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裁判員制度について 松尾 浩也 No.892(平成24年1月)


裁判員制度について
松尾浩也
(日本学士院会員・東京大学名誉教授・法務省特別顧問)
No.892(平成24年1月)号

要約
平成ニ一年にスタートした裁判員制度について、成立までの経緯やこの制度に対する二年間の裁判員と裁判官の感想・評価、及び今後の課題を中心に解説。
また、諸外国における国民参加型裁判の起源と制度の変遷を紹介するとともに、大正時代に日本にできた陪審法についても現行の裁判員制度と比較しながら言及する。

外国における国民参加
まず、外国における国民参加はどうなっているかを見ていきます。陪審制度が最初に登場するのは、イギリスです。一一世紀という早い時期に、陪審制度の萌芽が認められます。その頃、ヨーロッパはいわゆる民族大移動の時代の一つです。ノルマンディー公がフランスからイギリスに渡り、イングランドを征服しました。その後、地域の住民を集めて土地の調査にあたらせたことが記録に残っています。これが、陪審制度の起源と言われているものです。

やがて一二世紀になると、今度は地域の住民を招集して犯罪の申告をさせるようになりました。これは、「起訴陪審」あるいは「大陪審」と後世に呼ばれる制度の始まりです。大陪審の「大」は、人数が多いという意味です。そして一三世紀になると、裁判のやり方に合理性を求めるようになり、証拠によって事実を認定する動きが出てきました。

それまでは神判(ordeal)が広く行われており、日本でも、神判に相当するものが「

盟神探湯
[
くがたち
]

」と呼ばれていました。日本の盟神探湯は、熱湯が入った釜に手を突っ込んで、やけどをするかどうかを見るものでした。熱湯に非常に静かに手を入れると、手とお湯の間に一種の層ができてやけどをせずに済みます。つまり、無実の人間であれば落ち着き払ってゆっくり手を入れることができます。これに対し、真犯人は心が動揺しているので、慌てて手を突っ込んで大やけどをするだろうという説明が一応あります。しかし、もちろん、それが非合理的なやり方であることは言うまでもありません。西洋でも熱湯の中に指輪を入れてそれを拾わせる、あるいは、パンを食べさせてのどに詰まるかどうかを見る、あるいは、水に放り込んで浮くか沈むかを見るなど、同じようなものがありました。

そういう非合理的な制度を克服して、一三世紀には現代の裁判にだんだん近付いてきました。この頃の陪審は、「審理陪審」あるいは「小陪審」と呼ばれます。イギリスでは、審理陪審の人数が一二人というのは比較的早くから決まっていて、「小陪審」という言葉ができました。しかし、審理陪審といっても陪審員はまだ一種の証人です。同じ地域のことなので事情に通じていて、犯罪について証拠を持っているだろうという証人的な役割が続きました。

一八世紀になってようやく、裁判体としての性格がはっきりしてきました。そして、裁判官との間に分業が成立して、事実認定は陪審が行い、刑の量定は裁判官が行うようになりました。陪審制度の特徴としては、unanimous verdictという一二人全員一致の評決が要求されるようになります。

イギリスは、当時、世界各地に植民地を持っていました。いわゆる英連邦諸国で、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどに陪審制度が広がっていきます。そして、一八世紀末になると、フランス革命をきっかけに、イギリスの陪審制度はヨーロッパ大陸の諸国にも広がりました。しかし、二〇世紀に入りますとイギリスの陪審制度にも変化が出てきます。大陪審は、一九三三年に廃止されました。小陪審も全員一致の要件は維持されなくなりました。一九六七年の法律によると、陪審員が評議を始めて二時間たっても結論が出ない場合は、多数決で一二人中一〇人の賛成があれば有罪の評決ができると要件が緩和されています。

一方、アメリカは、イギリスの植民地として、陪審制度を受け継いでいました。しかし、イギリスとアメリカの間に独立戦争が起きました。イギリス本国と植民地アメリカが対立した原因としては課税権問題がありましたが、その他に、イギリスが植民地における陪審裁判を廃止しようとしたこともありました。

イギリスは、本国から派遣している裁判官による裁判にしようと試みて、陪審裁判を当分停止する決定をしたため、アメリカで非常に強い反発が生まれました。そういう経緯で独立戦争が行われたので、アメリカにとって陪審制度は建国の歴史と結び付いた重要な問題なのでした。ですから、その後、アメリカ合衆国憲法を作った時に陪審制度を国民の権利として重視したわけです。「大陪審による起訴を保障する」「審理陪審による判断を受ける権利も承認する」と、合衆国憲法には陪審に関する規定が十分に盛り込まれて現在に至っています。

各州の憲法も似たような規定を持っています。特に審理陪審は、アメリカ全域で行われています。起訴陪審の方は、既に廃止した州もかなり多くあります。全員一致の要件は多くの州で維持されていますが、例外を認める州も出てきています。陪審は事実認定をし、裁判官は刑の量定を行うという分業も概ね守られていますが、死刑については陪審の判断を必要とする州もいくつか見られます。死刑制度と陪審の関係が、ある意味で積極的に捉えられているのです。

ヨーロッパ大陸に戻ります。フランスの場合は、フランス革命自体がバスチーユ監獄襲撃から始まったと言われるように、刑事司法に関する不満も非常に強烈でした。革命が終息した際に、当然のこととして刑事手続きの改正が主張されました。手本は隣国イギリスです。モンテスキュー、ヴォルテールといった思想家の主張もあって、イギリス流の明るい刑事裁判を採用することになり、フランスは、最初、起訴陪審と審理陪審の両方を併せて陪審制度を採択しました。革命後に登場したナポレオンは立法に非常に熱心で、いわゆる「ナポレオン法典」を作ったのです。そのうち、刑事手続きに関するものは「治罪法」と呼ばれました。この時、起訴陪審は採用されず、審理陪審だけ採用されました。犯罪を重罪、軽罪、違警罪と重さによって三つに分け、重罪の審理を陪審に委ねたのです。その後、審理陪審に対しては、無罪をむやみに言い渡すという批判が強まり、二〇世紀前半に改革が行われ、裁判官と一般国民が、事実認定についても刑の量定についても協議をし、一緒に判断をする制度に移行しました。これは、日本で「参審制」と呼ばれるものです。その後、フランスでは法律の改正などもありましたが、現在は裁判官三人、一般国民九人、合わせて一二人で裁判が行われています。「陪審員」という名前は残っていて、フランスでは「陪審裁判所」という名前で呼ばれています。一二人ですが、有罪の判断は八票以上が必要です。陪審員は、選挙権よりも少し年齢を上げて二三歳以上です。

ドイツの場合は、一九世紀半ばにフランスの影響の下に陪審制を導入しました。その頃、日本は明治維新の時期でしたが、ドイツも四〇近いLandに分かれてばらばらだった国が統一され、ドイツ帝国になりました。その後、ドイツ帝国の法典が次々に制定されました。明治一〇年には、刑事訴訟法と裁判所構成法ができました。重罪はフランスに学んだ陪審制度を採用し、裁判官三人、陪審員一二人で、事実認定と刑の量定とを分業で行います。一方、軽罪はドイツ流の参審制度を制定しました。裁判官一人、一般国民二人の三人が一緒に相談しながら事実認定と刑の量定をする方式です。しかし、二〇世紀に改革が行われ、陪審制を廃止し、参審制に移行しました。一九二四年のことで、世界大戦が終わり経済的に非常に疲弊していて、財政的に陪審制度は維持できないことが大きな理由でした。現在も重罪・軽罪ともに参審制が行われています。重罪は裁判官三人と参審員二人、あるいは裁判官二人で裁判をすることもあります。軽罪は裁判官一人、参審員二人です。参審員は、市町村の推薦に基づき委員会が選定します。二五歳以上七〇歳未満、任期は五年です。

韓国は、日本より一足先に制度を実施しています。「国民の刑事裁判参与に関する法律」が、二〇〇七年に制定され、翌年から施行されています。韓国では「陪審」という言葉を使い、陪審員はくじ引きで決める無作為抽出です。死刑・無期に当たる事件は陪審員九人、その他の事件では七人です。評決は全員一致が原則ですが、場合によっては裁判官の意見を聞きながら多数決で行うことも認められています。陪審員は量刑にも参加し意見を述べますが、陪審員の下した評決、有罪か無罪かという判断、量刑についての意見はいずれも裁判所を拘束しません。これは、日本の大正時代に作られた陪審法の影響が感じられます。国民参与裁判でうまくいかないときは、普通の裁判官の裁判に移してよいことにもなっています。

日本の大正陪審法
次に日本における国民参加の経験です。大正時代に陪審法ができました。背景として、明治末に重大な事件が続けて起こりました。一つは日糖事件です。砂糖を造る大日本製糖株式会社が砂糖の価格の低落に悩み、租税の関係で何とか優遇してもらうため、国会議員に働きかけて有利な税法を作ってもらおうと賄賂を贈った事件です。

日露戦争が終わりしばらくたった時期で、日本は日露戦争のために増税しました。当時の選挙制度では、一定額の税金を納める人が選挙権者でしたが、増税の影響で選挙権者の数が非常に増えました。ですから、代議士たちは今まで以上に選挙にお金がかかることになりました。今で言う政治とカネの問題の発端がこの辺りにあります。それに対して検事局が大規模な摘発を行い、政治家と財界人の両方を処罰しました。これについて、当時、次第に成長してきた政党が危機感を持ったのは当然のことでした。

もう一つの大逆事件は、幸徳秋水を中心とする無政府主義者が天皇の暗殺を計画したとして起訴され、二十数人が死刑判決を受けた事件です。当時、裁判は天皇の名においてこれを行うことになっていました。こういう危ない事件を従来のやり方で済ませるのは、いつか問題が起こりかねないと考えたのが政友会の原敬総裁でした。政友会は陪審制度の採用に非常に熱意を示すようになりました。原敬は大正七年に政権を獲得して内閣を組織し、政策の一つとして陪審法の推進を掲げました。これに対し反対意見はあちらこちらにあり、特に原内閣を悩ませたのは枢密院の反対で、立案は非常に難航しました。

反対論者は、そもそも陪審制度は憲法違反であるという主張を掲げました。当時の憲法は、国民に「裁判官ノ裁判ヲ受クルノ権」を保障すると規定していましたので、陪審裁判は裁判官の裁判ではないという違憲論がありました。政友会は、そうした問題を何とか乗り越えて陪審法の成立にこぎ着けましたが、審議の過程で大幅な妥協を余儀なくされました。特に、陪審の評決は裁判所を拘束するわけではないと説明するために、「裁判所は、陪審の答申に不満があるときは、もう一度、別な陪審員を招集してやり直すことができる」という趣旨の規定が入りました。また、全員一致どころではなく、単純多数決の「七対五」で有罪にできることになりました。これは、アメリカなどの本来の陪審制度から見ると、似ても似つかぬものになったと言うべきでしたが、ともかく、大正一二年に陪審法が成立し、昭和三年から施行されました。成立から施行までの約五年は準備期間でした。政府は非常な熱意を持って広報活動を行いました。また、全国各地に陪審法廷、あるいは陪審員の宿舎を新築しました。裁判官、検察官、書記官も大幅に増員しました。

大正陪審法が対象にした事件は、二種類ありました。一つは法定陪審事件で、当然、陪審に係る事件とされた死刑または無期の事件です。もう一つは、三年以上の懲役・禁固の可能性があり、被告人が陪審裁判を請求すれば陪審になる事件で、請求陪審事件と言われました。両方合わせて年間二千三百件程度の事件が予測されるというのが、当時の司法省の考えでした。ところが、この予測は大きくはずれました。被告人が公訴事実を認めていれば、その事件は除外されます。さらに、法定陪審事件の場合でも、被告人が辞退することが認められていました。「陪審裁判でなくても結構です。裁判官の裁判を希望します」という場合は、そうなりました。

陪審員の資格は、三〇歳以上の男子で一定額以上の納税者でした。昭和二年の数字が残っていますが、全国で一七八万人程度でした。昭和三年一〇月から施行して、その翌年の実績が法定陪審一三三件、請求陪審七件という程度で始まりました。しかし、昭和四年がピークでした。以後、年々減少し、一〇年後の昭和一三年には法定陪審が一年間に四件、請求陪審ゼロでした。そこで大正陪審法は「今次ノ戦争終了後再施行スルモノトシ」と、昭和一八年に施行が停止されました。それまでの一四年半の実績は、すべて足しても四四八件しかありませんでした。

大正陪審法が挫折した理由はいろいろな説がありますが、結局、国民参加を盛り立てる雰囲気がどこにもなかったことです。裁判官、検察官、弁護士はもちろん、被告人自身も望まなかったことにあります。戦争終了後再施行となっていましたが、戦後も復活しませんし、憲法にも陪審についての規定は含まれていません。

検察審査会の始まりと起訴議決の新設
しかし、戦後、日本は別の形で国民参加を経験しました。それは、検察審査会という制度です。戦後改革の一環として、昭和二三年に検察審査会という制度が始まりました。設置の趣旨は、「公訴権の実行に関し民意を反映せしめてその適正を図る」というものでした。

主な任務は、検察官が公訴を提起しないという処分をした場合に、それが妥当かどうかを審査するものです。英・米の起訴陪審は、公訴を提起してよいかどうかを審査するので、起訴陪審が承諾しなければ起訴できない制度です。日本の検察審査会は、いわば方向が逆です。検察が起訴しないことを問題とし、これは起訴しなさいという方向の判断をするものです。

審査会の構成は、「選挙権を有する者の中からくじで選んだ一一人」で、無作為抽出です。任期は六箇月で、三箇月ごとに半数が交代します。七〇歳以上は辞退可能というのが検察審査会法の規定です。犯罪の被害者などの申し立てにより審査を行います。

検察審査会の議決の効力は、制定当時から問題にされました。検察審査会の判断は三種類あり、検察の不起訴に対して、「それで結構だ」という不起訴相当、検察が不起訴にしたのは「不当でもっときちんと調べて再考せよ」という不起訴不当、そして、一番強い判断は起訴相当で「起訴すべきであった」というものです。最後の起訴相当は、一一人中八人の賛成を必要とする制度です。議決をすると、それを検事正に送ります。検事正は、これを参考に起訴・不起訴をもう一度判断しました。検察審査会の議決には、平成二一年まで拘束力がありませんでしたが、同年に改正法が施行され、検察審査会が「起訴相当」の議決をした場合、一定の手続きを踏むと拘束力を発揮することになりました。

平成二一年の統計を見ると、起訴相当が一一人、不起訴不当が一一三人、不起訴相当が一八六六人でした。不起訴相当の数が圧倒的に多いですが、若干ながら起訴相当、不起訴不当という判断がありました。これを受けて検事正が再考し、起訴したのは三六人、不起訴維持が一〇四人でした。

平成一六年改正で、「起訴議決」という制度が新設されました。これも準備期間が五年あり、先ほど申しましたように、平成二一年から施行されています。起訴相当の議決を受け取った検事正が再度の不起訴処分をした場合、検察審査会はこれをもう一度審査し直して、起訴相当と認めると「起訴すべき旨の議決」をすることができることになりました。これが起訴議決です。こうなると、後は検察庁ではなく、裁判所が動くことになります。裁判所が、弁護士を指定して公訴の提起および維持を行わせます。

実例として、現在までに三件ありました。一つが何人かの犠牲者が出た明石花火大会歩道橋事故です。明石警察署の副署長は不起訴でしたが検察審査会が起訴議決を下し、裁判が進行しました。次がJR福知山線脱線事故で、検察は歴代社長三人を不起訴にしましたが、検察審査会が起訴議決をしました。最後が一番大きな波紋を呼んだ陸山会事件で、民主党の元代表に対して起訴議決が行われました。

裁判員制度の成立
裁判自体に国民が参加することの機運は、だんだん醸成されました。一つは、最高裁判所による海外調査の実施です。昭和六三年から、アメリカを皮切りに、ヨーロッパ諸国に裁判官が派遣され、刑事裁判に対する国民参加の実情を調査し、詳細な報告書を提出しました。これは、非常に貴重な資料でした。もう一つは、市民運動です。佐伯

千仞
[
ちひろ
]

元京都大学教授を中心に、「陪審制度を復活する会」が生まれました。これは各地に支部を置き、大正陪審法の復活に努力しました。

そうして、いよいよ裁判員制度の成立に近付いてくるわけですが、平成一一年に一連の司法制度改革の検討が始まりました。司法制度改革審議会が設置され、任務の一つとして国民の司法制度への関与が掲げられました。ただ、「司法制度への関与」といっても漠然としています。当初の議論では、民事訴訟への関与もあり得ましたが、何といっても国民参加といえば誰でも陪審法を連想しますし、刑事裁判がイメージされます。そこで、平成一二年暮れ近くに出た中間報告では、刑事訴訟事件の一定の事件を念頭に置いて、我が国にふさわしいあるべき参加形態を検討するということになりました。

司法制度改革審議会は、それまでにいろいろな問題を処理してきましたが、最後に残ったのが国民の司法参加でした。平成一三年一月に、私を含めて三人がヒアリングに招請されました。藤倉皓一郎さんは英米法の大家ですから、アメリカの陪審制度の持つ意味について述べました。三谷太一郎さんは日本の政治史に詳しく、特に大正陪審法の成立の経緯について精密な著書を出しています。三谷さんはそのことについて触れると同時に、自衛隊についてシビリアン・コントロールという言葉がありますが、「司法についてもシビリアン・コントロールという考え方が必要だ。国民参加がその役割を果たすだろう」という趣旨のことを言われました。私は専門が刑事訴訟法なので、刑事訴訟法の面から見た場合、日本の刑事訴訟の特色はどうであるかを話し、結局、現在の裁判員制度に到達するプランを申し出ました。

その後、改革審議会の審議を経て、さらにそのあと検討会ができ、約二年間論議された結果、最後にできたのが、「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律(裁判員法)」でした。

裁判員制度の骨格は、無作為抽出であるランダム・サンプリングである点と、一件だけ負担して終了する点が、アメリカ流の陪審制度と共通でした。一方、ドイツ・フランス流の参審制度との共通点は、事実認定と量刑の双方に関与すること、手続きの全般を裁判官と一緒に判断することです。両方の性格を持っています。

具体的な制度の策定は、裁判員制度・刑事検討会が担当し、裁判員の人数は六人になりました。もっとも、法律には「場合によっては四人でもよい」という規定が入りましたが、実際上、一回も使われていません。すべて六人で今日に至っています。

対象事件は、「死刑・無期の懲役・禁固に当たる事件」と、「故意の犯罪が行われたために、その結果として被害者が死亡した事件」です。例えば、傷害致死は傷害を与えるという部分は故意の犯罪です。それで被害者が死亡した場合、死亡についてまで故意があれば殺人罪になりますが、殺人罪でなくても、故意の犯罪で被害者を死亡させた場合は該当します。

改革審議会で私が申した意見は、ほぼすべて採択されました。約五年の準備期間があり、熱心な広報活動が行われたことは大正陪審法の時と同じです。ただ、違いもあります。一つは、特に裁判所を中心に五〇〇回を超える模擬裁判が熱心に行われました。また、裁判員の選任手続きも、二五〇回もの模擬選任手続きが行われ、どんな問題点があるか、どんな困難が生じるかについてのノウハウが大量に蓄積されました。もう一つの違いは、刑事訴訟法の大幅な改正が行われたことです。裁判員法が成立したのは平成一六年ですが、それと日を同じくして刑事訴訟法にも大改正があり、従来はなかった公判前整理手続きが導入されました。あるいは、検察側が持っている証拠を被告人、弁護人側にあらかじめ見せるのが証拠開示の根本ですが、それが充実しました。被疑者に対する国選弁護も拡大されました。さらに、日本の刑事裁判は、しばしば「五月雨式」と呼ばれ、ある日公判期日を開くと、次回は一ヶ月先になったりしました。私どもは、それは適切でないと考えながら、なかなか是正できないでいましたが、裁判員法の施行と同時に連日的開廷が宣言され、実際に行われるようになりました。裁判員法は一昨年(平成二一年)の五月二一日に施行され、同年八月から最初の事件の審理が始まりました。新聞等でも非常に詳細に報道されました。

平成二二年の一年間の統計を見ると、裁判員裁判を受けた被告人は一五〇〇人余りです。内訳は、強盗致傷や殺人が多いです。選任された裁判員の数は八六〇〇人余り、審理期間は事件によって若干長短がありますが、約七割の事件が四日以内で終わっています。

裁判員制度の評価と課題
国民参加に対する評価ですが、裁判員を経験した人たちはその後に記者会見などを開き、感想を述べています。ほとんど一致して「貴重な体験だった」、「やってよかった」というものです。最高裁判所では裁判官の感想も取りまとめたいと、東京、大阪、名古屋の各高等裁判所で裁判員裁判を経験した裁判官を集めて意見交換会を行いました。裁判官も「裁判員の真剣さに感銘を受けた」、「新鮮な視点からの意見を聞いて有意義であった」、「裁判員との評議を経た結論は、骨太で深みがあると感じた」と感想を述べています。

もう一つ、刑事裁判の在り方という角度から見ますと、「調書裁判」というのは日本の刑事裁判のやり方を批判する言葉ですが、裁判員裁判では捜査段階で作られた非常に詳細な大量の調書に依存する従来型の公判審理から脱却したと言うことができます。公判前に争点、あるいは証拠を十分整理した上で連日開廷し、公判廷での証言を基礎にして裁判が行われるのです。昭和二三年に刑事訴訟法を大改正した時の目標がほぼ十分に達成されました。

ただ、将来のこととして問題が生じ得ることも覚悟していかなければいけません。例えば、報道によると現在までに裁判員が死刑を言い渡したのは八件あります。その種の事件が今後もあり、中には被告人が強く異を唱えている難しい事件も出てくると思われます。死刑制度の問題そのものも大きな課題です。日本では死刑という刑罰が存在するのは当然のような感覚ですが、ヨーロッパ諸国は全く違い、大陸の隅から隅まで死刑を廃止しています。「日本のような犯罪の少ない先進国が、なぜそういう刑罰を許しているのか」とよく聞かれます。一方、アジア、アフリカ、北アメリカが死刑を残しています。中南米は廃止しているところが多いです。死刑という刑罰は、地域によって評価が違うのです。もちろん、大きな流れとしては廃止の方向に動いていると思いますが、裁判員の人たちが自分の経験として死刑の問題に取り組むことは、今後、どういう意味を持ってくるかという点にも注目して見ていきたいところです。

日本の場合、死刑は悪であるから直ちに廃止せよというだけの議論で廃止ができるものではありません。国民を交えていろいろな意見を交換しているうちに、おのずからなる方向が出てくることが望ましいと考えております。従来、刑事裁判は「お上のことに間違いはございますまいから」というのが一般国民の意識でした。しかしながら、裁判員制度は「お上のなさることとして任せている時代ではなくなった」ことの表れです。

昨年、検察庁に関連して一連の問題が起こりました。現在、検察は生まれ変わるべしということでいろいろと検討が重ねられています。お上のなさることにも間違いはあり得るわけで、それについて国民が国民全体の問題として事柄を捉えていくことが大事ですし、現にそれができる時代になりつつあります。検察の問題として、日本の刑事裁判は外国と比べて有罪判決の率が非常に高く九九・九%です。外国の研究者からは驚かれます。効率の良さに感歎される一方、批判もされる数字です。九九%の有罪率がなぜ実現しているのか。これは、検察が起訴をする際に証拠を綿密に選び、確実に有罪になる事件だけを選択して起訴していることが主な理由です。それだけに、一旦起訴すると何としてでも有罪に持ち込む傾向が出てきます。無罪の判決を受けると、それ自体に対して社会的な批判が生じます。これも外国とはかなり違います。そういう雰囲気の違いを作り出しているのは、国民全体の持っている感覚です。その辺りまで含めて、今後考えていくべき問題であると認識しております。

(日本学士院会員・東京大学名誉教授・法務省特別顧問・ 東大・法・昭29)
(本稿は平成23年7月20日午餐会における講演の要旨であります)