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学士会アーカイブス

西郷隆盛にみる対抗[カウンター]エリートの[クオリティ] 坂野 潤治 No.905(平成26年3月)

西郷隆盛にみる対抗[カウンター]エリートの[クオリティ]
坂野潤冶
(東京大学名誉教授)

No.905(平成26年3月)号

要 旨

幕末維新期、西郷隆盛は佐久間象山、勝海舟、福澤諭吉らに心酔して欧米文明を貪欲に吸収し、議会制の導入と封建制度の打破に尽力した。彼が活躍できた理由には、恵まれた背景と当人の優れた資質がある。それらを検証することで、現代の野党政治家に欠けているものを炙り出す。

はじめに

二〇一三年四月、私は講談社現代新書から『西郷隆盛と明治維新』を上梓しました。本日は同書で論じた内容を元に「対抗[カウンター]エリートの[クオリティ]」について考えてみたいと思います。このようなことを考え始めたきっかけは、三年半で終わった民主党政権のあまりのお粗末さでした。現代日本では対抗エリートがしっかり育っていなかったことを目の当たりにし、愕然としました。同時に、「歴史上、日本に立派な対抗エリートが存在したことがあったのか」「あったとすれば、そこから何を学ぶべきか」について改めて考えました。

西郷隆盛に注目する理由

二五〇年余り続いた幕藩体制が揺らぎ始めたのは、水や食料を求めて日本近海に出没するようになった欧米の軍艦への対応問題からでした。一八二五年、幕府が異国船打払令を出すと、佐久間象山のような学者は欧米列強の報復を警戒し、「砲台や軍艦を建造して海防を強化せよ」と主張しました。

しかし一八四二年、アヘン戦争で清がイギリスに敗れると、怯えた幕府は海防を強化せず、異国船打払令を廃止しました。その一方で江戸初期以来の(五〇〇石以上の)大船建造の禁は堅持したので、各藩はイギリスなどの侵攻に備えたいのに、軍艦の建造を禁じられたまま、大砲の設置にもブレーキをかけられたのでした。そのため、一八五三年にペリーが来航し開国を迫った時、「直ちに攘夷を決行せよ」と勇ましく叫ぶ吉田松陰のような者もいましたが、海防はあまりに貧弱で、攘夷の即断行が無理なのは誰の目にも明らかでした。

そこで、「開国か攘夷かの決断は先送りし、将来どちらに決まってもすぐ実行できるように、幕政を改革しよう」という声が大勢を占めるようになりました。

一八五八年、将軍継嗣間題1)が発生すると、親藩や外様雄藩は幕府と有力大名の挙国一致体制を築くことを目指し、水戸藩主の実子で英名の聞こえ高い一橋慶喜を将軍に就けようとしました。一方、井伊直弼ら譜代大名は三河以来の伝統に従い、紀州藩主徳川慶福[よしとみ]家茂[いえもち])を擁立しようとして対立しました。薩摩藩の下級武士だった西郷隆盛が藩主島津斉彬[なりあきら]の信任を得て政治の表舞台に登場したのは、このような時でした。

この一橋慶喜擁立運動の盛んになった一八五八年から、徴兵制の発足で完全に武士が消滅した一八七三年頃まで、一五年に及ぶ大変革の嵐を生き抜いた人物は、長州藩にはほとんどおらず2)、薩摩藩では西郷隆盛と大久保利通ら数名です。さらに、藩政改革、公武合体、薩長盟約、薩土盟約、大政奉還、王政復古、戊辰戦争、廃藩置県と、幕末政治史の重大局面に直面する度、政治構想を大きく飛躍させていけた指導者と言えば、西郷隆盛と大久保利通ぐらいだったと思います。

何故、私が大久保ではなく西郷に注目するかについてはこの報告全体から読み取っていただくことにして、ここでは明治維新前後の西郷の十数年間を追うことにより、私達日本人に今求められている「対抗エリートの資質」がどのようなものかを考える参考にしたいと思います。

Ⅰ.背景

幕末を牽引した西郷のような指導者が、何故、薩摩藩に登場したのでしょうか。その背景を考察します。

(1)薩摩藩主、島津斉彬の使い番

島津斉彬は、一八五一年に四三歳で藩主となるまで、外様大藩の後継者として長く江戸に滞在し、攘夷派の水戸藩主徳川斉昭とも、開国派の越前藩主松平慶永や幕府の中堅官僚とも、交流を深めていました。

そんな彼が藩主となって初めて参勤交代で江戸に来たのは一八五四年、ペリー来航の翌年でした。この時の参勤交代に、下級藩士として西郷隆盛(当時二八歳)が加わっていました。初めて江戸の地を踏んだ西郷は斉彬の信頼を得、使い番として取り立てられていきました。

(2)「攘夷」から「幕政改革」への転換期

斉彬や西郷にとって幸いだったのは、一八五四年当時、世論が「攘夷か開国かを一旦棚上げにし、朝廷、幕府、親藩、譜代、外様大名が挙国一致して協力体制を築くべき」に傾いていたため、攘夷派とも開国派とも親しかった斉彬が最適任と期待されたことです。西郷は斉彬の名代として水戸、尾張、越前、肥後、長州などの諸藩の家老級の重臣と交流を深める一方、斉彬が進める一橋慶喜擁立運動を助けました。

しかし一八五八年に安政の大獄3)が起きると、西郷は一橋慶喜擁立運動に加担した罪で奄美大島に事実上の流刑となりました4)。西郷は、薩摩に残る大久保利通から「留守中、連携すべき他藩の有志は誰か」と尋ねられ、開国派と攘夷派の垣根を越えて八名の名前を挙げました5)。西郷と同じく連絡係を務めていたと思われる越前藩の最下級の藩士、橋本左内を除き、七名が家老級であることに驚きます。これは斉彬の使い番だったことと、西郷自身の器量の大きさ故でしょう。

(3)薩摩藩に固有の家臣団の平等性

私は『西郷隆盛と明治維新』に、「当時の薩摩藩の士族は八階級に分かれており、西郷は下から二番目に属していた」と書きました。しかし、同書を出版後、『福澤諭吉全集』に以下の内容を発見しました6)

「薩摩藩には格式が一二等級しかない。わずか五、六万石の藩でも格式の等級が二〇も三〇もあることを思えば、薩摩藩は大藩にしては大変簡素である」。

「島津家やその親族など、一二階級のうちの上から三階級までは、衣食住にも大家の威風があって別格である。しかし、それ以下の下級藩士はほほ平等である。言葉や応対や付き合いや衣食に格別の差がない。緑組においても、仕事や学問場や武芸の道場においても、藩士達は身分の上下なく入り交り、門閥格式のある様子は全くない」。

「旧薩摩藩の政治はもちろん自由ではなく、他の藩と同様、専制独裁の趣があった。ただし、その専制は藩主と藩士の間にあったのであり、藩士の社会にはカケラもなかった。藩士の社会を制していたのは、ただ仲間の約束のみであった」。

「薩摩の武士は、もちろん君命に従わない訳ではないが、君命に従うのは“君命だから”ではない。“そうすることが仲間の約束だから”従うのだ」。

西郷は一八五九年に奄美大島に流され、同島で三年間を過ごした後、一八六二年二月、赦されて薩摩に戻りました。しかし今度は(斉彬亡き後、薩摩藩の実権を握った)島津久光の怒りを買い(詳しい事情は後述)、わずか二ヶ月後の四月、今度は徳之島(後、沖永良部島)へ流されました。合計五年に及ぶ西郷の流刑生活中にも薩摩藩士の結束が残ったのは、「仲間の約束を大事にする」という薩摩藩士の家風があったからでしょう。これは西郷にプラスに働きました。

Ⅱ.資質

いくら環境に恵まれても、質の劣った指導者ではそれを活かせません。では、西郷にはどのような優れた資質が備わっていたのでしょうか。

(1)識見
 ①誠忠組批判

一八六二年旧暦二月、最初の流刑地である奄美大島から戻ったばかりの西郷は、「島津久光が有力諸藩を無視し、薩摩単独で出兵上京し、幕政改革を行おうとしている」と知り、久光に苦言を呈しました。しかし久光はそれを無視し、三月、誠忠組の大久保利通や小松帯刀を側近に、約一〇〇〇の薩摩兵を率いて鹿児島を出発しました。誠忠組とは、流刑中の西郷を盟主的存在とし、大久保や小松らが主導した藩士の同志的組織です。四月半ば、京都に着いた久光は、天皇の勅使を護衛して江戸に下り、一橋慶喜を将軍後見職に、松平慶永を政事総裁職に任命することを幕府に認めさせました。

一方、西郷は三月末、一連の薩摩の単独行動に批判的な平野国臣(福岡藩浪人)と大阪で密会し、久光の逆鱗に触れ、四月上旬には身柄を拘束され、徳之島に二度目の流刑となりました。流刑地に向かう船の中で西郷は木場伝内[こばでんない]に宛てて手紙7)を書きました。その中で西郷は、自分が奄美に流されている間に久光に取り立てられるようになった誠忠組の不勉強ぶりを批判しています。これを読むと、いかに西郷が傑出していたかが分かります。

「誠忠派と言われる人々は、これまでずっと鬱屈としていたのに、急に島津久光公に認められ、時勢に酔って浮かれている。勤王を唱えさえすれば忠義であると考えているようだ。しかし、勤王を実現する具体的な道筋を尋ねても、全く要領を得ない。目指す政治体制の基本構想も描けていない。日本の現状も幕府のことも諸国の事情も分かっていないのに、天下の一大事をなそうとするとは、物事を知らない人は、その恐ろしさも分からないようだ」。

 ②勝海舟への傾倒

一八六四年二月、久光による一連の幕政改革の挫折を受け、西郷は二度にわたる、計五年に及んだ流刑を解かれ、薩摩藩の軍指揮官として復帰しました。藩兵を掌握できる立場についたのです。同年九月一一日、彼は幕府の軍艦奉行並の勝海舟と初めて会談し、勝の唱える「公議会」論に大いに啓発されました。この初会談の場に同席した吉井友実(薩摩藩士)は、会談の模様を次のように大久保利通に報じています8)

「大久保一翁(幕府の講武所奉行)、横井小楠(熊本藩士)、勝海舟などの議論は、“身分を超えて才能ある者を公議会に集め、国の方針を定める”というもので、現在の困難な状況を乗り切る方法はこれしかないと思う」。

西郷も勝との会見を大久保に手紙で伝えています9)。「勝の政治構想に感服しただけでなく、勝の器量の大きさにも惚れ込んだ」という内容で、次の通りです。

「勝氏と初めて面会した。驚くべき人物で、最初は打ち負かしてやるつもりだったのに、こちらから頭を下げてしまった。どれ程の知略があるのか計り知れない。佐久間象山は学問と見識において抜群だが、勝先生は英雄肌合の人で実践にも優れ、佐久間の上をいく人物だ」。

しかし、勝海舟の日記には「大島吉之助来訪10)」としか書かれていません。五年も流されていた人物のことを、幕臣である勝はよく知らなかったのでしょう。

 ③佐久間象山を尊敬

勝との初会談を伝える手紙にもある通り、西郷は佐久間象山をたいへん尊敬していました。しかし、佐久間は現在の日本思想史の中では評価が低いのです。「象山は〈東洋道徳、西洋芸術〉を唱えて、西洋文明を形だけで捉えて精神を理解しなかったが、福澤諭吉は西洋文明の精神までも捉え、『文明論之概略』を記し、象山を乗り越えた」という評価です。

しかし、福澤が同書を書いたのは一八七五年であるのに対し、象山が〈東洋道徳、西洋芸術〉を唱えたのは一八六二年です。象山はその二年後の一八六四年、京都で暗殺されました。あと一〇年長生きできれば、象山にも『文明論之概略』レベルのものを書けたかもしれません。そう思うと、幕末に不慮の死を遂げた人の思想と、無事に明治を迎えた人の思想を比較するのは、フェアではないと思います。

 ④福澤諭吉への讃辞

西郷は幕末に佐久間象山を読み、勝海舟に会い、一八七四年一二月には福澤諭吉の『文明論之概略』も読んでいました。同書を送ってくれた薩摩出身で陸軍中将の大山巌宛の手紙に、お礼とともに読後の感想が述べられています11)

「とくと拝読し、目の覚める思いがした。数年前より諸賢による海防策が数多く出回っているが、福澤の右に出る者はいないであろう」。

『文明論之概略』の刊行は、この手紙が書かれた翌年の一八七五年八月です。ですから私は『西郷隆盛と明治維新』を執筆中、「西郷が読んだのは、海外の兵学書を福澤が翻訳したものだろう」と想定していました。しかし、印刷技術が未熟だった当時、本として出版される前に原稿が写本として出回ることがしばしばありました。実際、『福澤諭吉全集』の解説によれば、福澤家には『文明論之概略』の写本が一八部、残っていたそうです。そうした写本の一つが、大山の手を経て西郷に渡ったとしても、おかしくありません。

当時、大山は三年間のフランス留学から帰国したばかりでした。そんな大山がもしも慶應義塾に福澤を訪ねたとしたら、福澤から『文明論之概略』の写本を手渡されたことでしょう。それを大山が西郷に送り、その礼状が先の手紙だとしたら、面白いですね。実証的な裏付け史料のない、私の想像にすぎませんが、時に想像力を広げるのも歴史学の醍醐味です。

(2)英雄肌合
 ①勝海舟評価

先ほど紹介した勝との初会見を伝える西郷の手紙の中に、勝を評して「英雄肌合の人」という言葉がありました。相手が英雄肌合かどうかを評価甚準にする人は、多くの場合、「自分も英雄肌合の人である」という自負があります。西郷はまさにそういうタイプだったのでしょう。

 ②熊本(肥後)藩家老 長岡監物[けんもつ]

西郷は下級武士でしたが、島津斉彬の紹介によって熊本藩家老の長岡監物と知り合い、互いに尊敬し合う同志になりました12)。長岡は熊本藩実学党の開祖でした。実学とは儒教の中の一思潮で、「孔子の教えを現実の社会改革に用いる」ことを目指しています。

しかし一八五九年、安政の大獄の余波で西郷は奄美大島に流刑同然となり、長岡も同年死去しました。長岡は身長が一八一㎝もあり、まるで西郷と合わせ鏡のような豪傑な人だったと伝わっています。

(3)義理堅さ

幕末の十数年間は激動の時代でした。志士逹の目指す政治改革の方向性が次々変化したこの時代、義理堅い人でなければ信用されませんでした。

 ①尊攘派浪士、平野国臣との会見

福岡藩浪人の平野国臣は、西郷が先君斉彬の命で朝廷工作をしていた頃の同志でした。一八六二年二月に最初の流刑地である奄美大島から戻ったばかりの西郷は、三月末、大阪にて尊王攘夷派の志士、平野に面会しました。しかし当時、久光は薩摩単独の幕政改革を実行に移すところで、藩士が尊攘派浪士と会見することを固く禁じていました。これを破った西郷は久光の逆鱗に触れ、四月上旬に召し捕えられ、二度目の流刑地である徳之島に流されました。

西郷の義理堅い性格上、いくら久光の厳命があっても、平野から面会を求められれば断ることはできなかったのでしょう。先ほど「誠忠組批判」の節で紹介した木場伝内宛の手紙に、「平野は私をあてにして駆けつけてくれた」という内容の一文が出てきます。薩摩藩を嫌う尊攘派の志士の間でも、西郷の人望がいかに高かったかを物語っています。

(4)粘着力

『明治天皇紀』という、宮内庁が勅旨を奉じて当時の学者らを結集して編集させた明治天皇の伝記があります。この中に、「廃藩置県の詔をめぐって議論が紛糾した。西郷が“異議があるなら、俺が戊辰軍団を率いて鎖圧するぞ”と大喝すると全員従った」というエピソードが紹介されています。

戊辰戦争に勝利した後、一八七一年、西郷は廃藩置県を実行しました。これは単なる藩制から郡県制への変化ではありません。一二世紀末の鎌倉時代から七〇〇年近く続いてきた「藩主が領地と領民と家臣を持って一種の独立王国を築く封建制度」が、一朝にして廃された大革命でした。

ここで強調したいのは、西郷はこの廃藩置県を、尊王倒幕運動の帰結として自覚していたことです。彼の「尊王」は、最後は天皇と国民の間に介在する幕府も藩も廃止させました。そして、西郷の構想では常に「政治の担い手」として想定されていた武士階級も、廃藩置県で藩主や藩士という身分が撤廃されることで、存立基盤を失いました。西郷がここまで到逹できたのは、人並み外れた粘着力があったからです。

(5)構想力
 ①「合従連衡」から「公議会」へ

西郷の主張は、一八五八年に彼が一橋慶喜擁立運動で歴史の表舞台に登場した時から一貰していました。幕府と朝廷を公武合体させ、有力諸大名と有力家臣団が協力する挙国一致体制を樹立すること、すなわち、「有力大名と有力家臣団による二重の合従連衡」論でした。そして、その最大の障害となる「開国か攘夷か」の対立は先送りすることでした。

一八六四年、合計五年に及ぶ流刑を解かれた西郷は、幕府開明派官僚の勝海舟と初会談し、勝の「公議会」論に大いに啓発されました。その結果、一八五八年以来の「二重の合従連衡」構想は、一八六七年の薩土密約における「大名と公卿の“上院”と、各藩有力家臣団の“下院”からなる二院制の封建議会制」「大政奉還により徳川家は将軍職を返上し、一大名として上院議長に就任」という構想に発展していきました。

 ②「藩士の合従連衡」から「藩兵の合従連衡」へ

しかし薩土盟約の政治構想では、二院制の封建議会が発足するにすぎません。実際に行政を担う政府はどこにあるのでしょうか。それだけでなく、公卿と藩主で構成される「上院」に、その家臣団である「下院」が対等の発言権を持てるのかも疑問です。まして大政奉還後も、日本最大の一藩となった徳川藩を代表して慶喜が上院議長に就任すれば、二院制における旧将軍と藩主の力は以前とあまり変わらなくなってしまうでしょう。これでは「藩士の合従連衡」である「下院」が力を発揮できません。

そう考えた西郷は、(薩土盟約の)二院制の封建議会に見切りをつけ、(薩長密約に含まれる)武力倒幕の可能性に賭けるようになりました。西郷は一八六四年に二度の流刑から復権して以来、薩摩藩兵の中心的指導者でした。そこで、その立場を利用して倒幕諸藩と出兵の密約を結び、「藩兵の合従連衡」である「官軍」を形成することで「下院」の発言権を強め、「上院」に対抗させようと考えるようになりました。

こうして西郷らは一八六七年一二月、(徳川を排除するための)王政復古のクーデターを断行し、翌六八年一月には鳥羽伏見の戦いの火蓋を切り、武力倒幕に踏み切ったのでした。

Ⅲ.挫折(報告略)
おわりに

幕末維新期の英雄、西郷隆盛が恵まれた三つの背景と五つの資質を、今日の政治家に求めるのは無理かもしれません。例えば、背景の一つに「薩摩藩に固有の家臣団の平等性」がありましたが、現代の官界、学界、実業界は複雑に細分化され、分断されています。今の人々がそれを超えて「合従連衡」するのは、当時に比べてはるかに難しいでしょう。

しかし政党は本来、同じ志を持つ人々が立場の違いを超えて結合したものですから、「薩摩藩の平等性」に近いものを持つはずです。にもかかわらず、政党内部の抗争が繰り返されるのは、「資質がない」ということでしょう。

列挙した五つの資質のうち、「識見」は学生時代からの努力で身につきます。「識見」を積み重ねていくと、「構想力」に発展していきます。「粘着力」は基本的には天性のものですが、私は日本近代史を五〇年やってきて、二五年目あたりから「粘着力」が身に付いたと自覚しています。「義理堅さ」も努力するうちに培われていきます。こうしてみると、資質のうち四つは後天的努力で獲得できます。対抗エリートたる野党の政治家は努力して欲しいと思います。

ただし、「英雄肌合」だけは純粋に先天的なものです。そして安定期なら学界、官界、実業界のいずれにおいても不要ですが、今日のような変革期においては絶対に必要な資質です。「皆で手分けして英雄肌合の資質を持つリーダーを各界で探しましょう」と申し上げて、本日の講演を終えたいと思います。

*学士会事務局からのお断リ

本文中に出てきた手紙類は、講演では全て原文で(配布資料として) 紹介された。しかし、『學士會会報」掲載にあたっては、講演の要旨であることから、読みやすさに配慮し、現代語訳した大意のみを掲載した。原文に興味のある方は、『西郷隆盛と明治維新』(坂野潤治著、購談社現代新書)か、脚注に記載した各出典を参照されたい。

(注)

  1. 病弱だった第一三代将軍家定の後継を巡って生じた政争。
  2. 木戸孝允日記(明治二年五月一七日) に次の記述がある。「…洋行の人皆世に在リ。当時在国の友、過半黄泉の客となる。今を去る六年、実に人生の事知る可らず」。一八六三年、長州藩から井上馨、伊藤博文、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助の五名がイギリスに留学した。木戸が日記を記した一八六九(明治二)年、彼ら「洋行の人」は全員存命で、新政府の中枢にいたが、久坂玄瑞、高杉晋作など「当時在国の友」は全員亡くなっていた。
  3. 「開国派の大老井伊直弼は天皇の勅許を待たずに日米通商修好条約に調印し、これを非難した攘夷論者たちを弾圧した。これが安政の大獄である」という俗説がある。しかし、本当の対立は将軍継嗣問題にあった。安政の大獄とは、開国派の井伊ら幕府勢力が、同じく開国派である一橋擁立派を弾圧したものであった。
  4. )薩摩藩主島津斉彬は、安政の大獄直後の一八五八年七月、鹿児島にて突然の発病で急死。毒殺説も囁かれている。
  5. 一八五九年、安政の大獄後に西郷隆盛が列挙した「同志八名」のうち、三名が一橋慶喜擁立運動加担の罪で裁かれた。
    武田耕雲斎(水戸若年寄。水戸学の攘夷派)
    安島帯刀(水戸藩家老。攘夷派。切腹)
    橋本左内(越前藩下級武士。開国派。死罪)
    中根靱負[ゆきえ](越前藩上級武士。開国派)
    長岡監物(熊本藩家老。攘夷派。松陰と親交)
    大久保要(土浦藩公用人。攘夷派。松陰とも親交。永押込)
    田宮如雲(尾張藩城代家老。開国派)
  6. 福澤諭吉「薩摩の友人某に与るの書」
    (明治一一年八月、『全集』第四巻。五一二~五一四頁)
  7. 『西郷隆盛伝」第二巻、四四~四五頁。
  8. 『大久保利通関係文書』第五巻、三四二頁。
  9. 『大久保利通関係文書』第三巻、三一二頁。
    一つ前の注で挙げた吉井書簡も同じ勝・西郷会談を報じたもので、同じ一八六四年九月一六日に大久保宛に出されたものである。しかし、吉井書簡は第五巻に、西郷書簡は第三巻に収められているため、二つの手紙の関係性はつい最近まで明らかでなかった。
  10. 三年間、奄美大島に流されていたことから、「大島吉之助」と名乗ったと思われる。
  11. 『西郷隆盛伝』第五巻、一二八頁。
  12. 長岡監物は、安政の大獄後、西郷が奄美大島に流される直前に大久保宛の手紙の中で列挙した「同志八人」のうちの一人。

(東京大学名誉教授・東大・文修・文・昭38)
(本稿は平成25年11月20 日午餐会における講演の要旨であります)