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学士会アーカイブス

映画事典づくり奮闘記 山根 貞男  No.953(令和4年3月)

映画事典づくり奮闘記
山根 貞男
(映画評論家)

No.953(令和4年3月)号

……百年を超える日本映画史を一望に見渡す空前の作品データベース。

昨年六月、こんな惹句を付した『日本映画作品大事典』が三省堂から刊行された。企画が立ち上がったのが一九九八年秋で、わたしに編者就任の依頼があり、一九九九年から編集作業を始めたから、二十二年もかかったことになる。

いつ果てるともつかない苦闘の末に、ついに刊行にこぎつけ、半年が経って、多様な反響に接するなか、こんな声があった。ある作品を調べようと目的のページに目を走らせるうち、ついつい周りも読んでしまう、と。仕事にならないので困る、と楽しそうな口調で言う人もいた。聞いてわたしは、我が意を得たりと嬉しくなった。

日本映画史が本格的に始まったのは一九〇〇年前後(明治三十年代)で、以後、百年のあいだに二度の黄金期があった。一九三〇年代と五〇年代である。

三〇年代はサイレントからトーキーへと移行した時期で、無声映画で積み重ねられた表現の高みに音声が加わることによって、さらに豊かになり、多くの観客を集めた。そして五〇年代には、戦後社会が復興してゆくなか、人々の欲求に応じ、大衆娯楽としての映画が量産された。ちなみに一九五八年、全国映画館の入場者数が十一億人を超え、以後、その記録は破られていない。

事典の編集作業に取りかかるとき、そうした日本映画史を踏まえ、いくつかの基本方針を立てた。

まず、二度の黄金期における劇映画を中心とする。ひとくちに映画といっても、記録映画やアニメーションなど多岐にわたるが、観客の大多数が映画館へ足を運ぶのは劇映画であろう。

つぎに、劇映画を収録するさい、取捨選択はせず、全作品を入れる。そして、どの作品についても内容がわかるように解説を付け、単なるリストにはしない。

さらに、映画題名を五十音順に並べるのは巻末の索引に任せ、本文は監督名を見出しにする。各項目には監督の略歴を記したあと、撮った作品を公開順に並べるので、監督事典としても使える。

すこぶる欲張った方針であるのは一目瞭然であろう。だが当初、そんなことは考えもせず、我武者羅に突き進んだ。もっとも力を入れたのは全作品に解説を付けることで、単純な作品リストならこれまでにも刊行されているが、読める事典にしたいから、短くても各作品の内容を記す必要がある。だからこそ、ついつい周りも読んでしまうとの声が出てきたのである。それでも難題が続出し、結果的には二十二年もかかった。

最初、編者を引き受けた時点では、四年か五年はかかるとわたしは覚悟した。三省堂編集部もそのつもりで、「二十世紀の映画事典」というイメージであった。十九世紀末に誕生した映画が世界的に繁栄したのは二十世紀であることは間違いない。一九九九年に編集作業を始めたから、数年で完成できると思ったわけである。

それが大誤算であることが、すぐに判明した。作品の詳細を調べ始めたところ、たとえば資料によって封切日が違うし、長さもまちまちで、確定しがたい。映画製作は企画から撮影を経て完成するまで長期間になるから、配役が途中で代わることがあって、資料に異同が出てくる。そもそも題名すら、本題と副題、角書、惹句などとの区別がつかないことがしばしばある。複数の資料を突き合わせ、製作当時の諸状況をも勘案しつつ、どれが正確かを判断しなければならず、これに膨大な労力と時間を費やした。

全作品に解説を付ける点についても苦労した。劇映画は脚本がつくられ、スタッフとキャストが決まり、撮影に入るが、その途中、さまざまな要因のもとに、脚本が改訂される場合が珍しくない。そのため資料により、梗概に異同が出てくる。むろん映画を見れば片がつくことだが、戦前の映画の大部分は失われてしまっているから、文字資料に頼るしかない。戦後の全作品についても見られるものは限られている。

本文は監督名を五十音順に並べ、その全作品を列挙してゆくのだが、この作業も難関にぶつかった。たとえば「日本映画の父」と称される牧野省三の項は、完成した事典では六ページ半に達している。当初のフィルモグラフィはもっと多かったが、担当執筆者のその後の調査で、同じ作品が題名だけ変えて再公開されている場合がいくつも見つかり、重複作品は省いた。戦前にはこんな事例は珍しくない。

もう一例挙げよう。日本映画の草創期、一九一〇年代から二〇年代にかけて活躍した吉野二郎という監督がいる。生涯に撮った作品は千本以上にのぼるといわれるが、そのフィルモグラフィが確定できない。部分的にはわかっても、内容が不明で、解説を付けることは不可能である。同様の監督は何人もいて、その人たちについては、調べられるかぎりの略歴とめぼしい作品名を記述し、フィルモグラフィはなしとした。

すでに明らかなように、劇映画の全作品を収録するという基本方針は、編集作業を進めるなか、物理的な壁にぶつかったのである。

四、五年はかかるだろうという当初の読みは、それこそ二、三年で崩れ去り、どんどん歳月が経ち、その間、「二十世紀の映画事典」とのイメージは雲散霧消した。そして、悪戦苦闘の歳月にも映画の新作はつぎつぎ増えつづけ、収録範囲を何年までとするかに悩まされた。

そうやって二十二年もかかり、約千三百の監督項目のもと、二万項目近い作品を収録した事典が完成した。当初の目標とは違ったが、可能なかぎり全作品収録に近づけた。劇映画だけではなく、記録映画、アニメーション、実験映画などにも、目を配った。

さきほど基本的な編集方針に触れたさい、記さなかった重要なことがある。紙の事典にすること、一冊にすること、この二点である。

紙については、企画の最初から大前提になっていた。いつの日にかデジタル化することもありうるが、まずは紙の事典をつくろう、と。冊数については、数万本の作品の収録を前提に、戦前と戦後に分割するなど、いろんな案が出たが、専門家だけでなく、一般の映画ファンに手に取ってもらいたいから、一冊にしようと決めた。

一冊と決めたのはいいが、本当に可能なのだろうか。そこから、収録が想定される監督と作品の調査のもと、数との闘いが始まった。その詳細は煩雑なので、出来上がった事典を見てもらうことにしよう。

もっとも難渋したのは、全作品に付ける解説の長さである。作品項目が立っているものについては、どんな内容かが読めるようにしたいから、劇映画でいえば、作品の特徴などのほか、物語の概略を記すのだが、どこまで細かくするか。全体を一冊に収める以上、制限を加えなければならない。それは編者たるわたしの仕事と考え、膨大な資料調査に時間をかけて、各作品ごとに解説の字数を決めていった。

この事典には、五十人近い執筆者がいるが、解説の長さについては、どの方にもたいへんな苦労をかけた。とてもこの字数ではこの作品の内容を書けないとの意見もつぎつぎ寄せられ、わたしと編集部とでアイデアを出すなりして説得に努めた。監督項目の記述についても同様である。

巻末には全執筆者のリストがあり、どの監督を担当したのかがわかる。また、途方もない量の文字を一冊の書物に纏め上げたブックデザイナー、企画当初に相談役を務めてもらった方々、さまざまな編集協力者などの名前も巻末に記載した。こんな事典をわたしひとりで編集することなどできるものではない。

もう一点、重要なことに触れておこう。この事典には写真が一枚も入っていない。映画の事典なのだから、スチール写真が入って当然と普通には思うだろう。事実、完成した事典について、その点を惜しむ声もあった。だが、二万本近い作品のスチールを入れることは、総ページ数からしても経済的にも不可能といわねばならない。作品によってスチールを入れたり入れなかったりするのは、取捨選択はしないという原則に反する。

わたしは映画評論を仕事にしているが、元々は編集者で、映画の分野に限らず、新聞、雑誌、書籍の編集を手掛けてきた。百科事典の編集に従事したこともある。今回そんな体験を活用できたが、しばしば困惑もした。映画の価値判断を仕事にしている者として、ときとして各項目の記述に疑問を抱いてしまうのである。そんなとき、三省堂の編集者二人の助言にどれほど救われたことか。

この映画事典の編集過程で、映画は生き物であり、しかも軟体動物みたいなものだということを、とことん思い知らされた。そんなものを文字として取り押さえることが至難の作業であることはいうまでもない。

そこで、冒頭で言及した読者の声が嬉しく身に沁みる。紙の事典だから、ある項目を調べるためにページを開くと、前後左右が目に入り、ついつい読んでしまうわけで、編集過程でも同様のことがわたしにも起こった。

ありがたい読者のさらなる続出を信じつつ、編集過程で実感した痛恨事を終りに記しておこう。失われた戦前の映画があまりにも多いということである。

(映画評論家、大阪外語大・フランス語・昭39)