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学士会アーカイブス

江戸文化の魅力を支えているもの 中野 三敏 No.903(平成25年11月)

江戸文化の魅力を支えているもの
中野 三敏
(九州大学名誉教授)

No.903(平成25年11月)号

近年、たった一つの事ばかりに筆を費やしているが、初めてお読み戴く方も多かろうかと、再度その事を書かせて戴く。

御依頼状には「江戸文化の魅力」とあったが、どれほどその魅力を語り尽くそうにも、本当に必要なのは後に述べる通り、その根底に横たわるインフラの問題に帰着しよう。それを現状に委ねる限り、折角関わってきた古典研究の多くの先達方に対しても甚だ申訳ない仕儀になると思い、勝手ながら、その思いの丈を言表させて戴くことにした。

ポイントは簡単なことで、要するに本誌の読者の方々に和本というものの存在、即ち草書体の漢字や、所謂「変体がな」の読解能力やその意義について、御再考戴けないものか――これを私は勝手に「和本リテラシー」などと変な造語で呼んでいるが――という事なのである。

 戦前の九州大学に教鞭をとられた先生方の多くは、文系のみならず、理系の方であれ、殆ど例外なく右のリテラシーは人並み勝れたものをお持ちであられた。これはいやしくも大学という場所全体に通底する能力であったと称して誤るまい。ひきかえて現在の大学では、それは文学部に属する人々の中でさえ精々一割にも満ちるまい。

その始まりが明治三三年(丁度一九〇〇年)にある事は明白で、此の年発令の小学令に、以後、学校教育では平仮名は一音一字、漢字は殆ど活字体のみと定められた。言う迄もないが、此年以前の教科書以外はあらゆる書物や文書類は凡て変体がな(一音につき平均三文字から五文字)と草書体漢字(これは書き手の意向により千変万化)を用いて記されていた。という事は早晩、我が国の読書人が、明治三三年以前の文献には、活字化されたもの以外遡れなくなるであろう事も、十分予測された筈である。しかし、当時の日本の世界史における現況は、何としても西洋化(即ち文明開化)せざるを得なかったであろう。例え平仮名であれ、読書力を備えた一般人を一人でも増やすことは国家の急務であり、その限りにおいて、これは大英断であった。その後開化の進展と昭和の敗戦によって、欧米化には一層の拍車がかかった事は御承知の通りであるし、それに関った先人の努力には大いに敬意を表すべきと思う。しかしその間それのみを良しとして、我が国の文化伝統の継承保持に関し、全く無策であった教育行政の責任は、どれほど追求されても過ぎることはなかろう。

唯一「仮名づかい論争」が闘わされたことは記憶に新しいが、当事者の碩学時枝誠記博士に「所詮我々は負け犬の遠吠であった」という切実な述懐があったことを覚えている。ここには当然、仮名文字の問題も含意されていた筈だが、当時そこ迄考えを及ぼし得た人が何人いただろうか。

特に戦後の我が国ほど、勿論私なども含めて、真の国際人を育成することにおざなりだった国はないとさえ思う。所謂グローバル化の必然性から、外国語や海外事情に通じた知識人の育成には十分な配慮が払われた事は間違いない。科学の進化の功罪は問われる所だろうが、その沃野の福音や恩恵には、私等も十二分に浴してきた。

しかし、ここに言う真の国際人の育成の意味するものは、有史以来先人が培ってきた精神文化・伝統の土壌を、明治のある時点以来、我が国の人々自身が自ら進んで根こそぎにしてきた事に関わっている。グローバル化や真の国際人云々も、当然その文脈に帰着しよう。このままでは、所謂「くずし字」が読めるか読めないかの問題以前に、もはや早晩グローバル化するための「主体」それ自体が跡形もなくなってしまうことは明白である(あるいは、もはやその状況が到来している)。

この問題について、私なりにも顧みて語らねばならないことは多いのだが、与えられた枚数では、この問題にこれ以上触れるわけにはいかないので、若干の懸念を残しつつ、さきを急ぐ。

 この国の活字文化に馴れ親しんだ読書人の殆どは、先人の努力によって、恐らく自国の重要な古典の大半は既に活字化されているものと思いこんでおられるのではなかろうか。明治以前の我が国の書物の総数は、確定された報告はまだあり得ないが、有名な『国書総目録』に著録されたものが公称五〇万点という。加えて今度の三陸沖地震などで煙滅した土蔵の中などに残されていた、〇〇家誰兵衛さんの旅日記などの写本迄含めれば、恐らく一〇〇万か二〇〇万点にものぼる筈で、その中、これ迄に活字化された書物は、その一、二パーセント。数にして一、二万点にも及ぶまい。重要な古典は『論語』や『聖書』の一冊で十分という説もあるにはあろうが、それはまた別のレベルの話で、今、切実に求められているのは、気づいてしまった近代主義の歪みから脱け出すために、何が必要なのか、何を忘れてしまっていたかという事だろう。勿論その為には所謂“世界の古典”も必要ではあろうが、本当の所は未だ近代を経験していない東北の誰兵衛さんが、お伊勢参りの途中で、日本の中の異国(他藩)の、どのような生活に触れ、どのような国家観、人間観、文化観を持ち得たのかを理解し、追体験する事が最も大事なので、その為には未だに活字化すら果たされない(無論、中にはどうでも良いようなものもあろうが)、無数の過去の庶民や知識人の意見に耳を傾けることが喫緊のテーマである筈と思う。しかし、殆どの読書人は僅か一、二パーセントの活字のみに満足して、明治三三年以前の時間軸を遡れるのは、僅かに五、六〇〇〇人ほどの専門家に過ぎないという現状がある。

今、殆どの日本人が考える古典といえば、大方『万葉集』や『源氏物語』に代表されようが、それ等を真の古典として位置づけたのはまさしく江戸時代である事を想い起こして戴きたい。ここで漸く依頼された「江戸文化の魅力」という出題に若干近づけたように思う。

即ち現代の日本人が誇りに思う我が国の古典の、殆どの伝本を集め、テクスト・クリティークし、その精神を論じ、その価値を定着させた所にこそ、江戸文化の本当の魅力がある事は御存知の方も多かろう。

 江戸文化といえば先ず想い浮べられるのは「俗」(江戸に始まった文化)領域の文化だろうが、その凡ては前述した様な『万葉』『源氏』といった「雅」(伝統文化)領域の文化に基づいてでき上がっているのが真の姿なのである。

江戸時代には映像メディアも音声メディアもまだ無い。その代わり文字メディアは「雅」から「俗」まで無数の書物があり、木版本から写本まで多種多彩である。彩色版画としての浮世絵に至っては、欧米先進国の殆どが宝物扱いで大事に保存してくれている。浮世絵のみならず、有名歌人の短冊や、漢詩の掛軸や和本そのものが展示される美術館等も多い筈である。極めて身近な例で恐縮だが、同伴の外国人にその文字の意味を尋ねられて、即座に適確な訓みを下せなかった商社マンの知人が、それをきっかけに和本に親しむようになられた例もある。

戦前の読書人には、大方そうした知見が自然に備わっていたように思う。翻って戦後我が国では空間軸を広げる努力(グローバル化)は極めて良く努められた。それによって経済も思想も大いに発展したことは疑いない。しかし、過去から未来に伸びる時間軸も、洋の東西を問わず存在する。その時間軸を自在に往来する事こそ、文化の継承のあらまほしき姿として期待される所、極めて大であろう。重ねて云う。現代日本人の九分九厘までが明治三三年以前には遡れないという現状が実在している。だからといって、私はそのリテラシーさえ持てば良い等と言いたてるつもりは全くない。近代人だからこそ、その両方(空間軸と時間軸)のリテラシーが持てるし、持つべきであると言おうとしているに過ぎないのである。

最早如何ともし難いと思われるかもしれぬが、小学令の発布状況に鑑みれば手段は勿論ある。当時の小学校は四年生の尋常小学校であり、日本人の九割迄が、それ以上の教育を受ける可能性は殆ど無かったという。その為に変体がなや訓みの難しい草書体漢字では間に合わず、一音一字制を採った。前述した通り、これは大英断だったと確信する。

現在の日本の教育のベクトルは、これとは正反対ではなかろうか。大学の進学率も、五、六〇パーセントといわれるが、自身の実力に見合った大学を選べば、ただでさえ少子化を嘆く大学だから、恐らく一〇〇パーセントの進学も可能だろう。正反対のベクトルを示す現状だからこそ、まずは小学生に「くずし字」というものの存在だけでも教えるべき時なのではないか。初めて習う文字であれば喰いつきも良いに違いない。但しそれを教える先生の能力にも問題がある。これも解決策は簡単で、教員資格認定試験の国語科の一つに入れさえすれば良い。大学生なら古文の文法にも一応慣れている筈だから、クリアーするのは意外に簡単であろう。但し、文科省の学習指導要領の改訂が最大の難事であることは、若干でも関わりを持った人間なら誰しもが知っている。ここは本誌読者の皆様方に御賛同戴きたい所で、もしその時がくれば、或いは平時に於いても大声を発して戴きたいこと切である。

事柄は我が国に真の国際人を育成する為の勘所である。グローバル化は恐らく民間の力に頼っても大方は為しとげられよう。しかし時間軸の往来は、経済とは直結しないが故に、ここは官の出番であう。国家百年の計とはこうした事を言うに違いないと確信する。

一端こうした構想が動き出せば、後はそれなりの社会環境を用意して、三〇年待てば宜しいのではないか。既に明治三三年からは一世紀以上を経ている。三〇年くらい待つのはたやすい。その間に時間軸に目覚めた頼もしい未来の国際人が自助努力を続けてくれることに期待したい。

だからといって私は、小学生に英語を教えるのは不要だなどと言っているのでもないし、また、我田引水的な近代主義批判のみを主張するつもりもない。近代に生を亨けた我々だからこそ、折角先祖が作りあげてくれた文化遺産を活用する事が望ましいと切実に思うからである。そうしないと本当に勿体ないのではないだろうか。小学生の柔らかい頭は、英語でも変体がなでも草書体漢字でも(彼等にとっては皆外国語と同等だろう)、興味さえ持てればどんどん吸収してくれるに違いない。今日のような重層的危機感を妊む時代に、私ごときには見果てぬ夢ではあるが、そこに期待する以外は無いと思いつつ、年頭の講書始にも、このことを申し上げさせて戴いた。願わくば実効あらんことを。

(九州大学名誉教授・九大・文博・昭57)