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学士会アーカイブス

~随想~ 東大時代の思い出 吉田 喜重 No.936(令和元年5月)

~随想~ 東大時代の思い出
吉田 喜重
(映画監督)

No.936(令和元年5月)号

わたしが東京大学教養部に入学したのは昭和二十六年春、十八歳のときだった。そして二年後には本郷の文学部フランス文学科に進学した。当時のフランス文学科には鈴木信太郎教授と渡辺一夫教授、講師には中島健蔵、中村光夫、中村真一郎さんがおられた。鈴木教授には中世フランス文法、渡辺教授にはフランソワ・ラブレー時代の宗教論争に関するパンフレット、中島健蔵講師にはスタンダール、中村光夫講師には十九世紀文学、中村真一郎講師にはポール・クローデルの戯曲『繻子の靴』を教材として講義を受けた。

そして昭和三十年三月、わたしは卒業することになるのだが、前年の秋、渡辺教授より卒業論文のテーマを何にしますかと訊かれ、ジャン・ポール・サルトルの著作『存在と無』にしたいと申し上げると、渡辺教授は「わたしはサルトルについては不案内だから、専門に研究しておられる方を紹介しましょう」と言われ、教授室に置かれた電話を取ると学習院大学教授の白井健三郎さん、さらに東大教養学部で教えられていた平井啓之さんに電話を掛け、わたしを紹介してくださったのである。そのときわたしは如何に東京大学が自由な学問の府であることに感動したことを覚えている。そしてわたしは学習院大学と東大駒場の教養学部にかよい、お二人の先生から指導を頂いたのである。

しかし私自身の希望するようにはいかなかった。たしかに人生には山あり谷あり、自身が思うようにはいかなかった。卒業する前年の秋、わたしの父が失明したのである。わたし自身は二歳の折り母に死に別れ、母の記憶がまったくなかった。そしてわたしが六歳、小学校に入学するとき、父は再婚、新しい母ができたのである。「僕は母がお嫁に来た日のことを覚えているよ」と友人たちに話すと、「嘘だ!」と否定されたのだが、それは事実だった。

わたしが生まれたのは福井県の県庁所在地福井市、人口七万ぐらいの小都市だった。明治、大正にかけて福井の地場産業であった絹織物が世界的にもてはやされ、わたしの祖父は絹織物商として産をなしたのだった。幼いころのわたしの記憶では、生家は絹を扱う店が軒を並べ、紅がら格子が美しい街並みであった。しかし第二次世界大戦の末期、昭和二十年七月末の深夜、B二九爆撃機百二十機が飛来、市を全焼させた。わたしの家族も一家離散、幸いなことに全員無事に生きのびることができた。

終戦一年半後の昭和二十二年三月、父は戦前から親しんできた東京に移り住む決意をする。そして同年四月、わたしは東京港区六本木にあった都立城南中学に編入、そして城南高校に進み、昭和二十六年に東京大学に入学、三十年三月、文学部フランス文学科を卒業することになる。すでに話したようにわたしは大学院に進むことを考えていたのだが、その秋に父が突然失明したのである。家庭の経済的なことを考え、わたしは就職することを考えた。しかし当時朝鮮戦争が終結、その反動から極度の不景気となり、しかも文学部には求人募集は皆無だった。ようやく暮れの十二月に松竹株式会社が助監督を募集するとの張り紙を見たのである。わたしは迷わず応募した。幸い第一次の筆記試験はパス、年は変わって一月中旬に大船撮影所に行き面接試験を受けることになった。

当日ふたりの映画監督がわたしを面接した。ひとりの映画監督が「あなたは『二十四の瞳』を見ましたか」と訊かれ、わたしは「見ていません」と答えるしかなかった。そうするといまひとりの映画監督が「あなたは『君の名は』を見ましたか」と訊かれ、「見ていません」と答えるしかなかった。そしていまわたしに質問した映画監督から「この監督が『君の名は』の大庭秀雄さん」と言われ、いまひとりの映画監督からは「このかたが木下恵介監督」と聞かされたのである。そして木下監督より「何故きみは映画監督になろうと思ったのですか」と訊かれ、「映画は映像、言葉を使う小説とは異なる表現に興味があって、応募しました」と意味不明のことを話すしかなかった。

幸いなことにわたしは助監督試験をパスするのだが、それでも文学の世界を捨てきれず、渡辺一夫教授にお会いして「映画の世界に行くべきか、迷っています」と申し上げると、渡辺一夫教授は「一度映画の仕事を経験してみてはどうですか。もし自分に合わないと思ったら、大学に帰ってくれば良い。大学はいつでも門戸を開いています。」と言われ、わたしは深く頷くしかなかった。そして昭和三十年四月、わたしは松竹に入社、そして木下恵介監督の助監督を勤めることになるのである。だが渡辺一夫教授についてはさらに懐かしい思い出がある。

わたしが松竹に入社した昭和三十年四月、当時の皇太子が正田美智子さんとご婚約、その式典を中継するテレビを見ようと国民がテレビを購入、その結果百万台が売れたという。その反動から映画館に集まる観客は激減したのである。それに危機感を抱いた松竹はテレビでも容易に製作できるメロドラマ、ホームドラマとは異なった映画、特に若い世代に共感を与えるような作品をつくれる新人監督を抜擢、当時二十六歳であったわたしが選ばれたのである。

わたしはわたし自身によるオリジナル・シナリオを執筆して『ろくでなし』を製作、幸いなことに若い観客によって受け入れられたのである。それが日本のヌーベル・バークの誕生と言われた理由でもあった。その後六作品を松竹で発表、その後は独立プロを作り、女優であり妻でもある岡田茉莉子と十二本の作品を製作発表した。そのなかには日本航空の依頼で当時日本航空が往復していた七カ国を旅行する映画の製作を依頼され、一九六八年に『さらば夏の光』というタイトルで公開した。

この映画を製作中のことである。七月十四日のパリ祭の当日、わたしがパリのシャンゼリゼ大通りを当時フランス大統領であったシャルル・ドゴール将軍が行進する光景を撮影しようと、日本航空の事務所二階から撮影機をセットしていた折りのことである。ふと気がつくと、隣室には渡辺一夫先生がひとり椅子に座り、やはり同じ巴里祭の光景をご覧になっておられたのである。わたしは渡辺先生にご挨拶するとともに、妻の岡田茉莉子も紹介させていただいた。そのとき渡辺さんはにこやかに笑みを浮かべ、「映画監督になられて、良かったですね」といわれたのが、最後の別離となってしまった。

数年後、わたしは新聞で渡辺先生の訃報を読むことになる。映画とわたし、それを結び付けていただいたのは、言うまでもなく渡辺一夫先生であったのである。

(映画監督、東大・文・昭30)