文字サイズ
背景色変更

学士会アーカイブス

我々とは何か、何処から来て、何処へ行くのか? No.866(平成19年11月)

我々とは何か、何処から来て、何処へ行くのか?
松井 孝典
(東京大学大学院新領域創成科学研究科教授)

No.866(平成19年9月)号

私は現在、学部は東京大学理学部の教授として、大学院は理学系研究科と新領域創成科学研究科と総合文化研究科の三つを担当しております。本務は新領域で、全く新しい学問であるアストロバイオロジーを研究しています。これは二一世紀になってできた学問分野です。新領域創成科学研究科は、二一世紀の新しい科学を始めようという趣旨から、一九九九年に柏に新しくキャンパスを設けて発足しております。そこでこの分野の研究と教育を担当し、その学問としての構築を試みています。

本日の演題でもある「我々とは何か、何処から来て、何処へ行くのか」といったテーマは、アストロバイオロジーという研究のゴールのひとつです。従来は単なる知的好奇心の対象でしたが、最近ようやく自然科学でもこういったテーマで話ができるようになりました。

まず、「我々とは何か」ということをお話しします。次に「何処から来て、何処に行くのか」ということですが、この宇宙には始まりがあり、現在はそれから約一三七億年たっていることが分かっています。「何処から来て」というその歴史が分かったということです。その歴史の中で、地球が生まれ、生命が生まれ、我々、現生人類が生まれ、その歴史がある。最後に「何処に行くのか」について触れたいと思っております。

我々とは何か?

人類の歴史は七〇〇万年くらい前までさかのぼります。その間、さまざまな人類が生まれては消え、生まれては消えしています。つい最近までは我々の他にネアンデルタール人がいましたが、今から三万年くらい前に滅びました。そして今、我々、すなわち現生人類だけが生き延びている。一六万年くらい前にアフリカに誕生した現生人類は生物学的にはヒトです。しかし、七〇〇万年に及ぶヒトの歴史の中で我々、現生人類は、全く違う存在であると、私は思っています。

では何が違うのか。我々は、我々の外の世界つまり外界、脳の外部の世界を認識できるということです。それは脳科学的には、次のように説明されています。大脳皮質の中にはたくさんの神経細胞がありますが、それが回路のようにつながってある状態になることが、いわゆる外界を認識するということに相当すると理解されています。単純化して言えば、我々は外界を脳の中に投影して、内部モデルをつくることができると思えばいい。これが「我々とは何か」という意味では一番本質的な部分に関わることです。

そのときに、外界をやみくもに投影することもあるし、何かルールがある場合もあるし、ない場合もある。例えば、私は自然科学の分野の研究をしているので自然科学者と呼ばれます。自然科学者が自然という外界を脳の中に投影する場合、あるルールに基づいて投影するというのが特徴です。このルールがあるかないかというのが、例えば、科学と宗教の大きな違いだろうと思います。科学というのは、あるルールに基づいて投影することだと思えばいいのです。そのルールとは、二元論と要素還元主義という言い方ができます。ここで言う二元論とは、人間という主体と自然は完全に分かれていて、主体が客体を認識するということです。この二つの間は全く関係がなくて切れていると仮定されます。分かりやすく言えば、何か物事を考えるときに、「物事を考えている自分って何だろう」と考え出したら物事の理解が進まないので、これを分けて考えようということです。それが二元論だとお考えください。かたや要素還元主義とは、考える対象をあまり大きくとると、何を考えていいか分からなくなってしまう。例えば、ただ宇宙と言っても、具体的にはイメージできませんが、太陽系とか銀河系と言えば具体的に対象を捉えられます。このようにして対象を絞り込んで具体的に考えていくのが要素還元主義です。

科学と称する分野では、二元論と要素還元主義のルールのもとに外界を投影して脳の中に内部モデルをつくる。これが科学的に解明された世界ということになるわけです。

宗教の場合は、そのルールが神だと思えばいい。キリスト教ならキリストという神を通して外界を脳の中に投影する。イスラム教ならマホメットあるいはコーランを媒介として投影する。その意味では、人文科学や社会科学は、科学より宗教に近いと言えます。人間や社会を対象にしていますから、二元論はそもそも成り立たない。二元論と要素還元主義のルールに基づいて投影されている内部モデルを自然科学で言う「分かる」という認識だとすると、この「分かる」認識ではない別の認識が存在します。私はそれを「納得する」という言い方で表現しています。宗教は「納得する」世界、科学は「分かる」世界だということです。今まで「我々とは何か」とか「何処から来て、何処へ行くのか」というのは「分かる」世界では本格的に議論されてこなかったと思います。今日の話は、そのテーマが「分かる」世界でどう考えられているのかということです。そういう「分かる」世界をもっているのは現生人類だけです。

例えば、動物と比較してみましょう。動物は基本的には「今」という瞬間に、感覚として知ることのできる空間だけを認識できます。ですから時間も空間も限られている。ところが我々、現生人類は、そうではない。宇宙や地球や生命の歴史に全く関心がない人でも、少なくとも「自分がいつ生まれたか」といった一〇〇年近い時間スケールの時間認識はもっています。日本という国に関して言えば、二〇〇〇年以上の歴史があるというように、時間スケールはさらに引き延ばされている。空間も、例えば、今いるこの学士会館の部屋に限定されるわけではなく、東京、日本、世界、地球へと広がっていることを知っている。七〇〇万年くらい前に誕生したアウストラロピテクスと称せられるような種類の人たちは、我々のように時空を拡大するなどということはできなかったと考えられます。恐らくネアンデルタール人もできなかったでしょう。外界を脳の内部に投影して内部モデルをつくることができると、その内部モデルの世界で時空をより大きく拡張できる。これが我々、現生人類のもつ大きな生物学的特徴の一つです。

宇宙からの視点

一番大きな空間、大きな時間のスケールは宇宙です。我々は宇宙には始まりがあって一三七億年という歴史があることを知っています。ですから一三七億年という時間スケールで物事が考えられるということです。光の速度で一三七億年の旅をすると一三七億光年という距離を旅できるのですが、そういう空間スケールの宇宙が認識できる。その中で、「我々とは何か、何処から来て、何処へ行くのか」ということが、ようやく議論できるようになったということです。先ほど述べた「分かる」世界、科学の世界として、このテーマについて議論ができるということです。

一三七億年(時間)、一三七億光年(空間)という宇宙の広がりの中で物事を考えるとは、もう少し具体的に言うと、俯瞰的、相対的、普遍的に物事が考えられるということです。

俯瞰的に物事が考えられる、あるいは見えるとはどういうことか。地上にへばりついていたら部分しか見えません。しかし、だんだん高く昇って行くと俯瞰的に全体が見えるようになる。その俯瞰的な高さが今、月を越え、太陽系を越え、銀河系を越え、宇宙まで行っているということです。

次に相対的に物事が見えるとはどういうことか。地上にへばりついて見ていると、我々以外に知的生命体はいない。だから認識も、あるいは存在としても我々中心で、我々しかいないと考える。聖書的に言えば、我々は神に選ばれた、非常に特殊な生物であると考えることです。しかし宇宙というスケールで論じると、地球のような天体が宇宙に一個だけしか存在しないという理由はない。また、その上にしか生命はいないと考える理由もない。宇宙にはごまんと地球はあるし、生命はいるし、知的生命体がいてもいい。人間中心主義で物事を考える必然性はなく、我々もたくさんの知的生命体の一つであると、我々の認識や存在を相対化できるということです。

普遍的に物事が考えられるとはどういうことか。ある限られた時空で成立することが、より広い時空スケールで成立するか否か。成立する場合、それが普遍性を有するということですが、そのことを考えられるようになるということです。

ギリシャ以来、学問は普遍性を追究してきました。宇宙を知るようになって初めて、それが可能になったと言えます。宇宙で成立する場合に、その学問は普遍性があるという言い方ができます。そういう意味で現在、普遍性をもつ学問は物理学と化学です。自然科学でその次に思い浮かべるのは生物学だと思いますが、これはまだ普遍性をもちません。生物学は地球でのみ成立する特殊な学問です。従って、本来は「地球生物学」と言うべきところですが、「地球」をとってしまって、あたかも普遍性があるかのように錯覚している。我々はまだ特殊な地球の生き物しか見ていない。今の生物学が普遍的だと思っている限り、生命の起原と進化の謎は解けないでしょう。地球生命はかなり特殊かもしれないからです。

この宇宙という時空スケールで、「生命」がどのようなものであるかという定義ができ、そういうものの存在が分かって初めて、「生命」の起原と進化が学問として論じられるようになります。アストロバイオロジーはまさにそのような普遍的な生物学の構築を目指している学問です。

しかしながら、よくよく考えてみると、実はこの宇宙も特殊なのです。ですから、この宇宙で成立するから普遍性があるとするのは、我々の傲慢さかもしれません。

この宇宙がなぜ特殊なのか? 例えば、この宇宙はすべて物質からできています。しかし、物質のみからできなければならないという理由はどこにもない。この宇宙が生まれたときには、物質も反物質も同時に生まれていたはずです。実際、反物質というものの存在があることは、例えば陽子に対して反陽子があるとか、物理学的に確かめられています。

反陽子、反電子のようなものからできているのが反物質ですが、こういうものがなぜ今、この宇宙にないかと言うと、量子力学で記述されるような極微の世界では対称性が破れているからです。エネルギーから物質と反物質がつくられるときに、ほんのわずか物質のほうが多くつくられる。そうすると、この宇宙が誕生したばかりの頃、物質からエネルギーが生まれたり、エネルギーから物質が生まれたりという状態から、宇宙が急速に広がって、冷えたとき、その対称性がわずかに破れていると、物質のほうが多いので物質だけが残ります。その結果、宇宙は物質から構成される。このことは対称性の破れによるもので、特殊と言えるのです。

あるいは、万有引力定数(G=6.67259×10-11N・m2Kg-2) のような定数というものがあります。この数値がある値であるから、この宇宙に星とか、銀河とか、銀河の集団とかがつくられます。このようなことが起こるのは皆、万有引力定数がこの値だからこうなっている。この数値が別の値ですと、起こる現象も違ってしまいます。

この他にも、物理学には定数がいくつかあります。例えば、極微の世界ではプランク定数(ℏ= 6.6260755×10-34J・s)があります。この数値がなぜ、このような数値になっているのかという根拠は分かりません。この宇宙ではそうなっているというだけのことです。この数値だと、ビッグバンのときや、その後も星の内部で元素構成が起こり、水素、ヘリウム、リチウム、ベリリウム、ホウ素、炭素等々の元素が生まれてくる。この定数が少しでも違えば、現在我々の知っているようには元素は生まれない。例えば、水素とヘリウムだけしかつくられなければ、この宇宙にあるのは星だけで、惑星も地球も生命も存在しない宇宙になってしまう。たまたまこの値だからこそ、周期律表のような元素が生まれ、地球が生まれ、生命が生まれる。物理定数がある数値をもつということは、特殊だということになる。

この宇宙がなぜ、このような定数をもつのか。それに対する唯一の答えは、そういう定数をもつ宇宙では我々が生まれ、我々が宇宙を認識する。認識されて初めて宇宙は存在したことになる。このような議論になると、まさに禅問答です。

この宇宙がある決まった物理定数をもつ結果、人間のような知的生命体が生み出されるということで、この考え方は宇宙論における「人間原理」と呼ばれています。最近の宇宙論では、この宇宙が一個だけ生まれるという理由はどこにもなくて、ユニバースではなくマルチバース、つまりたくさんあるうちの一つという考え方も提唱されています。このようなことを考えると、「この宇宙で成立するから普遍性がある」というのは我々の奢りだと言えなくもないのですが、とりあえずこの宇宙で成立したら、普遍性があると考えようということです。

先ほど、「生物学」は「地球生物学」と述べました。しかし、現在の生物学は、地球生物学としても未だ普遍性をもっていないかもしれません。なぜかと言うと、大気圧が一気圧、平均気温が摂氏一五度という状態が今の地表環境ですが、この地表環境のもとに生き延びている生物を主として研究してきただけだからです。最近は、地球でも、極限環境における生物の探査が行われています。例えば、地中をボウリングして一〇〇〇メートル下の岩石を調べると、光も届かない高温の岩石の中にも生物がいることが発見されます。あるいは三〇〇〇メートルを超える深海底は零度に近いのですが、そこに三〇〇度近い高温の熱水が湧き出ている熱水噴出孔があって、その周りにも生物が存在することが分かっています。南極の厚い氷の下にも生命が存在します。

あるいは、地球上から探査機を宇宙に打ち上げたり、例えば、月に探査機を降ろしたりしていますが、その際、探査機には地球のいろいろなバクテリアが付着したままです。一応、減菌をして打ち上げているのですが、完全な殺菌はできません。すると、例えば、月に地球のバクテリアが送りこまれてしまう。何年か後に、その探査機の一部を回収して地球にもち帰りましたが、その際、付着していた細菌が生き返って活動を始めたことが確認されたりしています。それほど地球生命はタフなのです。ですから、地球上ならどのような環境にも生命がいる可能性がある。地球上でも通常は考えられないような環境にいる生命の調査は、ようやく緒に就いたばかりです。こういうことがすべて分かって初めて、地球生物学として普遍性が出てきますが、従来の生物学はそのようなことまではしていません。

ただし今のところ、遺伝子レベルで見ると、どの生命の遺伝子も共通です。地球上の生命は、いわゆる生命の系統樹として、分岐はしていますが一本の線でつながってしまいます。遺伝子レベルでは普遍性の存在を意味しているのかもしれません。しかし、極限環境の生物については、まだこのような生命の系統樹をつくるところまで十分調査が行われておりません。地球上に存在するあらゆる生物を手にして、それがどのようなものか分かったときに初めて、「地球生物学」として普遍性をもつ。従って、物理学や化学とは学問の発展状況のレベルがまだ全く違うということです。「地球」をとった生物学があり得るのかどうか、私が今、一番関心をもって研究している分野です。

そういう視点から、例えば、太陽系における生命体を探査する。火星や、土星、木星の衛星であるタイタンやエウロパに生命はいないか。地球生物学に基づくと、かなり可能性があると思って探査が行われていますが、これまでまだ見つかっていません。見つからない理由は明確です。これまでの探査では、今の「生物学」が「地球生物学」に過ぎないことを認識せずに探査の計画を立てていたからです。地球は地球型惑星として、環境という意味では特殊な星です。従って、特殊な星に生まれた特殊な生命かもしれない生命をもとにして、全く違う環境の生命を探そうとしても見つかるわけがないとも考えられるわけです。こうした地球至上主義的発想を変えない限り、太陽系の天体上で他の生命を見つけることはできないかもしれません。生命の定義からもう一度考え直さなければいけない段階にきているのです。

最近の惑星探査について少し触れておきます。ほぼ二年おきに火星探査機が打ち上げられておりますし、二年ほど前にはタイタンの地表に探査機を降ろしたり、土星の周りを回りながら土星やリング、衛星の探査も行われています。その結果、タイタンが地球と瓜二つの天体だということが分かりました

瓜二つということの意味を説明します。タイタンはオレンジ色ですが、この色の素は有機物です。タイタンソリンと呼ばれています。また、タイタンの上ではメタンの雲が湧き、メタンの雨が降って、メタンの川が流れ、メタンの湖がある。大気中のタイタンソリンという有機物は地表に落下しているはずですから、調べれば湖の中とか底に生命がいる可能性だって高いのです。

また、木星の衛星エウロパはガリレオ探査計画によって、海の存在が明らかにされています。エウロパは表面から一〇〇キロメートルぐらいが氷に覆われ、その内部は岩石だと思われていました。実はその氷は薄くて数キロメートルくらいしかなく、その下に液体の水の海が広がっていることが分かりました。ときどき氷の割れ目を伝わり、その海水が噴出している。表面は冷たくて凍っていますが、内部が熱いから液体の水が存在する。内部が熱い理由は、潮汐加熱があるからです。エウロパは木星の周りを、わずかですが楕円軌道を描いて回っていて、近づいたり遠ざかったりします。すると、それぞれの場所で重力の強さが違うので、ギシギシと変形させられ、その変形の熱が溜まって内部が熱くなる。それで氷が解けている。ひょっとすると内部の岩石も溶けていて、海底に溶岩が流れ出しているかもしれない。そうだとすると、これは地球の海底と同様です。地球でも、中央海嶺付近でマントルから溶岩が湧き出ていて、熱水噴出孔と呼ばれるものがあります。先ほども言いましたが、その熱水噴出孔の周りには始原的な生物がいることが分かっています。このように今、アストロバイオロジーといった新しい生物学を構築する試みが始まっているのです。

それと並行して、銀河系の中で、地球と似た惑星を見つけようという観測も行われています。理論的には地球と似た惑星はいっぱいあってもいいはずなのに、まだ一個も見つかっていない。太陽系以外の惑星系(系外惑星系)は、すでにもうたくさん発見されています。系外惑星系の探査も数十年も前から行われていましたが、一九九五年になって初めて、系外惑星系が発見されました。それまでなぜ発見されなかったのかは、実際に発見されて初めて、その理由が分かりました。それまで我々は太陽系という惑星系しか知らないので、惑星系というのはそういうものだと思い込んで探していました。

例えば、系外惑星系を探そうとします。それが太陽系のような惑星系だとしたら、普通は木星のような大きな惑星があるかどうかを調べます。木星くらい大きな惑星だと、その重力が太陽の運動にも影響を及ぼします。その結果、木星と太陽の重心の周りに太陽が回るような格好になり、遠くから観測していると太陽自身の運動がふらついて見える。木星の公転周期くらいでふらついて見えるはずです。そのふらつきを見て、周りに惑星があると考えるのです。太陽系を基準にして、似たような運動をするものが惑星系だと思って探していましたが、一個も見つからなかった。

ところが、一九九五年に第一報が報じられました。ペガサス座一番星が四・二日の周期でふらついているのが発見されたのです。これは予想していたものよりはるかに周期が短い。しかし、そのふらつき方から、惑星がその天体のすぐそばにあることが予想されます。地球と太陽の距離を一天文単位で表しますが、発見された惑星の公転軌道は、今までの太陽系の概念を超えた〇・〇五一天文単位という、太陽にへばりつくような軌道を回っていたのです。そんな惑星系は想像されたこともなかったので、これまで発見できなかったということです。以来、数多くの惑星系が発見されています。

今までに発見された惑星は、木星や土星などの巨大なガス惑星か、天王星や海王星などの氷惑星ばかりです。地球のように岩石でできている非常に小さな惑星は、まだ発見されていませんでした。先月(二〇〇七年四月二十五日)、太陽系外で初めて、液体の水を地表にもつ可能性のある惑星がてんびん座の方角に見つかったというニュースが報じられました。報告されたデータによると、これは第二の地球と言ってもいい。その星の名称はGI581C。地球の約五倍の質量があり、半径およそ一・五倍。中心の星は星としては太陽とは異なり、赤色矮星という種類の星ですが、その周りを一三日で公転しています。

この星の周りには、この他にも惑星が回っています。中心の星が小さくて暗いため、GI581Cの表面温度はマイナス三度からプラス四〇度くらいと予想されています。この温度だと、液体の水が存在できる。これは我々が地球と似た惑星を見つけた最初の例と言えます。この赤色矮星の周りに惑星が三つあるのですが、その真ん中を回っている。ひょっとすると、この惑星上に生命が見つかるかもしれない。地球と似た地表環境が予想されるので、それは「地球生物学」が適用できるかもしれません。

「文明」とは?

我々は時々刻々、知の辺境を拡大し、新しい世界を知りつつあります。その拡大された時空の中で、「我々とは何か」を考える。そういうスケールで考えると、「文明」とはこういうことではないかと、私は思います。

我々の存在は今、宇宙から見えるのですね。我々のような存在がなければ夜半球の地球は、オーロラや雷や山火事以外の光はなく、真っ暗で何も見えないはずです。しかし、今の夜半球の地球には大陸を縁取るように光の海が見える。これは光という、ある波長の電磁波で見たときにこう見えるということなのですが、もう少し波長の長い電磁波である電波でも我々の存在が確認できます。例えば、我々はテレビやラジオ放送をしていますから、その電波が地球から漏れ出ていて、宇宙から電波望遠鏡で地球を観測していれば、それが見えるはずなのです。そのような意味で、我々の存在が宇宙から見える。これが空間という時空スケールで「文明」と言えるものなのです。

これは実際の地球がどう見えるかということですが、これを脳の中に投影した内部モデルとして考えるとどうなるか。結論を言えば、地球システムの構成要素の一つとして我々は人間圏をつくって生きている、ということになります。「人間圏」というのは私が命名した用語です。

ここで、地球システムについて、少し説明しておきます。システムと言えば、生命もシステムですし、社会もシステムですし、企業や人体もシステムです。システムとは、それを構成する要素が複数ある、同じではない、異なる複数の構成要素からできている複合系です。地球の場合、例えば大気や海、大陸地殻、海洋地殻、マントル、コアなどの構成要素があります。それに加えて、生物圏や人間圏という構成要素が定義される。

加えて、構成要素間に関係性があることが必要です。互いに没交渉で存在しているのではない。なぜ構成要素間に関係性が生まれるかというと、そこに駆動力が働いているからです。構成要素間に何かエネルギーの流れがあって、物質のやり取りもする。分かりやすい例を挙げれば、海の水が太陽の光で温められ、蒸発し大気中で冷え、雲になって、雨になり、陸に降って、大陸を侵食し、川となって海に注ぐ、というような関係性です。このような関係性は太陽のエネルギーによって駆動されます。あるいは地球の中でマントルが動き、地表とマントルをつなぐ関係性も生じている。それはプレートテクトニクスと呼ばれますが、固体地球の表層が水平に動き、マントルに沈み込んでいるような運動です。その駆動力は地球の中にある放射性元素の崩壊によって発生する熱や、地球ができたときに熱として貯えられたエネルギーで、それらが駆動力となってマントルが対流する。そのためにプレート運動が生じ、マントルと地表をつなぐ物質循環が生まれる。構成要素、関係性、駆動力というこの三つを特定すれば、地球システムとは何か、あるいは人体システムとは何か、といったあらゆるシステムが特徴づけられます。地球システムに人間圏が付け加わったのが現在という時代であり、それが「文明」だと、私は認識しています。宇宙から俯瞰して考えると、「文明」とは、人間圏をつくって生きる生き方と考えられます。

では、人間圏と生物圏とでは何が違うのか。人間は生物の一種でもあります。しかし一方で、全く違う存在です。生物圏を構成しているのが生物ですが、現生人類はそこから飛び出して実は人間圏をつくってしまった。地球システム論的には、そのように考えられます。人類の歴史は七〇〇万年前にさかのぼります。七〇〇万年前から一万年前に至るまで、その間に生まれては消えしたすべての人類が、狩猟採集という生き方をしてきました。しかし、狩猟採集というのは動物に共通した生き方です。従って、狩猟採集をしていた一万年前までは、人類といえども生物圏の中の種の一つに過ぎなかった。七〇〇万年くらい前、生物圏の中に新しい種として生まれ、その一つとして存在し続けていたわけです。

我々、現生人類はなぜ人間圏をつくったのか?

ところが、現生人類は一万年前に農耕牧畜を始めました。七〇〇万年前からさまざまな種類の人類が生まれては消えを繰り返しているのですが、生物学的にはヒト科ヒト属で、我々はヒト属のホモ・サピエンス(・サピエンス)という種です。ヒト科に属するヒトは生物学的には同じ系統ですけれども、ホモ・サピエンスは他のヒトとは地球システム論的には違うと私は考えています。なぜかと言えば、人間圏をつくって生き始めたからです。

問題は、我々がなぜ人間圏をつくったのか、なぜそれは一万年前だったのかです。

なぜ一万年前か? その理由は簡単です。地球の気候システムがその頃変わったからです。南極氷床のコアを分析して得られるデータによると、平均気温が一万年前からなぜか安定化しました。その結果、現生人類は農耕栽培を始めたのです。季節が定期的に巡るような安定した気候が何十年か続けば、採集していたものを栽培しようというヒトが現れ、農耕が始まってもいい。しかし、氷床コアのデータを一〇〇万年、二〇〇万年と引き延ばして考えると、似たような安定した温暖期は何回もあったはずで、現生人類以外の人類が農耕を始めてもよかった。それなのになぜ、我々、現生人類だけが農耕を始めたのか? このことが分からないと、「我々とは何か」という問いには答えられない。そこで、「なぜ我々が」という疑問が重要なのですが、その理由は、私は二つあると思います。

―つは、現生人類の生物学的特徴として「おばあさん」の誕生が挙げられます。生物学的には、どの哺乳動物も、生殖期間が過ぎた雌(おばあさん)は数年で死んでしまう。ところが、現生人類の雌だけは子供を産めなくなってからも長生きをする。これが不思議なことなのですが、その理由は分かっておりません

では、「おばあさん」の誕生がなぜ、重要なのか。それは、人口増加が起こるからです。お産を経験した「おばあさん」は、その娘にお産の経験を語ることができる。従って、お産が多少安全になります。また、「おばあさん」は娘の子供の面倒をみる。そればかりではなく、地域の共同体の子供の面倒も見てくれる。すると、そうでなければ子供の養育に手間がかかって五年に一回しか産めなかったのが、三年に一回産めるようになる。ということで、人口増加が起こる。現生人類は一六万年くらい前にアフリカで生まれたと考えられますが、五万年くらい前には出アフリカをして、既に世界中に拡散しています。その理由は人口増加と考えられます。狩猟採集という生き方の時代、人口が増えれば、その生存地域を拡大していかなければ生きていけない。そのような食糧難にいつも直面していれば、気候変動で栽培ができる気候になれば、栽培を始めるでしょう。現生人類がなぜ、農耕を始めたのか、すなわち、なぜ人間圏をつくり始めたのか。その一つの理由は「おばあさん」の誕生が挙げられます。その結果、人口増加に直面したからだろうと考えられます。

それだけではありません。もう一つ、我々、現生人類にしかできないことがあります。言語を明瞭に話せることです。言語能力は、喉や舌の構造、声帯の長さなどによりますが、それをネアンデルタール人と現生人類とで比較すると、彼らは我々ほど言語を明瞭に発音できなかったのではないかということが推測されます。また、頭蓋骨の化石から、脳の中にある言語野の大きさを比較してみても、現生人類とネアンデルタール人とでは、その発達具合が異なっていて、現生人類の言語野は非常に発逹している。言語が明瞭に話せると、コミュニケーションを通じて互いに理解を深めることができる。その因果関係は不明ですが、それと大脳皮質の中の神経細胞の回路網の構築とは関係していて、脳における高次の情報処理ができるようになったと考えられます。要するに、大脳皮質の中に、外界を投影した内部モデルがつくれるということです。内部モデルというとかっこよく聞こえますが、要するに幻想です。それを皆さんが共通にもてば共同幻想と言えます。食糧が余分に採れて、集団で生きられるようになり、共同体による生活ができるようになると、この共同幻想を抱けるという能力は重要です。それが抱けなければすぐに争いが始まり、共同体を維持できないでしょう。ヒトの集団の中で、何らかの共同幻想、例えば、共通の価値観が生まれてくると共同体が成立し、人間圏が維持できるようになります。

今、現生人類は人間圏をつくって生きているわけですが、人間圏のサブシステムであるほとんどの共同体は共同幻想のもとに成立しているとも言えます。共同体というサブシステムは、具体的には国家とか民族とか会社とかいろいろありますが、例えば、同じ風土、歴史を共有すると、その脳の中に共通の価値観が生まれ、日本なら日本民族というユニットが形成されるようになります。

「おばあさん」の誕生による人口増加と言語能力の高さが、現生人類をして人間圏をつくって生きるという生き方を選択させ、現在のような豊かさを生み、宇宙を認識する知的生命体を生んだと言えます。

我々は、脳の中に外界を投影した内部モデルをつくることができる。そのために時空を拡大して、「我々とは何か、何処から来て、何処へ行くのか」を問えるようになったというわけです。

宇宙には始まりがあることが二〇世紀に分かりました。ということは、始まりの結果として、今があるわけで、この宇宙は歴史的産物だということになります。自然科学という学問は、自然とは何かについて研究することです。自然とは、具体的には宇宙や地球や生命ですから、実は自然という古文書に記録された宇宙一三七億年の歴史を解読するのが、自然科学だということになります。我々が築いた知の体系は、この宇宙の歴史を解読した結果に他ならない。

その解読結果を、例えば、私が脳の中でどのような内部モデルとして描いているかというと、チキュウ(智球、智求、地球)ダイアグラムと呼んでいるような概念図です。

空間は、本当は三次元なのだけれど、時間も一次元にとらなければならないので、二次元で空間を描いています。すると、地球は球でなくて円で表され、太陽系、銀河系はその外側に広がる円で表され、さらに遠くなるに従い、時間軸として過去を下にとると、下に垂れ下がっていきます。なぜ横に水平に延ばさないかと言うと、宇宙というスケールでは情報が伝わってくるのに時間がかかるからです。光の速度が最高の速度ですから、宇宙からの情報は、今見ていても必ず過去の事象になるわけです。今、我々が観測していても、それは過去なんですね。

例えば、銀河系は、光の速度で一年間伝わる距離(光年)で表せば、直径一〇万光年くらいです。我々の太陽系は銀河系の端の方に位置していますから、銀河系の中の遠くにある星を観測すると、大体一〇万年前の事象を見ていることになります。もちろん、宇宙の始まりの頃も見えますが、それは最も遠くを見ることで、一三七億年前の姿として宇宙の背景放射が見えます。しかし、それはビッグバンのそのときではなく、ビッグバンの瞬間から三八万年後の姿です。宇宙が膨張しているということを発見したのはハッブルという人で、一九二九年のことです。ビッグバンのとき、最初に生まれたのは水素とヘリウムとほんのわずかなリチウム。その後、水素とかヘリウムを材料にして、星の中でさまざまな元素が合成され、我々が現在知っているような元素組成の宇宙になります。すると星以外に、惑星や地球や生命が生まれます。その他、今の宇宙には暗黒物質(ダークマター)とか暗黒エネルギー(ダークエネルギー)が存在します。今の宇宙に関しても、このような非常に不思議な話がありますが、そのような話はキリがないので省略します。

我々は何処から来て、何処へ行くのか?

宇宙については、最初から謎だらけで、今もって解けない謎があります。宇宙はなぜ膨張するのかということです。実は、ビッグバンの前にインフレーションが起こり、宇宙はビッグバンという初期状態が設定されると考えられていますが、重力ではなく斥力(膨張する力)のような力がどのようにして生じるのか、その本当のところは未解決です。インフレーションを起こすインフラトン場の性質ということにはなっていますが、その実体は不明です。あるいは、最近の宇宙も、膨張が加速されていて、そのことは斥力が働くということですが、それに関係するのが、ダークエネルギーです。ビッグバンの初期状態として、インフレーション宇宙論が提唱されたのは一九八〇年代で、ビッグバンがなぜそういう初期条件をもっていたのかが分かってきました。

インフレーション宇宙論とは、真空の相転移とか、真空のエネルギーとか、当初言われていたのですが、潜在的エネルギーが解放されて熱になり、高温で膨張するというビッグバンの初期条件を与えるという考え方のことです。これはビッグバンのその前はという答えとしては非常に都合がいいのですが、ある意味で問題を先送りしているに過ぎないとも言えます。この潜在的なエネルギーとは何なのか、インフレーションの原因は何なのかという問いに対しては、まだ答えがないからです。昔は真空のエネルギーと言っていたものを、今はインフラトン場と言っているのですが、これはインフレーションを起こすような場のことです。それが何なのか、宇宙論最大の謎ですが、これが何なのかはまだ正体がつかめない。

普通、物質があると重力が働きます。宇宙には物質がつまっているのに収縮しない。逆に膨張するのは非常に不思議なことなのです。斥力という力を導入しない限り、このことは説明できない。ところが宇宙になぜそのような斥力があるのか。その実体は未だに分からないのです。

現在の宇宙でも膨張が加速されているという観測があります。すなわち、今でも宇宙を膨張させる斥力が働いている。それが実は暗黒のエネルギー(ダークエネルギー)と呼ばれるものです。エネルギーも物質も物理学的には同じで、宇宙を満たしているものは、暗黒エネルギーが七六・五%。我々の知っているいわゆる物質(例えば星と惑星とか)は、四・一%を占めるに過ぎません。暗黒エネルギーと物質以外に、暗黒物質(ダークマター)という、これまた訳の分からないものが二〇%くらいある。

我々は人間圏をつくって生きるという選択をし、地球規模の文明をつくり、時空を一三七億年まで拡大して、宇宙の歴史を解読し、「我々とは何か、何処から来て、何処へ行くのか」という議論ができるようになっています。もちろん、分からないことはたくさんあるけれど、概略はおほろげながら分かってきています。

その歴史が読めれば、未来も予想できる。例えば、それを連続した滑らかな曲線と仮定するならば、微分してある点の曲線の傾きが分かると、それを積分すればその点の先の線の行く先が分かります。要するに、今という瞬間の微分が分かれば、それを延長して未来が分かる。数学的には「二回微分が可能なら」という言い方をしますが、曲線が滑らかなら未来が予測できるということです。

すなわち、我々が未来を予測しようとしたら、過去を知らなければいけないということです。なぜ我々が人間圏をつくるなどという選択をしたのかは、一三七億年くらいの時空スケールで考えないと分からない。人間圏という概念すら出てこない。そのくらいのスケールの歴史を知って初めて、「我々とは何か」とかの未来が論じられる。

一方で、別の問題も生じます。私はこれを「文明のパラドックス」と呼んでいますが、地球規模の文明になって初めて宇宙の歴史が解読できますが、それと同時に環境問題、資源・エネルギー問題他、さまざまな文明の問題に直面し、そのレゾンデートルが問われるわけです。そのくらいのスケールの文明にならないと、認識の時空を宇宙にまで拡大できませんが、一方でその文明存続の危機にも直面する。はっきりしているのは、人間圏をつくるという生き方はより長く生きるという意味では失敗だということです。我々、現生人類は一六万年も生き延びてきて、一万年前に人間圏をつくって生き始めたに過ぎないのに、今やその生き方が破綻しつつある。人類は狩猟採集という生き方をしている限りは七〇〇万年間も生き延びたわけですが、人間圏をつくった結果、一万年で破局を迎えるかもしれない。生物圏の中の種の一つとして生き延びるという選択を捨て、結果としてそうなったわけで、より長く生きられるという意味では生物圏の中に留まるのがベストな解だったと言えるのです。

我々が人間圏をつくって生きるという生き方を選択したことは、より長く生き延びるためにその選択をしたのではないのかもしれないということです。

ではなぜか? 私は「何のために生きるか」が問われているのだろうと思うのです。このことをよくよく考えないといけない。人間圏の未来というのは、我々がこうしたいというビジョンがあって初めて、意味をもつとも言えるのです。そのためには、自然という歴史を解読して、それに基づいてこうしたいという意識をもたなければいけないのですが、残念ながら人間圏内部に閉じて普通に生きている人は、そういうスケールで未来を考えていない。

今日、皆さんにお話ししたかったのは、この最後に述べたことです。我々は初めて「我々とは何か」とか「何処から来て、何処へ行くのか」ということを科学的に語れる時代を迎えましたが、それを理解する方々がほとんどいないために、それに基づいて我々の未来をどうしたいのかという議論が、社会的な、あるいは世界的な議論にならない。学士会のメンバーのような方々が、こういう視点からこういう人間圏をつくりたい、と発言していただければ、少なくとも日本は世界に向かって新しい文明を提唱できるような素晴らしい国になると思いますが、現状のままではなかなか難しい。ぜひ、皆様の脳の内部モデルの時空を宇宙にまで拡大していただきたいと思います。

与えられた時間がきましたので、私の講演はここで終わらせていただきます。ご清聴有難うございました。

(東京大学大学院新領域創成科学研究科教授・東大・理博・理・昭45)
(本稿は平成19年5月10日夕食会における講演の要旨であります)