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邪馬台国所在論争は決着がつくか?
松木 武彦
(岡山大学大学院社会文化科学研究科教授)

No.902(平成25年9月)号

日本の歴史にかかわるさまざまな論争の中で、江戸時代以来というもっとも長い歩みがあり、現在でも一般市民も含めてもっとも広がりをもち、報道や出版物を通じて世間の耳目をもっとも強く引き付けているのが、邪馬台国の所在をめぐる問題であろう。

 

邪馬台国とは、紀元後三世紀の前半、日本列島およびその周辺のどこかにあった可能性がきわめて高い国の名である。当時の日本列島と周辺のうちの特定の部分が、中国の人びとから倭ないし倭国とよばれていたとみられるが、その女王である卑弥呼が都にしていたところが邪馬台国であると、中国の歴史書「魏志倭人伝」(正式には『三国志』のうちの魏書・烏丸鮮卑東夷伝・倭人条)には書かれている。「邪馬台国の女王・卑弥呼」などとよくいわれるが、それは厳密には誤った表現で、卑弥呼は邪馬台国の女王ではなく倭の女王。そして、彼女が都とした倭の「首都」が邪馬台国であった。天皇が東京の君主でなく日本の君主であるのと同じ道理である。

倭には、都の邪馬台国以外にも多数の国があったようで、「魏志倭人伝」には、それらの国の名が他にもたくさん記されている。中には、今日なおその名を負う「対馬国」のごとき場所もあるが、多くは位置同定がむずかしい。邪馬台国も然りである。

邪馬台国は倭の都だったのであるから、倭のどこかに位置していたことは疑いない。それゆえ、邪馬台国の所在を知るためには、まずは「魏志倭人伝」にいう倭がどこであったかを明らかにしなければならない。具体的にいえば、「魏志倭人伝」の著者が代表した当時の中国人が、東西南北に長く広大な日本列島とその周辺のどの範囲を倭と認識していたか、という問題である。先述の「対馬国」が今日の対馬であることはまず間違いなく、それに続いて記されている「一支」「末廬」「伊都」「奴」の四ヶ国も、それぞれ今日の長崎県壱岐、佐賀県松浦地方(唐津市周辺)、福岡県糸島地方(糸島市周辺)、福岡市周辺であることがほぼ確実である。この点から、九州北部とその北側の島々は倭に含まれていた可能性が高い。

邪馬台国の所在問題にとって重要なのは、北部九州一帯が倭の一部であるとして、はたしてそこからどこまでの範囲が倭と認識されていたかという問題である。なぜならば、よく知られているように、邪馬台国の所在候補地としては九州内と近畿とが有力で、倭の範囲が九州付近に限られたものであれば、都である邪馬台国も九州内にとどまることになるのに対し、邪馬台国近畿説ではさらに東方まで倭の範囲は広がっていたと考えざるをえないからである。

「魏志倭人伝」の段階で倭と認識された範囲はどこまでであろうか。そこには、当時の中国人の考え方に則り、周辺地域の民族的な人間集団ないしその居住地として把握された倭人ないし倭の名称に寄せて、所在ならびに地理、生活や習俗、歴史およびその政治的状況が記されている。所在と地理については、「倭人は帯方の東南大海之中に在り」「其の道里を計るに、当に会稽東冶の東に在るべし」とあり、帯方は朝鮮半島のソウル周辺、会稽は長江下流の浙江省から江蘇省の一帯、東冶は福建省付近とみられることから、倭は朝鮮半島の東南から南方に伸びた島嶼と認識されていたと考えてよい。

もちろん、こうした認識は地理的事実と合致しないが、一五世紀初頭の朝鮮で作製された世界地図『混一疆理歴代国都之図』に日本列島がこの認識どおりの位置関係で表現されている事実からも、過去の大陸人が長く伝統的にそう信じていた蓋然性は高い。つまり、日本列島は、朝鮮半島の東南海上から、現実には東方に連なるにもかかわらず、観念上は南方に伸びていると考えられていたのである。

邪馬台国の所在は、九州北部に位置することが確実な諸国から「南」へ「水行」「陸行」を重ねた遠方にあったと「魏志倭人伝」には記されているが、この「南」も上記の認識に則った方角の記載であったとすれば、実際には「東」であった可能性が浮上する。興味深いことに、唐津市周辺の末廬国から糸島市周辺の伊都国への方角は「東南」と記されているけれども実際には東北、伊都国から福岡市付近の奴国へも記載は「東南」であるのに反して実際は東北に近い。つまり、「魏志倭人伝」の旅程記載は、事実として末廬国以降、時計回りに実際より約九〇度変針した方角を記しており、この変針が以後の記事にも適用されているとするなら、九州北部から東に遠く離れた位置に邪馬台国があったとする近畿説にはすこぶる有利に働く。

 

では、近畿のような僻遠の地方までが、はたして中国人に倭の範囲とみられていたのであろうか。たしかに、倭に関する最初の確かな記述のある『漢書』地理志が描いた紀元前一世紀、すなわち弥生時代中期後半の段階では、九州北部と、それよりも東の中四国、近畿、中部、関東などの地域とのあいだに、文化や習俗のきわめて大きい落差がみられた。すでに金属器を駆使し、文様がなく合理的で洗練された容器(土器)をもち、中国の文物で身を飾った王が君臨する九州北部を倭ないし倭人の社会ととらえるなら、石器を用い、土器は込み入った文様をまとう縄文さながらの原始土器で、古い共同体の原理を残して社会的階層の発達も少し遅れた東方は、考古学的にみて、九州北部の倭や倭人とは別の民族社会とみなされていた可能性が高い。民族のアイデンティティをもっとも鮮やかに表わす墓制もまた、土器棺への屈葬(身体を折り曲げる埋葬)を特徴とする九州北部と、土壙(素掘りの墓穴)や木棺に伸展葬(身体を伸ばして横たえる埋葬)を行う東方との間には大きな断絶があった。

しかし、それから二〇〇年以上を経た「魏志倭人伝」の紀元後三世紀には、中四国や近畿をはじめとする東の地方にも金属器は完全に普及し、土器も複雑な文様を廃して洗練され、木棺や簡単な石棺に伸展葬をするという埋葬の習俗もまた九州から関東まで広く共有されるようになっていた。この範囲の全体が倭や倭人という一つの民族社会とみなされていたとしても、考古学的には疑問はない。また、東方の社会でも社会的階層が発展し、それらの上位に立った者の多くは円形や方形の墳丘の一方に突出部をもった墳丘墓(纏向[まきむく]型前方後円墳およびそれに準じる前方後方墳)に葬られるという墓制もまた、九州から関東まで広く普及した。このことは、各地の支配層が墓制を共有することで連帯性をみせるという政治的なまとまりが、九州から関東まで広域化した倭の社会の上に形成されつつあった状況を示す。この状況は、当時の倭が邪馬台国を盟主とする多数の国々の連合であったとする「魏志倭人伝」の記述とも整合的である。

これらの国々の一部は、考古学的にも存在が明らかにされつつある。一支国とみられる壱岐の原ノ辻遺跡、伊都国の可能性が高い糸島市の三雲遺跡群、奴国の中心と考えられる福岡市の比恵・那珂遺跡群のほか、投馬国の説がある吉備の中心をなした岡山市の足守川下流遺跡群、特定の国名との対応関係は不明であるが讃岐平野随一の規模を誇る香川県善通寺市の旧練兵場遺跡などが、実例としてあげられよう。そして、邪馬台国が近畿にあったとするなら、奈良県桜井市の纏向遺跡群がその最有力の候補となることは間違いない。

これらの遺跡は、人口の集中を示すたくさんの住居址や、他国との通交や交易の証拠である他地域産土器の多量出土などによって地域の経済的な核であったことをうかがわせるだけでなく、遺跡内や近傍に纏向型前方後円墳やそれに準じる前方後方墳をもち、政治的な拠点でもあったことを示唆する場合が少なくない。これら、国々の遺跡の中でも、三世紀の段階において広がりと内容で傑出するのは纏向遺跡群であり、近傍に何基もの大規模な纏向型前方後円墳が築かれている点から、当時の日本列島においては比肩するもののない経済的・政治的な中心性を保っていたと考えられる。

邪馬台国の所在問題に引き付けるなら、規模、出土遺物、および墳墓の点で、奴国の比恵・那珂遺跡群や伊都国の三雲遺跡群を凌ぐような遺跡、すなわち倭の都である邪馬台国に比定できそうな大集落やその群が九州内でなかなか発見されないことは、九州説にとって不利としかいいようがない。邪馬台国と結び付けて喧伝されることの多い佐賀県吉野ヶ里町・神埼市の吉野ヶ里遺跡は、三世紀にはすでに衰え、大きな集落ではなくなっている。

 

近年の考古学の知見は、いま述べてきたように、邪馬台国近畿説の確定に向けて一手一手と駒を詰めているかの感がある。ただ、将棋と違って完全に詰め切ることは決してできまい。なぜなら、邪馬台国は、根本的には文字資料に基づく文献史学の問題であり、物言わぬ土中の非文字資料を扱う考古学では、最終的には決着できないからである。纏向遺跡群の傍らに三世紀中頃に築造された巨大前方後円墳の箸墓を女王卑弥呼の奥津城とみる考古学者も多いが、墓誌銘をもたぬ日本列島の古墳で被葬者の個人名が完全に判明することはない。邪馬台国所在論争は、勝負がつきそうに見えて永久に詰まることのない将棋の攻めと守りを繰り返すように、いつまでも続いていくのであろう。

(岡山大学大学院社会文化科学研究科教授・阪大・文博・文・昭59)