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学士会アーカイブス

~随想~ 文学研究が分かっていなかった漱石くん 亀井 俊介 No.953(令和4年3月)

~随想~ 文学研究が分かっていなかった漱石くん
亀井 俊介
(東京大学名誉教授)

No.953(令和4年3月)号

年を取ると情けない思いをすることが多くなります。杖を頼ってのよぼよぼ歩き、すさまじいばかりの物忘れ、などなど、切りがありません。が、年取って獲得する[わざ]もあるようです。自分より若い人を、心中ひそかに、若僧! と見下す術です。相手の方が自分より優位にある時ほど、その若さを経験の乏しさ、思慮の未熟さにして、憐れんでやる。自分の情けなさを裏返そうとしてのことかもしれませんが、年の功! と本人は思っています。

十年ほど前、私は『英文学者 夏目漱石』(松柏社、二〇一一年)という本を出しました。漱石は作家になる前、東京帝国大学文科大学英文科の講師をしていました。当時の日本における英文学研究の先頭を行く人で、東大英文科で教えた最初の日本人でもあります。私は東大英文科で、二年間学び、大学院は比較文学専攻に移りましたが、教員になってから英文科大学院に二十年ほど出講しました。従って漱石は文学研究者として私の大先輩ということになります。それで、この人は学者としてどういうことをなしたか、論じてみたのです。当然、相手の方が優位にあり、私は敬意をもって本を書きました。が、これを書いた時の私はせいぜい喜寿(七十七歳)くらいでした。今は卒寿(九十歳)です。漱石先生だったのが、今は若い若い漱石くんに見えるのです。その違いを、ここに書いてみたい。

明治三十三年、熊本の第五高等学校教授だった夏目漱石は、文部省派遣により二年間の英国留学をすることになりました。もちろん、ビッグ・チャンスです。彼はそれまでにいくつかの論文を書いていましたが、いわば才気にまかせて英米文学のいろんな局面を要領よく紹介したまでのもので、真っ当な「文学研究」と言うだけの自信がなかった。留学命令に研究テーマは「英語」とあって、「英文学」となっていないことを不満とし、彼がわざわざ文部省を訪れ、「英文学」研究を認めさせたことは有名な話ですが、それほどに彼は「文学研究」に真剣だったのです。

漱石の英国留学については研究が進んでいて、なにしろ後の大作家の体験ですから、「アイデンティティ確立のための二年間」とか、いろいろと立派な解釈がなされています。私も賛成するところは多いです。が、老齢に達した者の目で見ますと、秀才を自負していた漱石もこの時まだ三十三歳の若僧で、真剣になればなるほど、どうやって「文学研究」をしたらよいか分からず、ひとりテンテコマイしていたのではないか。そういう姿がはっきり見えるのです。

ロンドン大学へ行って英文学教授W・P・ケアの講義を聴いたが、なにしろ中世文学専門家の話だからよく分からぬ。ではと、シェイクスピア学者W・J・クレイグの私宅へ通って個人指導を受けたけれども、こんなことは長続きする筈がありません。で、この際、下宿にこもって英文学作品を一冊でも多く読むことを思い立ちます。が、一年ほどたってふり返って見ると、読んだ本は余りにも少ない。あれやこれややった末に、彼は「もっと組織立った」「科学的」な研究を思いつきます。文学書はしまい込んで、社会学と心理学の本を猛勉強するのです。社会的また心理的に、文学は如何に「生れ、発達し、頽廃するか」を究(きわ)めようとしたと言います(「『文学論』の序」)。

このことについて、彼は「文学書を読んで文学の如何なるものなるかを知らんとするは血を以て血を洗ふが如き手段たるを信じた」からだと言っています。一見尤もらしい理屈ですが、よく読めばこの文章の前半と後半に何のつながりもない。若僧の強引な言い草にすぎません。近頃の文学研究者が、研究に行きづまると批評理論とやらにとびついて、文学書を読まずに文学を一挙に裁断していい気になるのとまったく同じ水準です。

留学二年目はこんなことで、膨大なノートを取って帰国します。そしたら東大の講師になったものだから、とにもかくにもそのノートを頼りに『文学論』の講義をするのです。が、前任者のラフカディオ・ハーンは英文学の醍醐味を作品に即して懇切丁寧に語っていたのに、こちらは「文学」がどこかへ行ってしまった理屈ばかりの講義ですから学生の猛反発を食い、いったんは教師を辞めようと思ったほどです。

しかし漱石は、一年たった夏休みに、今までのやり方を根本的に反省、講義の方針転換をします。「文芸上の真」は「科学上の真」とは違うと宣明、自分はこれからは「文芸上の真」を追究するとして、具体的に作品を取り上げ、創作の技法などを明らかにしていくのです。しかも単なる修辞法を述べるのではない。文学表現をその根本の成り立ちから語ってみせるのです。面白さ無限になり、漱石の評判は一挙に上がります。

『文学論』はこうして、前半は「科学」に毒されて無味乾燥な理論書ですが、途中でその弊を見事に脱却し、後半は知情合一した「文学」研究を展開します。私は『英文学者 夏目漱石』でもそういう内容の変化に注目、評価してはいました。が、いま読み直してみますと、三十七、八歳のクソ真面目な若僧の、追いつめられた果ての方向転換の勇敢さ、鮮やかさに、はっきりと天才のほとばしりを感じます。

漱石自身は、「倫敦[ロンドン]に住み暮らした二年は[もっと]も不愉快の二年なり」と述べ、「帰国後の三年有半もまた不愉快の三年有半なり」と述べ、さらにこの『文学論』を「学理上の閑文字」と言い切っています。私はこれを彼の正確な自己認識、自己評価だったと思います。しかしその上で、この著作が内容の混乱した失敗作と認めながらも、全体として見た時、文学の根本研究にひた走った若き学者の、七転八倒の有様を露呈しながら、「文学研究」は文学作品を読み、理解し、味わう努力から出発するんだという基本的事実に到達する姿を示してくれることを愛で、こんどは老耄[おいぼれ]に特権の自由さをもって、これを先駆的な「大先輩」の名著だと公言します。『文学論』は、現行の全集版も岩波文庫版も、私が注解、解説をさせていただいた本で、なにとぞ全体を読んで評価して頂きたいものと、本当は思っているのです。

(映画評論家、大阪外語大・フランス語・昭39)