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学士会アーカイブス

恩師 長谷川伸先生から学んだこと 平岩 弓枝No.927(平成29年11月)

恩師 長谷川伸先生から学んだこと
平岩 弓枝
(作家・脚本家)

No.927(平成29年11月)号

要旨

長谷川伸(明治十七年~昭和三十八年)は、股旅物の創始者と言われ、『瞼の母』『一本刀土俵入』などの時代小説や戯曲を数多くヒットさせた。大衆文学の新人育成にも努め、門下からは多くの作家が育った。最晩年の弟子が、先生から受けた薫陶を振り返る。

代々木八幡宮の宮司の家に生まれて

昭和七年三月十五日、私は代々木八幡宮の宮司の家に生まれました。父の生家は、元は旗本でした。何故、旗本が宮司になったかというと、江戸時代まで神社の管理は寺の住職が兼ねていましたが(1)明治政府が神仏分離を命じたため、神主が必要になると、旧幕時代の旗本や御家人の多くが神主に鞍替をしたのです。

現在、代々木八幡宮の周辺は高層ビルと高速道路に囲まれていますが、私の子供の頃は境内から明治神宮の森や代々木公園が見渡せました。代々木公園は当時、代々木練兵場と言い、年に数回、天皇陛下がお見えになって観兵式を行っていました。

長谷川伸先生の異父弟である三谷隆信さんが昭和天皇の侍従長を務めていた頃、私は宮中からお招きを受け、参内したことがあります。そこで昭和天皇から「平岩君か、松は健在かね」とお声をかけられました。私が何のことか分からず、困惑していると、三谷さんがそばへ来て、「代々木八幡の境内に松があったでしょ」と助け船を出してくれました。

確かに大きな松がありました。わが家のご神木でした。その松は、なんと戦前、代々木練兵場の陛下のお立ち台から見えたそうです。正確に言うと、その松を目印にお立ち台の位置を決めていたそうです。

私が「申し訳ありません。あの松は落雷で枯れてしまったので、植木屋が切りました」と申し上げると、陛下は「そうか、もうあの松はないのか」と、とても悲しそうな目をされました。私は申し訳ない気持で一杯になり、何度も謝罪しました。すると、陛下は「君のせいではないよ」と慰めて下さいました。

幼い頃の思い出

平岩家は代々、子に恵まれず、養子を貰っても、その養子も子に恵まれずまた養子を貰う、ということを繰り返してきました。私は、平岩家が宮司になって三代目にしてやっと生まれた子で、しかも一人娘だったため、祖父母から「境内から一歩も出てはいけない」と言われて大切に育てられました。幼稚園にも行かせてもらえなかったので、遊び相手もおらず、飼い犬のトミとばかり遊んでいました。

父はそんな私を不憫に思ったのか、宮司の仕事の合間に文字や計算を教えてくれました。今の子は皆、就学前に習っているでしょうが、当時は小学校へ行って初めて習うものでした。ですから、渋谷区立富谷尋常小学校へ入学した時、私だけは授業がつまらなくて仕方ありませんでした。

友達作りも苦手でした。休み時間に校庭で友達が大縄跳びをしているのを初めて見た時、これはサーカスだ、自分には到底できない、と驚きました。せめて縄を回したいと思ったのですが、「仲間に入れて」という一言が出てきませんでした。友達もできず、授業もつまらなかった私は、一時間目が終わると担任の先生に腹痛を訴え、早退するようになりました。といっても、そのまま帰宅すると親に怒られますから、通学路の途中にあった材木置き場で時間を潰していました。

そのことをどうしてトミが知ったのか、しばらくすると、トミが材木置き場にやってくるようになりました。トミは昔、お宮の石段を下りた所で自転車に跳ねられて以来、境内から一歩も出られなくなっていたのに、必死の形相で私の元に駆けつけてくれたのです。トミがいたから、私は何時間でも安心してそこに坐っていられました。

正午のサイレンが鳴ると、私はトミと一緒に帰宅しました。トミは悪知恵を発揮し、お宮の石段の下まで来ると、先に駆け上がりました。母の目撃談によれば、トミはそのまま犬小屋に飛び込み、玄関にたどり着く私に合わせて、今起きたという風情で伸びをし、ワンワンと吠え、私の帰宅を家族に知らせました。後日、担任の先生の訪問で私の仮病早退がばれた時、母は「犬までがグルになって。すっかりだまされた」と、かんかんに怒っていました。

六年生の時、トミが寿命で死にました。とても悲しくて、「トミの思い出」という作文を書きました。愛犬の死というテーマは誰が書いても賞をもらえると思います。私の作文も区の文集に載りました。これが間違いの元でした。両親、特に父が大層喜び、「この子には文才がある。将来は小説家になって、お宮の歴史を書いて欲しい」と期待しました。そういう訳で、トミが私を物書きにしてくれたと思っています。

戸川幸夫先生との出会い

大学卒業後のある日、親友から、「これから先、どうするの。貴女の取り柄は何?」と尋ねられました。さすがに「取り柄はない」とは言えず、見栄もあって、子供の頃、作文が文集に採用された話をしました。すると彼女は、「なら、小説家になったらいい。いい先生を紹介してあげる」と言い、早速お父様に相談してくれました。彼女のお父様は勧銀頭取の地位にあり、娘の頼みにやむなく、飲み友達の戸川幸夫先生を紹介して下さいました。戸川先生は当時、毎日新聞にお勤めで、前年に直木賞を取ったばかりでした。

彼女に付き添われ、日比谷の喫茶店で初めて戸川先生にお会いした時、私は緊張のあまり、先生の質問にも口ごもるばかりで、彼女が全部答えてくれました。

その後、彼女は長いこと先生と話し込んでいました。ついに先生は根負けし、「では、書いたものを拝見しましょう」と譲歩なさったので、彼女は私を見て、「良かったね。しっかり勉強してね」。先生は思わず中腰になり、「ちょっと待て。どっちが中村さんのお嬢さんなの?」。この時のことを戸川先生は亡くなるまで何度も仰いました。「あの時ほど腰が抜けたことはない。大口を開けてソフトクリームを食っている奴が作家志望だなんて、悪夢だと思ったよ」。

こうして私は戸川先生の弟子になり、大山町にある先生のお宅に通い始めました。お宮の近所です。先生は私を書庫に案内し、原稿用紙を下さると、後は勝手に書くだろうと、二階の仕事場に戻ってしまいました。ところが私ときたら、先生の飼い犬を散歩に連れ出して芸を教えたり、一階で料理上手の奥様から料理を習ったり、ご馳走になったりするばかりで、原稿用紙に向かうことがありませんでした。そのことに気付いた先生はひどく呆れ、先生から課題を出されることになりました。

ちょうど昭和三十一年頃で、神近市子さんら女性代議士の活躍で売春防止法が成立したばかりだったので、「それをテーマに書きなさい」と言われました。

私は遊郭のある吉原の場所さえ知りませんでしたが、行動力のある友人が調べてくれました。私たちが吉原を訪問したのは昼間でした。遊郭の女性なら寝ている時間です。そんな時間に若い娘がうろついていたので、早速、黒眼鏡のあんちゃんが、「稼ぐなら、半年稼げるぜ」と声をかけてきました。意味が分からず、私がぼんやりしていると、友人が私の腕を摑んで走り出しました。私の吉原取材はそれでおしまいでした。

何とか下手な文章を書き上げ、先生にお見せすると、「僕自身は経験したことがなく、友人から聞いた話だけれど……」といちいち断りつつ、「遊郭とはこんな場所ではない」とたくさん駄目出しをされました。とはいえ、遊郭がどんな場所か分からないままなので困っていると、戸川先生は、「取材して書くのが無理なら、身内の中からモデルを探して書くやり方もあるよ」と、別の課題を出して下さいました。

私は祖母を思い浮かべました。祖母は老いて耳が遠くなるに従い、僻みっぽく我侭になり、母やお手伝いさんに暴言を吐くようになっていました。注意すると、聞こえないふりをするので、私は祖母が大嫌いでした。この祖母をモデルに、嫌な人のことを描いてみようと思った私は、『つんぼ』という短編を書きました。今だったらどこの出版社も受け取ってくれないタイトルです。戸川先生からも「こういう言葉は使っちゃいかん」と注意されましたが、人物の描き方は褒められ、細かい点まで注意して下さいました。

戸川先生は次に、「普通の人はあまり知らないけれど、自分はよく知っていることがあったら、直接経験してなくていいから、それをテーマに書いてごらん」と仰いました。そこで思いついたのが刀剣です。神職の父は刀剣鑑定を趣味とし、月に一度、我が家に刀剣愛好家を集めて鑑定会を開いていました。おかげで私も門前の小僧程度の関心がありましたし、資料なら父の書棚にずらりと並んでいました。

いい刀は柄を外すと、磨いていない部分が出てきます。「[なかご]」という部分で、刀工はここに名前を入れます。例えば、ここに「長曽祢虎徹[ながそねこてつ]」という銘があれば、「長曽祢虎徹が作った刀」ということになります。

しかし、そっくりの刀を持ってきて、銘のない所に「長曽祢虎徹」と入れたり、既に入っている銘を削って「長曽祢虎徹」と入れたりしても、虎徹のような人気の刀なら、大金を積んでも欲しがる人は出てきます。

この偽の銘入れをする職人を鏨師[たがねし]といいます。私はこれをテーマに『鏨師』を書きあげ、昭和三十四年七月、第四十一回直木賞を頂戴しました。

長谷川伸先生との出会い

大抵の作家は数本書いたら、ネタが尽きて書けなくなります。私が今日まで何とか作家を続けてこられたのは、長谷川伸先生との出会いがあったからです。

戸川先生が、「僕は動物作家だから、君が動物をテーマに書いていくなら僕に指導できるが、君はそうじゃないだろう。僕の恩師に若い作家一人ひとりにふさわしい道を探して下さる先生がいる」と言って、長谷川先生を紹介して下さったのです。

直木賞受賞の一年前の昭和三十三年三月十五日、私は明治学院大学前にあった長谷川邸を訪問しました。毎月十五日は、長谷川先生の主宰する新鷹会[しんようかい]が先生のお宅で催される日でした。戸川先生は仕事で会の開始に間に合わなかったので、私一人での訪問となりました。奥様の案内で書斎に通され、先生にご挨拶を申し上げると、先生はこちらに背を向ける形で坐っておられ、その両側に弟子達が坐っていました。

私は先生にすぐ隣の席を勧められました。本当なら先生のすぐ隣は、村上元三、山岡荘八、池波正太郎、山手樹一郎といった大先輩の座る席で、新参者の私は末席に坐るべきだったのですが、そんなこととは露知らず、先生の隣へ座りました。後に私が結婚した伊東昌輝はこの時同席していたそうで、「変な奴が入ってきて、新入りの分際で一番上席に座って、出されたお茶とお茶菓子を嬉しそうに食べて、先生の分まで飲み食いして……。あの時は本当に呆れた」と今も言います。

新鷹会の思い出

新鷹会では、各自が未発表の作品を持ち寄り、皆の前で読み、批評を受けることになっていました。批評は大変厳しいものでした。しかし、先生は私の入門後、兄弟子たちに、「平岩君は厳しくすると駄目になる。そのうち自分に何が書けるか気付くだろうから、それまではひたすら皆で励まそう」と仰ったそうです。そのせいか、私が新鷹会から帰る時は必ず兄弟子たちが、「饅頭やるぞ。ハンドバッグ開けろ」と言って、その日出された茶菓子を私のハンドバッグに入れてくれたものでした。私は毎回、十個以上の茶菓子を持ち帰っていました。

先生没後のことですが、私が何か失礼をして、新鷹会ではない作家を怒らせてしまったことがありました。すると、村上元三、山岡荘八といった大先輩が仕事を放り出して相手方に出向き、「平岩君の地はそんな人間ではない。ご無礼があったなら、僕が謝るから許してやってくれ」と、私にかわって弁解してくれたそうです。後年、相手の方は「あの時は本当に困った。平岩君を非難した訳ではなかった。生意気そうに見えたから、ちょっとからかっただけなんだ」と言っていました。このように新鷹会は身内意識が強く、先生亡き後も、先生があれだけ心配していたのだから、俺達が妹弟子を守ってやらねばと結束していました。

新鷹会以外で、当時の文壇の大御所的存在の周りに弟子が集まり、文学の研鑽をしていたグループに、丹羽文雄さんの一門がありました。吉村昭さんや津村節子さんなど純文学系の方が多い一門でした。お二人によれば、「弟子が集まり、丹羽先生のお話を黙って聞き、聞き終わったらおしまいという会だった。作品を他の弟子達に読んでもらったり、批評されたりしたことはない」と言うので、新鷹会とは雰囲気が違うと驚いたものでした。

新鷹会では、長谷川先生ご自身が幼い時から苦労を重ね、人間の裏表をしっかり見てきた方だからこそ、自分はどのような目線で人間を見ているか常に意識するよう指導され、自分を鍛えなければ自分らしい目線は獲得できない、という人生の奥義を徹底的に叩き込まれたと思います。

先生の最後の思い出

長谷川先生のご指導は、長閑な形で始まりました。当時の私は、それが一生続くと思っていましたが、そのうち様々なことが起こり出しました。

昭和三十八年、七十九歳の長谷川先生は老人性肺気腫になり、築地の聖路加病院に入院しました。若い頃のタバコの吸い過ぎが原因でした。私は昭和三十六年に結婚し、聖路加病院で長女を出産していました。そのおかげで病院内部のことがよく分かったので、主人と私が真っ先に先生のところに駆け付けました。その晩から長谷川先生は危篤状態になりました。私達弟子は患者の家族でないので、本来なら面会時間を超えて病室にいることは許されないのですが、医師の特別の計らいで病室の片隅にいさせてもらいました。危篤状態は三夜続きました。医師も付きっきりで、最後は人工呼吸も装着しました。その甲斐あって何とか先生は意識を取り戻しました。

先生は私に気付くと、「どんな人がお見舞いに来たのか、話してごらん」と仰いました。先生は歌舞伎、新派、新国劇などの戯曲を書いていたので、十七代目中村勘三郎丈をはじめ、錚々たる役者がお見舞いに来ていました。しかし、危篤の先生との面会は叶わず、別室で私から容態の説明をした後は、皆さんにお帰り頂いていました。

先生の病状はその後、一進一退を繰り返しました。調子が良さそうだったある日、大好物の天ぷらを先生に召し上がって頂こうと思い、医師に願い出ました。すると、あっさり許可が下りたので、私は病気が治りつつある証拠だと喜んだのですが、本当は「もう先は長くないから、今のうちに好きなものを食べさせなさい」という意味でした。そのことに気付かない私は、先生行きつけの新宿の天ぷら屋に駆けつけました。お店のおじさんは、「天ぷらを召し上がれる程、回復なさったのなら良かったね」と喜び、先生のお好きな具をさっぱりと揚げ、重箱に詰め、風呂敷で包んでくれました。

温かいうちに召し上がって頂きたかったので、私はタクシーに飛び乗りました。「聖路加病院」と行先を告げると、タクシーの運転手さんは鼻をクンクン鳴らし、「お客さん、天ぷらを持っているね。ご家族が入院してらっしゃるの?」と尋ねてきました。こういう時の私は本当に馬鹿正直で、つい、「家族ではなく私の先生です」と答えてしまいました。運転手さんはバックミラー越しに私をジロジロ見た後、「しばらく前、貴女はテレビで自分の師匠の長谷川伸さんについて語っていたでしょ。入院しているのは、その先生なの?」と尋ねてきました。驚く私に運転手さんは、「天ぷらは冷めるとまずいよね。道は私に任せてね」と言い、いきなり横道に入りました。ちょうどラッシュの時間帯で、表通りは大渋滞でしたが、タクシーは細い路地をすいすい進んでいきました。タクシーのスピードを私が怖がると、「私は貴女が生まれる前から運転手をしているんだ。その私が運転しているんだ。事故なんか起こしゃしない。しっかり捉まっていろ」と言われました。

先生の死後、村上先生と山岡先生と私で車に乗ってこの時の道順をたどった時、お二人とも、「こんな細くて危険な道を走って、よく事故を起こさなかったな」と感心していました。

聖路加病院に無事到着し、玄関口で私が降りようとすると、運転手さんは「天ぷらはまだ温かい?」と心配し、「先生を大事にしてあげなさいよ。私も今日は何だか嬉しいから、仕事明けに天ぷらそばでも食べますよ。お大事にね」と言ってくれました。

私はお礼を言い、病室に駆け込みました。病室に着くや、先生に挨拶もせず窓の所に飛んでいき、運転手さんを探しました。すると、運転手さんも病棟を見上げていました。私は窓を開け、体を乗り出して大声でお礼を言い、慌てて窓を閉めました。先生と奥様は呆気に取られていました。私は経緯を話し、天ぷらを先生にお渡ししました。先生は天ぷらに向かって三回、「ありがとうございます」と繰り返しました。

先生はもう天ぷらを召し上がれる状態ではなかったのですが、「美味しいね。ありがたいね」と言って、サイマキエビ(小型のクルマエビ)を三本召し上がり、私に言いました。

「僕は子どもの頃から辛い思いを沢山して、様々な人の世話になってきた。でも、その一人ひとりに僕は恩返しができなかった。大人になり、僕がいい小説を書けば恩返しになると思い、自分を励ましながら小説を書いてきた。もし僕が無事に退院して仕事ができるようになったら、この天ぷらのお礼は必ず仕事で返す。でももしその日が来なかったら、天ぷらのお礼は君が代わりに返してくれ。頼むよ」。

それから数日後、先生は「僕の入院で多くの方に迷惑をかけた。お見舞いまで頂戴した。お礼を言わなきゃいけない」と、苛立ったように奥様にこぼすようになりました。先生は恩を受けて受けっ放しになるのが嫌いな方でした。私はつい、「これまで先生は多くの人の面倒を見てきたから、多くの人が先生に感謝しています。今更、彼らに気を遣う必要はありません」と申し上げてしまいました。

すると、いつも温和な先生の目が急に険しくなり、「僕は入院して半年間、寝たきり老人だ。何の役にも立っていない。そんな僕のために、天ぷら屋さんもタクシーの運転手さんも力を尽くしてくれた。“病気が早く治るといいですね”と言ってくれた。君はそういう人の情けをどこに抱えて病室に戻ってきたのだ。人の情けの分からない者に小説を書く資格はない。君はもう書かなくてよろしい」と叱られました。

私は弁解する言葉もなく、大泣きして平謝りしました。最後は許して下さいましたが、この時の先生の怖い目は今でも覚えています。

長谷川伸という作家

人の情けというものを何より大事に見つめ、自分の作品と人生に残していったのが、長谷川伸という作家でした。私は弟子でありながら誠に未熟で、何かある度、先輩方から「先生が見ていらっしゃるぞ。お前が挫けて物書きを辞めるなんて、俺達が許さないぞ」と叱咤されてきました。しかし、その先輩方もあの世へ行ってしまい、たった一人、私が残されました。

私の仕事場の机の前には窓があります。窓の外はお宮の境内で鬱蒼たる森が広がり、真っ暗です。私は時折、原稿を書きながら窓越しにその森を眺め、「先生、もう書けないです。助けて下さい」と呟きます。でも、先生は出てきてくれません。私は「まだ本当の壁にぶつかっていないから、先生は出てきて下さらないんだ」と諦め、また原稿を書き始めます。そんな日々がもう十年も続いています。

主人は「いい年をして」と笑いますが、今も私の心のどこかに、先生に頼る情けない弟子の部分が残っています。私は長谷川先生を恩師と仰いで育ったことを、この上ない幸せだと思っています。

最後になりますが、長谷川先生は古代から明治までの敵討ちの逸話を集め、原稿にまとめていました。一部は生前に発表されましたが(2)、大部分は未発表のままでした。最近、その原稿約三百九十編(原稿用紙で二千三百枚以上)が自宅から発見されました。

先生は敵討ちに、「子孫に災いを残さないための日本人の知恵」を見出していたと思います。古来より日本人はどのような敵討ちなら認めてきたか(3)、時の権力者は敵討ちについてどのような法を定めたか、法から漏れたところで人々は何を思い、どう振舞ってきたか等々、先生は丹念に描いています。

私も先生のように、古くからの日本人の心をテーマに小説を書きたいのですが、自信がありません。でも、小説が人の役に立つとしたら、そういう部分なのでしょう。主人は「一人でも多くの人に長谷川先生のことを分かってもらえれば、今のお前の答えは自然に出る」と励ましてくれます。「恩師の心は日本人の心となって永遠に生きていく」とも思います。物書きの仕事が、昔からの日本人の生き方を後世に伝える一助になれば幸せです。

(注)
(1)代々木八幡宮の隣に、福泉寺というお寺がある。代々木八幡宮の年一度の大祭の日(九月二十三日)には今も、お宮からお寺に鳶頭がお迎えに行き、正装の住職をお宮までお連れし、宮司と住職が一緒に参殿してから祭りが始まる。
(2)『日本敵討ち異相』(中央文庫)。
(3)子が親の敵を討ち、弟が兄の敵を討ち、家来が主君の敵を討つのはよいが、その逆は原則としてご法度だった。

(作家・脚本家・日本女子大・文・昭30)
(本稿は平成29年6月20日午餐会における講演の要旨であります)