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学士会アーカイブス

平岩外四さんを悼む ―高い志と思いやりの心― 豊田 章一郎 No.866(平成19年9月)

平岩外四さんを悼む ―高い志と思いやりの心―
豊田 章一郎
(トヨタ自動車取締役名誉会長・日本工業倶楽部理事)

No.866(平成19年9月)号

 去る五月二十二日に平岩外四さんが逝去された。九十二歳の天寿を全うされたとはいえ、私にとって、平岩さんは、最も尊敬する経済人の一人であり、また、日本の経済界にとっては、かけがえのない人であっただけに、誠に痛恨の極みである。

 平岩さんとは、私が、九〇年五月に経団連副会長に就任させていただいて以来、公私にわたって、親しくお付き合いをさせていただいた。
 人格、見識、どれひとつとっても非の打ち所のない素晴らしい方で、また、大変聞き上手な方であった。私の申しあげたこと、その中でも一番聞いて欲しかったことをしっかりと受け止めてくださり、ポイントをあとできっちり指摘していただいた。とても、私には平岩さんの真似はできないと思ったが、そんな私を大変可愛がってくださり、幾度となく暖かいご指導やアドバイスをいただいた。
 私が今日あるのは、平岩さんのお陰と言っても過言ではなく、私にとって人生の師の一人である。

 平岩さんは、九〇年十二月に経団連会長に就任されたとき、「志とこころ」、即ち、高い理想を追求する意思と弱者に対して配慮し、思いやる心を持って取り組むとおっしゃっておられたのが、私には、大変印象的であった。そして、それを見事にやってのけられた。
 経団連会長は、九四年五月まで務められたが、この時期は、戦後日本が経験したことのない激動期であった。
 ソ連の崩壊と東西冷戦の終結、湾岸戦争、そしてグローバル化の進展など、世界経済の枠組みは大きく変化していった。一方、国内では、バブル経済の崩壊が直撃し、それまで戦後の発展を支えてきた、いわゆる、五五年体制が揺らぎ、証券・ゼネコンスキャンダルなどの企業倫理の問題、さらに、貿易黒字の拡大に起因する経済摩擦と円高の進展など、日本は、まさに未曾有の危機とも言うべき事態に直面した。それらが次々と平岩さん目掛けて飛びかかってきた。

 平岩さんは、「タフでなくては生きていけない。やさしくなければ、生きていく資格はない」という米国の推理小説家レーモンド・チャンドラーが、小説の中で主人公に言わせた言葉を座右の銘としておられたと伺った。無類の読書家で漫画から世界の歴史や文学、哲学、古典まで、読書の幅も大変広い平岩さんならではの座右の銘と、大変感心したものだが、この言葉の通り、戦後最大とも言うべき難局にあっても、決して臆することもなく、経団連会長就任時に掲げられた「志とこころ」に従って、日本の新たな道を切り拓くべく、しっかりと改革を進めていかれた。
 九一年には、「日本と国際社会との共生」「企業や社会、自然との共生」のように、新たに「共生」の理念を掲げて、競争と協調の大切さを訴え、いち早く、経団連企業行動憲章や地球環境憲章を制定された。
 平岩さんは、荘子の「無用の用」という視点を大事にされた。「用や益を求める経済活動は、実は、用や益とは無縁の自然環境や人々の倫理観に支えられている」とおっしゃっている。
 憲章の中に流れる、経済と倫理の両立、環境あっての経済成長、という考え方は、企業経営に携わるものとしては、常に肝に銘じておくべきことと考えている。

また、政治との関係では、九三年九月政党への献金あっせんの中止を決定され、それが、その後の政治資金のあり方を見直す契機ともなった。
 さらに、経済の面では、私も委員として参加させていただいた細川首相の私的諮問機関・経済改革研究会の座長を務められ、九三年十二月に提言、いわゆる平岩レポートを発表された。日本が目指すべき経済社会として、内外に開かれた透明な経済社会、創造的で活力のある経済社会、生活者を優先する経済社会、世界と調和し世界から共感を得られる経済社会の四つの目標を掲げ、それを実現するために、規制緩和など五つの政策の柱を示し、内外情勢の変化に対応した経済社会を建設するための道筋を明らかにされた。これが、今日に至るまで構造改革の取り組みの原点となった。

 私も同志の一人として、平岩さんとともに改革に取り組ませていただいたが、平岩さんの決断と行動を支えたのは、二十一世紀の日本のあるべき姿を見据えた祖国愛や次世代につなぐ責任感というものであったと思う。
 その後、私は、光栄にも、その平岩さんから、後任の経団連会長のご指名をうけ、この平岩路線をしっかり踏襲して、発展させることに微力を尽くさせて頂いた。平岩さんの志は、その後、今日まで、歴代経団連会長に受け継がれている。
 本年二月、私は、平岩さんから、形見分けとして中国・清朝末期の政治家、曾國藩の処世訓「四耐四不」の額を頂いた。

 冷に耐え、苦に耐え、煩に耐え、閑に耐え、
 激せず、躁がず、競わず、随わず
 もって大事をなすべし

 トップの判断や決断の責任は重い。つねに孤独と闘いながら、徹底的に考え抜き、自分の責任において、判断・決断し、速やかに実行に移すのが、トップの役割である。東京電力の社長に就任されたとき、師事された安岡正篤先生から贈られた先生直筆のこの額を、平岩さんは、毎日眺め、生きるこころの支えとされてこられたと伺った。改めて平岩さんが責任者として事に当られた時の心根や姿勢が、偲ばれる。
 平岩さんから頂いたこの形見分けは、このような志を、「二十一世紀の日本を担うリーダーの方々に、確実に伝えてほしい」と私に託されたメッセージであると思っている。

 日本が、「二十世紀に繁栄した経済大国」に終ったかもしれない瀬戸際に立たされた時期に、平岩外四さんという経済界のリーダーを戴いたことは、日本にとって、まさに、天の配剤と言える。
 平岩さんは、日本の経済界の誇りであるとともに、我々学士会の誇りでもある。

 今日、政府の構造改革と民間の改革努力があいまって、日本経済には、活力が戻りつつある。しかし、平岩レポートで提示された日本が目指すべき姿を実現していくためには、いまだ取り組みは道半ばである。

 平岩さんの高邁な志を確実に受け継ぎ、世界に開かれ、尊敬され、信頼される二十一世紀の新しい日本を創って行く努力を重ねていくこと、これが日本のあらゆる分野でリーダーとして活躍しておられる学士会会員諸兄の役割ではなかろうか。私も最大限の努力をすることを改めて平岩さんのご霊前にお誓いし、平岩さんのご冥福をこころからお祈りしたい。(平成十九年六月)

(トヨタ自動車取締役名誉会長・日本工業倶楽部理事・名大・工・昭22)