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学士会アーカイブス

望遠鏡四〇〇年が開いた宇宙 海部 宣男 No.879(平成21年11月)

望遠鏡四〇〇年が開いた宇宙
海部 宣男
(放送大学教授・国立天文台名誉教授・世界天文年2009日本委員会委員長)

No.879(平成21年11月)号

世界天文年とガリレオの大発見

今年は「世界天文年二〇〇九」である。国際天文学連合(IAU)の主催、ユネスコが共催、国連総会の決議があり、一四六ヵ国・地域が参加している。ユネスコと国連では、日本も共同提案国として積極的に動いた。国内では日本学術会議を中核に日本委員会を組織し、国立天文台やJAXAなど研究機関、日本天文学会・地球惑星科学会などのほか、日本公開天文台協会、日本プラネタリウム協議会、天文教育普及研究会など研究・教育・普及の分野から多数の委員が参加し、全国でさまざまな行事が展開されてきた。IAU主催の国際企画と日本委員会主催企画がそれぞれ一〇以上あるほか、科学館・学校・団体などで実施された公認イベントは二四〇〇、ホームページで登録する「星を見ました!」報告が四一〇万人、ホームページアクセス一七〇〇万件という盛況である(九月現在)。国連が定めた「国際〇〇年」としては、かなりの記録だろう。

「世界天文年二〇〇九」は、ガリレオ・ガリレイが手づくりの小望遠鏡で宇宙を観測してから四〇〇年を記念するものである。一六〇九年一一月末、ガリレオはそれまで作ってみた中で「かなり良好な」望遠鏡を手に、月を観察することからスタートした。観測に用いたと思われる望遠鏡がフィレンツェ科学史博物館にあり、日本では世界天文年を機会に精密な複製を試みた。メーカーと関係者の努力で完成したガリレオの望遠鏡は、レンズ径五・一 cmだが色収差による像のボケを軽くするため筒先に開口径二・六cmのシボリが入れてある。木製の筒は長さ一・三mもあって、なかなか重い。覗いてみると、誰でも驚く。真っ暗な中に遠く小さく明るい円が見え、それが視野である。視野角わずか一五分、月ならその四分の一しか入ってこない。ガリレオはこういう不便な望遠鏡を手に、またたく間に大発見を重ねた。翌年三月にはSidereus Nuncius(Starry Messenger、邦訳『星界の報告』岩波文庫)を出版する早業である。この本には、以下の発見が収められている(カッコ内にその意味を書き込んだ)。

①月には、山や谷がある。(天体も「神の完全な世界」ではなく、地球と同じような物質の世界であること)
②空には、目では見えなかった数え切れないほどたくさんの星がある。(宇宙は、非常に広いのだということ)
③天の川は、無数の微かな星の光の集合である。(不思議な[てん]の河は、じつははるか遠くまで続く星の世界を見ていたのであること)
④惑星は円く見えるが、恒星は望遠鏡でも光の点にしか見えない。(惑星は、恒星に比べて近いらしいということ)
⑤木星の周りを、四つの月(衛星) が回っている。(まるで太陽を回る惑星系のミニチュアのように、ガリレオには思われた)

ガリレオは観測を続けて、さらに多くの発見をした。金星が満ち欠けすること、土星に奇妙奇天烈な「とって」がついていること(後にリングであることが判明)、太陽の黒点は表面の現象であり太陽は自転していること。科学の長い歴史でも、短期間にこれほど多くの大発見をしたのはガリレオ一人といってよいだろう。当時の傑出した科学者だったガリレオの力量があったとはいえ、基本は何といっても、望遠鏡の威力によるものだ。ガリレオの発見のうわさは望遠鏡とともにヨーロッパ中に拡がり、王侯貴族は争って望遠鏡を手に入れた。百聞は一見に如かず。大勢の人々が自分の目で見ることで、天体は地上と同じ物質の世界だという認識は急速に広まった。地上の理解をもとに宇宙を理解しようとする、近代的天文学がスタートしたのである。天動説と地動説の争いもまた、望遠鏡によって事実上の終止符が打たれたといってよいだろう。

望遠鏡とともに広がった宇宙

望遠鏡は、肉眼では見えなかった広大な世界が存在することを明らかにした。大きく優れた望遠鏡を作ればさらに大きな宇宙が見えるのだから、天文学者たちが望遠鏡の開発に努力を注いだのは当然である。ガリレオの望遠鏡は凸レンズと凹レンズを使って正立像を得るガリレオ式だったが、ケプラーが二枚の凸レンズを使うケプラー式をすぐさま提案した(一六一一年)。ケプラー式は像が倒立するが視野が広く、天体観測に向いている(現在の天体用屈折望遠鏡はすべてケプラー式)。一七世紀中ごろには、長大な「空中望遠鏡」が出現した。長さ一〇mから四〇mもある鏡筒を高い柱から吊るし、たくさんの紐であやつるという、おそろしく不便な代物だが、高くそびえる空中望遠鏡はパリやグリニッチに建設されはじめた王立天文台の象徴になった。天文学者たちはこれで熱心に観測を続け、土星のリング、火星の極冠など惑星表面の模様、惑星の自転や衛星など多くの発見がもたらされ、詳細な月面図も描かれた。

望遠鏡の技術が大きく進んだのは、一八世紀後半である。ハーシェルがニュートンの反射望遠鏡(色収差を伴うレンズを使わず、筒の底に置いた凹面鏡で光を集める方式)を改良して次々と大きな望遠鏡を作り、新惑星=天王星を発見した(一七八一年)。旧くから知られていた五惑星以外にも惑星があることがはじめて分かったのだから当時の驚きは非常なもので、ガリレオがトスカナ大公のお抱え科学者となったように、ハーシェルは直ちに英王室付き天文学者に取り立てられた。いっぽう、材料が異なるレンズを組み合わせた色消しレンズを一七五八年にドロンドが実用化し、筒先のレンズで光を集める屈折望遠鏡も精密化・大型化した。産業革命の息吹きが高まるイギリスで起きた発展である。一九世紀までには全天の詳細な天体リストが作られ、恒星のほか星団やさまざまな形の星雲(非常に遠方にある楕円形の巨大な銀河も含まれる)の存在が明らかになった。とはいえ、それら相互の関係や意味、また恒星がなぜ光るのか、その誕生と死などの問題には手がつけられなかった。ガリレオから二〇〇余年を経て宇宙は広大で豊富なものになったがなお現象論の世界で、天体の本質は不明なままだったのである。

天体の本質やその起源・進化が明らかになってゆくには、望遠鏡もさることながら、一九世紀後半から二〇世紀はじめにかけて加速される物理学の発展が必要だった。分光学の基礎(キルヒホフ、ブンゼン、一八五九年)、気体分子運動論(マクスウエル、一八五九年)、熱統計力学の基礎(ボルツマン、一八八〇年前後)、電磁場の方程式(マクスウエル、一八六四年)、量子論の基礎(プランク、一九〇〇年)、ボーアの原子構造論(一九一三年)、相対性理論(アインシュタイン、一九〇五~一九一五年)と並べるとまるで科学史年表で、物理学の疾風怒濤の時代である。これら物質の基本法則を天体に適用することで、望遠鏡が獲得してきた宇宙の多彩な現象・諸天体の実態がはじめて明らかになってきた。例えば分光学で恒星の温度や大きさを推定し分類ができるようになり、気体分子運動論と熱力学で恒星の大気や内部構造も議論可能になり、原子論で恒星や星雲の組成が判明することで、「天体物理学」が成立した。量子論・原子核理論と相対論は、白色矮星や中性子星、超新星など恒星の終焉の姿にも迫った。物理学者たちが天体現象に本格的に参入し、二〇世紀半ばには核融合反応による恒星のエネルギー源の解決という、宇宙理解の大きな節目を迎えたのである。

もちろんこの間の望遠鏡と観測技術の開発も、目覚ましいものがあった。写真術の応用は遠くの微かな天体も明瞭かつ客観的に捉えることを可能にし、分光器と写真機を装着した精密機械装置としての望遠鏡の発達を促した。レンズを筒先に取り付ける屈折望遠鏡は大型化には不向きだったが、ガラスの凹面鏡に金属メッキを施した反射望遠鏡の登場は、望遠鏡の著しい大型化を可能にした。一九一八年に完成したウィルソン山天文台(カリフォルニア) の口径二・五m望遠鏡は、そうした大反射望遠鏡時代到来の象徴である。この望遠鏡を用いてハッブルは、宇宙が膨張しているという重大な事実を見出した(一九二九年)。宇宙は永劫不変という私たちの先入観を覆した宇宙膨張の発見は、ガリレオの時代における地動説に比すべき、世界観の大転換だったといえよう。

現代の天文学と宇宙

二〇世紀の後半、望遠鏡は新たな発展の時期を迎えた。一九三一年に偶然発見された宇宙からの電波を観測しようと、電波望遠鏡が一九六〇年代から急速に発達し、それまで可視光だけで見ていた宇宙に衝撃的な変化がもたらされた。電波銀河や謎の天体クエーサー(後に、銀河の中心に生まれる巨大ブラックホールがその本体と判明する)、銀河の磁場、中性子星などが続々と発見され、宇宙の高エネルギー現象が姿を現した。いっぽう一九七〇年ころから発見が相次いだ星間分子の多彩な電波スペクトルによって宇宙に広がる低温の暗黒星雲の観測が可能になり、そこからの恒星の形成、さらに惑星の形成にも観測が及ぶようになった

一九六〇年代にはまた、波長が長い赤外線や、宇宙空間(スペース)からのX線観測が始まった。赤外線では生まれかけの星が観測され、高エネルギーの電磁波であるX線は、白色矮星やブラックホールなど恒星末期、あるいは銀河における高エネルギー現象の解明に威力を発揮している。日本でも、野辺山に建設した大型宇宙電波望遠鏡、小型からスタートして大きく発展したX線観測衛星のシリーズが活躍したことは、よく知られている。可視光の観測でも写真に変わる高感度のCCDなど多くの技術的躍進があり、二〇世紀末には日本の口径八・二mすばる望遠鏡を含め、可視・赤外線望遠鏡の急速な大型化がおこった。

二一世紀の宇宙の観測は、大きく二つのフロンティアを迎えていると言えるだろう。ひとつは、銀河、星、地球、人間を生みだしてきたこの宇宙がなぜ膨張を開始し、どのようにして現在の空間と物質、天体が生まれてきたかという、私たちの宇宙の根源に関わるテーマである。かつては全く手が届かなかった宇宙初期の観測に、いまや数多くの手がかりが得られつつある。次世代の電波や可視・赤外線望遠鏡、新しく登場してきたニュートリノや重力波を用いた観測法が、今は見えていない新しい地平を開くだろう(觀山氏の稿参照)。かつて恒星の構造と進化をめぐって展開された天文学と物理学の共同は舞台を膨張宇宙に移し、いっそう密接な展開を見せようとしている。宇宙論については、佐藤氏の稿に詳しい。

二一世紀の宇宙観測のもう一つのフロンティアは、宇宙に満ちる惑星を調べ、第二の地球を探し、宇宙に生命の存在を探ることである。長い歴史を持つ太陽系外の惑星探しは、一九九五年にようやく実を結んだ。スイスの観測グループによる、ペガスス座五一番星を回る惑星の発見である。驚くことにこの惑星は、質量が木星の半分程度という大型惑星でありながら中心星の周りを公転周期わずか四・二日で回っていた。これを皮切りに発見は続き、報告された惑星数は三五〇を越えている。最近の報告では、太陽のような中型の恒星の少なくとも半分以上が惑星を持つらしい。海と陸を持ち生物がいる可能性がある地球のような小型岩石惑星、すなわち「第二の地球」を探そうというのは、当然の勢いである。

そのためには宇宙空間に専用望遠鏡を打ち上げて、特定の天域のたくさんの恒星を丹念に観測し、その前を横切る小型惑星による恒星の微かな減光を探すのが最も効率がよい。現在、二つの観測衛星が地球を回って「第二の地球」を探索中である。フランスなどが二〇〇六年に打ち上げた口径三〇cm のスペース望遠鏡「コロー」は、地球の二倍の重さの惑星を発見した。ただし公転周期はなんと二〇時間で、中心星の非常に近くを回っている。アメリカが二〇〇九年三月に打ち上げた口径一mの「ケプラー」からも、試験観測データが出始めた。今後数年以内に、地球型の惑星がどれくらいありそうかという疑問に決着が着くだろう。その先には、地球型惑星の詳しい観測、特に生物の存在を示す観測的証拠「バイオ・マーカー」を探査する観測がある。大変楽しみだが、次世代の望遠鏡の役目である。

最後に、冒頭で述べた「世界天文年二〇〇九」が内外で成功を収めていることについて、少し述べたい。現在天文学の研究をある程度進めている国は、IAUに正式加盟の七〇カ国程度に過ぎない。しかし世界天文年は、その倍以上の広がりを見せた。開発途上国での活動は学校の先生や熱心なアマチュアによる教育・普及が中心で、来年も続けたいという希望が多く寄せられている。宇宙は子供にも大人にも、関心と想像を惹きつけるテーマだ。日本でも困難を抱える途上国でも科学教育の入り口として天文の大きな効果が示されたことは印象的だった。IAUも日本委員会も、今後になんらかの活動を残してゆきたいと考えている。

(放送大学教授・国立天文台名誉教授・世界天文年2009日本委員会委員長・東大・理博・教養・昭41)