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学士会アーカイブス

最近考えていること 井上  靖 講演特集号(昭和58年・59年)

     
最近考えていること
井上  靖 講演特集号(昭和58年・59年号)

 本日学士会の午餐会でお話させて頂くことになりまして嬉しく思います。
「最近考えていること」という講演の題名をつけておきましたので、最近の自分の仕事について簡単に申し上げてみようかと思います。
 一昨年、私は西行の『山家集』の現代語訳の仕事をいたしました。西行については一応の知識は持っておりましたが、『山家集』を読むのは初めてで、読みまして非常に面白かったことは、歌の作られた年代が何もわかっていないということで、これには本当に驚きました。歌の鑑賞はいい、悪いというだけで、何歳の時の歌だろうかとか、そういう考え方はしなくてもいいものであるかと思います。ただ私の場合、現代語訳にするということになりますと、その歌は大体幾つの時に作られた歌かということがわからないと鑑賞がしにくくなります。それで作歌年代のわかっている歌だけを選びましたが、三十首くらいしかない。多勢の西行研究家の本も読ませて頂きまして、その方々の意見も入れて、まあ間違いないというもの三十篇を加えまして、六十篇を取り上げました。
 西行ほど作品を残して、その実生活を消している文学者はないと思いました。
 西行は若い時に東北旅行をしております。その時にかなり沢山の歌を作っております。それから晩年、六十九歳ぐらいの時、伊勢の草庵を出て東海道を上り、若い時に行った平泉へもう一回行っております。その時も歌を作っておりまして、明らかに東北旅行の歌と思われるものはかなりの数に上っておりますが、若い時のものか、年とってからのものか区別が出来ません。まあ、若い時に違いないと思われるものが七、八首、それから七十近くなってからの歌は二首、あとはいずれの時期か正確には決められません。晩年の東北旅行の時の二首というのは、いずれも西行の絶唱であります。一つは静岡県の堀之内の近くで詠ったもので、
 年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山
 という歌であります。若い時ここを通ったが、しかしその時は年をとってからもう一回ここを越えようとは思わなかったと。――その間には少なくとも四十年の歳月が置かれ、しかもその歳月は源平争覇の時代で、西行の知っている沢山の人も死んでおります。その若い時に越えたところを、たいへんな四十年という歳月を隔てて、もう一度越えたという感慨であります。年たけてまた越ゆべしや――私も外国などへ行きまして荒っぽいところを旅行しますときに、いつも西行のこの歌を思い出し、命なりけり、命あったればこそという、そういう思いを持ちます。もう一つは、
 風になびく富士のけむりは空に消えて行方も知らぬわが思ひかな
 これも絶唱であります。これなども七十歳をこえる、私くらいの年齢になりますと、なかなかいい歌だと思います。歌の心がよくわかります。行方も知らぬわが思いであります。
 西行は二十四歳で出家しております。西行研究家は出家の原因を失恋だとか、あるいは無常観によるものだとか、いろいろな見方をしています。それから妻帯していたか、いなかったかも、わかっておりません。説話では妻帯していて女の子が一人あったとか、あるいはもう一人男の子があったとか、いろいろなことが言われております。が、その説話の出どころというのは第一級の資料ではありません。お話です。西行は出家してから洛北、洛東、洛西と、転々と居を移しています。高野山にも伊勢にもいた時期があります。これはいたということだけはわかっておりますが、いつからいつまで、何年いたかということはわかっておりません。
 作歌年代がはっきりしている歌の一つに鳥羽院崩御の時の歌があります。西行は当時高野山にいましたが、高野山を降りて、そのお葬式に參列しております。その時の歌に、
 今宵こそ思ひ知らるれ浅からぬ君に契りのある身なりけり
 というのがあります。この歌もいい歌だと思います。私なども最近沢山の友人の訃に接しますが、いつもその度に「今宵こそ思ひ知らるれ・・・・・・」という思いを深くします。いい歌で年代もわかっておりますが、この歌にもわからないところがあります。二十四歳で出家した西行が、どうして院と浅からぬ契りがあったでしょう。遠くから若い院のお顔を拝したということがあったかもわからない。たゞそれだけでもお葬式へ駆けつけたのかも知れません。それから有名な
 願はくば花の下にて春死なむ
 というのがありますが、これも若い時の歌か、晩年の歌であるか、よくわかりません。私達は漠然と晩年の歌のように受けとっておりますが、何の実証的根拠もありません。晩年の歌にしても、平泉へ行く前の歌か、後の歌かという問題があります。後の歌としますと、「花の下にて春死なむ」という一つの感慨にはいろいろな解釈ができます。平泉へ行きまして藤原三代の最後の秀衡
に会い、滅亡寸前に迫っている非常にさびしい藤原家の最後を見て京へ帰って参ります。その翌年藤原家は滅びます。もし藤原家へ行った後の歌だとしますと、如月の望月の頃、花の下にて自分は死のうという、そういう歌の心の裏には藤原の滅びというものが入っていると思います。そうなりますとこの歌の解釈は複雑になります。何となく物の哀れを感じさせる歌ではありますが、その歌の心にはその当時の歴史的事件、あるいは個人個人の人生的事件が織物のように織りなされております。
 いずれにしても西行は作品だけを残して実生活をみごとに消している詩人です。自分が消したのではなくて、自然に消えたのですが、その点西行は恵まれております。現代の文学者、芸術家は、作品も残るかもわかりませんが、同時に実生活も消えません。消えないということは非常に困ることで、くだらないことが全部残っちゃうのです。西行はその点非常に恵まれております。
 最近、私は『本覚坊遺文』という小説で、利休を書きました。これは西行の場合と反対でして、実生活が全部残って、作品の方が消えております。私は茶会というもの、利休が主人となってやった茶会というものは利休の作品だと思います。ただ茶会というものは、茶会が終ってお開きになったその瞬間に、今迄利休がつくっていた素晴らしい時間は消えて跡形もなくなってしまいます。茶会の始終を記した茶会記というものはありますが、これは何月何日に茶会が開かれ、どういう道具があり、どういう掛物があったかと、そういうことだけが書かれてあって、そこからその茶会の命というものを取り出すことは出来ません。謂ってみれば脱けがらです。実際に茶室における利休がどれだけ偉かったかは、誰にもわかりません。それから利休の師匠である珠光、紹鴎でも、茶人として利休とどこが違うのかということになると、誰も答えることが出来ません。それぞれ特色を持った偉い茶人には違いありませんが、具体的な資料というものはありません。ですから利休の茶人としての偉さも想像して書く以外仕方ありません。たゞ具体的資料として利休が偉かったであろうと思わせるものに道具があります。茶杓一本でも、利休所持のものを目の前において見ておりますと、なるほど利休はこういうものが好きだったのかなと思います。それから利休が造ったたゞ一つの茶室は山崎の妙喜庵であります。あれは間違いなく利休が造り、その後大きく手が入っておりません。妙喜庵のあの二畳の数寄屋の中に座っておりますと、利休が出て参ります。出てくるということは、利休はこういう茶室に座っていたのかとか、また座りたかったのかと、そういう思いが自然に出て参ります。
 利休の実生活は西行と違ってどこで生まれ、何年にどこで茶会を開き、何年に信長と会い、何年には秀吉と会う、と全部わかっておりますが、作品だけがわからないのであります。
 そういうわけで利休の茶人としての偉さはわからない。わからないと茶人利休は書けません。たゞ側面から偉かったであろうという資料はあります。そういう資料だけを集めて、その資料によって利休の心を追っていく以外仕方がありません。その心を追う資料の一つ、これは未発表の資料ですが、それを作品の中に使いました。それは利休の自筆書状で、その中に「侘數奇常住、茶之湯肝要」という十字の言葉が書かれております。侘數奇というのは茶の心です。茶の心は常住――四六時中放してはいけない。茶之湯肝要――茶を点てることも大切だという意味であります。これはたいへん厳しい言葉でして、茶の心を四六時中、寝ても覚めても放してはいけないということは非常にこわいと思います。小説家の私に当てはめると、作家精神常住ということになります。小説を書くことも肝要ではあるが、書くことは二の次で、作家精神、あるいは写実精神、間違いなく物を見る精神、それは寝ても覚めても放しちゃいけない、こういうことになる。これだけ厳しい言葉はないと思います。これは利休が自分自身に与えた自戒の言葉ではないかと思います。そして『本覚坊遺文』の中に利休の心のよりどころとして、これを使わせて貰っております。
 ご存知のように戦国時代から江戸末期までは、茶室には女の人は入れなかった。男だけの世界でした。ことに戦国時代は利休の茶室へ入っている三分の二の人たちは戦死しております。自分がこれから死んでいく死を納得する場所として、武将たちは茶室というものを、茶というものを使ったと私は思います。そういう解釈で、かなり激しくなりますが、とにかく『本覚坊遺文』という小説を書きました。それから俗に利休についていろいろなことを言われています。
 利休の死の原因は何か、これはたゞひとつもわかっておりません。いろんなことは言われていますが、どれひとつとっても実証的な裏づけはありません。たゞひとつ、いろんな人から質問されたのは、利休は死を賜わる一週間ほど前に遺言を書いているじゃないかと。「人世七十 力圍希咄 吾這寶劒 祖佛共殺」という遺言、人生七十年活殺自在の剣をもって生き通したと。「諸佛共に殺す」――これを非常に俗な開き直った解釈をすれば、祖師も仏陀もあるものかということになり、こんなことは茶人は言いません。けれども自筆書状である以上、利休の晩年の心境はそれからとるべきだという見方を一般にされても当然です。しかし、小説家の私の見方も許して貰えると思います。私は遺書になど人間は本当の心は一切書いていないと言いたいのです。遺書の研究書も出ておりますが、私自身の見方で江戸期の僧侶、武将の遺書を調べますと、素直に本当の自分の心を述べているものは殆どない。オーバーになって開き直り、人生などはくだらないと言ってみたり、非常に感傷的になってみたり、素直に死に臨んだ気持を述べているものは殆どありません。利休の遺書から利休の最後の心境を考えるべきだという見方は当然ありますが、これはなかなか難しい。これは実証的資料なるものを信じないということになりますが、文学者としては、それを許して頂くしかありません。

(日本芸術院会員・作家)
※ 本稿は昭和58年3月22日午餐会における講演の一部であります。