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学士会アーカイブス (今月)

今後の日本外交 ―アメリカ・中国とどう向き合うべきか― 五百旗頭 真No.917(平成28年3月)

今後の日本外交―アメリカ・中国とどう向き合うべきか―
五百旗頭 真
(公立大学法人熊本県立大学理事長)

No.917(平成28年3月)号

要旨

二十世紀、日本が未曽有の敗戦を喫した背景には、両側の大国、米中両国と良好な関係を築くのに失敗したことがある。日本は二十一世紀の安全な航海のために、アメリカとは日米同盟を堅持し、中国とは日中協商を築くことが重要である。

第一章 日本の外交政策

①己を知らず、世界を知らなかった戦前の日本

日本は二十世紀に、大きな敗戦を経験しました。それまでの日本は、国外での戦闘で敗北を喫したこと(例・白村江の戦い)はありましたが、自国の領土が空襲によって何度も焼かれ、三百十万人もの犠牲者を出し、敗戦と占領に追い込まれたのは初めてでした。

しかし、敗色濃厚になっても、昭和二十年八月初旬の段階でポツダム宣言を受諾するのは非常に困難でした。陸軍が最後までこだわった本土決戦は、一度は天皇の裁可を得た国是だったので、二度の原爆投下とソ連参戦を経ても簡単には覆せなかったのです。

特に、閣議決定は今も昔も全会一致を基本としている上、戦前の首相は閣僚罷免権を持たなかったので、陸軍大臣が反対すればポツダム宣言を受諾できませんでした。それどころか、閣内不一致で内閣が総辞職する可能性さえありました1)。結局、最後は最高戦争指導会議(御前会議)における昭和天皇の聖断により、ポツダム宣言受諾が決定しました。それでも終戦前夜、玉音放送を録音した放送盤を陸軍強硬派が奪い取ろうとするクーデターが起きました2)

私は、この未曾有の敗戦の背景には、米中両大国との関係を見誤ったことがあると考えています。戦前の中国は分裂状態で弱かったため、アジアで唯一、近代的軍隊を持った日本は、アジアとの戦いには必ず勝つ状況でした。そのため中国を見下すようになり、関係を誤りました。一方、アメリカは十九世紀末から力を伸ばし、巨大な存在になっていましたが、日露戦争後の日米は協調と対抗の入り混じった関係となり、一九三〇年代には破局への道にはまりました。

「世界を知らない」とは、「己を知らない」と表裏一体です。戦前の日本は自他を冷静に判断できなくなり、世界情勢を見誤り、自分を見失ったのです。

②戦前も戦後も憲法改正をタブー視する日本

大日本帝国憲法は天皇大権が主軸のようですが、実際には第五十五条の「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼[ほひつ]シ」により、内閣総理大臣ではなく、国務各大臣が実権を握る分立的な制度でした。さらに第十一条の「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」により、政治が軍部をコントロールできない制度でした。こうした欠陥があったにもかかわらず、明治憲法は明治天皇から臣民に与えられた「不磨の大典」だったため、改正は困難でした。中曽根康弘元総理がかつて、「大正デモクラシーの時代に明治憲法を改正できていたら、日本は滅びずに済んだ」と話していたことを思い出します。

日本国憲法もまた、「不磨の大典」です。平和と民主主義という普遍的価値を体現した素晴らしい憲法であるため、変えてはいけないのです。アメリカでは国際情勢や社会意識の変化に合わせて、過去二十八回も憲法を改正しましたが、日本では戦前はもちろん、戦後七十年、一字一句たりとも変えていません。こんな国は世界中で日本だけです。

私は憲法改正のできない日本の実状を危惧します。イギリスの政治思想家エドマンド・バークが著書『フランス革命の省察』の中で述べた言葉を知れば、理由が分かるでしょう。彼はフランス革命当時、人々が自由・平等・博愛を掲げる革命を称賛する中にあって、革命的変動を次のような趣旨から否定した人物です。

――伝統的なイギリスでは、フランス革命のようなことを起こす必然性が全くない。イギリスは制度や憲法に時代遅れや不合理があれば日々改革する。従って、ある日突然大革命を起こし、その反動で反革命を起こすというような振幅はない。日々改良するからこそ、伝統的な良さも残せるのだ。

③「日米同盟+日中協商」を外交指針にせよ

前述の通り、私は二十世紀の敗戦の要因を、「米中両大国との関係を誤ったため」と考え、「日米同盟と日中協商を、二十一世紀の日本の外交指針にせよ」を持論にしています。

戦後、吉田茂は、日本の防衛は日米安保条約を通じてアメリカに依存すればよい。日本は限定的な自衛力を持つだけでよいという決断をしました。その状態は今も続いています。その後、対米依存を好まない鳩山一郎がアメリカとの対等化と日本の自立を狙い、改憲と再軍備を主張しましたが、国民に不評で諦めました。その孫である鳩山由紀夫元首相は、現実的な代案を全く持たないまま、ただ漠然と対米対等化と東アジア共同体を夢に描き、徒に沖縄基地問題を混乱させました。

中国も北朝鮮も核ミサイルを保有しています。他方、日本は日米同盟に多くを委ね、独力で自国を防衛する軍事力を持とうとしません。そうである以上、この同盟を失えば、民主党政権末期のように、ロシアや韓国や中国が係争領土に対して一方的な行動を取るでしょう。中国とも普通の関係を維持することが重要です。

第二章 アメリカの外交政策

日本人は、「我々は特殊。外国人には分からない」ユニークな存在と思っています。イスラエル人も、「我々はユダヤ教の神ヤハウェから選ばれた唯一の民族。特別な使命がある」と思っています。アメリカ人もまた、「我々は例外的な国」と思っています。これを「エクセプショナリズム(例外主義)」と言います。

アメリカ人は、「我々には世界を文明化する使命がある。特にアジアの新興国に民主主義という人類普遍の価値を植え付ける使命がある」と信じてきました。これを「マニフェスト・デスティニー(明白なる使命)」と言います。この言葉が最初に登場したのは、彼らがインディアンを駆逐し、アメリカ大陸を征服した時でした。

大国はどこも例外主義を振りかざしますが、アメリカはそれでも自分の定めたルールには概して従います。中国のように、「ルールはあるけれど、自分はそのルールの上にある。自分はあくまで例外だ」という超法規的態度は取りません。では、例外主義を好むアメリカの外交政策を見ましょう。

「国家とは〝力の体系〟であり、〝利益の体系〟であり、〝価値の体系〟である」と言ったのは高坂正堯京都大学教授ですが、この言葉を念頭に、一九〇〇年前後に活躍した三人の大統領、ルーズベルト、タフト、ウィルソンの外交政策を振り返ります。

①ウィルソン大統領(在位一九一三~二一)の外交~「価値の体系」を体現

ヨーロッパでは十七世紀に三十年戦争(カトリックとプロテスタントの長い宗教戦争)を経験して辛酸を嘗めた結果、異なる宗教やイデオロギーに対する不干渉、世俗国家の主権平等、国家の相互内政不干渉などの原理を確立しました。これを「ウェストファリア体制」と言います。ところが、第一次世界大戦後の世界には、二つの勢力が例外を作りました。

その一つが、共産革命に成功したソ連です。ウェストファリア条約以降、一八一五年のウイーン会議などを通じ、外交官の席次や言葉遣いなどについて、国際儀礼が徐々に確立していきました3)。ところが、共産革命により新しく登場したソ連はヨーロッパの国々の秘密協定を全部暴いた上、街頭で壮漢がののしり合うように、「資本主義の悪魔は地獄に行け」などと罵倒しました。

それを知ったジョセフ・グルー(のちに駐日アメリカ大使4) )などの折り目正しい外交官は、ボルシェビズムの品の悪さを嫌悪するようになりました。他方、アメリカも第一次大戦に参戦する際、ウィルソン大統領は、ウェストファリア以来の伝統(外交政策を調整する際、普遍的価値や宗教的信条よりも、外交的合理性や国益を重視する姿勢)を覆し、「民主主義のための戦い」と宣言しました。以後、アメリカは外交も戦争も、「国益のため」だけではなく、「アメリカの奉ずる民主主義という普遍的価値のため」に行うようになり、国民もそれを熱く支持するようになりました。

これはアメリカの強さであると同時に、危うさです。「絶対」「普遍」などは神の領域に属する価値であり、人が扱うと必ず間違いますし、その間違いを自ら改めることはできないので、悲惨が増幅しかねないからです。

②タフト大統領(在任一九〇九~一三)の外交~「利益の体系」を体現

アメリカは伝統的に、「通商による相互利益は友好と平和のための基盤」と考えています。十九世紀末、ジョン・ヘイは門戸開放を提唱し、アジアでの機会均等を要求しました。タフト大統領のノックス国務長官も、経済的利益を重視したドル外交を展開しました。ただし彼のドル外交は、日露戦争で既に決着のついていた満州の利権分割に後から強引に割り込もうとするものでした。そのため、日露は結託し、第二次日露協約(一九一〇年)を成立させたので、外交政策としては失敗でした5)

アメリカは今でも時々、「利益の体系」を強引に押し出します。余談ですが、アメリカはTPPの交渉に際してかなり強硬でしたが、最終的に合意を実現し、より開放的なシステムを成立させた手腕は、「利益の体系」の標榜者ならでは、と思います。

③ルーズベルト大統領(在位一九〇一~〇九)の外交~「力の体系」を体現

イギリスは過去にナポレオンとヒトラーの攻撃を受けました。欧州大陸を一帝国が征圧すれば、その刃は必ず英国に向う。だから大陸において諸勢力がバランスを保ち、中小国も独立と自由を享受する状況が英国の安全に望ましい。セオドア・ルーズベルト大統領はこのイギリス外交の伝統をアジア外交に適用し、「一国がアジアを排他的に支配することは、アメリカの国益にとって脅威になるから許さない」を基本に据えました。

彼の大統領時代、ロシアはシベリア鉄道を建設し、極東に到達して南下を始め、アジアを排他的に支配することが憂慮されました。これに脅威を感じ対抗しようとした日本を大統領は応援し、勝利させることで、ロシアのアジア支配を食い止めました。一九三〇年代、今度は日本が満州から中国全土へ排他的支配を広げようとしました。日露戦争中、日本の後ろ盾だったアメリカは、第二次大戦期には、日本を打倒することになりました。誰であれ、排他的支配は許されないのです。

このように、アメリカは「力の体系」においては一歩も譲りません。自らの行動を「普遍的価値」で説明するのをアメリカは好みます。普遍的ルールを相手が破ったとして介入するのです。戦後、朝鮮戦争が勃発した時もそうでした。トルーマン大統領は、「第二次世界大戦を防げなかった最大の判断の誤りは、チェンバレン首相の宥和政策6)にある。アメリカも、満州事変を引き起こした日本を直ちに制裁せず、不承認政策(日本が一方的に作った軍事的事実を認めないと宣言)のみに留めたため、事態を悪化させた7)。領土的野心を持つ者は、最初にきちんと止めておかないと、後で代償が高くつく」と過去を反芻し、韓国を侵攻した北朝鮮軍に対して最初から一歩も引きませんでした。

アメリカには「ペンドラム・セオリー」(〝振り子理論〟。ある政権が行き詰まると、対照的政策の政権が成立する)があります。ベトナム戦争後にカーター政権が成立し、イラク・アフガン戦争後にオバマ政権が成立したのがその例です。どちらもアメリカ史上最も柔弱な政権ですが、そのオバマ政権ですら、「中国が南シナ海で一方的に作った軍事的事実を認めない」と宣言しています。かつての日本軍のように中国もこの不承認政策を甘く見て、軍事行動を活発化させていることは危険です。次期アメリカ大統領は対中強硬に振ると予想されます。

第三章 中国の外交政策

①ベトナム侵攻を繰り返してきた中国王朝

中国史を振り返って気づくのは、中国の諸王朝は全盛期になると必ずベトナムを侵略していることです。自立心が強いベトナムは、時に中国に支配されながらも激しく抵抗し、最後は中国軍を叩き出してきました。

多くの場合、「中国軍が何十万もの大軍でベトナム北部に侵攻する→ベトナム軍は食糧を隠して逃げる→中国軍は暑さと食糧不足に苦しむ→国境付近へ引き返した中国軍を、待ち受けていたベトナム軍が叩く」という経過が繰り返されました。中国軍が海軍を使って食糧を補給しようとしたこともありますが、ベトナムは水軍もなかなか強力で、中国軍を手こずらせました。

最初にベトナムを支配したのは漢の武帝でした。彼は朝鮮半島、中央アジアと共にベトナム北部を征圧しました(紀元前一一一年)。中国には「強い王朝と強い皇帝は版図を拡大する」という認識が生まれました。

武帝が始めたベトナム支配は、唐滅亡後の九三八年まで千年間続きました。この年、ベトナムの独立回復を決定づけたのは、有名な白藤[バクダン]河の戦い8)です。

十三世紀後半には元が三度にわたって侵攻しました。特に三度目の侵攻は水軍も含めて五十万人という大規模なものでしたが、白藤河で同じ計略に引っかかって敗走しました。

十五世紀初頭には明の永楽帝が八十万人の大軍をベトナムに送り、十八年間支配しました。明はベトナム南部にまで支配を広げ、明と同じ行政区画による統治を敷きました。しかし、ベトナムは激しい抵抗運動の末に明を追い払い、独立を回復しました。中国の王朝は昔のことをあまり学習しない傾向があります。ベトナム軍は逃げ帰る中国軍を徹底的に叩きのめすのが常でしたが、この時は丁寧に安全に送り帰しています。ベトナムは硬軟両方を使い分けて中国の侵攻と戦ってきたのです。

②周辺に拡大を続ける現代中国

以上の歴史を振り返れば、「中国は国力が漲ると、再び周辺に支配を拡大しようとする」と、容易に想像できます。中国は一九九二年に領海法を制定し、「尖閣諸島、西沙諸島、南沙諸島は中国の領土である」と一方的に宣言しました。他国の実効支配する島にまで自分のものと法律で決めるのは理解しがたいですが、中国は「抵抗が少ない所から順次押さえていく」という長期戦略を抱いているのでしょう。

一九九二年、フィリピン上院はクラーク空軍基地、スービック海軍基地の撤収をアメリカに求める決議をしました。多くの人が「米軍はフィリピンの基地に多額の投資をしているから、撤収はない」と思いましたが、驚くことにアメリカはさっさと撤収しました。スービック基地の跡地は経済特区に指定され、大いに発展しています。素晴らしいことですが、一方で米軍の軍事的プレゼンスの後退は、中国に機会を与えました。

一九九五年、中国はフィリピンが支配していたミスチーフ環礁を奪い、一方的に建築物を建て、フィリピン政府の抗議にも関わらず、実効支配を強めています。フィリピンが領有していたスカロボー環礁、ベトナム領有のファイアリクロス環礁など南沙諸島でも同様の問題を起こしています。かつてベトナムが領有していた西沙諸島については、すでに中国が全島を支配しています(歴史的には強大化した国が代る代る支配したり、共同利用したりしてきた。一国による支配の主張には無理がある)。日本の尖閣諸島についても、中国は一九七一年から領有権を主張し、領海侵犯を繰り返しています。

③侮り難い実力を持つ日本

ただ日本の場合、中国公船が尖閣諸島に近づこうとしても、海上保安庁の巡視船が必ず先回りして待機していることです。

何故、毎回先回りできるのかというと、航空自衛隊がAWACS[エイワックス](空中警戒管制機)などを駆使して東シナ海の海上の動きを常時探知し、公船が尖閣方面へ出航すれば、すぐに海上保安庁の石垣島の拠点に連絡が行き、巡視船が出動しているからです。

高性能の潜水艦を保有していることも、日本の侮り難い点です。日本の潜水艦は世界一静かで、音が出ません。中国の潜水艦は原子力潜水艦なので、スピードや航続距離は凄いですが、相手潜水艦を探知する能力は日本が優れています。

もう一つ、日本が保有するSSM(地対艦ミサイルSurface-to-Ship Missile)も日本の侮り難い点です。このミサイルは陸上では地形に沿う形で飛行し、海上では海面上五mを超低空飛行し、敵艦に近付くと、テレビカメラで確認し、攻撃する能力を持っています。

このミサイルは一九八八年、ソ連軍が北海道に着上陸することに備え、小型船艇に乗り込む前にソ連母艦を撃沈することを目的に開発されました。それが二〇一二年、飛距離とスピードと精密誘導の性能を改良して南西諸島にも配備されています。

日本は他国への攻撃力を全く持ちませんが、他国から侵された場合の拒否力は高レベルで持っています。中国は凄い勢いで軍備を増強していますが、その中国から周辺諸国を見ても日本には侮り難い面があると思います。

終章 中国とアメリカとどう付き合うか

①日米同盟と「地球を俯瞰する外交」の重要性

中国が軍事能力の面で最終的に恐れているのは、アメリカです。日本は確かに侮り難いけれど、日本単独であれば、五十年百年のうちに愚かな首相もまた出現するでしょうし、中国に付け込む隙を与えます。それでも日米同盟が強固で日米が不可分なら、簡単には手出しはできません。離島奪還を想定した日米合同演習などは、中国に対する強力なメッセージです。

多くの国と友好関係を維持することも大変有効です。安倍総理は二〇一二年十二月に総理に就任して以来、三年間で五十五カ国を訪問しました。安倍総理は始終にこにこして貴公子然として振る舞うので、多くの国々の元首と前向きの良好な関係をかなり築けています。

日本の首相が一年毎に交代していた頃、中国や韓国が世界で日本の悪口を言うと、世界はそれを聞き、日本への風当たりは厳しくなりました。しかし、日本に長期政権が成立し、五十五カ国と良好な関係が築けていると、余り中韓の話に乗らなくなりました。日本が良き振舞を続けていれば、悪口の効果は乏しく、逆に中韓が孤立しかねません。

②不安視される中国の将来

日本は中国とは戦略的互恵関係を維持することが大事です。中国は今、経済的にとても大変です。

二〇一五年八月、北京の中国社会科学院で日中の会議がありました。私はその基調講演をすることになり、次のような話をして励ましてきました。

「日本は一九六〇年代に一〇%の高度成長を遂げたが、石油危機によって急転落し、企業は死に物狂いで生き残りを図った。技術革新の結果、一九八〇年代には五%の安定成長を遂げた。公害も克服し、ODAで途上国を助け、世界中から親愛感を持たれるようになった。中国は今、高度成長が終わろうとして苦しいだろうが、日本の場合と同じく、充実した安定成長の時代に入るための生みの苦しみの時期ではないか。がんばってほしい」。

「ドイツはかつてヨーロッパの後進国で、〝オリジナルがない模倣の国〟と馬鹿にされた。アメリカにもそういう時代があった。日本も〝安かろう、悪かろう〟と馬鹿にされた。しかし、これらの国々はいずれもその後先端技術の国として世界を牽引している。中国もそうなるだろう」。

しかしその晩、中国在住の日本人の方々のパーティーで悲観論をたくさん聞きました。「中国は日本のようにはいかない。中国経済を牽引する国営企業の幹部は、コネと金でポストを得、腐敗と堕落の限りを尽くしている。政治のトップと同じだ。日本では幹部が凡庸でも、現場の工場から新しい技術提案が出てくるが、中国では、〝上に政策があれば下に対策あり〟。幹部も現場も自己利益ばかり考えている。中国が先端をリードする可能性はない」。

帰国後、宮本雄二元中国大使にこの話をすると、氏の返答は秀逸でした。「日本にとって脅威なのは、中国人の平均値ではない。代表的な国営企業を見て、それがすべてと思ってはいけない。凄まじい逞しさを発揮する規格外の中国人もいる。そういう例外的な人が一人でも出れば、社会が引っくり返るのが中国だ。駄目な平均値を見て安心してはいけない」。大いに納得しました。

ただし、中国の専門家で中国を冷静かつ温かい目で見ることができる人でも、最近は「このままでは中国の体制はもたない」と言います。半年間中国に滞在し、中国の知識人とも交流した友人が、「このままでは中国はもたない」と多くの中国人が言うとのことでした。一番楽観的な人でも、「この体制はあと二十年はもつ」という予測だったとのことでした。

今後、中国の共産体制が民主化の洗礼を受けることは不可避でしょうが、波瀾があっても再び安定成長を遂げるのではないでしょうか。

一方、アメリカではオバマ大統領が平和主義に振り過ぎたので、次期大統領は中国に厳しくなるでしょう。その時、日本も協力を求められるでしょうが、安保法制が成立したとはいえ、日本にできることは後方支援のみです。

その際に重要なのは、しっかりとした判断力です。ベトナム戦争やイラク戦争の例を挙げるまでもなく、アメリカも時に判断を誤るのですから、「この戦争は日本にとって重大か」とともに、「その戦争は国際的正当性を持つか」について、日本人自ら判断できなければなりません。

こうした国益感覚と国際感覚の両方を持たないと、米中という二つの大国の間で翻弄され、二十世紀の轍を踏むことになるでしょう。今度こそ日本は「日米同盟プラス日中協商」を守り、自らと世界を支えていきたいものです。

  • (注)
  • 1)戦後の閣議決定も全会一致が基本だが、首相は閣僚罷免権を持つので、自分の方針に従わない閣僚を罷免して自分が兼務すれば、内閣の一体性を維持できる。
  • 2)『日本のいちばん長い日』(半藤一利著 文藝春秋)。
  • 3)ハロルド・ニコルソン著『外交』(一九三九)に詳しい。例えば、相手国に警告を与える時も、「このような事態が進むならば、我々は貴国との友好関係について再考せざるを得ないことを危惧する」と回りくどい言い方をするのがマナーである。
  • 4)ジョセフ・グルーは、駐日アメリカ大使(一九三二~四一年)を務めた経験から、大変な親日家で、日米関係が悪化した際も、ルーズベルト大統領に日米開戦回避のために意見具申をした。真珠湾攻撃の翌年、戦時交換船で帰国した後も、アメリカ社会での執筆や講演活動を通じて敵国日本への理解に努めた。一九四四年、国務長官代理になると、ソ連参戦前に原爆投下なしに日本を降伏させることを目指した。ポツダム宣言の起草に際しては、無条件降伏を求めるトルーマン大統領に対し、「国体護持(天皇制維持)」を盛り込むことを進言した。
  • 5)日露は、アメリカの南満州鉄道中立案を拒絶した。
  • 6)一九三八年、ヒトラーが、ドイツ人居住者が多いことを理由に、チェコスロバキアのズデーテン地方の割譲を要求すると、チェンバレン英首相は譲歩した(ミュンヘン会談)。イギリス国民や議会はチェンバレン首相を、「戦争を回避した平和の使徒」と絶賛したが、チャーチル議員は、「野獣に子羊を一匹与えたら永遠に大人しくなるというのは、幻想だ」と断じた。議員達はチャーチルを非難したが、どちらが正しかったかは、歴史が証明している。ミュンヘン会談の半年後の一九三九年三月、ヒトラーはチェコスロバキアを解体、九月にはポーランドに侵攻した。
  • 7)満州事変直後、スティムソン国務長官は強硬な対日経済制裁を主張したが、クエーカー平和主義のフーヴァー大統領は、「経済制裁は戦争へのドアである」と考えて拒否。スティムソンはやむを得ず不承認政策で対応した。日本軍は「アメリカは何もしない」と軽視し、中国大陸での軍事行動を拡大した。アメリカが日本を叩き出すのは十年以上たってからである。
  • 8)ベトナム水軍は白藤河の川底に予め多数の尖らせた木杭を打ち込んでおき、満潮時に小舟で南漢の船団を襲い、敗走するふりをして南漢軍を白藤河へと誘い込んだ。引き潮を合図に反撃に出ると、水位の低下で川底から現われた杭により、南漢水軍は船腹を破られ、行く手を阻まれ、大敗北を喫した。

(公立大学法人熊本県立大学理事長・京大・法修・法・昭42)
(本稿は平成27年10月9日夕食会における講演の要旨であります)