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南アフリカの行方――「マンデラの虹」は消えたか―― 峯 陽一 No.882(平成22年5月)

     
南アフリカの行方 ――「マンデラの虹」は消えたか――
峯 陽一
(同志社大学グローバルスタディーズ研究科教授)
No.882(平成22年5月)号

鎖につながれたマンデラ
 あまりにも有名な人物の紹介から始めよう。ネルソン・ロリシャシャ・マンデラ。アパルトヘイト(人種隔離体制)に反対する人権運動の闘士。一九九三年にノーベル平和賞受賞。南アフリカ共和国初の黒人大統領(一九九四~九九年)である。

 マンデラは、一九一八年に南アフリカのトランスカイ地方の農村で生まれた。尊敬を集める首長の家系の子、いわば王子様だったのだが、やがて学生運動に身を投じて退学になり、アフリカ随一の大都会ジョハネスバーグに移り住む。マンデラが農村と都市の両方の世界を熟知するようになったことは、彼の指導者の資質を考えるうえで、重要な意味をもつ。やがてマンデラは、人種を超えた解放運動ANC(アフリカ民族会議)の指導者となり、反政府武装闘争を試みたとして指名手配を受ける。

  地下に潜ったマンデラは「黒はこべ」というニックネームを使い、変装し、神出鬼没だった。警察を手玉にとって、さかんにマスコミを賑わせた。彼が一時期ボクシングをやっていたことも、不屈の闘士のイメージをかき立てた。世論の注目を集めるパフォーマーとしてのマンデラの行動スタイルが確立したのは、このとき、つまり彼が四〇代前半の頃である。

  しかし、マンデラは、一九六二年に警察の急襲を受けて逮捕、投獄される。それから二七年間、マンデラは獄中で暮らした。その大部分の期間、彼は他の政治犯たちと一緒にロベン島に幽閉されていた。ロベン島は今でこそ世界遺産に指定された観光地だが、当時は島全体が監獄で、脱獄は不可能だった。常に監視され、単調な石切りの仕事を命じられ、ひたすら時間が過ぎていく。五〇代から六〇代という政治家としては働き盛りの時期に、彼は民衆から切り離されて、孤独な内省の時間を強制されたのである。

  とはいえ、ロベン島には政治犯の共同体が存在した。マンデラは次第に、様々な政治信念、様々な人格をもつ政治犯たちのまとめ役になっていった。周囲の 人びとに対するマンデラの感化力は、白人にまで及んだ。映画『マンデラの名もなき看守』(ビレ・アウグスト監督、二〇〇七年)に描かれているように、白人看守のなかにも、マンデラとの日常の接触を通じて彼の夢を理解し、アパルトへイト支配の理不尽さを感じる者がでてきた。

黒人たちを結びつけたマンデラ
 マンデラが獄につながれている間、南アフリカではアパルトへイト(人種隔離)支配が激しさを増していく。人口の一割強を占めるにすぎない白人が、国土の九割近くを支配する。多数派の黒人たちは、自分たちが生まれた国で二級市民として扱われ、参政権も、移動の自由も、土地所有権も、職業選択の自由も、与えられなかった。教育機会は劣悪で、人口過密の指定居住地で暮らすことを強制された。共産主義者だと一方的に見なされた者は、聖職者だろうと弁護士だろうと投獄された。レストランも公衆トイレも、バスも郵便局も、人種ごと徹底的に分離された。

  外務省を退職した天木直人氏は、著書『マンデラの南ア』(サイマル出版会)のなかで、南ア問題担当の外交官としてアパルトへイト撤廃のために本気で政策調整を試みた時代のことを述懐しているが、アパルトへイトには、世界の市民運動や教会、労働組合の活動家はもちろんのこと、アフリカ諸国や国際連合、そして先進国の政府高官までが、本気で「何とかしなければ」と思ってしまう理不尽さがあった。

  いずれにせよ、アパルトへイトは持続可能な制度ではなかった。南ア経済そのものに持続可能性が欠けていた。黒人の多数派がピラミッドの底辺に押しやられて呻吟していたため、国内消費市場は伸び悩み、熟練労働者が不足した。先進国資本が投資と融資を手控えるようになったことも、南ア資本には大打撃だった。南アの警察は活動家と見なしたものを容赦なく誘拐し、拷問し、殺害したが、こうした人権侵害は八〇年代に入ってますます深刻化し、南アの白人支配が末期的な段階に入っていることを、世界中が実感した。

  破滅を恐れた白人政府は、ANCとの水面下の交渉を経て、マンデラを釈放し、彼を窓口として黒人多数派と交渉することに決める。一九九〇年二月一一日、ついにマンデラは釈放された。すでに七一歳。だが、マンデラが世界史に、永遠に名を残す仕事をしたのは、それからのことである。

  マンデラは、怒れる黒人たちを、一つにまとめなければならなかった。白人と妥協すれば、裏切り者の烙印を押される。微妙な綱渡りだった。あまり知られていないことだが、当時のANCは大分裂していた。国外派は亡命活動を通じて強固な官僚組織を築き上げたメンバーであり、祖国に戻って国内の基盤をつくろうと必死だった。国内派には、南アに踏みとどまって大衆運動を築き上げてきたという自負心があり、国外派の指導を容易に受け入れようとはしなかった。マンデラは、皮肉なことに、二七年にわたって二つの勢力から隔離されていたおかげで、両勢力の争いを中立的なリーダーシップで調停することができた。

南アフリカ国民を結びつけたマンデラ
 マンデラは黒人をまとめただけではない。彼は南アの「白人問題」を解決した。四年間にわたる激しい政党間交渉をくぐり抜けた南アでは、一九九四年四月、歴史上初めて全人種参加の総選挙が実施された。一人一票の総選挙を経て、マンデラが新生南アの大統領に就任する。

  しかし、白人たちは半信半疑だった。黒人は白人に復讐するのではないか。そうなったら武器で戦おうと本気で考える人びとがいた。軍や警察の中枢を握っていたのは白人たちだったから、彼らが反乱すれば南アは内戦状態に陥る。

  だがマンデラは、忍耐強く和解を求めた。黒人はそんなに偏狭ではない。白人が過去を反省し、新しい南アに積極的に貢献しようとするなら、私たちは地上に「虹の国」を創り出すことができる。共に歴史的な偉業を達成しようではないか。マンデラは白人たちを魔法にかけた。私たちが二七年も獄中に閉じ込めたこの男は、私たちを許すだけでなく、私たちに席を用意し、テーブルについてくれと懇願している。いったい何という男だ。

  この頃のマンデラのカリスマ的な雰囲気は、今年になって封切られた映画『インビクタス――負けざる者たち』(クリント・イーストウッド監督、二〇〇九年)で活写されている。モーガン・フリーマン演じるマンデラは、白人のラグビー選手たちを自分の孫のように扱い、励まし、南ア代表チームは一九九五年のラグビーW杯で、ついに世界王者のトロフィーを手にした。都会的で洗練された身のこなしと、アフリカ農村の長老のイメージを融合させたマンデラが、「南ア国民」の国父となった瞬間である。

  このラグビーW杯の直後、南アを訪問した筆者は、トランジットのシンガポール空港の手荷物検査場で、南アの白人の若者の一団を目撃した。酔っぱらって上機嫌の若者たちは南アのパスポートを振りかざし、「俺たちはマンデラの国から来たんだ。マンデラの南アフリカだ!」と叫んでいた。世界の観光客たちは何事かと振り向き、シンガポール人の空港職員たちが笑顔で応対していたのを思い出す。

  歴史に「もしも」はありえない、と言われる。私たちの周りには社会があり、経済があり、政治制度があり、人間はその担い手にすぎない。南アフリカの人種差別は非合理的で、持続可能ではなかった。マンデラがいなかったら、誰か別の者がその役割を果たしただけのことだ。

  そのような考え方にも、正しい面はある。だが、人間の歴史にはクリティカルな移行局面があり、そこでは、状況の要請と個人の資質とが希有な形で結びつくことがあるものだ。マンデラは、歴史が彼に求めた役割を見事に演じ切った。彼が黒人と白人の情念の暴発を抑えなかったら、九〇年代の南アは、第二のユーゴスラヴィアになっていたかもしれない。そんな最悪の経路もありえたことを、否定できる者はいないだろう。

あれから二〇年、これから二〇年
 今年二〇一〇年六月には、南アでサッカーW杯が開かれる。世界の注目が南アに集まっているが、今年はマンデラの釈放からちょうど二〇年の節目にあたる。引退したマンデラは、やがて九二歳の誕生日を迎える。さすがに高齢で、公の場にもあまり姿を見せなくなったようだ。

  南アの現代史を振り返ってみよう。アパルトヘイト体制が成立したのは、白人優位とアフリカーナー民族主義を掲げる国民党が政権を握った一九四八年だった。アパルトへイト廃絶に動いたF・W・デクラークが大統領に就任したのが八九年だから、南アにおいてアパルトヘイトの時代は少なくとも四〇年ほど続いたことになる。

  そして、マンデラの釈放から現在まで、すでに二〇年が経過した。今の南アの大学生には、制度としてのアパルトへイトの記憶がない。現時点で南アの人口はおよそ五〇〇〇万人だが、二〇歳未満の人口はすでに二〇〇〇万人を超えている。さらに二〇年と少したてば、ポスト・アパルトへイト時代がアパルトへイト時代よりも長くなり、アパルトへイトを知る世代は国民の二割を切るはずである。

  過去二〇年で、ポスト・アパルトへイト時代の方向性が見えてきた。もともと南ア内外の人びとは、好むと好まざるとにかかわらず、南アは人種間の不平等を是正する「福祉国家」になっていくと予想していた。経済成長は緩慢であるにしても、底辺の生活は底上げされていくだろう、と。

  ところが、これまでの二〇年間の流れは、そんな予想を裏切るものだった。マンデラの後継者ムベキ大統領の経済政策はいわゆる新自由主義的なもので、世界中から南アに資金が集まり、この一〇年間、南アは好調な輸出に牽引されて平均四パーセントほどの成長率を記録した。黒人のなかから「ブラック・ダイヤモンド」と呼ばれる新興富裕層が生まれた。貧困の代名詞だったソウェトのような黒人居住区に、豪華なショッピングモールや高級ホテルが建ち並び始めた。

  しかし、成長の恩恵が国民に広く行き渡ることはなかった。失業率の公式統計は二四パーセントに達しており、都市の普通の黒人たちに関しては、半分近くがまともな職にありつけていないという実感が筆者にはある。南アで強盗や殺人といった凶悪犯罪が頻発していることはよく知られているが、その背景には、アパルトへイトがなくなっても生活が良くならない、むしろ悪化しているという、一〇〇〇万人を超える底辺層の深刻な欲求不満がある。

  マンデラは、敵対する人種の和解を訴えた。すべての国民が文化的な多様性に誇りをもちながら共存する「虹の国」をつくろうという夢である。暴力的な人種差別がなくなってきたという意味では、マンデラの夢は実現したように見える。しかし、マンデラが結びつけたはずの南ア国民のなかで、今度は金持ちと貧乏人の格差が大きく広がり始めた。

 二〇〇八年五月には南アの都市部で「反外国人暴動」が広がった。貧しい南ア黒人の群衆が「俺たちの仕事を奪うな」と叫びながら、さらに貧しい近隣諸国から出稼ぎにやってきた兄弟姉妹たちの居住地を襲撃したのである。数週間で六〇名以上が殺害され、およそ一〇万人が避難生活を余儀なくされた。

  南アの人びとは、もうマンデラ本人に頼るわけにはいかない。彼はもう十分に働いた。それにしても、マンデラが残した遺産は何だったのだろうか。南ア人は彼の遺産を食いつぶしているのか。マンデラにも限界があったということか。誰も予想しなかった形で広がりつつある南ア国民の亀裂、南ア国民と他国のアフリカ人たちの亀裂を、どう修復していったらよいのだろうか。

 これからの二〇年が本当の正念場だという気がする。

(同志社大学グローバルスタディーズ研究科教授・京大・経修・文・昭62)