文字サイズ
背景色変更

学士会アーカイブス

特集 「奈良」よみがえる古代空間 鈴木 嘉吉 No.881(平成22年3月)

特集 「奈良」よみがえる古代空間
鈴木 嘉吉
(国宝薬師寺東塔保存修理専門委員会委員長・興福寺境内整備委員会座長)

No.881(平成22年3月)号

遷都一三〇〇年を迎えて

「京師有て帝王居と爲す、万国の朝する所、是れ壮麗に非ずんば何を以てか德を表せん」。

これは聖武天皇が即位して律令政治の髙揚期を迎えた神亀元年(七二四)に行われた太政官奏言の一節で、平城京が国家の威厳を演出する国際的な政治都市であったことを最もよく云い表している。そこでは中心となる平城宮を始め、多くの大寺院に壮大な建築が営まれて華麗さを競った。まさに天平建築は国の華であった。奈良には幸にそれらの大寺院のほとんどが、現代まで法燈を伝えており、創建当時の伽藍の姿を存績するものも少くない。また平城宮跡もほゝ一〇〇年間に亘る人々の努力によって広大な地域が保存されている。火災などで滅び易い木造建築によって構成された一三〇〇年前の古都のかたちが、このように残っているのは、世界でも稀有な例と云ってよいであろう。

その奈良では遷都一三〇〇年を迎えた今年を挟んで、寺院や宮殿の修理と復元が相次ぎ、一寸した古代建築ブームになっている。すなわち修理では、国宝唐招提寺金堂が昨年一一月に竣工したのに續いて、国宝薬師寺東塔が着工されたところであり、国宝正倉院正倉は修理前の調査中である。また復元では平城宮第一次大極殿正殿が三月に完成し、興福寺中金堂は基壇の整備を終って本年は立柱式を迎える。こゝにあげた建物は、いずれも規模が大きく奈良時代を代表する第一級の建築ばかりであり、今までこれだけ多くの大建築の修理や復元が集中的に行われたことはなかった。

奈良では、薬師寺の伽藍復興が三十数年前から「国土荘厳」をスローガンに進められている。興福寺の今回の中金堂復元の合言葉は「天平の文化空間の再構成」である。薬師寺は創建当時の建物としては東塔が残るだけであったが、今までに金堂・西塔・中門・回廊・大講堂が復元されて、古代伽藍の壮大さが実感されるようになった。大講堂の復元に合わせて四七〇年間中断していた最勝会と呼ぶ大法会も復活されている。残された建物が限られている中で、復元によって古代空間が体感できる場を再現することも、文化財の保存活用の一分野である。特に平城宮跡のように都が京都に遷った後は全部が水田と化した遺跡では、復元して宮殿本來の姿を周知してもらうことが保存につながる。平城宮跡での復元も三十数年前から始まり、初期には小規模な官衙建築を対象としたのであったが、平成三~九年に朱雀門を復元したのに續いて今回の大極殿となった。今、奈良はかつての「青丹よし奈良の都」とうたわれた姿を少しづゝ取り戻しつゝあると云ってよい。その近況を以下にお伝えしよう。

相次ぐ平成の大修理

平成七年の阪神淡路大震災以後は、建造物の地震に対する安全性が問題になっているが、文化財も例外ではなく、特に構造が比較的單純な古代建築では緊急な対応に迫られている。今回の唐招提寺金堂と薬師寺東塔はその中でも最も急を要するもので、どちらも早く明治三〇~三一年(一八九七~八)に古社寺保存法の施行後、真先に修理をうけたので、約一一〇年ぶり二度目の大修理である。唐招提寺金堂は現存する奈良時代唯一の金堂で、その屋根に残る当初の鴟尾は井上靖の小説『天平の甍』の題材になった。平成一〇年から二年間調査工事を行ったあと解体修理に着手し、実質一一年半の工期を費やして平成二一年に竣工した。

今回の修理の特色は柱の内倒れという古代建築にとっては宿命的な構造上の弱点を、どのように補強すれば今後永く建物を保存できるかの方策を探ることであった。柱の内倒れは早くから起り明治修理前には内陣に大きな方杖を入れて防止策としていたのであったが、不体裁なので取り除いたところまた元に戻ったのである。そのためにコンピューターを用いた構造解析が中心的役割を荷った。構造解析というのは髙層ビルなどを新築する際の構造計算に用いられる科学的手法で、今まで伝統木造建築ではほとんど行われたことがなかった。それは鉄骨造や鉄筋コンクリート造と違って伝統木造は部材の数が格段に多く、しかも木材同士のめり込みやスベリが生じるため、接合部の強さの数値化がきわめて難しいからである。唐招提寺金堂の場合は、部材数が約二万、その接点は約一万五千に及ぶ。これをできるだけ多くコンピューターの中にとり込んで、地震の際の変形状況や補強材を加えた時の効果を調べた。その基礎的数値を得るために組物を実物大で造って加力実験を行った。また一二〇〇年以上を経た檜材の強度試験も行い、新材とほとんど差がないことが判明した。これらの結果内倒れさえ防止すれば建物自体は現在でも充分な強度を保っていることが確かめられ、その補強方法を決定したのである。

年輪年代調査もそうした科学的手法の一つで、金堂の場合は垂木に樹皮まで残る材が二本あって、七八一年に伐採された木を使ったことが判明し、建築年代を知ることができた。從來金堂の年代については安置する仏像の年代と関連して色々な説があったが、建物のほうはこれで決着したと云ってよい。また正面の板扉の金具を外したところ、下から当初の彩色が発見され、平安時代の記録に「蓮の番絵」とある華麗な装飾文様の実体が明らかになった。その他にも小屋組が元は叉首式であったなど、創建当初の形状が判る貴重な発見が各種あったが、修理自体は建物が今まで経てきた歴史を尊重して部材も可能な限り再利用し、補強も屋根裏で行ったために、竣工した姿は修理前と全く変わっていない。但し鴟尾は痛みが激しいため模造の新品に取替え、旧材は収蔵庫で展示することとした。

次にこれから修理にかゝるのが薬師寺東塔と正倉院正倉である。薬師寺東塔は天平二年(七三〇)の建築で、三重塔の各重に裳階がついて、大小六重の屋根が重なり合う特異な美しい姿がよく知られている。現在は調査用の足場でスッポリと覆われているが、三月末には一旦足場を外し、本年中は旧來通り見られる。しかしその後は本格的な素屋根を建設してその中で平成三〇年まで解体修理を行う予定になっている。修理が必要となった最大の理由は礎石の沈下と心柱の腐朽で、心柱は内部に大きな空洞が生じたために全体が不安定になって、屋根の上の相輪が勝手な方向に傾いているのである。ここでも地質調査や構造診断が重要で、今は解体前の諸調査が進められている。薬師寺は藤原京で創建された後、遷都に伴って平城京へ移された。そのため仏像や建物が旧都から運ばれたのか新都で造られたのかが、永年美術史や建築史の論争の的となっていたのであったが、今回の修理では色々な科学的調査が行われるので、何らかの回答が得られるものと期待されている。巨大な髙床式校倉造の正倉院正倉も今調査と修理設計中で、來年には素屋根の建設も始まる。正倉は天平勝宝四~八年(七五二~六)頃の建立で、聖武天皇遺愛の品々を中心とする数多くの宝物を納めてきたが、昭和三五年に鉄筋コンクリート造の新宝庫が建設されてからは、宝物をそちらに移し、今は主に元來宝物を守ってきた唐櫃類を保管している。大正二年(一九一三)に解体修理を行ったが近年瓦の破損や軒の垂下が進み、今回は屋根の全面的な葺替えと軒の補強工事を予定している。

文化財の修理は、近年、できるだけ公開して一般の方々に文化財への理解を深めてもらえるようにしている。唐招提寺金堂の場合にも修理中の見学会が定期的に開かれて多くの人々が訪れたが、薬師寺・正倉院とも同様に公開を予定しているので、楽しみがあり、特に正倉院は普段はなかなか近づけない場所だけに、髙い関心が集まりそうである。

唐招提寺金堂
薬師寺東塔

「天平回帰」の復元事業

平成三~九年の平城宮朱雀門、平成七~一四年の薬師寺大講堂、平成一三~二一年の大極殿正殿、そして平成二一年から始まった興福寺中金堂と、奈良では木造大建築の復元工事が切れ目なく續いている。今までなかったことだし今後も恐らくあり得ないであろう。というのはこうした大建築の場合、膨大な費用がかゝることは当然としても、それ以前に建築の手續きがきわめて繁雑だし、必要な木材の入手もますます困難だからである。まず復元する建物の形式や構造が、歴史的に見て正しいことを発掘調査や資料研究で証明して、文化庁の許可を受けなければならない。日本の建物で設計図面を作るようになるのは、室町時代からで、それ以前の建築は絵画資料があれば幸でありそれもほとんどない。だからあらゆる資料を集めながら現存する同時代の建築などを参考にして復元設計を行うので、復元自体が学術的研究の一分野なのである。次には、復元といっても実態は新築なので、現代の建築基準法による許可が必要となるが、日本の法律はこうした大規模な木造建築を建てることを原則禁止している。そのために補強を行うなど、構造の安全性を確保して特別な審査をうけるのだが、適切な補強方法の考案や実験、それに基づく構造計算などに多大な労力と経費がかゝる。朱雀門や大極殿は国家予算で復元されたが薬師寺や興福寺はすべて寺の負担である。それにも拘らず寺が復元に意欲を注ぐのは天平への回帰が奈良の寺の歴史であり悲願だからなのである。

平城宮第一次大極殿正殿は朱雀門の真直ぐ北で宮内でも一番髙い場所に位置する。大極殿は天皇の即位や朝賀、外国使節の謁見など国家的な儀式を行った所で、聖武天皇が恭仁宮や信楽宮に一時遷都したあと、天平一七年に(七四五)に再び平城宮に戻ってからは、壬生門を正面とする東側の地区に第二次の大極殿を設けたので中央を第一次と呼んでいる。和銅三年(七一〇)の平城遷都と同時に建立されたが天平一二年(七四〇)に恭仁宮の大極殿に移築され、遷都後は跡地が饗宴施設となった。唐代長安城の大明宮の正殿である含元殿を模したと考えられる建築で、今回もそれを念頭に二重屋根に復元された。実は寺院の建物は資財帳などから、規模・形式・髙さなどが判るのだが、宮殿にはそうした資料は全くない。それだけに復元の正確度は劣るが、現段階での研究成果の到達点を示すものと云えよう。髙い二重基壇を持つ桁行九間(約四四m)、梁間四間(約二〇m)、髙さ約二七mの二重屋根の建物で、東大寺大仏殿に次ぐ大きさをもち、組物も当時最髙級の三手先組としている。国産のヒノキを用いて構造や形式は忠実に奈良時代に復元したが、構造補強の一環として基壇の中に免震装置を取り付けた。大極殿の基壇上に立つと目線が朱雀門の大棟と同じ髙さになる。今年の遷都祭では主会場となって四月から公開されるが、晴れた日には遠く藤原京の大和三山も見える筈で、天平文化の雄大さが実感できる一押しの人気スポットとなろう。

平城宮第一次大極殿正殿
興福寺中金堂(模型)

一方、これから本格的工事に入る興福寺中金堂もほゝこれに匹敵する規模で、こちらは一重裳階付という奈良時代に中国から輸入された新型仏堂の第一号の建築である。前代には法隆寺金堂のように二重造りが最上級であったが、天平建築は内部が髙い新型となった。興福寺は享保二年(一七一七)の火災で伽藍が焼失したあと、永く中心部分が欠けた寂しい姿であったが、創建一三〇〇年に当たる今年、約三〇〇年ぶりに中金堂を立柱・再建する。中金堂は発掘してみると礎石の大半は創建当初のもので、今まで七回の火災に逢いながら、その都度同規摸・同形式で復興してきたことが判った。今回も創建時の建物の完全復元で、正に天平回帰をめざしているのである。ただし直圣七八㎝、長さ一〇・一mの柱三六本を国産材で調達するのは現在ではもう不可能であり、木材は外国産となった。

天平建築の修理や復元が間近かに見られる機会は、ごく限られている。修理では新発見や古代技術の素晴らしさに出逢えるし、復元では現代の工匠たちが伝統の技を揮う姿に接することができる。古代空間がよみがえる中で、奈良では天平文化が現在も息吹き續けているのである。

(国宝薬師寺東塔保存修理専門委員会委員長・興福寺境内整備委員会座長・東大・工・昭27)