきました。
人口も爆発的に増えました。中国の人口が今十三億と言われますが、今から三百年前は、地球上に六億人しかいなかった。二百年前に九億人になり、百年前の一九〇〇年は十六億人でした。これが二〇〇〇年、この百年間になんと六十二億人まで増えた。二十世紀に人口が爆発したわけですが、これも、いかに人々の暮らしがよくなったかという表れだと思います。
二十世紀は、最も人口が爆発的に増えた時であり、最も人間の暮らしが、comfortableになった。そういう恵まれた時代に我々は生きてきたわけですが、それを実現したのは、明らかにイノベーションが次々と社会変革、生活変革を引き起こしたからであろうかと思います。これは、二十世紀の光の部分であります。
一方、資源問題を含めて、環境の劣化等により、二十一世紀に、人口はおそらく百億がマキシマムだろうと言われています。環境問題と資源、水、食糧問題、いろいろなことを考えると、二〇五〇年に世界の人口はおそらく九十六、七億になり、それ以降はちょっと生存が難しいのではないかと言われております。
我々人間は二十世紀に快適な生活をして、人口も爆発的に増えてきた。その帰結が、影の部分としての地球規模の環境劣化、食糧問題等、人類の生存をかけた諸問題として、二十一世紀の我々に突きつけられている。今日は影の部分をお話する時間はありませんので、光の面でお話を続けさせていただきたいと思います。
二十一世紀の予測
さて、二十一世紀はどのような百年になるか。二十世紀百年の日本人の予測が、七割方実現したということで、二十一世紀も二十世紀の百年と同じ程のイノベーションが起きて、二十世紀以上に人間の生活が快適になるかどうか。私は、おそらく二十世紀ほどのイノベーションは起きないのではないかと思います。
今、日本の方々が、二十一世紀の百年でどういうことを予測し、夢見ているか。TBSの近未来スペシャル、「二十一世紀の予測」で、この百年間でこういうことが起きるのではないか、実現するといいなあという願望が、紹介されていました。
日常的にロボットと暮らすようになる。自動翻訳機ができて、言葉の壁がなくなる。車が空を飛ぶようになる。今は厄介物のごみが資源になる。遺体の冷蔵保存、人工子宮、デザインベビーができるようになる。太陽エネルギーを宇宙からコードレスで送電する。
不思議なことに、長寿や生命科学への願望が少ないのですが、調査対象が若い人々で、高齢者の回答は少なかったのでしょう。国民の一部の意見であれ、今の時代に不便を感じて、二十一世紀に実現できたらいいなと望んでいること、いずれ国がゆき詰るかもしれないという不安事項の解決、そういう気持ちが出ているのではないでしょうか。
しかしながら現実には、二十一世紀はどのような方向に向かっているか。経済界の予測では、今、世界のGNPの四〇パーセント強はアメリカと日本が占めておりますが、二〇五〇年には、インドと中国が五割を占めるようになると言われております。先のことはわかりませんし、こんな予測は、一つの計算を前提とした延長線上に出てくる数字であろうかと思いますが、中国、インドが世界の経済で主要な位置を占めるようになると予測されているわけです。
二十一世紀に確かな三つのこと
二十一世紀を考える上において、確かなことが三つあるのではないか。その三つについて申し上げたいと思います。
<イノベーション>
一つは、イノベーション―技術革新に関することです。ただ単に技術があるだけでは何も起こりません。技術だけなら、今も、各メーカーさんにはもう膨大な技術が眠っております。これが開発、加工されて、初めて社会の役に立ち、人々の役に立ち、社会変革や生活革命が起きる。
石油が燃料になるにしても、現実の問題として燃料化していく開発技術がなければ、これはただ単なる技術で終わるわけです。テクノロジーとファイナンシングとマーケティングとが一体にならないと、イノベーションは起きないだろうと思われます。
現在、アメリカのR&Dの七〇パーセントがライフサイエンスに投じられていると言われ、ベンチャーキャピタルの三〇パーセントも、医療や長寿に関する生命科学分野に向かっているということです。二十一世紀のイノベーションは、ライフサイエンスが中心になるのではないかと、私は予感がいたしております。
その場合、世界のどこがこのイノベーションの中心になるのか。シリコンバレーとシンガポールという名前が挙がっておりますが、日本の名は出てきておりません。このイノベーションが起きるためには、市場がオープンで、ダイナミックで、国際的で、リスクテイキングで、ベンチャーキャピタル市場の力量が必要となるわけですが、欧州も日本も、その力が非常に弱いのだと思います。
イノベーションを日本発とするためには、日本に技術と情報の交差点を作る必要がある。つまり、知と金と人を集めるような市場を作る。知の交差点、情報の交差点、いろいろな分野の方々が集まって情報を交換し、技術のヒントを得るような、そういう場を作っていかないと、たぶん、日本でイノベーションが起きるのは難しいのではないかと思われます。
私も政府税調の委員として、技術と研究開発に税制の恩典をもっと導入すべきであると、発言してきております。日本は技術以外では生きられないだろう、外国からも優秀な人々が日本に集まるような場を作っていかないと、日本の技術だけ、純血主義でやっていたのでは、日本の二十一世紀はないのではないかということです。
<量から質へ>
二番目として、二十一世紀に確かな方向だと思うのは、「量から質へ」という動きであります。これは今後いろいろな面で出てくるであろうと私は思います。
量の経済は中国、アジアへと移っていきつつありますが、量の世界は価格だけの世界です。例えば鉄鋼におきましても、一般商品の鉄鋼は、明らかにもう中国等に移りつつあります。現在の鉄鋼生産量の六割くらいは土木建築に使われるような鉄鋼で、日本でなくてはできないような、自動車に使われるハイクオリティの薄板の鉄鋼は、おそらく二割を切っていると思います。明らかに技術をベースにした、リファインされたものは、日本の製品でなきゃ駄目だというようなクオリティがあるわけで、量は同じでも、クオリティはやはり違うわけです。製品によってクオリティは様々であり、価値をどう見つけるかによって、その測り方は分野によって違います。
ほかの商品においても、クオリティに差のないものは、価格だけの勝負になります。今まで製品として付加価値があったものも、技術の進歩とともに、どんどん一般商品化していきます。そうすると、価格戦争という形が出てくるわけで、そういう中で日本が生きていくことは、非常に難しい。中国に追いかけられ、ベトナム、インドも次々に追いかけてきております。
これからの日本が、二十一世紀に本当に発展していくためには、経済においても、人間の問題においても、量から質ということを考えていく必要があると思います。今まで量を追いかけてきた日本の経済も、クオリティを追いかける新しい体系、品質をベースにした新しいパラダイムを、我々は作りあげていく必要があるということです。
また、日本の歴史初の人口減少社会を生き抜くためには、規制改革ももちろん必要です。
なぜ日本にライフサイエンス分野での新しいテクノロジーがなかなか出てこないのか。規制が激しすぎるからです。薬品会社の大部分は、欧米の中でも特にアメリカに投資をし、アメリカで新しい薬を開発する。やはり規制という壁があるわけです。quantityからqualityへ。量から質へというのは、生産分野においては、明らかに新しいパラダイムが必要とされていますし、人口が減少していくなかで、人間のクオリティも高めていかなくては、日本はとてもやっていけないだろうと思います。
二十一世紀は技術者優先のテクノロジーの時代であり、また、頭脳競争の時代、エリート発掘の時代だと私は思います。一人の優秀な人材が、多数の人を養う時代になるかもしれないという意味から言っても、エリートなき国は滅びると私は確信しておりますし、それは歴史が証明しています。quantityからqualityへというのは、経済だけではなくて人材の面でも、非常に重要な、確たる方向ではないかと思います。ただ、人間のクオリティを測る単位はありません。各々が自制自戒をして、どれだけ高い倫理観を持っているかは定量化できません。逆に言うと、人の心の定量化はできないのに、人間を定量化するところに今の教育の弊害があるわけです。就職率が何パーセントだとか、大学まで定量化、点数化する弊害は、問題があると思います。
<二極化の進行>
三つ目に確かな方向というのは、あらゆる面で二極分化が今進んでいるということです。グローバリゼーションというのは、これに拍車をかけております。
最新の財務省の法人企業統計調査データによりますと、全国の従業員の七〇パーセントは、資本金一億円以下の中小零細企業で働いている方々で、一九九五年から二〇〇四年までの十年間で、年収は一六パーセント下がりました。一億から十億の資本金の中堅企業の方々の年収も、九パーセント下がりました。資本金十億円以上の大手企業の方々の年収は、一パーセント上がっています。つまりこの十年間で、中堅企業と中小零細企業では年収が下がっているのに、大手企業では少し上がっているということで、格差が拡大しているわけです。
アメリカはどうでしょう。アメリカのIRSのデータでも、上部一パーセントの世帯の所得は、この三十年間で倍増しております。このわずか一パーセントの世帯で、一四・七パーセントの所得を占めているということです。アメリカ史上で最高の格差の拡大は、万人の繁栄、永遠の繁栄と言われた一九二八年に、一パーセントの世帯で一九・六パーセントの所得を占めたことがありました。その八カ月後に大恐慌が起こり、それ以来ずっと、格差は縮小してまいりましたが、三十年ほど前からまた拡大しております。さらに、アメリカでは上部〇・〇一パーセント、およそ一万三千世帯の平均所得が、二〇〇二年のベースで一〇・八ミリオンダラー、十一、二億円の年収です。この〇・〇一パーセントの所得が、三十年間で四倍になり、先進国のどこの国よりも、所得の不平等が広がっている。
アメリカだけではなくて日本でも、格差が広がっています。日本の全従業員の七〇パーセントの年収が下がっているという現実が、グローバリゼーションが進むとともに、確かなものになってくるということです。
なぜグローバリゼーションが格差をもたらすのか。グローバリゼーションというのは、最もコストが安い、最適な場所で、最適な物を作り、持ってくる。アメリカでインフレーションが起きないのは、グローバリゼーションで安い物が入ってくるからで、これが物価を抑える。物価が抑えられれば給与も抑えられて、一般労働者の給料はほとんど上がらない。一方において、経営者の給料は大きく上がっているというのが、この格差の拡大の大きな原因になっています。
先般、十人くらいの昼食の席でグリーンスパンさんにお会いした時に、「長期金利が上がらないのは、永遠の謎だとあなたはおっしゃいましたが、依然として謎でしょうか」とたずねましたら、「必ずしもそうじゃない。それは、グローバリゼーションというものによって、今のような問題が起きると同時に、海外から非常に潤沢な資金がアメリカに流れ込んでいる。これが長期金利を抑えている」とおっしゃっていました。
このグローバリゼーションによる二極分化の広がりは、二十一世紀にさらに続くだろうと思われます。社会的な不安感が、二十一世紀の人々の考え方や生活に、時代の影を落としていき、これからの消費行動や経済の分野に大きな変化をもたらしてくるのではないか。格差社会というものが、どんどん突っ走っていくという感じがします。
競争社会では、ある程度賃金の格差が生じるのはやむをえないことですが、アメリカでは、アベレージワーカーとトップハンドレッドCEOとの格差は、おそらく四百倍。一九九九年には一千倍までいきました。それはアメリカの社会の問題で、日本はそこまでいっておりません。日本の経営トップである我々と、一般平均ワーカーの賃金の格差は、おそらく七~八倍、十倍まではいきません。今、大手企業の平均年収が七百七~八十万円、零細企業は二百四、五十万円、中小企業が三百四、五十万円、中堅が五百四、五十万円でしょうか。まだそれほど大きな格差はないのですが、どんどん格差が広がっている。これは非常に由々しき現象です。この格差をどう埋めるかとなれば、利益の再配分を税でどう調整するかということかと思います。あまり平均化しますと、それこそ悪平等社会になって、働く意欲をなくしてしまうことになりますから、そこのバランスをどうとるか。税制の問題だと思います。
二十一世紀に確かなことは、一つはイノベーションが確実に進むだろうということ。二十世紀ほどではないにしても間違いない。もう一つは、quantityからqualityへ、経済と同時に人の面でも、質が重要視されるということが確かなものになっていくだろう。三つ目が、二極分化が起きるのではないかということになります。
企業は「人」である
現在、株式売買を含めて、ホリエモン、三木谷さん、村上ファンドと、M&A(Merger & Acquisition)が注目されております。我々もM&Aをやりますが、M&Aというのは、一種の人材売買みたいなものでありまして、今は自分の持っていない人材を、ゼロから育てる時代ではないんですね。自分の持っていない経営資源を持っている会社とどうやって提携して、仕事をするかということであると思います。法律の抜け穴をくぐり抜けるような、違法でなければ何をやってもいいというような経営は、もしやりたければやってもいいけれども、必ずそれはしっぺ返しを食らうであろうと思います。これは常識の問題でありまして、また、従業員が本当についていけるかどうか、という問題もあるでしょう。
イギリスに、サーチ&サーチ社という広告会社がありまして、経営者があまりにもいい加減だというので、アメリカのファンドが会社の株を買って、経営者を追い出したところ、優秀な従業員も次々と辞めて、ついていった。大変人望がある、優秀な経営者であったわけですね。結局、会社はもぬけの殻とは言わないけれども、かなりの人材が流出してしまい、追い出された経営者が新規に興したM&Aサーチという会社の方が隆盛になったという事例もあります。
結局企業というのは「人」です。人と人がどういうふうに融和して、仕事がやっていけるかというのがポイントです。
若さと経験と
仕事というのは、体験とか経験によって得る部分が結構あるんですね。経営というのは理論だけではなくて、やはり体験とか勘によるものが大きいということです。もちろん、若いうちから経営理論を勉強されるのは結構なことですし、勘だけでやるといっても、体験に裏付けられない勘ではうまくいきません。やはり仕事をする上において、若ければいいというものではない。ある一定の年齢の方々の知恵や知識を尊重して行く必要があるでしょう。若い人の特権は情熱ですね。あるいは体力、気力。こういうものを大事にしていただくとして、体力、気力、情熱があれば会社はうまく回るかというと、違うと思うんですね。
我々経営者も、若い経営者を育てたいと考えてはいます。それは、体力、気力、情熱があるからです。しかし、その情熱や体力が、どこへ向かうか、です。会社の経営の方向が間違っていないかどうか、やはりある一定の年齢を得た、体験を経た高齢者の意見をよく聞いておく必要があると思います。特に若い人でもそういう経験を経て、その辺のバランス感覚もあって、大変に見識の高い方であれば、若くても任せることができますが、ただ単に若いというだけでは困るということで、六十五歳まで定年延長という話が出ておりますが、大いに活用したいと思います。長年の経験を持っていて、いろいろな体験をした人を、みすみす手放すというのは損失だということです。
若い人も必要ですが、会社に入って、おそらく十年か十五年くらいは基礎教育をきちっとしなきゃいけませんし、下積みの生活をきちっとしなければ、やっぱり本物には育たないと思っております。会社に入って十年、あるいは四~五年で、すぐベンチャーキャピタルだとか言って起業する方もおられますが、やはり基礎教育をみっちりしてから新しい仕事に乗り出すことが大事でありまして、ベンチャーキャピタルの八割は失敗です。何が足りないか。ロマン、我慢、そろばんとありますが、いちばん足りないのは我慢です。ロマンもあるし、そろばんもできても、我慢が足りない。ちょっとまずくなると、へなへなとして辞めてしまう。そんなことでは、とても企業の経営は任せられないということです。若い起業家で立派な方もおられますが、一般的に言ってそういうことになるかと思います。
中間層の強化育成とエリートの養成
我々は、イノベーションを日本発とするための知恵を出さなければならないと同時に、クオリティ万能、技術、社会のエリートの養成が必要です。しかしながら、現場の力があって初めてこれは可能になるわけでありまして、技術というものは、物作りの力なくしては、おそらく爆発は起こさないだろうと思います。
二極分化では、現場の力を維持することは難しいのではないか。私は、日本の産業がこれだけ発達したのは、非常に平均的なよい力を持った中間層が物作りに寄与したからだと思うのですが、二極分化がさらに進めば、この中間層の力が落ちるのではないかと、危惧しております。中間層の強化育成と、エリートの養成という、相矛盾した課題を、これから解決していく必要があるのではないかと思います。
そういう意味で、二十一世紀の日本の課題は、日本経済発展のために、私が申し上げた三つの確かなことを良い方向へ導き、解決する知恵を、我々は出していかなければならないということかと思います。
さて、そういう中で、これから我々が二十一世紀にどのような人間像を期待していったらいいか、ということですが、二十一世紀になったからといって、急に立派な人間が生まれるはずはないわけです。私が「二十一世紀に期待される人間像はこんな人ですよ」と言っても、立派な人間が生まれるというようなことはございません。そんなことがあれば、私はとっくに自分でやっております。玉手箱を開いたように、あっと驚くようなお話はとてもできません。
期待される人間像を考える上において、申し上げたいのは、技術というものは先祖代々のものを継承ができるけれど、心だけは継承できないということです。先輩のしたこと、あるいは過去の様々な技術は継承できますが、人間の心は、有史以来、いつもゼロからのスタートです。皆様方がいくら立派な心をお持ちになっても、息子さんやお孫さんが立派な心を引き継いで生まれることはないわけです。
ところが技術は、継承して伝えられていきます。それがイノベーションを引き起こし、新しい技術の開発になるわけですが、心だけはそうはいかない。ここに二十一世紀の、大きな問題が潜んでいると考えます。
皆様もそれぞれに、いろいろ切磋琢磨されて、立派な精神、高邁な心というものをお持ちになったと思います。二十一世紀はさらに機械化、IT化が進み、人と人との接触よりも、機械との接触が増えてくる。無機物との接触が増えて、電車に乗っても一人で黙々と携帯をいじり、家ではパソコンをいじり、人との会話、人との接触がどんどん少なくなってくる。こういう時代において、人間の心をどのように高めていくかということが、二十一世紀は今までの百年よりも、もっと難しくなるのではないか、精神性をたかめていくという問題をますます我々に突きつけてくるのではないかと思います。
最近の耐震強度偽装事件、私も関心を持ってみておりますが、その中で姉歯元建築士が、奥様が病気で入院されて、そういう時に自分の弱い心が出て、こういう事件になったんだとコメントしていました。私はこれを聞いて、中国の三国志の時代の劉備の臨終前の言葉というのを思い出しました。
勿以悪小而為之 悪小なるを以てこれを為す勿れ
勿以善小而不為 善小なるを以てこれを為さざる勿れ
人間の心は、皆様方もそうだし、私もそうですが、妬み、やっかみ、僻みのような負の心は、永遠に消えることはないだろうと思われます。我々が、どんなに立派な大人の顔をしていたとしても、心の中はあまり進歩していない。やはり妬む時は妬み、やっかみ、僻むというのが、幼稚園の頃とほとんど変わっていない。胸に手を当ててよくお考えいただくと、おわかりになるんじゃないかと思うのですが、人間が神に近づくということは、非常に難しい。至難の業だろうと。
動物の血統が二百万年以上続いたとしても、人間の理性はせいぜい数千年です。中国の夏、殷、周の時代からせいぜい二、三千年前という説もあります。それ以来、人間の心というのはほとんど進歩しておりません。そういうことを考えますと、おそらく我々がこれからどのように生きていくかということも、象徴的に言えるのではないかと思います。
大事なのは教育
心の問題を経済界として見た場合に、「企業の失敗の三つの条件」というのがあります。一つは自己満足をする。二つ目に保守、守旧派である。三つ目は思い上がりである。これも、人の心に関わるものです。
一方、成功する条件は、変革、革新だとか、競争、顧客というようなことが言われておりますが、人の心に関わるものではありません。人の心に関わるのは、失敗する場合です。自己満足だ、思い上がりだ、保守的だと、企業を失敗させるのも、人の心に関わる部分がいかに大きいかということです。
洋の東西を問わず、子どもは、母親をはじめ、人にほめられたい。あるいは母親を喜ばせたい、先生を喜ばせたいという思いで、赤子の頃から生きているのです。お母さんを悲しませたい。先生に叱られたいと思っている子どもはいないし、生まれた時から悪いという人は、断じて私はいないと思います。それがどうして、いつ頃から、心のねじれということが起きるのか。どうして、そういう素直な心を持った子どもがねじれてくるのか。
私が独断と偏見で申し上げれば、両親、小さい頃の小学校の先生、非常に多感な時代に影響を与える中学、高校の先生方、会社で言えば上司、こういう周囲の人々の教育というものを考えていかないと、新しい二十一世紀のリーダー像というものも、話にならない。先ほどから申し上げているように、人の体験、経験というものが、いかに人間の考え方、価値観、イデオロギーに影響を与えるかということであります。非常にいい性格の方は、家庭の躾がよかったとか、友達や同僚、上司に恵まれたといったことが、非常に大きな影響を与えているのではないかと思います。
これからの教育を考える上において、私としては、教師の給料を上げなさいと申し上げたい。安い給料でいい先生を採用しようとしても、難しいことです。よほど神のような志を持った人でないと、安月給でつらい仕事につくことはしないですね。
学校の先生、あるいは官庁のお役人、本当に優秀な人を採用するのであれば、給料を上げるべきです。全員一律に上げると、ろくでもない人の給料も上げることになりますから、評価制度をきちっとする。いい先生かどうかは、成果主義として、評価をすればよろしい。基本的には、学校の教師こそ、最大の給料を払うべきであると私は思います。本当にいい教師の下で、いい子どもは育つだろうと思います。
スウェーデンのストックホルムの町々に、ドロシー・ロー・ノルトさんというアメリカの家庭教育家の詩が、ポスターとして掲げられているそうです。私は、大変に感動して読みました。時間の関係で簡単に申し上げますと、「批判ばかりされた子どもは、非難することを覚える。殴られて大きくなった子どもは、力に頼ることを覚える。笑いものにされた子どもは、ものを言わずにいることを覚える。皮肉ばかり言われる子は、鈍い良心のもちぬしとなる。激励を受けた子どもは、自信を覚える。友情を知る子どもは、親切を覚える。かわいがられて、抱きしめられた子どもは、世の中の愛情を感じとることを覚える」、まさに子どもというのは、それほど体験、経験というものに敏感に育っていくんですね。
この詩はスウェーデンの社会科の教科書にも収録されているそうです。この「子どもが育つ魔法の言葉」といわれる詩のように子どもを育てなければいけないと、私も思うのですが、今の日本の家庭はどうでしょうか。せっかく百点を取って、お母さんにほめられたいと思ってうちへ駆け込んできても、お母さんはいない。九十点を取っても、「何よ、九十点なの、どうして百点取れないの」なんて言われれば、その子は非常にがっかりします。「塾へ行って勉強してきなさい」、これはいけませんよね。やっぱり頭をなでて、「よくやったわね」と、ほめることで子どもは伸びていく。
実に平凡なことと思われるかもしれませんが、家庭の教育、あるいは小学校の教育をきちっとすれば、日本の将来も明るいと私は思います。今のように、先生が足りないから誰でもいいから採用するというのは、もってのほかで、こんなことをしていたら、日本は本当にめちゃめちゃになるだろうと、憂うるわけです。
まず教育です。人間の心というものを考えた時に、我々は教育にお金を使い、全力を挙げて教育に向かって声を出すべきじゃないのか。日本の将来は、自分さえよければいいということでは、拓かれない。期待される人間像について申し上げる前に、このことを私は声を大にして言いたいと思います。私よりもずっと高い給料を、先生方に出しなさい。それが本当に、日本の国のためになると思います。
具体的に一体どうすればいいのか、残念ながら妙薬はありません。例えば学士会として提言をするとか、ノーベル賞を受賞された湯川秀樹さんがかつて参加されていた世界連邦の世界平和提言のように、影響力のある人を担ぐ、影響力のある団体で提言をする。難しいかもしれませんが、そういうことをやらない限り、妙薬はありません。そして、諦めずに何回も何回も言い、メディアを巻き込んでいくというようなことをやらない限り、変わらないと思います。
私も、経団連、同友会等を通して、できるだけ発言をしようと思っておりますし、そういう提言を続けない限り、永遠に変わらない。では学士会で「教育はこうすべきだ」と発言するのはどうか、学士会といっても、全員の賛成を得られるわけではありませんから、学士会有志一同となると、とたんに影響力がなくなるかもしれません。團藤理事長をはじめとして、有力な方々のお名前を活用しておやりになるとか、まだまだ方法はあるのではないかと思います。
私は経済同友会の行政改革の委員長をやっておりますので、本当に行政上必要なお役人の給料を民間よりも高くするように提言しようと思っています。行政の最高の給料は最高裁長官だそうです。今、官庁のトップの給料は、民間の、非常に業績のいい会社であれば、部長クラスがもらっています。民間に入って課長クラスになれば、学校の先生よりずっといい給料でしょう。こんなことでいいのか。これでは、優秀な人間はみんな民間へ行きます。給料はなんのそのという、教育への志の高い人もありますけれども、非常に限られていると思います。
期待される人間像
では具体的に、二十一世紀に期待される人間像として、私がどのように考えているかということを、三つほど申し上げます。
一つは、先ほど申し上げましたように、二十一世紀は頭脳競争の時代で、エリートの時代です。いろいろ問題がありますが、グローバリゼーションの波を、今や止めることはできません。この競争に何で勝つか。スピードと決断、頭脳エリートということで勝つ。
先般も、懇意にしているロシアの大財閥のCEOが来日されまして、ある料亭で一緒に食事をいたしました。驚いたことに、私が言うことに対して、即断即決です。その場で「ちょっと待って」と、携帯でモスクワと連絡を取るんですね。ロシア語でしゃべっていますから、私は全然わかりません。それで即断即決してくるんです。これは負けるなと思いました。
日本であれば「じゃあ明日、会社へ行ってよく検討した上で返事をしましょう」と、こうだと思うんです。検討って何か。「おい、これちょっと検討しておけ」と、部下に指示をするだけ。部長は課長に、「おい、検討しておけ」と、検討ばかりで一日、二日たってしまう。これでは勝てません。この日々の積み重ねの差は大きいということです。
私は、権限と責任を明確にして、エリートを作れと申し上げたい。そして彼らに権限と責任を渡す。何でも平等であればいいという時代ではないと思います。
エリートと言いますと、すぐ鼻白む方もおられますが、エリートというものは元々、第一次産業革命のあと、萌芽的に生まれました。一九〇〇年代に大衆社会が広がっていった中で、日本の場合は特に知識人がエリート化した。帝大を出た方はほとんどエリートという時期があったわけですが、これは学歴エリート。教養主義を身につけ、西洋文化に通じていて、外国語ができる。そういうエリートの時代がありました。
これは旧制高校とか、大学がエリート化したわけですが、ヒトラーのファシズムといったものが、エリートというものに対する批判を呼び、やがて大学の進学率が増加し、大学が大衆化することによって、大学のエリート化、あるいは教養主義というものがなくなって、エリートが消滅してきました。しかも、昨今は平等主義が主流になっています。幼稚園の徒競走で、みんなで手をつないでテープを切るというのが、本当にいい教育だと言う人もおりますが、私はこれは嘘だと思う。先ほど申し上げたように、エリートなき国は滅びるし、企業も同様です。新しいエリート教育、新しいエリートの発掘が、私は必要だと思います。
競争社会ではエリートを生みますが、平等社会では落伍者を生むわけです。ニートやフリーターは、競争社会からは生まれない、平等社会から生まれると、私は思います。スポーツも、タイガー・ウッズをはじめとして、水泳の北島康介選手にしても、スケートにしても、やっぱりエリート教育というものが行われていて、エリートでなくしては勝てなくなりつつある。
昔のエリートが、たぶん偉そうにしたからでしょう、エリートというと反発されるかもしれませんが、エリートは決して悪ではない、「選良」なんだと申し上げたいと思います。選ばれた人間は、それなりの責任がある。noblesse obligeであります。企業も、学会も、また官庁も、エリートを育てるべきです。そういう新しいエリートを育てることを、私は提言したい。
新しいエリートは、権力におもねらず、財にへつらわず、絶えず暖かい目で人々を見ていく。そういう人間が本当のエリートというふうにしていかないと、エリートは育たないし、エリートは生まれない。二十一世紀は、そういう新しいエリートの発掘に、力を入れるべきだと思います。
もう一つは、心の問題です。儒教の五常、仁、義、礼、智、信が、根幹にあるべきだと思うのです。治国三要という言葉にもありますように、食糧、武器、信用のなかで、一体最後に残るものは何か。食糧がなくても、武器がなくても、国は滅びないが、信用がなくては国は滅びる。信なくして国立たずであります。人間の信用というものは、企業にとっても、国にとっても重要です。これからの二十一世紀を生きる若い方々は、信用というものは大変重要だということをきちっと心に入れて、自分を磨いていただきたいと思います。
では、どうやって信用を育てることができるか。王陽明ではありませんが、知行合一、言行一致。日々の生活態度しかないと思います。日々の生活で、言行一致であることを見せなければいけない。そうしなければ、誰も信用いたしません
仁、義、礼、智、信にも、信というのがありますように、信用というのは、非常に大事でありまして、新渡戸稲造の『武士道』や内村鑑三の『代表的日本人』の共通項は、礼と智だと思いますが、それ以上に私は、経済でも政治でも欠かせないのが、信用であろうと思っておりまして、こういう教育を、我々はしていく必要があるのではないか。
実は私は、伊藤忠商事で「青山フォーラム」というのをやっておりまして、非常に幅広い分野から選んでエリートの養成を始めております。現在二年目に入りますが、エリートだから、決して偉いということではない、エリートは大変に責任があるんだというようなことを教えています。私はこの「青山フォーラム」で、一流になれ、一流というのはこういうものだと、社員に言っているわけです。
一流になるということ、エリートになるということは、どういうことか。平山郁夫画伯は、絵を描くにも教養というものが大事だ、教養なくしては一流の画家にはなれないんだ、とおっしゃっています。数学者の藤原正彦さんも、『国家の品格』(新潮新書)の中で、一流の数学者も、やはり情緒、心というものが重要であると説いておられる。
人間は仕事と読書と人で磨かれる
私は学生諸君に「君たちせめて、読み書きそろばんだけはやってくれ。あとはいいから」とよく言います。学校がどういう教育をしているのか、私は詳しいことは知りませんが、学校の先生にも、「せめて、読み書きそろばんだけはやってよ」と、お願いしています。
大学の入試も、もっと幅広い、ミニマムの基礎知識を身につけているかどうかを問うべきで、理科系だからといって、文科系の知識はなくても入れるとか、文科系だからといって、数学、物理、化学を一切とらなくても入学ができるというのは、根本的に間違っていると、私は思います。とくに私立大学は、明らかに偏った試験になっている。教養の一つなのだから、文系であろうと、化学の基礎知識、物理の基礎知識くらいは知っておくべくでしょう。
私が二つ目に申し上げたいことは、エリートの養成と同時に、常識と良識を磨いて欲しいということです。常識というのは、ほっておけば自然に身につくわけではないし、絶えず勉強し、リニューアルしないと、常識は維持できないんです。世間一般の常識は猛烈な勢いで進んでいます。官庁の常識が進まないのは、同じコミュニティの中で、同じ人間が何十年も、代々伝えられてきたことを丸呑みして覚えていくというような、純血主義だから、常識が非常識になってくる。世間は、純血ではありません。いろいろなものが混じり合って動いていますから、常識がどんどん変化していく。これをキャッチアップするには、猛烈に、社会の動きを勉強しなきゃいけないということです。常識を維持しなさいということは、猛烈に勉強しなさいということです。良識、コモンセンスを身につけるには、やはり読書以外は難しいと思います。良識というのは、読書で磨かれる。
私は『人は仕事で磨かれる』(文藝春秋社刊)という本を書きました。これは三部作でありまして、と言いましても、あと二冊書くということではございませんが、「人は仕事で磨かれる」、「人は読書で磨かれる」、「人は人で磨かれる」、仕事と読書と人、この三つが人間を成長させていく上に、非常に大事なことではないかと思います。肉体を養うのに食べ物が必要ですが、それだけでは人間は十分ではない。魂への栄養、心への栄養がなくてはならないわけですが、魂への栄養をつけるのは、仕事であり、読書であり、人だろうと思います。
「苦しい仕事ほどやりなさい。お金をもらって、自分を磨く。こんないい仕事はないじゃないの」と、私は新入社員に言います。「君たちは赤字の課や、赤字の部に配属されたら喜びなさい。そこで苦しみなさい。会社からお金をもらうんじゃなくて、会社に月謝を払ってもらいたいくらいだ。学校以上の授業を受けられるんだから、君たちが会社に払ったらどうなんだ。我々がなぜ君たちを磨いて、給料を払わなきゃいけないんだ。どうせすぐ辞めるかもしれないのに」と、苦しい仕事に携わるということが、人間をどれだけ磨くかということを、先ほどの「青山フォーラム」でも教えているわけであります。
我々のモンゴル支店長は、日本の大学を出たモンゴル人です。彼に「君のミッションは何だ」と問うと、「私は伊藤忠の利益のために、全力を尽くします」と答えた。「それは間違っている。モンゴル人のために、モンゴルの国のために、君はまずやりなさい。そうすれば必ずうちに利益が戻って来るんだ。そういう気持ちで仕事をしなさい」と言うと、彼は大変感激していました。モンゴルは資源国です。資源を輸出すればするほど、モンゴル人のためになり、それがまた伊藤忠の利益になるんだと、非常にわかりやすい例です。
我々は中国でも三十年近く仕事をしております。最初の十年くらいは、大変苦戦いたしましたが、今二百十社くらいに投資をして、連結ベースで言いますと、九割が黒字です。中国というのは巨大な市場である。中国が必要としているのは、日本の技術、日本のマネージメントの力、いろんなことがあるわけで、彼らも日本と仲良くしたいと思っているし、日本も隣国・中国と仲良くして、お互いに経済を発展させていくということが大事だと思っています。
むすび
結論を申し上げます。新しいエリートの復興、それと人間の魂、心と品格の教育。三つ目は「信」という儒教の心、良識と常識というものが、これからの人々に期待することではないかと思います。
この二十一世紀は、高度の技術社会に入るし、機械と心ということから言っても、ますます高い心というものが必要になるだろう。継承可能な技術と、継承不可能な心のギャップ、乖離が、ますます二十一世紀は広がるということであります。二十一世紀を生き抜くためには、やはり過去の歴史を生き抜いた賢人の知恵を学び取る必要があるだろうと思います。あらゆる分野で、日本は曲がり角にきているわけでありまして、日本人が二十一世紀を生き抜くためには、未来を意識する価値観と高い倫理感が必要ではないかと思います。ちょうど時間が参りました。どうもありがとうございました。
(伊藤忠商事会長・名大・法・昭37)
(本稿は平成18年1月10日夕食会における講演の要旨であります)