文字サイズ
背景色変更

学士会アーカイブス

日本美術私見 東山 魁夷 講演特集号(昭和58年・59年)

     
日本美術私見

東山魁夷

講演特集号(昭和58年・59年号)

 本日は皆様にお目にかかって親しくお話出来ることを大変嬉しく思っております。「日本美術私見」という題を考えましたが、日本画家としての立場から、ごく私だけの狭い範囲での見解ですけれども、日本美術についての話を少し申し上げたいと思います。

 私は少し風変りな経路をたどって日本画家になりました。実は中学校のとき画家になりたいと思っておりましたが、日本画家になるということは美術学校受験の直前まで夢にも思わなかったのです。私が画家になりたいと思って父に相談しましたら、父はもう少しましな職業につけと真っ向から反対しました。勉強がきらいでもなかったので、高等学校、大学と出て普通の職業にと言われ、私もその父の言葉をもっともだと思う気持もいくらかあったのですが、といいますのは、私が育ちました環境は市井の一隅にありまして、家系の中にも、また周囲にも、画家とか芸術家というような人はおりませんでした。私自身も何となく芸術家は自己本位で、自分の仕事のためには周囲を犠牲にして顧みないというような話を読んだり、芝居で見たりしていましたから、到底自分には不向きではないかと思う気持もありました。しかし、何としても画家になりたい気持が強くなって、まあ、いろんな経路を経て、とにかく美術学校を受けることを渋々父が納得してくれました。担任の英語の先生――その先生はいまもご健在ですけれども、大変父に対して熱心に説得をしてくださった。とにかくそこまではよかったのですが、父は画家とかあるいは日本画のことについて何も知識がないので、やはり非常に不安になって、父の友人で東京に一人、書画などを好んでいる人がおりましたので、その人に「自分の息子が画家になりたいんだが」と手紙を書き相談をしました。するとその人が偶然に日本画を少しばかり集めている人だったものですから、画家にするなら日本画家にしたほうがいいという返事が来ました。それで今度父はその手紙を盾にとって、日本画ならいいと言い出したのです。私の場合、父が学資を出してくれるのですから父の気持も大いに考えなくてはいけない。画家になることを承知してくれたのだから、せめて父に対してだけでも日本画を受けてみようということを承諾したのです。しかし、日本画科を受ける準備を今迄なにもしていないのだからどうせ入れるはずはない、一年間、東京で予備校のようなところへでも通おうと思いました。そのうち父の気持が変って洋画でもいいといい出すかもしれないと思って、とにかく美術学校の日本画を受けてみたところが、思いがけなく合格してしまったのです。卒業してから後で伝え聞いた話ですが、私の恩師になった結城素明先生が当時主任教授でして、その先生が前の年、文部省の依頼で一年間パリのギメー美術館の敦煌の壁画の模写をされた。そして帰って来られて、これからの日本画はデッサン力のある者をとる必要がある。実技は下手でも学校で教えればいいんだからとの発言をされたということで――これは伝説かもしれませんが、何かそういったことで、どうにか入れたのだと思います。美術学校の入学試験には、第一日目は写生の材料として菜の花が出まして、次の日は蛤が出たのです。その蛤が大変いびつな格好をしていますし、形をとるのが難しい。その蛤のほうがいくらかうまく描けたのではないかと思うのです。そしてあとはもう面接だけで、学科の試験は何もありませんでした。どうもそんな具合で全く白紙のままで日本画の世界に紛れ込んだようなものでした。

 私は横浜で生れ、神戸で育ちました。父は船に関する商売――船具商をしておりまして、いつも港から出ていく大きな汽船や、入ってくる船を少年時代に見ておりましたので、西洋に対する漠然としたあこがれを持っておりました。私の中学校からは先輩に小磯良平先生も出ておられまして、私も自然に洋画家を志したわけです。ところが今申し上げましたように美術学校へ入ってからは、私も一所懸命日本画の技術や知識について新しく勉強しました。
当時の美術学校はいまの芸大の前身ですが、大体実技と学科に分かれていまして、その両方を進めていく勉強方法になっておりました。そして日本画の技術には独特のものがあって、油絵とは全然材料も違うし表現方法も違う。簡単にお話しますと、大体日本画の絵具というのは鉱物質の岩絵具、たとえば緑青というのは孔雀石を粉末にしたものです。青いきれいな群青色は藍銅鉱の粉末化されたものですし、水晶を粉にしたり、胡粉という白色は貝殻を焼いて精製したものです。その他いろんな鉱物を粉にしたり、植物から作る場合もありますが、大体材料の絵具は鉱物質が多いのです。ただし現在では化学的に合成した新製品も多く使われております。まず、膠(にかわ)を煮て溶かした溶液でその粉末状の絵具を皿で溶いて、それを水で薄めて塗るのです。いまは絹に描くことは少なくなりましたが昔は大変多く、また紙も使いました。筆の種類も油絵と違っていろいろと形や材料も異なるものがあります。また表現方法も、最初の手ほどきの段階では植物写生から始まりますが、植物を目の前に置いて鉛筆で形をとり、それを削用という線描きの筆で輪郭の線描きをしましてその上に彩色を施す、そういう方法でありました。それから風景、人物というふうに、だんだん技法が進むにつれていろんな方面の題材を選んで練習するようになりました。学科のほうは東西の美術史、美学、色彩学、あるいは遠近法、解剖学、外国語というふうにありました。しかし何といっても実技が中心でありましたが、とにかくこのように日本画の外の世界から入ってきましたが、若い時代というものは何にでも興味を持ちやすい年齢ですから、かえって私にとって日本画が大変珍しくて、むしろ新鮮な未知の世界に飛び込んできたような気がしたのです。そして、日本画とは何だろうかということが常に頭の中にありました。その日本の美を探究する長い旅路が始まって、そして今日まで続いているわけです。私の場合には結局日本画を描きながら、日本画とは何か、あるいは日本の美とは何かを探究しているのですが、いろんな試行錯誤を繰り返しながら自己の道を歩いてきたのです。

 美術学校を卒業する頃から、やはり西洋の美術を見、また西洋の生活を実際に体験することによって、日本の美、日本というものが鮮明な映像となって私の心に映るのではないかと、日本を遠く離れて一度、日本を外から振り返ってみたいという気持を持っておりました。そういう心が強く起るのは、やはりはじめは洋画を志望していた私には、西洋の名作を自分の眼で見たい気持もありましたし、また、持ち前の放浪癖もあったと思うのです。当時の美術学校は五年間が正規の在学年限で、あと研究科は三年間在籍することができたのですが、私は二年おりまして、その二年間にヨーロッパへ行く準備をして、二年を修了するや否やドイツへ向って旅立ったのです。ところが貧乏な学生ですから少しでも倹約しなければなりませんので貨物船で行きました。ご承知のように当時はシベリア鉄道と船の旅との二つでしたが、私は父の商売の関係で小さな汽船会社の本当に小さな貨物船に便乗しました。とにかく出帆するのが神戸や横浜でなくて三池炭鉱からだったのです。そこで石炭をいっぱい積んでまず、満州へ行き、大連で大豆をたくさん積んでハンブルグへ向ったのです。そしてインド洋を渡り地中海を越え、ジブラルタル海峡を廻ってビスケー湾を北上し、英仏海峡を過ぎ北海へ出て、エルベ川をさかのぼり、ハンブルグへ着きますのに二カ月かかりました。今考えますとおかしな話ですが、その間には少しばかりドイツ語の勉強も出来たわけです。

 なぜ私がドイツへ留学したのかとよく聞かれ、今日も聞かれたのですけれども、私の場合日本画を志す人間ですから、向うで日本画の技術を勉強する必要はないので、美術史を勉強したいと思っておりました。

 日本の場合、画家はパリと決まっておりまして、その頃も多数の画家がパリで勉強しておられましたが、私はなるべく静かなところで一人で暮したほうが自分にふさわしい環境ではないかと思ってドイツを選んだわけです。もっともフランス、イタリアの美術は日本に親近感もありますし、また印象派の作品などは常に私達もよく見てもおりましたが、むしろ日本とドイツのほうがより異質な気がしまして、そこから日本を振り返ったときに日本文化というものとの違いがより鮮明にわかるだろうという気もしました。それにドイツの文学とか音楽が若いときから好きであった点も作用していたと思います。

 このような理由から、まずドイツに着きました翌年の一九三四年にイタリア、フランス、イギリス、スイスというふうに、一応ヨーロッパの美術館を廻って再びベルリンに帰ってきました。そして、そのときにドイツの学術交流会という組織が出来まして、その第一回の交換学生として選ばれてベルリン大学で美術史の講義を聞くことが出来るようになりました。そこでドイツのルネサンス、あるいはイタリアの初期ルネサンスからルネサンスへかけての講義を聞いた中に、キュンメル教授という、当時欧州切っての東洋美術通の教授が日本美術について講義をしておられました。その講義を聞きますと、私達の日本美術の見方とは少し違っていまして、西洋の美術の講義の中で日本の美術の講義を聞くということも私には大変興味がありました。また、私にとって初めてのヨーロッパの美術行脚の旅でしたから、全く西洋の美術の迫力ある表現にすっかり圧倒されてしまったのです。ことにイタリアのルネサンスの絵画を見ていますと、もう絶望的な気持になったのです。

 ところがある日のこと、フィレンツェの嘗てのサンマルコ修道院、いまは美術館になっておりますが、そこでフランジェリコ――修道僧であり初期ルネサンスの画家ですが、その人が描いたフレスコの壁画が沢山あります。静かな僧院のたたずまいの中で、それを見ているうちに、それまで興奮状態だった私の気持がだんだん鎮められて来るのを感じました。そしてまた、そこに使われている材料がいわゆる日本画の材料によく似たもので、表現も技法も非常に控え目な淡い調子で描いてありました。こちらの心が画中にすい込まれるようにそこへ入っていく、そういう沈潜した作品に接しまして、私は迫力というものは向こうから打ってくるものだけではないということに気がついたのです。その時に、一々絵を描くたびに膠の溶液で溶いて塗っていく、そういう作業による日本画というものも、この初期ルネサンスの時代を見ればやはり同じような状態の材料と方法で描いていて、このような素晴しい作品が出来る。そういうところに共通点を見出して気持の上での安らぎといいますか、自分のような小さな者でも心を込めて仕事をすればまた、その存在価値を持つことが出来ると感じました。そしてそういう気持でヨーロッパの美術行脚の旅を終えてまたドイツに帰ってきたのです。その後ベルリン大学で講義なども聞くうちに、おぼろげながら私にもだんだん日本の美術、あるいは日本の美の輪郭が浮かんでくるような気がしました。日本の美術もやはり決して単純な要素で成り立っているのではなくて、長い歴史を経て相当複雑な要素を持ち、そして大変珍しい特徴を持っている、そういうことを知ったのです。日本の美術の伝統をだんだんさかのぼって遠い過去へと探究していきますと、その奥には実は日本の外の世界から入ってきている要素の多いことに気がつきました。そしてそれを日本のものとして純化していく作用、それが日本人にとっての珍しい能力の一つであり、また日本の極東の島国という位置が、そういうことを可能にしている点についても考えたわけであります。

 現代の油絵が明治時代に西洋から輸入されたもので、それから江戸時代の文人画――大雅とか蕪村とか玉堂の文人画にさかのぼっていきますと、それは中国――明、清時代の文人画の流れが入っておりますし、江戸、桃山、室町と長く日本の画壇の大きな存在となった狩野派というものを考えますと、それはやはり中国の宋、元の水墨画の流れ、それに桃山時代には日本の大和絵の手法、感覚を加えて、豪華な障壁画が生れました。たとえばその代表者の一人の長谷川等伯の絵を見ますと、京都・智積院の楓の絵では、金箔を置いた画面に絢爛たる岩絵具を厚く塗って描いています。また一方では「松林図屏風」のように、水墨の立派な作品を描いております。それからもっとさかのぼって雪舟などの室町時代から鎌倉時代へかけての水墨画の日本での流行をみますと、これは明らかに中国の宋、元時代の画風を学んでいますし、雪舟の場合は中国へ行ってなお研究しております。雪舟の渡った時代は明時代ですが、雪舟は明時代には自分の先生はいないといって宋、元の画風に傾倒したのです。それを更にさかのぼっていきますと平安時代になります。鎌倉や平安時代に高度な発達をした大和絵というのは、最も日本的な絵画として特色を持っているものですが、この場合もよく見てみますと、起源は中国の唐時代の絵が奈良朝時代に日本へ入ってきて、岩絵具、緑青、群青、あるいは金泥、銀泥、または代赭とか胡粉とか、いわゆる唐時代の彩色画の材料なり技法、表現法が日本へ入ってきて、更に平安時代になって日本人の感覚によって純化されて大和絵になった。大和絵は唐絵に対して大和絵といわれておりますが、それもさかのぼっていくと中国のほうからの影響が考えられます。更に奈良朝時代までさかのぼりますと、今度は先史時代へかけてまで当時の先進国であった中国人も多く来日しましたし、また隋、唐の文化が入って飛鳥、奈良時代の素晴しい仏教美術が生れ、現代にまでそれらの傑作が残っていることはどなたもご承知の通りであります。

 そのように考えますと、一体日本の美術は中国や西洋の模倣なのかという疑問が出て来ますが、私はそうではないと思うのです。そこにいつの時代にも日本の場合、中国にも西洋にもない日本の美が厳然として所在するように私には思えるのです。こんなことを漠然と考えて若かった私は西洋の留学を終えて日本へ帰って参りました。

 丁度その時分、日本は戦争へ向って加速度的に突進していく時期でありまして、狭い意味での日本中心の考え方でなければ通用しないということが画壇でも行われておりましたし、私もまた、なかなか世の中に認められる機会もないままに戦争になってしまいました。私も遂に召集を受けたのですが、間もなく戦争が終りましたのですぐ帰ることが出来ました。この戦争で私の人生も終ったかと思っていたのですが、幸、また画家としての第一歩を歩き続けることになったのです。

 そこで戦後になりあたりを見回しますと、今度はすべて西洋一辺倒で、マチス、ピカソをはじめ、もっと前衛的な絵画の風潮がどんどん日本へ入って参りました。そしてその頃、日本画は滅びるのではないかとさえ言われました。私はここに至ってはじめて、それまでよりも強い心で日本画に対する愛着を感じてきました。今迄ずいぶん道草をしておりましたが今度は本当に心も定まって日本人でなければ描けない画を描こうと自分でも心の中に意識し、また、日本画とは何ぞやということについて、だんだん考えが私の中に熟してきたのを感じました。

 日本は概して温和な気候と風土を持つ極東の島国であり、六世紀に統一国家が成立して以来、いわゆる民族的な成り立ちは大変単純といえますし、また、国中の大きな都市が破壊されるような外国との大戦争も、第二次大戦まではなかったわけで、風土の特色が自然と人間を親しく結びつける環境にあったということも大きな意味があると思うのです。その日本美の特色は、四季を通じて自然の微妙な変化を心濃やかに観察をして、そこに自分の心情を託すという、万葉の昔から日本人の心に宿っている一つの美の形がありますね。そして対象を知的に分析するというよりも、対象と自己との心のつながりを大切にする、そういう点が日本の美術の特徴でもあります。

 私がドイツに留学中のある大みそかの夜、友達が集まってジルベスターという年越しの夜に「鉛流し」という遊びをいたしました。それは銀紙に包まれた小さな鉛のかたまりですが、それをスプーンの上で火に溶かします。コップに水を入れてそこの中に溶けた鉛を注ぎ込むのです。そうすると、それがいろんな形に固まる。それを一番年長の人が手にとって占うわけです。一九三四年のジルベスターの時に、私の流した鉛がクシャクシャの得体の知れない形になったのをそこの老婦人が手の上にのせて見ながら、「あなた、これは日本の風景です。これは木々の茂る緑の島です。あなたは日本に帰って風景画家になるでしょう」と言ったのです。勿論これは私が画家となることを前から聞かされていてそれに合わせて言っているに違いないのですが、その頃は、まだ私自身風景画家になるということははっきりしていなかったのです。それで二年の留学を終えて帰って来ました時、船が瀬戸内海に入ってきましたら、本当にこれが木々の茂る緑の島だ、と思いました。緑の島というのは一つのるつぼだと私は思うのです。そしてその日本のるつぼの中へ外国の美術が流入して来ますと、その緑の島の風土というもの――緑の島のるつぼに長い間住んでいる民族には外来の文化をそこから外へ持ち出して伝える道がないのですから、自己の気持に順応するようにそれをじっくりと醸成させていくのではないかと思うのです。それともう一つ、国土の自然との関連性の中に遠い昔からの文学もありますし、また美術も独自の発展を遂げているものですから、そういうところに日本の美の世界が確かにあるような気もいたします。また、各時代を通じて外国からの影響を刺激として自国の美術の老衰化を防ぎ、そして活力の更新を図ってきたような経路を、日本の美術史は各時代を通じて物語っているような気がするのです。

 たとえば平安時代の大和絵に表れていますのは、これは宮廷、公卿の文化でもありましたが、だんだんその勢力が衰えて武家に変る。鎌倉、室町時代になりますと、今度は禅宗の影響による水墨画、精神性の強い画風が中国から入ってきている。それから武家の時代が終って今度は町衆といいますか江戸時代になると、浮世絵という、これこそ本当に日本人の庶民生活をよく表している作品が生れてくる。あるいは、文人画の世界もこれはいわゆる民衆の中の芸術でもあります。こうして次々と変化して、また江戸時代が末期状態になってくると、明治時代に西欧の波が押し寄せて近代化が大きな力で起る。こういうことは日本の文化一般についても言えると思うのですけれども、久しい昔から外国の文化に対して親愛と尊敬を持ちやすい民族だと思うのです。それでいて、一方では日本古来の特質を持続しようとする気持も強い。そしてそれを消化吸収し日本民族独自のものを生み出す努力をしてきたのです。また、外国文化の吸収にも日本民族独自の選択眼がありますから、島国の非常に繊細な感覚性で西洋や中国の大陸的な、重厚な文化を受け入れる。そしてそれを精神の支えの一部とするという作用を日本の美術は繰り返し行ってきたようにも思います。

 そうしますと私の目には、悠久の太古から流れている一つの川が想像されてくるのです。その川は縄文時代から流れていますし、いわゆる弥生時代には大陸から大きな文化が入って来て、それから以後は、いろんな支流が外国から日本川の中に流れ込んで来ている。しかし、日本川は今日も日本川として流れているわけですから、そこに日本美術の珍しい特色があるような気がするのです。そしていま申し上げましたように、外国の影響を大変色濃く受けながら外国にもないものが創り出されている。こういう点は珍しい国民性だと思うのです。そしていつの時代にも厳然と日本美術の特質を発揮した作品を遺している。私達は今日まで、このような素晴しい遺産を自分達の胸にしまい込んでいるわけであります。

 この日本の美術の在り方を考えてみますと、決してこれは一つの孤立したものではなくて、やはり世界の美術につながっているものだと思うのです。明治時代に岡倉天心が「アジアは一つだ」という名言を吐かれましたが、今日では世界は一つかもしれません。人間同士という連帯の中で生活する時代になってきていると思います。そうしますと、日本の美術の存在も、これからはもっと外へ向かって理解される機会を持つのが大切なことだと思わずにはいられません。また、これから先、日本画がいろいろに変化していくことは間違いない。今迄も変化してきましたが、変化しながら発達するか、あるいはまた衰滅するか、とにかく将来、日本川の流れというものが尽きない限り続いていくものと信じております。

 甚だ楽観的なお話をしていますが、私、日本画を描く一人としまして、実際には決して容易なことではないと考えております。そして、これからも出来る限り一所懸命仕事をしていきたいと願っております。

今日はとりとめないような話になりましたが、ご清聴いただきまして大変嬉しく存じます。ありがとうございました。

(日本芸術院会員・画家)
※本稿は昭和58年4月20日午餐会における講演の一部であります。