学士会アーカイブス
法学部系大学教育の難しさ――日米それぞれの問題点―― 松山 幸雄 No.888(平成23年5月)
法学部系大学教育のむずかしさ
──日米それぞれの問題点──
松山 幸雄
(共立女子大学名誉教授・元朝日新聞論説主幹)
No.888(平成23年5月)号
有意義だった旧制高校の教養主義──J・S・ミルとトーマス・グレイ
物持ちのよい大学時代の同級生T君から、「ご参考までに」と、一枚の古ぼけたコピー紙が送られてきた。一九五〇年(昭和二五年)二月、一緒に受験した旧制東大法学部入試問題である。日米教育文化比較論を長年手がけている私にとって、これは「ご参考」以上に有り難い資料だった。出題は次の七問。敗戦後まもなくのことだから、お粗末な用紙、手書き、ガリ版刷り、である。制限時間は恐らく二時間だったと思う。
二、ユネスコ憲章前文についての論評
三、「歴史は繰り返す」という説について
四、国富論
五、江戸時代の洋学
六、内包と外延
七、西城
六〇年以上経ったいま読み返してみても、これは実によくできた問題だったと感心する。高校時代にどういう教養を積んできたかが一発でわかるからだ。採点、集計には、たいへんなエネルギーを必要としたに違いないが、そこにはできるだけ質のよい学生を採りたい、とする大学側の意気込みがはっきりうかがわれる。実際この問題をアメリカ人の教授に英訳して見せたら、「短時間のうちに、幅広い碁礎的な知識と、論理的な思考力と、簡潔な表現力とを試す、という意味で、素晴らしいテストだと思う」と感嘆していた。
英王立国際問題研究所で講演した際、私の英語を以て日本人のインテリ度を測られてはいけないと、最後の部分でちょっと虚勢を張り、「私のハイスクール時代の英語の教科書は、J・S・ミルの『自由論』や、トーマス・グレイの『エレジー』だった」としゃべったら、聴衆はみな「高校でそんな高級なものを読んでいたとは」と尊敬のまなざしを向けてくれた(なお、旧制高校を「ハイスクール」としたのは、意図的誤訳)。
私は必ずしも「旧制教育礼賛者」ではない。旧制高校生に往々見られた安直なエリート意識、バンカラ、自由とだらしなさのはき違え……など、批判されるべき問題点は多々あったと思う。しかし十代の後半に、やや背伸びしながら文学や歴史や哲学関係の本を読み、思索し、友人と議論する生活は、その後法学部、経済学部、文学部……どういうコースを辿るにせよ、いや理科系の職業に就く場合にも、たいへん有意義だったと思っている。
実際、旧制高校時代、教科書とは別に『近世に於ける「我」の自覚史』(朝永三十郎)、『哲学ノート』(三木清)、『学生に与う』(河合栄治郎)、『三太郎の日記』(阿部次郎)などは必読書とされていたし、ゲーテ、ロマン・ロラン、ドストエフスキー……早熟な者はキェルケゴールやサルトル……もちろんマルクスに入れあげる者もいた。
対外戦闘力不足の原因は?──消極的な人間をつくる大学教育
問題は、本郷に移って教育の質が、がらりと変わり、人格形成とは無緑の、しかも受け身の実学オンリー、になってしまった点にある。私の籍を置いた法学部法律学科では、数十人、しばしば数百人の学生の詰まった大教室で教授が一方的に講義する授業がほとんど。学生はただノートをとるだけで、質問したり、自分の意見を整えたり、それを発表して批判してもらう機会は、(ゼミは別として) 全くといってよいほどなかった。中年以降アメリカの大学や国際シンポジウムで劣等感に悩まされるたびに、彼我の「対外戦闘能力」の歴然たる差は、二〇歳前後の知的鍛え方に主因がある、と確信するようになった。後悔先に立たずだが、私も頭のやわらかい青年期に、もっと論理学、批判力、独創性、発表力、当意即妙の瞬発力、などを身につけさせてもらっていたら、と残念でならない。実際問題として、国際社会で活躍している日本人で、「私の今日あるは、本郷の教室での訓練の賜」と感謝している人に、私は出会ったことがない(最近授業の形態はだいぶ違ってきた、とも耳にするが)。
大学法学部時代に培われた「消極性」が習い性となって、国際会議でも始めから終わりまで発言することなく、いくつかメモをとるだけで事足れり、とする〝日本代表〟がいかに多いことか。しかし海外では、授業であろうと会議であろうと、発言しないでいると、寝ているのか、興味がないのか、英語が聞き取れずついていけないのか、と誤解(ときに正解?)されてしまうのだ。
アメリカの多くの大学では、新入生は最初の半年間プレゼンテーションの猛訓練を受ける。また小論文をいくつも書かされる。本番の授業でも、授業中に教授から指された場合きちんとした応対ができないでいると、恥をかく(平常点が低くなる)ことになるから、十分な予習が欠かせない。
教壇の上下の緊張関係──大切な「知的独立独行の習慣」
ハーバード・ロースクールで客員教授をつとめた柳田幸男弁護士によると、同校の教育理念は「知的な独立独行の習慣を磨くこと」にある。いわゆるソクラティック・メソッドで、学生たちは自分の考えを明確に表現することが求められるから、教壇の上下の緊張関係は、東大の比ではない。「教科書主体の講義方式は、ザルに水を流し込むようなもので、水は十分あるかもしれないが、全て流れ去ってしまう」(ハーバード大エリオット総長)とすれば、私のような〝目の粗いザル〟にとって、教授の(著作はともかく)講義が、ほとんど引っかからなかったのは不思議ではない。
米カリフォルニア州のモントレー大学で、「日本の政治文化」について二週間集中講義をしたことがある。引き受けたときは、「政党」「官僚」「マスコミ」などについて、基礎的な話をすればよいのだろうと気楽に構えていたら、一ヶ月前に「必読書五冊、参考文献五冊を事前にお示し願いたい」と注文してきた。そこでライシャワー、ボーゲル、カーティス、クリストファーといった知日派の学者、ジャーナリストの著書を七、八冊指定したところ、受講生二〇人全員が明らかに全部を精読してきているので驚いた。鋭い質問攻めに苦戦しながら、これでは日本の大学出がアメリカの大学出にかなうはずがない、と身にしみて感じた。
アメリカの大学や外交評議会などに招かれた場合、講演だけでおしまい、ということはまずない。割り当てられた時間の半分以上は、質疑応答に回されるのが普通だ。私は英会話による問答をあまり得意とする方ではないので、なるたけ講演時間の方を長くしようとするのだけれど、「質問を受け付けないのでは、魚だけで肉の出ない料理のようなものです。聴衆の知的食欲は満たされないでしょう」と、いつもこちらの要望は一蹴されてしまう。
アメリカの大学教育の欠点──行き過ぎた「優勝劣敗」思想
日本人が初対面の相手に対してまず注意を払うのは、(一)その人の属している組織、(二)肩書き、(三)学歴、(四)人柄に協調性があるかどうか、であることが多い。一方アメリカの人物判定で重視されるのは(一)瞬発力、(二)論理的な発言、(三)ユニークさ、(四)ネアカな気質とユーモアのセンスだ、くらいに思っておいた方がよいようだ。こうした〝国際社会向き〟の資質は、生まれつきもあるが、アメリカ人の場合、主として学校、とりわけ大学時代に身につけ、伸ばしてきたのだといって間違いない。誤解なきよう。私は決してアメリカの大学教育のやり方に全面的に心酔しているわけではない。いやそれどころか、天下の秀才をロースクールやビジネススクールに集め、(大統領選挙ではあるまいし)連日他者の欠点指摘、自己顕示の猛訓練をやっているのを見て、今日のアメリカの「混迷」、「衰退」、「国際的な声望の下落」の源ここにあり、という気さえしている。世界経済に大迷惑をかけた数々の米財界の不祥事は、彼らの短期的視野による「成果至上主義」の行き過ぎから起こった、といっても過言ではないだろう。こうしたなりふり構わぬ利益追求型「ジャングル資本主義」(シュミット元西独首相)は、折角共産主義に勝った資本主義を、魅力ないものにしてしまった。
国内的にも「優勝劣敗」思想が、アメリカをぎすぎすした、住みにくい社会にしている。プロ野球界なら「役立たず」が「戦力外通告」をされても仕方がないかもしれない。しかし幸せな社会をつくるには、「思いやり」「調整力」「統率力」「忍耐力」といった、長期的にものをいう能力を大事にすることも必要なのではないか。
私は交換留学生や外国人のホームステイの仕事にいくつか関係しているが、アメリカ人であろうと中国人であろうと、日本に数週間滞在すると、ほとんどだれもが「穏やかな社会」「気配り」「末端労働の質、サービスのよさ」「礼儀の正しさ」「順法精神」「時間厳守」といったものに感銘を受けて帰国する。私も「これこそが先進国文明のあかし」と誇りに思っている。
Be more ambitious!──脱「ウオッシュレット症候群」
ただし、外国人の高い評価を受けているこうした日本的美風は、残念ながら「大学教育の成果」とは無関係なのである。むしろ高等教育を受けたものに「たしなみ」に欠けたものが増えているのではないか──といった危惧を、先年法学部を定年退官したI教授から直接聞いたことがある。ある年、新学期に彼が教壇に立ったら、最前列中央の〝特等席〟あたりの机に、鞄やノートだけがたくさん置いてあって、学生が見あたらない。次の授業のための早手回しの〝席取り〟なのだ。激怒した彼は用務員をよび、置かれてある鞄やノートを遺失物として始末するよう、命じたという。「こういう自分本位、手前勝手な連中が将来国の指導者になるのか、と考えると空恐ろしい気がする」との嘆きを聞きながら「学校教育法第五二条」の「大学は……知的、道徳的……能力を展開させる」が空文化しているのを改めて感じた。
もう一つ心配なのは、日本が「住み心地よい国」になるのに比例する形で、近年大学出の若者に「内向き志向」が強くなっている点である。海外、殊に途上国への赴任を敬遠する公務員、商社員、金融マン、ジャーナリストが急速に増えているという。これを「ウォッシュレット症候群」というのだそうだ。洋式トイレに象徴される近代化の進んでいない所には行きたくない、という意味である。
一方、中国や韓国、東南アジアの指導層には、語学の達者な、異文化への適応性に富んだタイプが増えてきている。国際社会における日本全体の〝格付け〟が下ってきたのには、明らかに日本人エリートの覇気のなさも影響している、と私はみている。果たして大学側が、こうした風潮に対してどれほど危機意識を持っているであろうか。また学生に向かって「Be more ambitious!」と叱咤している教官が、どれほどおられるだろうか。
(共立女子大学名誉教授・元朝日新聞論説主幹・東大・法・昭28)