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ある秋の日のゲーテ ―詩『旅人の夜の歌』の実像に迫る― 小塩 節 No.881(平成22年3月)

ある秋の日のゲーテ ―詩『旅人の夜の歌』の実像に迫る―
小塩 節
(学校法人フェリス女学院理事長)

No.881(平成22年3月)号

要 約

ゲーテ(一七四九―一八三二)の詩、『旅人の夜の歌』は八行足らずの短い詩であるが、そのたった八行の短い詩が、世界中で愛誦され、また幾度となく論じられてきた。

世界中の言語に翻訳されているこの詩を、行政官としてのゲーテの若かりし日の姿を振り返りつつ、イギリスの国定教科書に採用された英語訳をもとにドイツとイギリス、ひいては日本との文化対比を行いながら、『旅人の夜の歌』の実像に迫っていく。

はじめに

本日は、短いドイツの詩を読んで参りたいと思います。「Wandrers Nachtlied」(「Wanderer’s Night Song (英題)」「旅人の夜の歌(邦題)」)は、わずか八行の詩ですが、実に様々な問題を含んでいる詩です。古典古代ギリシャの詩との関連を含め、この詩をめぐる問題が幾度も世界中で論じられているという、珍しい詩です。

この詩はドイツの詩人、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、三一歳の時の作品です。

ゲーテの作品には実に多くの様々な人の訳があり、また多くの作曲家が曲を付けています。ゲーテの詩、例えば『野ばら』には現在一五〇くらいの作曲があります。『野ばら』やこの詩を世界中の人が作曲したくなる理由は、詩が良いからです。詩が良くなければ、音楽家はワクワクした気持ちになりません。

戦後、日本では多くの良い童謡や民謡ができました。それは、例えば詩人であり児童文学者でもある阪田寛夫のような、開放された詩人たちが多くの良い詩・可愛い詩を次から次へと作っていき、それに作曲家たちが胸をワクワクさせて作曲をしたということがありました。この詩も同様です。現存しているもので最も有名な曲は、カール・フリードリヒ・ツェルターとフランツ・シューベルトによる作曲です。

詩『旅人の夜の歌』

ドイツ東部の山、キッケルハーン山頂のすぐ下に山小屋があります。この狩人小屋にある小さな階段を登った二階の南側の壁にゲーテが鉛筆で書いたのが、この詩です。しかし、残念なことにゲーテが他界した後の一八七〇年、この山小屋は失火のため焼失してしまいました。現在では地元の人たちがこれをもと通りに建て直して保存しています。

その焼失の前年、一八六九年にこの詩を写真に収めたものがあります。写真技術は既に発達しておりましたが、現像法があまり良くないので、鮮明にはっきりと出ているものではありません。しかし様々な記録と照らし合わせた結果、間違いなくゲーテの書いた通りに複製されております。まずは原詩を読んでみましょう。

“Wandrers Nachtlied”
              (Johann Wolfgang von Goethe)
    Über allen Gipfeln
    Ist Ruh,
    In allen Wipfeln
    Spürest du
    Kaum einen Hauch;
    Die Vögelein schweigen im Walde.
    Warte nur, balde
    Ruhest du auch.

「旅人の夜の歌」    (直訳)
    すべての峯の上を覆って
    憩いがある
    すべての梢に
    お前は そよ風のいぶきの
    跡をほとんど見ない。
    小鳥は森に沈黙している。
    待つがよい やがて
    お前も憩うのだ。

これで終わる短い詩です。

三六〇度、テューリンゲンの山々があって、そしてそれを見渡している一人の人がいる。目を下に向けると、谷間の樹海に風の通っていく跡が見えない。小鳥が森で静まり返って眠りについた。ねぐらについている。待つがよい、やがてお前もこの大自然と同じように憩うであろう、という詩です。

英訳から見る文化対比

不思議なことですが、イギリスの公立小学校の母国語の授業、Englishの国定教科書に「Our great poet(我らの偉大なる詩人の作品)」というページがあります。その一ページにドイツ人であるゲーテの、ドイツ語で書かれたこの詩の英訳が載っています。次がイギリスを代表する劇作家であり、詩人のウィリアム・シェイクスピアの作品です。

私はイギリスの子どもたちや先生たちに、なぜこの詩をour(我らの、私たちの)と言うのかと尋ねましたら、「当然じゃないか、今はEUの時代だよ」と言うのです。ところが調べてみますと、EUになるよりもずっと以前からこの詩の英訳がEnglishの教科書に載っていました。

東大文学部で教授をしておられたイギリス文学者の斎藤勇先生が、イギリスの教科書にこういう訳が載っていると日本で最初にご紹介になりました。

このイギリスの国定教科書は、一行目を「O’er the tops of mountains.」と訳しております。ここでもう既に違うのです。「O’er」というのは「Over」です。「over」はドイツ語で「Über」のことです。「Über allen Gipfeln (頂を覆って憩いがある)」とドイツ語の原文には書いてあります。頂というのは大きな岩塊の頂を指すこともありますし、山の頂を指す時もあります。ところが、英語ではこれを「O’er the tops of mountains.(山々の頂の上を覆っている)」と、明確に「山の頂」なのだと特定しています。

二行目は「Ist Ruh (憩いがある)」です。ところが英語では、is the rest……、ここで終われば良いのですが終わりません。「is the rest of evening (タベの憩いがある)」とわざわざ朝ではなくeveningだと言うのです。表題に「Nachtlied」、「Night Song」とあるのですから実は加える必要はありません。

三行目は「In allen Wipfeln (すべての梢の中に)」です。木の梢には別の言い方もありますが、この「Wipfeln(梢)」という字は「Gipfeln (山の頂)」と同じ音を使っており、ちょうど韻律を合わせるために少々古風な言葉を使っています。「梢に」の「に」とあるのは、「梢の中に」です。

「Spürest du」のSpürestというのは、スキー等で滑った後にシュプール(雪上に残る跡)が残りますが、あのシュプールを追いかけていくことをドイツ語でspurenと言います。跡をずっと追いかける、あるいは警察官が犯人の後をずっと追いかけていく時にも使いますが、「感じとる」、「気付く」といった意味です。「Spürest du(お前は感ずる)」、何を、「Kaum einen Hauch」を。「Kaum」は英語の「scarcely(ほとんどない)」です。「einen Hauch(そよ風のいぶき)」、これは擬音で、はーっと息を吐くような風のそよめき、そよぎです。その跡が「ほとんど」見えないと言っているのですから、少しは見える。「樹海に風が渡っていくのがほとんど見えない」、これで私たち日本人にもドイツ人にもよく分かります。「ああ、そうか」と思うのですが、イギリス人は納得しません。

英訳では、「In the tops of oak or pine,」「you find(お前は見つける)」「scarcely the breath. (そよ風の跡もほとんど見えない)」となっております。イギリスの訳もたくさんあります。最も有名なのは詩人ロングフェローの訳ですが、いま申し上げております国定教科書に載っている訳文は、古典言語学者、ルイス・キャンベル教授の訳です。これは文学的に見て極めてよろしく、しかも響きも清澄です。

さて、政府公認のその訳の三行目はこうなります。「梢を渡るそよ風の跡も見えず」。この「梢」は、ドイツ語ではWipfelnの一語だけです。ところが英語では「In the tops of」の後に、「oak or pine (カシワかマツの木)」と続くのです。

斎藤勇先生はこの詩を、「こういう木があるのだそうだ。イギリス人はこういった木が大好きだ。木の名前は正確に言うのだ」と引用していらっしゃいました。それで私は留学生時代、それからドイツに勤務しておりました頃、このキッケルハーンに出かけて行き、一生懸命にoak or pineがあるかと探したのですが、全くありません。あの周辺一帯はFichte、アカハリモミと申しますか、ドイツトウヒの森が多い。そして八六一メートルの山頂の近辺では木はほとんどなくなり、僅かにブナの木が一本、それからこの小屋の周りにドイツトウヒが数本生えているだけです。その下のほうは赤い実がたくさんなるコケモモ。

そしてここからすぐ山の頂に達するのですが、その頂にはVogelbeere、ナナカマドの木が点々とあり、一一月中旬頃より、山の斜面のドイツトウヒの緑、黒っぽいような緑の森の中にナナカマドだけが赤く紅葉し、ところどころにナナカマドの真っ赤なモミジがシュッと一筆、筆で描いたような跡を残しています。

「oak or pine (カシワかマツ)」の木はここにはありません。つまりキャンベル教授は現場を見ないで、こういう木があるに違いないと考えて訳をしたのです。それが名訳として国定教科書に文部省公認のもと載っているのが、いかにもイギリスらしい。こういった調子は最後まで続きます。下から三行目の「Die Vögelein schweigen im Walde.」ですが、Vogel(鳥) の縮小名詞がVogeleinです。これは小鳥というよりも「鳥ちゃんたち」という意味で、「かわいい鳥たち」という意味です。この最後の「Die Vögelein(小鳥たちは)schweigen(黙っている)im Walde(森の中で)」をキャンベル教授は「The thrushes(ツグミ)are silent in the forest.」と訳します。この部分には二つの訳し過ぎがあります。一つは、この山にたしかにツグミや他の様々な鳥はいるのですが、ツグミはイギリス人の好きな小鳥なのです。ゲーテの原詩にはありません。もう一つは、最後のWaldeです。Wald (森)とbald(e)の韻律を合わせるために「e」を付けていますが、英語で言うwoodenです。Waldやwoodenというのは、人が足を踏み入れたことがない森を指し、木が多く茂っているだけの森ではありません。

日本では木が三本以上あれば森になります。二本以下は林になってしまい、雑木林も林です。つまり森というのは、こんもりしたところですが、日本語の「森」とは、もとは朝鮮半島の言葉で「神様がいるところ」という意味でした。ドイツ語も同じで、Waldというのは人が足を踏み入れることのなかった神聖な、深いところという意味です。一方、英語のforest、ドイツ語でForstと言いますが、これは人工の森という意味です。

ドイツは、国土の三〇%が森です。日本の場合は国土の七〇%が森ですが、大部分が人里離れた峻険な山にあるのが特徴です。大抵の場合、都市生活の遠景として森があります。ドイツの場合には町の中心に、あるいは畑と町と森とが交互に現れ、大きな森が至るところにあります。ドイツ南部のSchwarzwald(シュヴァルツヴァルト)という森は、南北一六〇キロ、幅は約六〇キロあります。このような森が至るところにある訳です。ゲルマン民族というのはもともと森の民族でしたから、ベルリンにしてもオーストリアのウィーンにしても、町の半分は緑です。

何が違うかと申しますと、キャンベル教授はこれを「forest」、つまり「人工の森の中に」と訳したのですが、このキッケルハーンの森のほとんどは自然のままです。ただしドイツの国土は、三〇年戦争の後に焼けただれてしまいました。焼け野原になったところに彼らは一生懸命木を植え、それが現在まで四〇〇年以上経っています。

ドイツではクリスマスには一般的に常緑針葉樹のモミかドイツトウヒを飾ります。アドベント(クリスマス前の降誕祭に備える期間)になりますとドイツの街角、あるいはオーストリアやスイスといったドイツ語圏の街角では、よくクリスマスツリーのためのモミの木を売っております。モミとFichte(ドイツトウヒ)は一見すると区別がつきませんが、いくつかの違いがあります。その一つが根の張り方で、モミの木というのは根が地上に出ている木の部分とほぼ同じくらいの長さの根が、地面からまっすぐに伸びます。ところがドイツトウヒはヒノキと同様に横に張るので、成長が非常に早い。ところがモミの木はドイツトウヒの三倍も成長に時間がかかるということは、お値段も三倍です。そういった理由から現在「O Tannenbaum, O Tannenbaum (モミの木よ ああモミの木よ)」と言われて売られている木の多くがドイツトウヒです。昔のゲルマン民族、つまりキリスト教に触れる前のゲルマン民族にとってはモミの木は神木であり、日本人にとってのサカキと同じようにここに神様が宿るのだということで拝む対象でした。

同様にケルト民族では、トゲトゲのあるヒイラギが魔よけの木とされていました。これが民族の移動と共に移っていき、北フランス、ドイツより西の地方、そしてイギリスのウェールズの辺りでは、ヒイラギがクリスマスのリース用の木となります。

日本でも一一月後半にもなると町中でクリスマスツリーの飾り付けを見かけます。日本でよく見かけるクリスマスツリーもFichte、主にドイツトウヒの木です。モミの木よりも成長が三倍早いのでお値段も三分の一で済みますが、このことでドイツトウヒの価値が低いことには繋がりません。ストラディヴァリを始め、一般的にヴァイオリンの表の板はドイツトウヒでなければなりません。これは木目が真っ直ぐ平行に並んでおり、木質が均一で軽量であることから、音の伝導に優れているとされているからです。このためストラディヴァリなどの名匠たちは、アルプス山脈東部、チロル地方の山中に生えているドイツトウヒの木を若い時から買い取り「この木は自分の木」と、木にわざわざ所有者の名前を付け、成長を待ってヴァイオリンを作っていました。ただし裏の板はカエデの木です。

ゲーテが見ている森は皆、ドイツトウヒの森です。それをoak or pineの森であるとか、そこに住んでいるのがツグミであるとするのが英語の感覚です。けれども「小鳥が森に静もりぬ」と言う日本語が、「thrushes are silent in the forest of oak or pine.」となるのは風情が感じられません。やり過ぎではありませんか。

この点に関し、斎藤勇教授の解説はまさに当を得ております。「イギリス人という民族は物事を、例えば木、石、山と言うのでは駄目なのだ。必ず〇〇の木、〇〇という名前の小鳥、〇〇という名前の山と、全て物事に具体的な名称を与えて、つまり人間が持っている名前を与えるという能力を最大限に発揮して、物事をコンクリートに整理していく。これがイギリスの国民性である」。なるほど、言われるとその通りです。ところがドイツ人は木、森、梢、もうそれだけで何か深々としたものを感じてしまう。日本人と非常に似ているところがあります。

同じヨーロッパにもかかわらず、ドイツの詩とその英訳を比べただけでも、これだけの国民性の違いが現れます。ましていわんやドイツの詩と日本の詩を比べてみますと、音律、韻律、それから音素(音の素質)といったもの全てが異なり、全く別の詩となってしまいます。文学用語ではこの詩が語ろうとしている内容を、イマージュ、形象と呼んでおります。そしてその何か実質の部分、何かが見える、聞こえるといった部分ですね。形象は伝えることができます。つまり旅人が夜、山に登ってこの詩を作ったその静けさが歌われている。

『旅人の夜の歌』の謎

この詩について様々な謎がありますが、ここでは三つの謎を挙げます。この詩の表題は『旅人の夜の歌』となっていますが、例えばフランツ・シューベルトがこの詩をもとに作曲した曲の表題は『さすらい人の夜の歌』として知られています。

第一に、この旅人とはどの様な人か。この詩の中にはある人間が立っています。

日本の詩、特に俳句では通常人間が顔を出しません。自然の一片を切り取ればそれで十分です。例えば松尾芭蕉の句「かれ朶に烏のとまりけり秋の暮」は、「秋の暮」という部分だけでも人間の持っている寂寥感が実によく出ています。ここで「さて私は」とか「さて人間は」と言ってしまうと、詩や俳句がぶち壊しになります。

ところがこの詩には人間が入っています。「Spürest du(お前は感ずる)」と確かに言っております。この「du(お前)」は、旅人のことです。非常に歳をとり、杖をついた寂しげなさすらい人なのか、それとも若く、元気に山を歩いている旅人なのでしょうか。その中間もありえます。

この「人」、ドイツ語でWand(e)rerは、英語のwandererです。ドイツ語にWandervogel (ワンダーフォーゲル)というのがありますが、あのWandererというのは、三日でも四日でも山靴を履いてテントを背負い、てくてく、てくてくと森の中を歩く人を指します。

ドイツで言う山の標高は、日本で言う山よりもずっと低い。Wandernと言うと、一番高くても標高六〇〇メートルくらいのところを一日がかり、二日がかり、三日がかりで、てくてく、てくてくと元気よく歩いている。そういう壮健な若者、少なくとも三〇歳くらいの人をWandererと言います。ドイツ人はただ歩くのが好きなのです。日本でさすらい人と言いますと、芭蕉のように背を丸くして杖をついて、奥の細道をとぼとぼ、とぼとぼ歩いている人の様に感じますが、このWandernは、元気いっぱいに山靴を履いて歩くこと。これが日本人とドイツ人の感覚の違いでもありましょう。

したがって一つ目の謎の答えは「若い人」です。若いといっても一〇代やそこらではなく、仕事をしている、若い壮健なる者という意味でWandererと言います。

第二の謎です。表題に「夜の歌」とありますが、どういった夜なのか。真っ暗な夜か、それとも淡い夜か。この詩では山や鳥が出てきますが、夜と言うからには景色が見えるはずはありません。何故、これは「夜の歌」なのでしょうか。

表題には夜の歌、「Wandrers Nachtlied」、英語で「Night song」と断わってあります。にもかかわらず一行目で、見はるかす全ての山々が三六〇度、全て見えると言っています。見渡せる全ての山の上に夕ベの憩いがある。夕暮れが次第になだらかに、穏やかに、山々の峯の上を全てすっぽりと覆っていると書かれています。「覆って」というのはドイツ語のÜber、英語でoverです。auf(英語でupon)であれば、上にくっついて雲がかかっている状態なのですが、ずっと離れた上の方に、すっぽりと山の上に夕暮れがかかっているということは、山が見えるのです。そして、ふと気がついて下の方を見ると、谷間にはずっとドイツトウヒの樹海が広がっている。

この詩の中で森が、そして風が生きていることは確かなのですが、風というほどの風ではなく、その跡がほとんど見えない。見えるか見えないかくらいだと言っているのですから、これは視覚として見ています。そういったものが見えるのが、本当に夜なのかというのが疑問です。山が見えて、森が見えて、何故これが夜なのか、大きな疑問です。そこで多くの言語学者たちがいろいろと調べた結果、「ゲーテは全作品の中で、八二年と七か月の生涯の中で、夕方のことを夜と言ったことが三回ある」ということが判明しました。このことから、「夕方になって夜と言っている。だからこの夜というのは夕方という意味だ」という意見もあります。確かにそれも当たっているのかもしれません。しかし、最後から三行目に、ふっと気がついてみたら、「小鳥は森に静もりぬ」とあります。小鳥は夕方になるとねぐらに帰ってきます。そして皆で木の梢にとまった後、ピーチクパーチクとおしゃべりをし、そして一旦静かになります。一旦静かになって、もう一度暗くなってから大騒ぎして、そしてまたハタっと沈黙します。「ふと気がついたら、小鳥が、人が入っていかないような森の中で沈黙している。静かである」と言うことは、深い夜になったということです。

この八行の詩の上から六行で、物や山々が全て見えている時間から夜になっていった時間の経過が表わされている。ここが、日本人の我々には難しい。何故かと言うと、日本の詩、あるいは短編小説は、ある一瞬、一局面(の転瞬)を切り取ります。その切り口を鮮やかに見せるのが日本の詩、俳句の美しさです。ところがドイツの詩、あるいはヨーロッパの詩というのは、[時間の経過、、、、、]を表わす。したがってこの詩も、森も山も全部見えている夕方から夜になっていった時の経過を表現した詩であると言えます。これが謎解きの二つ目です。

もう一つ、この詩はどこで歌っているのでしょうか。これは簡単です。山の上です。「すべての峯の上を覆って」と言うのですから、三六〇度が見渡せる、山の一番高いところで歌っている。一七八〇年九月六日、ゲーテが三一歳の時です。では何故、山の上に登ったのでしょうか。

行政官としてのゲーテ

この時既に彼は、『若きウェルテルの悩み』や戯曲『ゲッツ』などの作品により、ヨーロッパ、そして世界中で非常に有名な作家でした。その作家であり詩人であった若きゲーテは、ワイマル公国(現在はドイツ中央部に位置するテューリンゲン州の独立市)という小さな公国領主のカール・アウグスト公に、初めは話し相手や相談役として役職のない客人扱いで招かれました。

当時のドイツは日本の藩制とほぼ同じ様に、法的には約三〇〇の国に分かれていました。しかしその国の中でも、子供の領地であるとか、一番位の高い貴族の領地であるといった具合に、それぞれが独立の国を持っていました。そのため、実際的には約三〇〇〇の国々に分かれた小邦分裂の国でした。これがイギリスやフランスとの大きな違いです。

この時代、既にイギリスやフランスは中央集権制度を確立し、そして産業革命が始まろうとしていました。特にイギリスは農地改革に成功し、エンクロージャー(開放耕地制だった土地の私有地化)で農民たちを囲い込み、農作物の生産性はドイツの倍近くあった。富める者は外国に植民地を求め、そこから猛烈に富を吸い上げます。やがてもう少し経ちますと、今度は人身売買が行われます。奴隷売買をし、アメリカで綿花を作らせて世界制覇し、産業革命を起こし大英帝国を作り上げました。フランスはそれに負けじ劣らじと中央集権を確立します。

そのような状況下で、ドイツだけがこれほど遅れてしまった理由は、三〇年戦争の余波です。一七世紀、一六一八年から一六四八年にかけて神聖ローマ帝国を舞台として三〇年戦争があり、国の人口が三分の一に減ります。これは沖縄戦が三〇年続いたのと同じ状態でしょう。人口だけではなく、畑地という畑地、森も何もかも壊滅状態、第二次大戦が終わった後のベルリンのような状況でした。

第二次世界大戦後のドイツの復興と異なり、当時のドイツは復興が非常に遅く、ゲーテの生きた一八世紀中頃から後半にかけては、まだまだ貧しい国でした。それぞれの小国、歴史学では「領邦-Land」と言いますが、この領邦ごとに関税をかけあい、余剰農産物を外に持ち出すこともできないような制度に、人々は皆鬱々としていました。日本の藩制よりももっと厳しい小邦分裂の国でした。その中の人口一〇万人の小さな国に招かれたゲーテは、たちまちにして行政を任されるのです。ゲーテは爵位も何もなく、フランクフルトの中堅市民の出身です。金銭的に貧しかった訳ではありませんが、初めは父親からお小遣いを貰い、その程度の感覚でワイマルに遊びに行った。しかし、カール・アウグスト公からの招請を受け、行政官となり、大臣になります。内閣に僅か四人しかいない大臣の一人です。ゲーテはまず道路整備、河岸工事を行いました。それから財政立て直しのために軍隊を半減します。今で言う事業仕分けです。二億円、三億円と言うレベルではありません。軍隊を半分にばっさりと切ってしまいます。そうすると失業者が出ます。この人々を全て道路工事に回すのです。ワイマル周辺の道路は状態が悪く、馬車がすぐに轍の泥にめり込みます。当時既にアスファルトはあったのですが、ゲーテは道路工事にアスファルトやコンクリートを使うのを禁止し、石を砕いて砕石を敷き詰めるように指示しました。そうすると水が下に染み込みます。そして道路脇には木を植えるように、しかも、ただの木ではもったいないので、ナシとリンゴを植えるように、予算獲得に苦労しながら次々に指示を出します。

また、ゲーテは農地改革を行おうとして、これだけは抵抗が強くて失敗挫折しました。他にも就学制度、学校の義務教育制度を導入しました。ありとあらゆることを行い、それに加えて鉱山の再開発をします。昔、この辺りは鉱山が発達していました。それを再開発して国を豊かにしようと、彼は大臣に就任した直後から鉄のハンマーを持って山を歩くことを常としておりました。

最後に八二歳と七か月で亡くなる直前まで、彼は山を散歩する時には杖ではなく、必ずハンマーを持っていました。ハンマーを持って、岩や石を見るとコーン、コーンと叩いて歩き、採取して持ち帰ります。彼の家にはその鉱石の標本が壁全面の引き出しに、ところ狭しとあります。しかし当時の科学ですから、これらをレトルト(蒸留や乾留に用いる実験器具)にかけ、それを電子顕微鏡の様なもので観察して分析するところまではできません。とにかく自分の目を信用し、目で観察することが、彼の博物学であり科学の根底にあった方法論です。

彼はまた、色彩論や気象学、植物進化論で実績を残しました。解剖学でも上あごと下あごの間に顎間骨、いわゆるゲーテ骨(Zwischenkieferknochen)と言われる骨があることを発表しました。それまで、サルまでは顎間骨、軟骨があるけれども、人間にはないと言われていましたが、その区別を取り払い、ゲーテ骨と言われる顎と顎の間の骨を発見したのは彼です。人間の頭蓋骨を一生懸命眺め見ていたというのですから、とてつもなく変った詩人ですね。

ある秋の日のゲーテ

そしてゲーテ三一歳の九月六日の夕方、実益、つまり鉱山の開発と鉱物学調査を兼ねて、テューリンゲンの森の中で一番高い八六一メートルの山、キッケルハーンに登ります。従者が一人付いていますが、ゲーテはすたすたと登って行き、辺りを見回します。

当時の地理学では、航空写真も衛星写真もありませんので、上から見た地形というのは全く分かりません。下から見ていたのでは地形はよく分からないので、その地方の一番高い山の上に登って全体を見回します。すると、こういった感じに谷ができていて、こういった様に山が収縮している、あるいは隆起しているといったことを、自分の目で確かめられる。彼は地理学上の理由で山のてっぺんに登ったのです。これが三番目の謎の答えです。しかし、これはまた私的な関心でもありました。彼においては詩と科学とが一体となって結びつき、一番高い山に登り、そして夕暮れ時に日没をじっと見ていました。これは長い、長い時間が経っています。初めは全て見える。それがだんだん、だんだん暮れなずんでいき、そして下の樹海を見てふと気がつくと小鳥が静まりかえっているということは、とっぷりと夜の帳が下りるまで彼はずっと山の上で眺めていたのです。

そして、そこに立っている人間はと言うと、待てない人間です。不安で不満で、憤懣やるかたない男なのです。行政官として何をやっても全てはうまくいきません。駄目な役人がいっぱいおり、農政改革をしようとするとすぐに妨害が入り、裏で何か画策をしている。何をやっても彼らと衝突する。その衝突するものを説得して、軍隊を半分に切り捨て、砲兵隊を廃止して騎兵隊だけを残し、道路を作らせた。川の岸辺にコンクリートの護岸を作ろうとするので、振り払ってヤナギとハンノキで岸辺を作らせる。信州千曲川の辺りと同じですが、岸辺のヤナギ類は、増水したときに岸辺を崩れないようにする働きもあるのです。

ワイマルでのゲーテは、このような猛烈な行政改革を行い、しかも文学活動も行っていました。その上、七つ年上のシュタイン夫人と恋人関係にあった。ただ、恋人関係と言っても、シュタイン夫人は夫との関係は冷え切っていたものの、既に七人の子どもがありました。しかも非常に上品な宮廷の女官です。この女性に宮廷での在りよう、言葉遣いから身のこなし、女性に対するお辞儀の仕方までを習う。ゲーテはシュタイン夫人に一七〇〇通もの手紙を出しているのですが、何故そんなに大量に出しているかと言うと、体の関係がないからです。体の関係があったらそれほど手紙を出す必要はない。つまりプラトニック・ラブです。

しかし、当時の彼にはもう一つ不思議なことがありました。このキッケルハーンの山小屋に戻り、日もとっぷり暮れたのでちょっと一休みして寝るよと従者に告げて眠りにつきます。従者は晩御飯の用意をしていたのですが「堅パンだけでいいよ」と言って横になり、一時間ほど寝たところで起こされます。山の麓のワイマルからイルメナウという町を経由して、素晴らしい果物籠が送られてきたのでした。シュタイン夫人かと思うと、そうではありません。ブランコーニという、当時のドイツで最高の美人と言われた侯爵夫人が、ゲーテの名を慕って、ワイマルを訪ねてきます。ワイマルに二日間滞在して帰った後、果物屋に注文を残して届けさせた。「ゲーテ閣下は何月何日の何時ごろ、斯く斯くしかじかのところにいらっしゃるから果物を届けなさい」と、一通の手紙を果物に添えて届けさせたのです。

その果物を夕食代わりに食し、その後おもむろに書いたのがこの詩です。つまり当時の彼には女性が二人いたわけです。伝記作家たちが夢中で彼女に関して調べるのですが、この女性との関係は未だ解明されておりません。愛情の交換がどのようにあったのか、手も触れなかったのかどうなのか、全く分かりません。しかし、愛の気持ちはあったに違いありません。彼女は遠くへ旅立ってしまった三日後に、「山の上にいるゲーテに果物を届けてくれ」と注文して出かけていったというのですから、現在のお歳暮とは意味が違います。

そういった出来事に取り囲まれながら、「あの隣の財務大臣はどうもおかしい。」「国家財政がひどく乱れている。」「農地改革がうまくいかない。」「石の中から良い鉱物の元が出てこない。」「作物の育ち方が悪い。」と色々に考えています。怒り狂う気持ちと、何とかして一歩でも前に進みたいという気持とが相混じりながら、様々な思いで頭がいっぱいになっています。ブランコーニ夫人は遠くに旅立ってしまいましたが、シュタイン夫人は麓にいます。プラトニックであっても彼女のところに行けばどんなことでも話しができる。この崖を標高三〇〇メートルの下まで駆け下りて、ワイマルの家へふっ飛んで行きたい思いで胸が燃え立っています。

そういう落ち着かない、憤懣に満ちた自分自身に対し、「待てー、しばし!」と言っている。そこで「Warte nur」と、ruhest「ルゥー」のr(アール)音が二度、強烈に響く。これは「待て、しばし。-waitwait」ではないのです。何とも言いようのない強み、凄みがこの音の中にこもっています。しかも、このnurというのは英語のonlyですから、通常は「ただ待ってろ、ただ待ってろ」と訳しますが、これは間違いです。ドイツ語で、この命令形につけた場合のnurは「待ちなさいってば、待ちなさいよ。待てば良いんだよ。そうすればことは片付くんだからね、ね、ね」と言って相手をなだめる、そういうnurです。「待ってなさいよ、待つが良いーっ」と自分自身を抑えています。

ヨーロッパの対話精神

この「Ruhest du auch. (お前も憩うのだ)」の「du」というのは自分自身です。これも我々日本人にとっては問題です。「Ruhest du auch (お前も憩うのだ)」と、「お前も」と言うのですから、日本人の場合、そこに恋人を思い浮かべているに違いないと考えますが、ドイツ人やイギリス人はそう考えません。

我々日本人は独り言を言う時、失敗した時「私、馬鹿よね」と言います。「あっ、おれって馬鹿だ。ドジだよな」と思います。ところが彼らは独り言を言う時、そして自分を責めたり、馬鹿にしたり、怒ったりする時、「お前は」と、自分に対してもう一人の自分が話しかける。

英語やドイツ語では独り言を言う時に、自分がもう一人の自分に対して、あるいは外側の自分が内側の自分に向かって「You」と呼びかける。これが最後の行「Ruhest du auch.」のduです。「お前はやがて憩うのだ」の「お前」は、他人ではないのです。神様でもなく、自分を指しています。「Ruhest du auch.(お前も憩うのだ)」はつまり、「大自然と私」なのです。これを「私も憩おう、私は憩うのだ」と言ってしまったら詩になりません。Du(お前)という対話法があるお陰で、緊張関係が生まれます。自然と人間、それから人間の中でもお前と私、これが絶えず対話する、このdialogがヨーロッパ的精神の根底にあります。

我々日本人はどうしても自分や自然の中に静かにこもりがちですが、彼らは絶えず対話してやみません。特に優れているのがフランス人です。イタリア人も同じです。しかしヨーロッパ人が全てそうではありません。ノルウェーなどはさほどお喋りではありません。以前、ノルウェーの大学の先生と二人で浜辺に座っていました。一時間程夕暮れの浜を黙って眺めてから私が「さあ、そろそろ陽が暮れるから帰りましょうか」と言うと、その先生に「あんたはおしゃべりだね」と言われました。それまでの一時間、ただ黙っていたのにです。北ヨーロッパの人は、そういう私をおしゃべりと言う。

ところがフランスに行くと朝から晩まで、寝ても覚めても彼らは喋っています。そういうお喋り精神と、黙っている精神のちょうど総合体の中に対話的精神というのがあり、必ずdialogします。自分の中でもdialogし、正反合で弁証法的にものを考えていくというのが、ヨーロッパ的精神であろうと思います。

時間の変化を表す感覚の変化

さて、一番大事なことをお話します。またもとの詩に戻ります。

この詩では最初に山々を見ています。これは自分の感覚、視覚は、遠い遠いところを見ています。自分の中から感覚が外へと流れ出て行きます。やがて目は下へ下りて行きます。上から下へ下りるということは足元ですから、ずいぶん自分に近くなります。自分の足元からすぐ下にある樹海を見ている。そして感覚の輪が次第に縮まってきてふっと我に返ると、先ほどまで聞こえていた音が聞こえないことを認知します。ということは、これは聴覚です。つまり視覚が聴覚に替わった瞬間、我に返る。夜になったなということを感じると同時に、ふと我に返るという現象がここにあります。

自然を眺めていて我に返り、それで自分に向かって「Warte nur, balde/Ruhest du auch.」と言って終わります。ゲーテのこの詩を一言で言いますと、自然と人間が相対立しています。自然は安らかです。しかし人間は安らかではありません。しかしこの安らぎのない中で、駆け出していきたい自分を抑え込んで「やがてお前も憩うのだ」と言うのは、夜が来たという意味であると同時に、やがてお前も大自然の中へ還って行くよという意味も含んでいます。

晩年のゲーテ

それから何十年か経ち、ゲーテが八二歳になる一日前、一八三二年八月二七日の夕方、彼はまたこの山に登ります。てくてく、てくてくと八六一メートルを登る。VIPですから営林署の若い役人がついてきています。息を切らせながらついてくる若い役人を尻目に、サッサッ、サッサッと山を登ったこの老詩人ゲーテが、「ちょっとここで待ってくれ」と役人に言いました。

「Warte nur.(しばらく待っていろ)私は五〇年前にここで詩を書いた。板壁に鉛筆で書いたそれを読んでくる」と言って山小屋に入って行き、しばらくの間出てこないので、役人は何かあったのではと心配になり、小屋に入って行こうとすると、ゲーテが出てきました。そして山頂を眺め、この小屋を振り返って見て、黒い服の胸のポケットから絹の真っ白なハンカチを出して目を押さえながら言いました。「Ja, das ist wahr.(本当にそうだ)」。

「Warte nur, balde Ruhest du auch.(待て、しばし。汝もまた憩わん)。本当だった」と言って、山を下りました。七か月後の三月二二日、ワイマルの自宅で、「Mehr Licht!-もっと光を」という言葉を残してゲーテはこの世を去ります。

この詩について多くの人が語り、また作曲家が作曲しております。『野ばら』ほど多くの作曲家が作曲したわけではありませんが、中でも知られているのが、フランツ・シューベルトです。しかしゲーテはモーツァルトが大好きでした。何しろ自分と同じ名前です。ヴォルフガング・アマデーウス・モーツァルト。ゲーテはヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテです。

ヴォルフガングのWという字を、彼は「もっと光を」と言った後で虚空に指で書き、そして息絶えるのです。指でWの大文字を書いてピリオドを打った。自分の名前のイニシャルを虚空に打ち込み、作家魂、詩人魂にピリオドを打って、自分の人生の終わりを刻みました。やはり文学者です。彼はきちっとピリオドを打って、ポロッと手が落ちて息絶えます。

そのゲーテが好きだったのがヴォルフガング・アマデーウス・モーツァルトであり、またその頃あまり聞かれていなかったのに彼が好きだったのは、ヨハン・セバスチアン・バッハでした。ただ、シューベルトについては何も知りませんでした。かわいそうにシューベルトは、いつも作曲した楽譜をワイマルにいるゲーテに送ります。四〇回も送るのですが、一回も見てもらえません。ゲーテは楽譜が読め、音楽の素養もありました。ところが、シューベルトからゲーテの詩につけた曲が送られてきても全く見ませんでした。ツェルターというゲーテの音楽の指南役が「あのウィーンの鉄のめがねをかけた変な男、あんな貧乏音楽家のものなど読むにも聞くにも値しません」と言うので、ゲーテはシューベルトから来る手紙と献呈の楽譜は毎回くず籠に捨てておりました。

ところがゲーテが亡くなる二年前、客人がやってきてこの詩と「Erlkonig-魔王」という歌をゲーテに歌って聞かせました。ゲーテは驚愕し、雷に打たれたように驚きます。「この作曲家は誰だ」と尋ねる。「フランツ・シューベルトと申します」という回答でした。ゲーテはどこかで聞いたことのある名前だと思いながら、面会を希望します。

その頃は当然、CDもラジオもありませんので、音楽を聞くには本人あるいは誰かの演奏になります。ウィーンからワイマルまではさほど遠くなく、二日もあれば充分な距離ですから、「本人に来てもらいたい」と言います。しかし、「シューベルトは既に亡くなりました」という返事でした。

「そうか、zu spät. 人生はいつもzu spätだ」英語のtoo lateです。「Sofort-今すぐ、oder nie-すぐでなかったらすべて間に合わない」と嘆いたということです。

この時、年齢は既に八〇を越えています。シューベルトという当時まだ名の知られていない作曲家の音楽をたった一度、少し聞いただけでその美しさを雷に打たれたように感じとることができるのは、やはり芸術的感覚が優れていたからだと思います。皆さまも是非機会があればこのシューベルト作曲の「Wandrers Nachtlied-旅人の夜の歌」や「Erlkönig-魔王」を聞いてみてください。(歌う)。

ご清聴、ありがとうございました。

(学校法人フェリス女学院理事長・東大・文博・文・昭28)
(本稿は平成21年11月20日午餐会における講演の要旨であります)