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学士会アーカイブス

~随想~ リズムの流れに乗せられて 山崎 正和 No.916(平成28年1月)

~随想~ リズムの流れに乗せられて
山崎 正和
(評論家・大阪大学名誉教授)

No.916(平成28年1月)号

ことの始まりは三年余りまえ、二〇一二年の夏に、私がほとんど死の宣告を受けるに近い体験をしたときだった。何気なく健康診断に訪れた病院で、私は癌の徴候を示す指標CEAが一〇〇〇ng/mlを超えていると告げられたのである。CEAは数値が五ng/mlを超えると危険と考えられる指標だから、これが一〇〇〇ng/ml以上とは常識はずれ、全身が末期癌に侵されていると思われても仕方のない状況だった。

診断を受けた最初の病院では、慎重な画像検査や内視鏡検査のうえで、一カ所だけ怪しい部位があるので試験的な開腹手術が望ましいと診断された。私は数日のあいだ熟慮したあげく、この勧めが良識的だと納得しながら、しかし丁重にお断りすることにした。CEAの数値とそれが意味するものが正確なら、これは全身を切り刻んでも助からないことは明らかである。試験的とはいえ開腹手術は侵襲が大きく、残り少ない私の生涯をどれだけ失わせるかわからない。それまで自分の年齢に無関心だった私が、にわかに二年後には自分が八十歳になるのを想い出したのである。

それと同時に、われながらまったく不可解な心境だが、私の脳裏には突然、長らく書かないで放置してきた大切な主題があったという記憶が蘇った。それは一九八三年、ほぼ三十年まえに拙著『演技する精神』で最初にとりあげて以来、おりに触れて言及しつつも、正面からは書くことのなかった「リズムの哲学」という主題である。これは私にとってあまりにも大きく、困難の予想されるテーマでありすぎたために、無意識のうちに迂回しては先送りしてきたものであった。

リズムは不思議な現象であって、力の流動とそれを断ち切る拍節とが共存して、しかも流動は拍節によって力を撓められ、逆にその推進力を強くするという性質を持っている。これはあの「鹿おどし」の構造にも擬えられるものだが、このリズムの構造を世界の根底に据えることによって、私は長く哲学を苦しめてきた病弊と闘えると予想してきた。

その病弊とは古代以来、かたちを変えては連綿と続いてきた、いわば「一元論的二項対立」と呼ぶべきものである。古代の形相と質料、近代の主観と客観、意識と外界、精神と物質など、哲学はさまざまな二項対立を掲げて、そのどちらが真実在であるかを争ってきた。どちらかが真実在でなければならないのは、じつはその背後にある一元論のせいであって、裏返せば、これがあればこそ二項対立が生じるといえる。善といえば悪、光といえば闇、神といえば悪魔というように、一元論は必ずその反対物を呼び起こすのである。

私はこのジレンマを解決するには、最初から内に反対物を含みこみ、反対物によって活力を強められるような現象を発見し、これを森羅万象の根源に置くほかはないと漠然と考えていた。そしてそういう現象がたぶんリズムだろうということも、これまた漠然と胸中の一隅に暖めてきた。だがこの着想はあまりにも突飛であって、学生時代に哲学を齧ったこともある私には、展開の難しいことがまざまざと予感された。ほぼ三十年のあいだ、いつかは自分の着想に正面からとり組みたいと願いながら、長すぎる尻込みを続けてきたのである。

CEA一〇〇〇ng/mlという青天の霹靂は、この躊躇いを一気に振り払ったようであった。私は自分の準備不足を痛いほど自覚しつつ、自分の背中を押すつもりで、雑誌『アステイオン』に新しい連載の開始を申しいれた。この雑誌は私が特別に昵懇にしている媒体であって、理由を尋ねることもなく、快く勝手な願いを聞きいれてくれた。それからほぼ三年、「リズムの哲学ノート」と題して年二回刊の雑誌に七回の連載を続け、おおむね三百枚を超える原稿を終えたところで今日を迎えている。

振り返って、予想通りというかそれ以上というか、仕事は私の生涯でも稀に見る難渋をきわめた。何といっても準備不足は容赦なくのしかかったし、それに認識論にとりかかったからには、自然科学を放置することはできなかったからである。結局、中高生の物理学や生物学を復習し、幸い昨今、おびただしく出ている啓蒙書のお世話になった。

何より幸運だったのは、この間、CEAは高止まりしたままとはいえ、癌の発病を見ないですんだことである。セカンド・オピニオンを頂いた名医のご理解もあって、試験的な手術も免除されて執筆に専念することができた。連載を終えるのにまだ半年、単行本にまとめるにはさらに半年かかるだろうが、今後の成否は運を天に任せるほかはない。

運といえば神秘的に響くかもしれないが、じつはリズムは万物を乗せて運ぶ運命そのものだと見ることができる。突然の癌の警告もリズムの拍節の一つなら、そのとき私を執筆に向けて押したのもリズムの流れにちがいない。どうやら「リズムの哲学ノート」はそれ自体、リズムがみずから筆者となって書き進められているような気がしてならない。

(評論家・大阪大学名誉教授・京大・文修・文・昭31)