文字サイズ
背景色変更

学士会アーカイブス

科学を短歌によむ 諏訪 兼位 No.885(平成22年11月)

科学を短歌によむ
諏訪兼位
(名古屋大学名誉教授・元日本福祉大学学長)

No.885(平成22年11月)号

要 約

短歌は、文系出身者に限らず、実は理系出身者にも数多くよまれている。明治期以降、小藤文次郎、志賀潔、石原純、湯川秀樹、湯浅年子各氏ら、多くの科学者が三十一文字の歌を残してきた。

短歌は感動によって生まれる。日記代わりによみ、十分に推敲し、そして発表するのが良い。科学者が実際によんだ作品を挙げて、一味違った短歌の魅力を紹介していく。

はじめに

学士会短歌会には、五十七名の会員がおられるそうですが、そのうち、約四〇%の二十二名の会員が、理系学部の出身だそうです。今日は多くの理系の人間が、短歌をよんでいることを、具体的にお話しします。そして、明治三十年代の短歌革新運動にも触れます。

私と短歌

まず私と短歌との関わり合いを話しましょう。

「ヒロシマを直前に過ぎナガサキにひと日おくれし学生我は」。この歌は昭和二十年七月末から八月十日までの、私自身をよんだ回想歌です。私は鹿児島市の出身で、昭和二十年二月初めから七月末まで、愛知県半田市の中島飛行機製作所に学徒動員されました。七月二十四日に大空襲があり、製作所は完全に破壊されました。当時私は、第七髙等学校造士館理科一年生でした。数日後、「八月十日に長崎に集合せよ」という動員先変更の命令を受けました。長崎では一学年上の理科二年生百名が働いていました。

七髙理科一年の友人と二人で七月二十九日朝、半田を出発し、名古屋の街が廃墟になっていることに大きなショックを受け、翌朝、広島駅に到着しました。名古屋とは対照的に全く無傷で、黒い屋根瓦の家並みが続いているのが、汽車の窓から見えました。「広島は大丈夫だな。まだ日本は負けないかもしれないな」という思いを抱いたのが、原爆投下一週間前の出来事でした。

八月初めに鹿児島にようやくたどり着きました。鹿児島も六月十七日の大空襲で焼野ヶ原になっていました。八月九日午後、長崎に行くために集合場所の郊外の教授の家に行きました。ちょうど長崎から電報が届いたところでした。「長崎にも広島と同じ特殊爆弾が落ちて大変な被害が出た」というものでした。私たち理科一年生の長崎行きは無期延期になりました。長崎で働いていた理科二年生百名のうち、十四名が原爆で亡くなりました。

七髙も六月十七日の空襲で全焼しました。やっと十一月末に鹿児島県北西端の出水で授業が再開されました。宮崎から来た学生が若山牧水を大好きで、「幾山河[いくやまかわ]越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」を朗々と吟ずるので、私もすっかり牧水を好きになりました。しかし当時、有名な歌人の歌集は読んでも、自分で短歌を作ることはありませんでした。

一九六二年、三十四歳の時、アフリカ調査を開始しました。一九六八年、四十歳の時の二回目の調査で、ケニアとタンザニアの山野を駆け巡り、四カ月間地質調査を続けました。そのときなぜかとめどもなく、体の中から短歌が生まれてくるのでした。これはそれまでまったく経験したことのない出来事でした。生まれてくる稚拙な短歌を、私はフィールドノートの片隅に書き込んでいきました。

調査はきびしく、まともな文章の手紙を書くのは億劫になってきます。家内への手紙も、稚拙な短歌数首でお茶を濁すことになりました。家内はある日、面白そうな短歌を一首選び、宿六の短歌がどの程度のものか試してみようと、密かに朝日歌壇に投稿しました。

一カ月ほど経って、朝日歌壇に私の短歌が、宮柊二先生選の第一首で採られ選評までついたので、家内はびっくりしてしまいました。歌材が特殊でそこに魅力がある。アフリカの奥地にアメリカのコカ・コーラが出てくる。歌材をどう発見し、どう扱うかは、作者の詩感に関係があるという選評でした。これが「ザンビアの銅延棒に腰おろしコカ・コーラ飲みし国境の町」という、タンザニアとザンビアの国境でよんだ歌です。

一九七九年七月初めからの八回目のアフリカ調査では、南のセレンゲティ平原からケニアのマサイマラ平原に、十万頭から二十万頭のヌー(うしかもしか)の大群が北上してくるのに遭いました。それを「サバンナは雨季明け近し南よりヌーの大群しずかに移動す」とよみ、ナイロビから朝日歌壇に投稿しました。奥地の調査を重ねて約一カ月後、ナイロビの日本大使館で朝日新聞を見ると、前川佐美雄先生の第一首に採られ、近藤芳美先生にも採られて星印が付いていました。

当時のケニアの日本大使は齋木千九郎さんでした。私の歌が大使ご夫妻の眼にとまり、諏訪隊五人を公邸に招いて下さいました。高級ワインとブランデー、そして、日本人の料理人による豪華な日本食を久しぶりに食べて歓談し、実に楽しい夜でした。短歌には御馳走を生み出す力があることを知りました。こうして私は短歌を細々と作り続けるようになりました。

「朝まだき[むさぼ]り喰いし[つぐみ]一羽黒猫昼を獅子のごと眠る」。この黒猫は、飼い猫の「クロ」です。一九九一年当時、名古屋の東のはずれには多くの木立があり、鶫がいました。四月末の夜明け前、クロは鶫におどりかかって見事にくわえこみ、居間に運んで貪り喰ったのです。起床して居間にはいった私はびっくりしました。居間いっぱいに、鵜の羽毛が散らかっていました。クロは久し振りにおいしい生肉にありついて満腹となり、サバンナのライオンのように、夕方暗くなるまで、ソファーの上で死んだように眠りこけていました。この歌が馬場あき子先生に激賞され、一九九二年正月、朝日歌壇賞を受賞しました。

寸寸[すんずん]を何と読むかと[]の問いぬ秋葉原悲しずたずたと読めば」。『広辞苑』で「ずたずた」を引くと、「寸寸」と出てきます。これは二〇〇八年の六月の秋葉原事件をよんだ歌です。佐佐木幸綱先生に激賞され、二〇〇九年正月に二回目の朝日歌壇賞を受賞しました。

和歌から短歌へ

昔の「和歌」も、短歌と同じ「五・七・五・七・七」の三十一文字です。明治三十年代以前は「和歌」、明治三十年代以降は「短歌」と呼ぶのが一般的です。

和歌をよんだ社会層は、貴族、武士、僧侶、上流階級の子女であり、よむためには膨大な予備知識と深い教養を必要としました。例えば満開の桜の花をよむ場合、眼前の桜の花を描写するだけでは駄目でした。紀貫之の桜の歌や藤原定家の桜の歌をただちに思い浮かべねばなりません。その上で桜をよまねばなりませんでした。

ところが短歌は対照的で、どんな職業であれ階層であれ、それらを一切問いません。うたう対象は、身のまわりのどんなささやかなものでもよいのです。桜の花が美しいなら、「美しい」という自分の思いを率直に表現することが大切です。これは、明治三十年代の短歌革新運動によるもので、旗振り役は正岡子規であり、与謝野鉄幹でした。

「足たたば北インヂヤのヒマラヤのエヴェレストなる雪くはましを」という正岡子規の短歌があります。当時、三十一歳の子規は、結核性の脊椎カリエスにむしばまれていました。しかし、子規の旺盛な精神活動は、決して病気に屈しませんでした。この歌は、現実を超えた夢の世界を逞しくうたい上げています。

伊藤左千夫は、子規より三歳年上ですが、子規の弟子です。搾乳業を営み、「牛飼[うしかい]が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる」とうたっています。これは子規が激賞して採り上げた歌です。短歌は決して風流な閑人のものではなく、搾乳業の日常のなかから歌をよむことが、新しい時代の新しい歌の誕生につながるのだとうたい上げました。

当時、東大の学生だった物理学の石原純、医学の斎藤茂吉らが、伊藤左千夫を慕って短歌の勉強に来ました。この人たちが、「アララギ」の源流になりました。朝日歌壇の近藤芳美先生、永田和宏先生たちは「アララギ」の系統で、「写生派」と呼ばれています。

「星ひかり万木[ばんぼく]ふるふ山の風[まき]の馬みな翅生[はねお]ひぬべし」は与謝野寛(鉄幹)の歌です。鉄幹は落合直文の弟子です。これは赤城山に遊んだ時によんだ歌ですが、単なる写生ではなく、象徴的に大自然をうたい上げていて、ロマンに満ちあふれています。落合直文、与謝野鉄幹、与謝野晶子、石川啄木、北原白秋などは「浪漫派」と呼ばれています。朝日歌壇では、宮柊二先生、島田修二先生、高野公彦先生たちが、浪漫派に属しています。

また、和歌をよみ続けていたのが佐佐木信綱の一派で、「古典派」と呼ばれています。信綱は子規、鉄幹らの短歌革新運動を支持し、明治三十年代はじめに『心の花』を創刊し、竹柏会を興し、「広く、深く、おのがじしに」を標語とし、短歌革新運動の一翼を担って活躍しました。朝日歌壇では、前川佐美雄先生、馬場あき子先生、佐佐木幸綱先生たちが、古典派に属しています。

歌人の栗木京子さんは、和歌から短歌への変化を「肩の[]るよそ行きの衣服を脱いで、お気に入りの普段着に着替えるような開放感、と言ってよいでしょう。」と述べています。

短歌をよもう

皆さんには、ぜひ自由に短歌をよんでほしいと思っています。私は短歌には大切なことが四つあると思っています。

まず第一に、「あっ」と心が揺れるようなことがあった時に、その感動をなんとか言葉にして、短歌一首に仕上げる努力をしましょう。小さな感動でも大きな感動でもかまいません。俵万智さんは、「短歌をよむとは、感動の種を言葉に育て上げることなのだ」と述べています。

第二に、日記がわりと考えて短歌をよんでください。短歌は凝縮された日記だと思います。「たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず」とよんだのは石川啄木です。ある時ふざけて母親を背負ってみたら、あまりにも軽かったので、自分の親不孝を改めて実感したのでした。この歌は啄木の凝縮された日記だと思います。

第三に、出来上がった短歌を推敲しましょう。俵万智さんは、短歌の「でこぼこ」を取り除くことが推敲だと述べています。「でこぼこ」にはいろんな「でこぼこ」があります。言葉がなめらかでなく、リズムがぎくしゃくしている「でこぼこ」、不自然な言葉が混ざっているためにすっきりしない「でこぼこ」、自分の感動と短歌表現がずれている「でこぼこ」など、いろいろな「でこぼこ」をなくして、自然なカーブにすることが推敲だと、俵さんは述べています。

第四は、出来上がった短歌を投稿することをおすすめします。理想的には、短歌結社にはいり、そのなかでお互いに切磋琢磨するのがよいでしょう。しかし、いろんな制約があって、すべての人が短歌結社にはいるというわけにはいきません。自分のノートにこっそり短歌をため込まず、新聞歌壇に投稿したり、短歌会で披露したりして発表して下さい。私はもっぱら朝日歌壇に投稿しています。投稿した自信作が落とされるのは、日常茶飯事です。その度に、挫折感を味わっています。作品が一人よがりであったり、思い入れが強すぎたりするためです。技巧的には稚拙な短歌であっても、よんだときの感動の深い短歌は、採歌されるようです。

短歌をよむ科学者

明治期以降、多くの科学者・技術者が短歌をよんでいます。古い人から若い人まで、順に挙げてみましょう。

日本の地質学の父と言われる小藤[ことう]文次郎先生の「早かれと心の駒にむちうてど行手つくせぬ[ふみ]のやちまた」という歌には、先進欧米諸国の学問吸収に励んだ、明治の学者の苦悩がにじみ出ています。

森鷗外さんは、第二軍軍医部長として日露戦争に従軍し、「ひたつちにきびがら敷きてまろ寝する枕にちかき虫のこゑごゑ」とよみました。土のにおい、きびがらの触感、もの悲しい虫の音など、夜営の悲しみが伝わってきます。

志賀潔先生は、若くして赤痢菌を発見した偉大な学者で、文化勲章を受章していますが、その生涯は地味な研究に終始しました。「この秋は嵐か風か知らぬども今日の務めに田草とるなり」という歌には、先生の地道な研究態度がよく表現されています。

寺田寅彦先生は地球物理学者であり随筆家です。新しいものに深い興味を持っていました。「するするとすべりいでぬと思ふ間に見る間に空に浮び出でたり」。大正七年、プロペラ機が飛び立つところをよんだ歌です。

石原純先生は理論物理学者です。三十二歳だった一九一三年、チューリッヒ工科大学の若きアインシュタイン教授に初めて会って、親しく言葉を交わしました。その時の感動を、「世を絶えてあり得ぬひとにいま逢ひてうれしき思ひ湧くもひたすら」とよみました。

斎藤茂吉さんは脳医学者です。「死に近き母に添寝[そいね]のしんしんと遠田[とおだ]のかはづ天に[きこ]ゆる」。実母守谷いくさんの危篤の報によって急ぎ帰郷し、母親の臨終から葬儀後までを、五十九首によみました。その一首です。茂吉の第一歌集『赤光[しやつこう]』に収められています。

松本唯一[ただいち]先生は、明治専門学校、熊本大学で大変良い仕事をした地質・火山学者です。二歳の次男坊の退院を祝って「久にして吾兒[あこ]はわが家にかへるなり五月[さつき]ののぼりの勇しきかな」とよみました。

米川稔さんは、産婦人科医であり、北原白秋の弟子です。四十五歳の昭和十七年暮れに召集を受け、ニューギニア戦線に行きました。病衰のため動けなくなり、手榴弾で自決しました。「密林の長き夜ごろをさめやすく鼠[ぬか]を超え蜥蜴[とかげ][すね]を這ふ」などの歌を残しました。

名古屋大学の菅原健先生は、高名な地球化学者です。恩師の柴田雄次先生の初孫誕生を祝って「師の君の[うい]孫えまして笑みたまふ雪の[あした]は日もうららなり」とよみました。

大塚弥之助先生は、東大の構造地質学者で、活褶曲や活断層研究の先駆者でした。日本列島を横断する大断層、フォッサ・マグナ研究の決意を「秋津[あきつ][しま]二つに分ける大割れ目あくまで[きわ]む身のつづくまで」とよんでいます。下二句には悲壮感さえただよっています。残念なことに先生は、東大教授在職中に、四十七歳の若さで肺結核のために亡くなられました。敗戦直後の不幸な時代でした。

湯川秀樹先生は立派な歌人です。石川啄木を愛し、歌人の吉井勇とも交流がありました。浪漫派の流れで、歌集『深山木[みやまぎ]』を残しています。その中の「思ひきや東の国にわれ[]れてうつつに今日の日にあはんとは」は、日本人として初めてノーベル物理学賞を受賞した時の歌です。欧米の先進国ではなく、この極東の国に生まれた自分が、ノーベル賞を頂けるなどとは夢にも思わなかったという感慨がよく出ています。

藤田良雄先生は天文学者です。日本学士院院長の時、宮中の歌会始の召人[めしゆうど]に選ばれ、御題は「青」でした。「青そらの星をきわむとマウナケア動きそめにしすばるたたえむ」。ハワイ島のマウナケア山頂に「すばる望遠鏡」が建設された頃の歌です。

日本最初の女性物理学者の湯浅年子先生は、ジョリオ・キュリー夫妻に憧れて、フランス政府招聘留学生試験の難関を突破し、一九四〇年三月に渡仏しました。「幾年[いくとせ]をのぞみし国に吾は来ぬ巴里[パリ]は近し走りてゆかな」。この歌は、マルセイユに到着した時の感激をよんだものです。

田口亮平先生は、信州大学の植物生理学者です。「ここにまた赤酒[ヴァンルージュ]飲むことあらざらむ通り[さめ]いまセーヌに降れる」。パリの国際会議の後によまれたセンチメンタルな歌です。まるで映画のラストシーンを観るようです。

名古屋大学の実験物理学の上田良二先生は、若き日に物理学を専攻しようと思った契機が、量子力学の登場だったことを回想して、「波と粒わが青春を[ゆる]がせし怒濤の如き量子力学」と晩年によみました。朝日歌壇で近藤芳美先生に激賞されました。上田先生はこの一首を残して天国に旅立たれました。

山木宏さんは建築技師です。海外技術協力事業団の専門家としてケニアに長く滞在しました。キリマンジャロ登山に成功し、「突兀[とつこつ]と行手に[]れし雪の峰我が登るべき山と対峙す」とよみました。朝日歌壇で五島美代子先生に激賞されました。私はアフリカを肉体全体でつかもうとした山木さんの姿に感銘を受けました。

関戸弥太郎先生は北海道大学で雪の研究を行い、その後名古屋大学で宇宙物理学の研究に没頭しました。第四髙等学校の学生時代を回想して、「つかみ得ずまた読み返す石原の相対論の魅力あやしき」とよみました。石原純先生は学士院恩賜賞を受賞後、女流歌人の原阿佐緒さんとの恋愛事件のために、東北帝大教授を辞めました。それに同情した岩波茂雄さんは、専門と普及を兼ねた物理学の本の執筆を石原先生に依頼しました。石原先生の相対論の本に触発されて、関戸先生は物理学の道を進みました。

近藤芳美さんは、東京工業大学の建築学科の学生でした。土屋文明を迎えて京城のアララギ派の歌会が、金剛山で開かれました。「たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき」。歌会に参加していた少女への想いを、間接的な表現で美しくよみました。青年の恋の歌です。

地球電磁気学の永田武先生は、南極観測隊長を第一次から第三次まで務めました。「夢に見し隕石の原青氷[あおごおり]いま我立てりやまと山麓」。南極のやまと山脈の麓は、隕石がたくさん集まる隕石の宝庫です。そこを訪れた永田先生は、すらすらと一首よみました。

林田恒利さんは、北海道大学の林学科の出身で、樺太で仕事をしていました。敗戦後、シベリアに四年間抑留されました。「白旗をかつてもちたる[てのひら]をつらぬくこゑぞ野の[ひよどり]は」。この歌には、辛酸をきわめた抑留体験が深い影を落としています。

前野義昭さんは、東京工業大学の電気工学科を出て、呉の海軍工廠に勤めました。終戦当時は海軍兵学校の教官でした。「春雨に豊後水道煙りをり航きて還らぬ「大和」まぼろし」。戦後六十年、豊後水道を遠望した折の一首です。

病理学の飯島宗一先生は、松本髙等学校の学生時代から歌が堪能でした。「みこも苅る信濃の山の早蕨[さわらび]を共にし[]まな許さるる日に」の一首があります。「みこも苅る」は信濃の枕詞です。奥様との婚約直前の歌です。

桂重俊先生は、東北大学通信工学科の出身で、渡辺寧先生の愛弟子です。統計力学が専門で、東北大学の大型計算機センターを育て上げた人です。「歴史書を読む十倍を大地の子焼きつけくれぬ中国現代史」。山崎豊子の原作『大地の子』が映像化されました。映像力をよんだ一首です。

内科医の上田三四二[みよじ]さんは高名な歌人です。四十三歳で結腸癌にかかり、九死に一生を得て、病後の回復期に吉野山を訪れ、「ちる花はかずかぎりなしことごとく光をひきて谷にゆくかも」とよみました。散ってゆく桜の花びらを、いとおしむように美しくよんでいます。

東北大学工学部出身の林成一郎さんは、住友化学に勤め、スマトラ島北部でアルミニウムの精錬工場を建設した時の思い出を、「故国[ふるさと]の電波[かす]かに捉へ得て熱砂のキャンプに除夜の鐘聴く」とよみました。携帯ラジオに耳をかたむけて、除夜の鐘をきくという一首です。平成六年の宮中歌会始の御題「波」で、見事に選ばれました。

内科医の岡井隆さんはアララギ派の高名な歌人です。長く国立の医療機関に勤めました。「わがうちに傍観機関あかあかと大き没陽[いりひ]の水に[おぼ]るるまで」。この歌の落日は、象徴的な国立病院の状況でしょう。

藤田尚男さんは解剖学者で、広島大学と大阪大学の名誉教授です。月に二回、一回七時間かけて『ファウスト』を、近所の歯科医と原語で輪読して古稀を迎えました。「ミネルヴァの[ふくろう]飛ぶ[よい]ファウストを読みつつわれは古稀を迎へり」の一首は、古稀になっても衰えない知への情熱を、魅力的にうたっています。

京都大学の地質学者、清水大吉郎さんは、「特殊爆弾これで防ぐと乏しきを白きシャツ縫いおりき夕暮れの母」と詠み、戦争末期の間違った宣伝の、悲しい気休めを回想しています。

石川不二子さんは、東京農工大学農学科の出身です。「荒れあれて雪積む夜もをさな児をかき抱きわがけものの眠り」。七人の子供をかかえた石川さんは、農場の仕事、家族、動植物などを題材にして、逞しくうたい続けています。

柳澤桂子さんは生命科学者です。「やわらかき冬の光が身に沁みて生きよ生きよと我を[あたた]む」。柳澤さんは、三十年余り原因不明の難病に悩まされ、最後は寝たきりになりました。幸い、思わぬ薬で再び起きられるようになりました。柳澤さんの闘病生活を支えたもののひとつが、短歌でした。

精神科医の高橋万里子さんは「列島は針千本を含むがに活断層の地図は映れり」と、日本列島に存在する活断層の多さと不気味さをよんでいます。

高等学校の数学の先生だった橋本英幸さんは「手話超えて全身話なり聾啞者の被爆体験長崎は晴れ」とよみました。長崎原爆の日のことを、一人の聾啞者が手話で語った時、それは全身を震わせる手話でした。橋本さんは圧倒され、流れ出る涙を止めることはできませんでした。

東北大学大学院理学研究科出身で歌人の小池光さんは「こずゑまで電飾されて街路樹あり人のいとなみは木を眠らさぬ」とよみました。生きているものに対する、デリケートな優しさが、よく表現されています。

永田和宏さんは、京都大学の細胞生物学者です。歌人としても高名で、朝日歌壇の選者を務めています。三歳の時に母親を結核で失いました。そのことを「肉体の死にやや遅れ億の死の進みつつありTubercule[ツベルクル] bacillus[バチルス]」とよみました。死を、医学的なものの見方から、冷静に見つめています。

高橋正樹さんは日本大学の地質学者です。高橋さんは会津八一の歌を好みます。私とチベット高原を調査した時、満天の星屑を見て、「輝ける星降る如き西蔵[チベット]の天の近きに驚きにけり」とよみました。

松沢哲郎さんは、京都大学霊長類研究所所長で、比較認知科学と呼ばれる、新しい研究領域の開拓者です。京大文学部哲学科出身の理学博士です。教養部学生時代から山岳部に属し、八〇〇〇メートル級の山に登っています。親友の高木真一さんはいつも一緒に山に登る山友達でした。しかし、高木さんは一九七四年九月、カラコルムのK12峰で遭難しました。松沢さんは翌年、高木さんを偲んで、「カラコラムの山よ氷河よ空よ友よ暗闇に聞く夜の春雷」とよみました。松沢さんは寡作で、今まで恐らく十首ほどしか作っていません。歌ができると、朝日歌壇に投稿します。すると、必ず採歌されるようです。

久山[くやま]倫代さんは、皮膚科の医師です。「ぴかぴかの「命」見たくて帝切[ていせつ]のオペを見に入るフリーの午後は」は女子医学生時代によんだ歌です。「帝切」は帝王切開です。この歌は、近藤芳美先生に激賞されて、朝日歌壇賞を受賞しました。

三好みどりさんは、大阪大学出身の薬学の研究者です。「染色体ふたつにわかれゆく午後はカーミンの[べに]はつか[にじ]みぬ」とうたっています。「カーミン」とは細胞染色液で、「はつか」はわずかにの意味です。静かな実験室の雰囲気をよくよんでいます。

栗木京子さんは、京都大学理学部出身の歌人です。京大短歌会にも属していました。ゼミの仲間たちと楽しく遊園地で過した時、「観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日[ひとひ]我には一生[ひとよ]」という歌が、すんなりとできてしまいました。この、いじらしさのにじみ出た、深刻そうな歌を、若い戦争未亡人がよんだ、哀感にじむ歌だと思い込んだ人がいたようです。

名古屋大学工学部出身の田中徹尾[てつお]さんは、労働基準監督官です。「都会には人との距離を遠ざける磁石[じしやく]があるからEメール打つ」。都会人は磁場をつくるという、田中さんの指摘はなかなかに鋭いものです。

坂井修一さんは、東京大学で情報処理システムの開発研究をつづけている歌人です。「無人戦車無人地球の街を野をはたはたと[わら]ふごとくゆきかふ」。坂井さんは、核戦争の結果、人間が滅んでしまった地球を想像したのでしょう。坂井さんの短歌は未来を見据えています。未来をよむ短歌の力が感じられます。

東京農業大学出身の歌人、早川志織[しおり]さんは、「シャンプーの香りに満ちる傘の中つぼみとはもしやこのようなもの」とよみました。花のつぼみのなかに、すっぽりと自分の体が入りこんでしまったかのような、みずみずしい歌です。

森尻理恵さんは地球物理学者です。産業技術総合研究所で重力調査・磁力調査などを行っています。アウシュビッツ強制収容所を訪れた折の衝撃を「アウシュビッツは本当だった人間の髪で織られし毛布のありて」とよんでいます。

おわりに

今日は、多くの科学者や技術者がよんだ短歌を沢山紹介しました。よまれた短歌は、内容的には多彩ですが、日本の科学者・技術者が歩いた、日本の科学・技術史の断面を、切り取っているといっても、過言ではないと思います。

話を閉じるにあたって、文系・理系を問わず、皆さんが自由に短歌をよまれることを切に願っています。

ご清聴、ありがとうございました。

(名古屋大学名誉教授・元日本福祉大学学長・東大・理博・理・昭26)
(本稿は平成22年5月20日午餐会における講演の要旨であります)