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東アジアと古代の日本 上田 正昭 No.912(平成27年5月)

     
東アジアと古代の日本
上田 正昭 (京都大学名誉教授・大阪女子大学名誉教授) No.912(平成27年5月)号

はじめに

 まわりを海で囲まれている弧状の島国日本は、アジア大陸の東部に位置する東海の列島である。太平洋側を暖流の日本海流(黒潮)が北上し、黒潮は九州南方でわかれて対馬海流となり、日本海側をも北上する。そして北からは寒流の千島海流(親潮)が千島列島にそって南下し、三陸海岸沖から房総沖へ、日本海側をリマン海流が間宮海峡を南下し、対馬海峡におよぶ。

  日本の古代史を島国のなかのみで論ずるわけにはいかない。海上の道によって朝鮮半島の国々や中国・渤海あるいは南の島々とのかかわりをもつ。東アジアの歴史や動向とけっして、無関係ではなかった。ここでは主として朝鮮半島の加耶[かや]・百済・新羅[しらぎ]・高句麗、そして唐・渤海の関係を中心に考察することにしよう。

友好の軌跡

  古代日本は朝鮮半島の国々と友好的であり、朝鮮半島から渡来した人びとが高句麗系の高麗[こま](狛)氏、新羅系の[はた]氏、百済・加耶系の[あや]氏であった。これらの渡来人たちが、いかに古代日本の発展に寄与したかは、たとえば飛鳥文化の内容をかえりみただけでもわかる。聖徳太子が四九歳で亡くなったのを悲しみ、橘  郎女[たちばなのいらつめ]が天壽國への往生を念じて作らしめた「天壽國繍帳」の令者は秦久麻[くま]であり、画者は[やまとの](倭)漢末賢[あやのまけん]高麗加西溢[こまのかせい]漢奴加己利[あやのぬかこり]であった。

  これらの人びとは新しい技術をもって渡来し、今来[いまき]才伎[てひと]とよばれたが、そもそも大和の飛鳥を開発したのは、これらの人たちである。縄文時代から飛鳥には人びとが住んでいたが、弥生時代後半に飛鳥川の大洪水によってムラは消滅、五世紀の後半に渡来した、今来の才伎らが再開発にとりくんだのである。陶部[すえつくり]鞍部[くらつくり]錦織[にしごり]などの須恵器・馬具・織物技術者などであって、蝦夷征討で有名な坂上田村麻呂のもともとの出身地は明日香村の桧前[ひのくま]に住んだ東漢氏の居住地であった。

  聖徳太子の仏教の師は高句麗の慧慈[えじ]らであり、儒教の師は百済の覚哿[かくか]であった。崇峻天皇元年(五八八)蘇我馬子は初期仏教では最大規模の飛鳥寺の建立に着手した。そし同年百済僧慧聰らをはじめとする寺工・瓦博士・鑪盤[ろばん]博士・画工らが大和の飛鳥に入った。その伽藍配置は高句麗の清岩里廃寺(金剛寺)や定陵寺と同じタイプの一塔三金堂であり、その舎利容器は百済の最後の都(扶余)の王興寺の舎利容器ときわめて類似することが注目されている。そして高句麗の大興王(嬰陽王)が黄金三百両を飛鳥寺の建立のため贈ったと『日本書紀』にみえている(『元興寺縁起』では三百廿両)。

  高句麗使の渡来は欽明天皇三一年(五七〇)のころからであり、高句麗使が持参した烏の羽根に書いた上表文を百済系の渡来人王辰爾[おうじんに]が解読したエピソードは、『日本書紀』の敏達天皇元年(五七二)五月の条にみえている。

  推古天皇一八年(六一〇)の三月に高句麗から渡来した曇徴[どんちょう]は『易経』・『詩経』・『書経』・『春秋』・『礼記』の五経を熟知しており、絵具や紙や墨を作り、碾磑[みずうす](水力を利用した臼)をしあげたという(『日本書紀』)。高句麗の高僧慧慈については前述したが、高句麗僧の恵便[えびん]に蘇我馬子は師事し、司馬達等の娘である嶋を得度させて善信尼とし、善信尼はわが国最初の女性留学生として百済におもむき、仏教を深く学んで帰国して活躍した。

  『日本書紀』の推古天皇一ニ年九月の条に「黄書画師[きぶみえし]山背[やましろ]画師を定む」とみえているが、黄書画師は高句麗からの渡来人であり、その子孫の貫書本実の画師グループが、キトラ古墳や高松塚古墳の壁画を描いた可能性がある。

  天智天皇五年(六六六)の五月には玄武若光[げんむじゃっこう]らが渡来し、若光は武蔵[むさし]国(埼玉県)に住んで従五位下となり王姓を与えられた。埼玉県日高市の高麗神社は若光を主神としてまつり、靈亀二年(七一六)五月一六日には、高麗人一七九九人を武蔵国に移して高麗郡を設けた(『続日本紀』)。大阪府の八尾市の許麻神社はもと高麗王靈神をまつり、この地域にも高麗人が多く住んでいたことがわかる。

  新羅系の秦氏は、漢氏や高麗氏が点的に分布したのに対して、北九州から秋田県まで面的に分布した(『渡来の古代史』角川学芸出版)。とくに京都太秦[うずまさ]秦河勝[はたのかわかつ]は有名で、葛野秦寺(後の広隆寺)を創建し、国宝となっている弥勅像をまつり、秦都理[はたのとり]は京都市西京区の松尾大社を大宝元年(七〇一)に造營し(『本朝月令』所引『秦氏本系帳』)、伏見区深草の秦伊侶巨[いろこ](具は誤り)は和銅四年(七一一)に伏見稲荷大社を建立した(『社司伝来記』)。

外交の激変

  いまは善隣友好の歴史の若干をかえりみたにすぎないが、いつの世も外交関係の悪化によって友好の史脈は断たれる。唐の高宗は永徽二年(六五一)に新羅を[たす]けてまず百済を征圧し、ついで高句麗を滅ぼすという政変をうちだす。事実上六六三年に百済は滅び、六六三年に高句麗は滅亡して、統一新羅の世へと移行する。

  唐・新羅が百済の総攻撃を決行したのは六六〇年であった。百済は敗北して百済の義慈王・王族・貴族は唐へと連れ去られた。唐は熊津都督府をはじめ五つの都督府を設けたが、都督や各地行政各人は在地豪族を任命した。百済の遺民たちが百済の復興をめざすのには好都合であった。

  舒明朝に「人質」として渡来していた義慈王の王子豊璋[ほうしょう]を国王とし、百済救援を名目とした天智朝は、倭国の水軍一七〇艘で豊璋を護衛し、六六二年の五月に豊璋は即位した。そして一万七〇〇人の軍勢で新羅を攻撃した。六六三年の八月二七日、唐の水軍一七〇艘が白村江(錦江)の河口のあたりで倭の水軍を待ちうけて戦ったが、一時退却して戦機をうかがい、二八日再び会戦、唐の水軍が倭の水軍を狭み撃ちにして、倭国の軍勢は大敗、死者多数、四〇〇艘が焼失した。この両日がいわゆる白村江の戦いである。敗北するや国王豊璋は高句麗へ逃亡、百済は最終的に滅亡した。

  ところが六六七年のころから唐と新羅の関係はついに対唐戦争となった。倭国は六六九年(第六回)から七〇二(第七回)までの間遣唐使の派遣を中止し、六七一年唐は倭国が新羅を攻撃するよう要求してきた。新羅は倭国と唐が結託することを阻止しようとして、六七一年から七〇〇年までの間に二五回も新羅使を派遣し、日本への低姿勢の「朝貢」を示した。しかし六八六年のころから新羅と唐の関係が修復して良好になると、「朝貢」の姿勢を見直し、「亢礼[こうれい]」(対等)の関係をうちだしてくる。

  天平一〇年(七三八)のころに書かれた『大宝令』の注釈書である『古記』(『令集解』)に「隣国は大唐、蕃(藩)国は新羅なり」とある。「日本版中華思想」については別に詳述したが(『古代学とは何か』藤原書店)、こうした新羅を「[]つべし」とする論が朝廷内に高まり、天平宝字五年(七六一)には実際に征討軍の陣容がととのえられたこともあった。

唐と渤海

  古代の東アジアを論ずる時に、唐そして中国の東北地区東南部から沿海州にまで勢力を伸張した渤海を忘れるわけにはいかない。舒明天皇二年(六三〇)から承和五年(八三八)まで遣唐使の派遣は一五回(迎入唐使一回、送唐客使二回を含む)であり、その時代を遣唐使時代とよぶ学者は少なくない。しかし唐使はわずか九回(正式は八回)であった。

  ところが遣渤海使は神亀五年(七二八)から弘仁二年(八一一)まで(送渤海使を含む)一五回、渤海使は神亀四年(七二七)から延喜一九年(九一九)までなんと三四回に及ぶ。遣唐使がわが国の歴史や文化に与えた影響はきわめて大きいが、渤海使の来日の回数をみただけでも、遣唐使のみを重視する史観をそのままに支持するわけにはいかない。

  もとより遣唐使・遺渤海使といっても時期により、その目的と性格を異にするのであって遣唐使についていえば第六回(六六九年)までとそれ以後では前期と後期の違いがあり、前期の遣唐使船が二隻ないし一隻で北路であったのに、後期はおよそ四隻(一隻1、二隻1)で南路であった(渤海路1)。そして前期では六五三年・六五四年・六五九年・六六五年・六六九年とあいついで派遣されており、唐の朝鮮三国に対する政策のなかで倭国の勢力を保持しようとした外交姿勢があった。

  渤海使についてもそれぞれの検討が必要である。初期の目的は政治的・軍事的提携であったが、やがて交易を中心とする経済使節へと変化していったことに注目する必要がある(上田雄『渤海使の研究』明石書店)。

  そして遣唐使によって、日本は「鎖国」のような状態になったと錯覚している人もいるが、「大唐商買人」との交易はその後も実際に行われており、唐の商人らの来日は継続して、文物の輸出入は行われていた(『扶桑略記』・『日本紀略』)。

  日韓・日中関係が悪化している日本の現状のなかで、古代日本と東アジアのつながりを改めて想起する必要がある

(京都大学名誉教授・大阪女子大学名誉教授・京大・文・昭25)