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学士会アーカイブス

大塚史学と現代 関口 尚志No.814(平成9年1月)

大塚史学と現代
関口 尚志
(横浜国立大学教授・東京大学名誉教授)

No.814(平成9年1月)号

去る七月九日(一九九六年)、大塚久雄先生が亡くなられた。この束の間の現世を、「短い旅路」だからこそ力を尽くして走り、召しを待たれた先生ならではの、実に安らかな最期だった。

俗に「大塚史学」と呼ばれる比較経済史学の土台が形成されたのは戦前・戦中の「暗い谷間」であり、戦後も激しい、多くはイデオロギー的な「大塚史学批判」の嵐が吹き荒れた。しかも先生は三十代半ばに左脚を切断、四十代の初めには左肺を切除する大手術に耐えなければならなかった。名著『近代欧州経済史序説』(一九四四年)は戦争末期、病床にあって「何とか書き残しておきたい」と「毎日原稿用紙一枚ずつ」「力を振りしぼって書上げた」と述懐されている。その後も先生は、想像を絶する肉体のハンディを負いながら、強靱な精神力と禁欲的な生活態度で余人の遠く及ばぬ大きな業績を築かれた。

大塚先生はドイツ歴史学派以来マルクス経済学を含めて世界的な通説となっていた古典理論を批判して、西洋市民社会の形成、資本主義成立の基本線(社会的系譜)が、商業の発達一般、とりわけ「前期的資本」の発達にではなく、中小の農民や戦人たちを担い手とする新しい市場経済の発展、そうした「農村工業」を基盤とする「中産的生産者層」の独立自由な発達のうちにこそ求められるべきであるという「小生産者的発展説」を提唱し、その根拠と歴史的意味を、「局地的市場圏」論、比較「国民経済」論、「共同体」論など多面的な角度から次々に解明した。そのさい先生は――一国史的経験の絶対化を防ぐ手段として「比較史」的な観点を決定的に重視するとともに――人間の営みである社会や歴史を捉えるには人間生活の基礎をなす経済やそれにつらなる政治の領域に視野を限るのでは不十分で、人間の社会生活を内面から支える理念・思想・宗教といった文化領域の重みも十分考慮せねばならないこと、だから「経済史研究に際して『経済史的な余りにも経済史的な』立場はこれを超えねばならぬ」ことを早くから強調した。この「人間類型」への関心、マックス・ヴェーバーが提起した「資本主義の『精神』」への比較史的な関心こそ、いわゆる「大塚史学」(比較経済史学)の核心をなす重要な特徴というべきであろう。

このような広がりで社会経済史の研究を進めるには「社会科学の方法」の再検討も必要であった。先生は「社会科学における人間」に焦点を置いて「マルクスとヴェーバー」の問題に取り組み、ヴェーバーによってマルクスを相対化する(そうしたものとしてマルクスを生かす)立場から、この分野でも大きな業績を残された。

これらの研究は『大塚久雄著作集』全十三巻(一九六九~八六年 岩波書店刊)にほぼ集大成されている。一九九二年、先生はこれらの業績によって文化勲章を受章された。

ところで、「追悼よりは大塚史学の現代的意義を」というのが、本誌の編集委員のお一人から私に寄せられた注文である。いくつかの点に絞って考えてみよう。

【一】大塚先生の直接の研究対象は西洋における市民社会の形成、資本主義の発達(とくに封建制から資本主義への移行)の歴史である。そして、この古典的な「近代化」の研究は「明治維新以降のわが国における経済発展(いわゆる日本資本主義)の特質を科学的に理解するために必要な批判的比較の座標を世界史的規模において正確に設定」しようとする「意識的かつ明白」な問題意識に根ざしていた(『西洋経済史講座』「緒言」一九六〇年)。だから「中産的生産者層」というキー概念も、「イギリス経済史を分析するための概念手段」ではあるが、「私が奥深く抱いている問題観からすれば、それはむしろアジア文化、とくに日本文化の自己理解のための概念手段」なのだと説明されている(『歴史と現代』一九七九年)。同様、先生は「前期的資本」「初期独占」「産業資本の社会的系譜」「農村工業と局地的市場圏」「小生産者的発展」「近代化の人間的基礎」「国民経済の精神的基盤」など、いくつもの「新しい概念装置」なり分析の枠組を自前で開発・駆使してパラダイムの転換(問い方そのものの組み替え)を促してきたが、それは日本の「現在」的問題状況との緊張関係を背景に「日本人の目でヨーロッパ〔近代市民社会形成〕史を」凝視することによって、逆に「現代」日本の社会や文化を理解しようとする試みであった。

もちろん、「大塚史学」の土台が形成された戦前・戦中の「暗黒時代」と「戦後民主主義」以降の時期とでは、日本の「現在」は大きく変化し、当然、現実の発展につれ、またそれを先取りして、先生の「現在」的問題関心も新しく広がりまた深められている。だが、明治以降の経済発展の特質(とくに「市民社会」の基盤が脆弱ななかでの高度な「産業社会」化の進展とそれを支える人びとの思考・行動様式)は戦後改革を経た今日でも過去のものではない。現在のなかには過去が「あたかも突きささったとげのように全身にはげしい痛みを走らせる、そのような仕方で……深く入り込んでいる」のであり、この「歴史の楔」(「過去と現代との構造的連関」)を抜きにして「現代」を捉えきれるものではない(「新しい社会と文化」一九七七年)。

戦後まもなく、「社会変革に比べて人間変革が偏頗に軽視されている」ことに警鐘を嗚らした先生は、その後も今日まで、とくに日本経済の根底にある「談合的文化」(「談合社会」「人脈社会」)や「政治寄生的」体質に注意を促し続けてきた。亡くなる二日前の新聞(「読売新聞」七月七日)に掲載され絶筆となった短文では、「南洋の泡沫」(一七二〇年)前夜に書かれた『ロビンソン・クルーソー』漂流記を取り上げ、孤島でのロビンソンが実践した倫理的で勤勉な中小市民層の生活様式こそ「近代の合理的経営の原型」であり、「バブルを追い求めることを拒んだ近代的経営者の魂」がそこにあったと強調されてもいる。先生の最後のメッセージが、倫理を喪失した「現代」日本の企業や資本主義に対し、バブルがはじけた近代初期イギリスの事件をひいて「歴史の教訓」に立ち返ることを求めたものだったことは意義深い。今日、経済社会の現代化・国際化にともない経済摩擦・文化摩擦が顕在化し、企業の「倫理」、国民経済の「質」、市民社会の「ルール」が大きく問われている。「近代の超克」(「新しい共同体〔市民的コミュニティ〕の形成」)を「昔のままの『談合的』共同体の再建」と峻別する大塚先生の立場は、ますます「現代的」意義を加えている(『歴史と現代』、「社会科学の創造」一九八二年、など)。

【二】「小生産者的発展説を支える問題意識は戦後の歴史的現実の巨大な変化によって時代遅れとなり、もはや実践的意味を失ってしまった」というような「超越的な批判」に対して、大塚先生はしばしば南北問題研究にとって経済史学がもつ意義を強調して反批判を展開した。低開発問題は産業社会の発展が世界史的現代に残した最も深刻な歴史の爪痕であり、歴史意識とはなによりもまずこうした「現代」(とりわけその取り残された部分)に突き刺さった「歴史」の痛みへの自覚にほかならない。その場合、低開発問題の核心は、従属学派が鋭く抉り出した「中枢の発展」(資本主義列強による途上国支配)に解消できるものではない。むしろ第三世界の内部から[、、、、]ものをみる視角、つまり発展途上国が阻止的条件として[、、、、、、、、]の帝国主義(あるいはネオ・コロニアリズム)の論理をはねのけて経済的な自立と自前の近代化に向けて歩み始めるべき、そうした「Uターンの論理」こそ低開発経済論の中心に位置すべきものである。そして、この「Uターンの論理」を構築するうえで、西欧近代化の「歴史的経験に学ぶ」という発想が有効なように思われる。

とくに、先進国から巨大プラント、資本、先端技術などを一挙に導入するタイプの開発や援助の試みが破綻して、「内発的発展論」が結局は最も着実で現実的な路線であることが徐々に認識されてきているが、この点、比較経済史が解明した小生産者的発展や農村工業とその市場構造についての研究は、自立と開発に向けての市場形成とその担い手について問題発見的な機能を果たせるのではなかろうか。また、伝統主義を克服するエートスがどのようにして生れるのか、この「精神」を単なる金銭欲と混同したり、労働の倫理を上からの規律の強制と誤解してはいないのか、産業化を急いで近代化を妨げ、前期的資本や政治寄生的政商を鼓舞してはいるまいか、等々、大塚史学が提起した一聯の問題群は、開発理論の構築にも重要な観点や分析の枠組を示している(「予見のための世界史」一九六四年、『著作集』第八巻「後記」、同第十一巻「II 比較経済史と低開発国研究」六九~七三年、「新しい社会と文化」七六年、等)。

【三】近代西欧の経済的合理主義は「形式的合理性にとどまり、その内部に強烈な実質的非合理性を含んでいる」。ヴェーバーはこの二つの合理性の「相剋」の解明こそ経済史学の課題と述べている。大塚先生も、資本主義の発展と管理社会化の進展が経済(およびこれと関連した科学・技術)とその他の文化諸領域や自然とのバランスの喪失をひきおこし、このため「心の貧しさ」(人間疎外の状態)が生じたことを「近代化のアポリア」と捉えている。経済史を「人間の営み」とみる広角的な視座によって、「意味喪失の文化」が「まさしく現代の問題」の核心としてクローズアップされているのである(「生活の貧しさと心の貧しさ」、「経済と文化の不均衡」、「価値観の転換とキリスト者」、「新しい社会と文化」一九六七~七六年。『著作集』第十三巻「I 意味喪失の文化と現代」参照)。

【四】以上三点を織り込んで「現代」を正面から捉えるとなると、「社会科学の方法」も、もう一段、パラダイムの転換、とりわけ「社会科学における人間」についての問い直しが必要となる。大塚先生はとくに七十年代以降、ヨーロッパ先進諸国の諸事実、それも最盛期の経験をもとにした従来の社会科学、当面経済学の諸理論では、自然も文化も異なる低開発諸地域の社会・経済現象を理解できないという認識から、従来の社会科学を超える「一般理論」が必要なことを前面に押し出した。社会科学の理論が「現代」世界の現実を捉える有効なものとなるためには、「非ヨーロッパ的文化圏における国々の人間、その行動様式」や、産業革命(「イギリス的秩序」の形成)以前の欧米諸国の「経済史上の諸事実」を含めて、これまで「経済学の周辺」に追いやられてきた歴史的経験も十分にふまえた理論形成が必要だ、というのである。「一般理論」を必要とするにいたったもう一つの「決定的な原因」は、「精神的貧困」の拡延という現代的な病理である。物質的生活の豊かさ、あるいは経済的貧困の問題に努力を集中してきた経済学の「文化的限界」を自覚して、「経済という文化領域は他の文化諸領域とどのように関連し、広い人間生活のなかでどのような位置を占めているか」という問題について、あらためて考察を深める必要が強調されている。

こうして、大塚先生にとって、「現代」とは、「過去と現在の対話」(とくに「現代」――その取り残された部分――に食い込んだ「歴史」の刺の痛みの意識)を縦軸とし、文化諸領域の「理論的綜合化」(接近方法の非専門化[、、、、])を横軸とした「一般理論」の構築、したがって「社会科学における人間」の重視[、、](モラル・サイエンスとしての経済学の再形成)なしには捉え切れないものだった。それは、経済史研究の「現代的」意義をもっぱら「近代化」研究から「もっと新しい時代」への研究対象の転換(専門領域[、、、、]の「現代化」)に求めようとする立場や、ルーカス流の数理科学への純化(「人間」の排除[、、])に「現代経済学」の極致をみる立場とは異質であり、そこには、よりラジカルな問題状況の認識が存在する。

しかも、先生はこの新しい「一般理論」の形成に「日本人の眼」が大きな貢献を果たせるはずであり、その努力が「日本の社会科学を作り上げていく」と強調する。「高度経済成長」を謳歌しつつ「心の貧しさ」を経験した日本。アジア文化の流れに位置し、西欧文化をも受容し変容した日本人。その立場で文化比較を試みる場合、ただ欧米起源の「方法的枠組をもらってきて、それにアジアの対象的事実をつめこんでお返しする」だけではもの足りない。この枠組では捉えにくい重要な諸事実にも気付くはずだから、われわれも「方法的枠組を作る、あるいは、作りかえるという仕事に参加すべき」ではなかろうか。「談合」や「派閥」「人脈」、「過当競争」と「独占」癖、「身内」と「余所者」、といったことがらを「すべて背後で一つに繋がり合っているような文化事象としてシステマティックにつかみうるような」一般理論を作り上げない限り、経済現象と文化現象(経済摩擦と文化摩擦)を「理論的に接合させ、現実に役立たせる」ことはできるはずもない、というのである。――大塚学説は「日本の現実に立ってつまるところ[、、、、、、]何を意味しているか」といった設問について、「せいぜい〔まだなお〕『現代的意味がある』といったていどの平板でぼやけた認識」(内田義彦)ですますことは、もはやできないのではあるまいか(『社会科学における人間』一九七七年、『歴史と現代』、「アジアから見た文化比較の基準」七九年、「社会科学の創造」八二年、「経済学とその文化的限界」八四年)。

もとより、現代経済社会そのものの具体的な研究は大塚先生の本務外だった。先生は歴史家として、また「社会科学における人間」に関心をもつ研究者として、「歴史としての現代」を捉える観点を浮き彫りにし、現代社会論の展開を課題――GabeではなくAufgabe――として与えて旅立たれた。付言すれば、この「現代」への関心は、すでに述べたことから明らかなように、むしろ「現代(その病理)の超克」を射程におく「超現代」の立場であり、歴史的「現代」に対する「現在」的な批判を意味するものだった。そして、先生の場合、この強烈な「現代」的関心は究極的理念(キリスト教信仰)と社会的現実(人間の悲惨の認識)との激しい緊張の意識に支えられていた。学問の奥にあって学問を超え、学問主体を支える究極の内面的価値について、いまここでは立ち入る余裕がない。ただ、この究極の理念を社会科学の研究へと媒介した契機が「無知もまた罪」とする強烈な責任倫理の立場であったことを、先生の言葉で確認して筆を擱くことにしたい。先生は、現代を捉える視点だけではなく、まさにその昏迷した現代に生きる心構えをもまた遺し、逝かれたのであった。

「もし現代のキリスト者が、ただひたすら『心情』の世界にのみたてこもるのでなく、この現実の世界の文化状況に責任をもち、したがって『無知[、、もまた罪[、、、、]であるとの立場にたつならば」、「究極的な価値への『信念』と同時に、社会科学的『知識』が必要であり、前者と後者は緊密に結合される必要がある」(「プロテスタント倫理の現代文化への貢献と責任」一九五九年)。

(横浜国立大学教授・東京大学名誉教授・東大・経修・経・昭30)