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学士会アーカイブス

~随想~ 詩人大使クローデルの俳句 羽賀 徹 No.934(平成31年1月)

~随想~ 詩人大使クローデルの俳句
芳賀 徹
(東京大学名誉教授・静岡県立美術館名誉館長)

No.934(平成31年1月)号

○雨 すこしづつ雪となり
泥 すこしづつ金となる
○ひと筋の日の光 渦まく雪のなかに

少年がひとり、降りだした雪のなかに立って、その雪を仰ぎながら、黙ってつぶやいた言葉のようではないか。口に出して独り言を言ったのでもない。ただそのきらきらする雪の冷たさと美しさを初々しい魂のなかに感じとった、というだけなのかもしれない。

これが実は、大正後期(大正十~昭和二)の日本にフランス大使としてやって来たポール・クローデル(Paul Claudel, 1868-1955)作の短唱、つまり俳句だと教えたら、この詩人大使のことをいくらか知っている人でも驚くかもしれない。クローデルが主に駐日最後の年、一九二六年に作ったという百七十二首の短唱集『百扇帖』(Cent phraseé pour eventails, 1927)のなかに収められている。

右の二首をフランス語原詩で、ただし詩人自身が日本の筆と墨で書き単語の綴りや詩行の並べかたにも見せた独創をいまは無視して、つぎに挙げればこうなる。

○ La pluie peu à peu devient de la neigeb
la boue peu à peu devient de l’or
○ Un rayon de soleil dans un tourbillon de neige

それぞれに十数音節の、定形無視の超短詩型だ。これらを詩人は後年(一九四一)この詩集につけた序文のなかで、「ハイカイ」と呼んでいる。たしかに、短歌というよりは俳句と呼んでよいこの短かさ、凝縮、寡黙、なにごとも無さ、のなかで、二句はそれぞれに独立の、まぼろしのように美しい詩の二篇となっている。ルネサンス以来四百年のフランス近代詩の、あの愛や死や神や自然や歴史やらを礼讃し詠嘆し、弁論してきた交響曲か協奏曲のような雄弁と華麗の長い重い伝統が、ここに至ってにわかにふっと口を閉ざしてしまった。十九世紀のヨーロッパのピアノ曲や詩にも「無言歌」と題された作品がいくつかあったが、それがこの『百扇帖』では、ほんとうに無や沈黙に近いかたちで実現してしまった。クローデル自身日本の俳句について、それは静かな池の面の水の輪のように人の心のなかに円い輪をひろげてゆく、と語っているが、まさにそのようなものとして彼の句も働く。

右の二句でも私たちのなかの遠い遠い記憶がよびおこされる。「雨/すこしづつ」というのがいい。気づかぬ間に、いつのまにか、冷たい雨が白い雪に変ってゆく。そして、見れば、路上の泥水や田畑の泥が、雪を溶かしこみ雪におおわれて薄い光を反射し、いつのまにか金に転じている。それもエカテリーナ女王のエルミタージュ宮殿のような、権力と財力を誇示する金ピカではない。俳人の恩田侑布子さんも指摘したように、詩人大使が京都の古寺や御所の、襖や屏風絵で見た金泥[きんでい]のくすんで深い色と光だ。彼は墨や泥が宿す金色の翳りが好きで、短詩やエッセイの随所でそれに触れている。

そして仰ぎ見る空から渦まいて降りつづける白い雪のなかに、ふと雲間から射しこんだ日の光の一条。ただ「あっ」と声を発する以外にないようなその美しさ、清らかさ。これに比べれば凡兆や太祇や虚子の雪の名句でさえ人事につきすぎるし、逆にこれを天上からの神の存在の一瞬の啓示などととるのは、この句の無垢の美しさに対するいっそうの冒瀆というべきであろう。

『百扇帖』百七十二首はもちろん多彩で、日本列島の海と山々の神話的ヴィジョンを詠んだ句も、山野の神々や仏たちのなつかしさを讃えた句も、牡丹や薔薇の香りと色のエロスを把えた句もあって、みな美しい。いま話題の俳句の「国際化」はいかにあるべきかを示唆する最高の先例とも言える。明治の先駆けラフカディオ・ハーンに劣らず日本文明の深奥に触れえたクローデルは、日本人はいまなお「魂のうるほひ」(l’humidité de l’âme)ともいうべきものを心身に宿している、と論じた(『朝日の中の黒い鳥』一九二七)。「言葉にいいえぬあの泉のおののきをまだなによりも爽やかに身におびているもの」に、日本人はその「うるほひ」によって共鳴し、それを詩歌や絵画に表現してきた、と彼は言うのである。

その「魂のうるほひ」を、つまり「もののあはれ」を知る心を、このタフで卓抜な職業外交官、雄渾な劇作家・カトリック詩人でもあったジャポニスト・クローデルは、いつのまにかみずからの身につけていたのである。『百扇帖』の別な一篇──

○ 水の[]に 水のひびき/葉のうへに/さらに葉のかげ (山内義雄訳)

も、月かげの漂う日本列島のどこか一隅の、夜の宇宙の静寂をその影とひびきのみで把えて、芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」にもまさる大きさの、奥ゆき深い俳句となっていたのではなかろうか。

(平成三十一年初春、パリの日本文化会館で、国際交流基金主催の行事「ジャポニスム・二〇一八」の末尾の一環として、日仏米の俳句作家たちとともにこの『百扇帖』を論じ、クローデルの生誕百五十年を記念する一夕を催す予定である。)

(東京大学名誉教授・静岡県立美術館名誉館長、東大・文博・教養・昭28)