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学士会アーカイブス

脳と人間 茂木 健一郎 No.865(平成19年7月)

     
脳と人間
茂木 健一郎
(ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー)
No.865(平成19年7月)号

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はじめに
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  私の研究テーマは脳科学であります。この分野はいま、さまざまな学問として結実しつつあります。例えば記憶のメカニズムであるとか、学習、視覚、聴覚や言語、感情のメカニズム、また、前頭前野という自我の中枢でどのように意思がつくられているかといった自由意思(主体性)の問題。それから最近、我々が力を入れている神経経済学(ニューロ・エコノミクス)は脳と経済学との融合で考えてみようということです。
  私は学問をする以上は長い時間の観点を忘れてはいけないと思っております。本日は、脳科学の現状をお話しすることよりも、長い時間の観点から見て、脳あるいはその人間をめぐるさまざまな学問の営みについて、私がいまどのように考えているかということを、お話しさせていただければと思っております。

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二つの文化の亀裂
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    イギリスの物理学者であり、作家のC・P・スノー(Charles Percey Snow)は、「二つの文化」、つまり人文主義的な文化と自然科学的な文化の間には、大きな亀裂があるといいました。私は大学でその二つの亀裂を身をもって体験しました。
  私は理学部を卒業した後、法学部に学士入学しました。その授業の初日に、学生がひらがなでノートをとっている姿を目にしたのです。彼らに聴くと、法学部の先生の講義内容が司法試験に出やすいので、先生方の言葉を一字一句逃さず書くためには漢字で書いていては追い付かない。だからひらがなで書くのだというのです。自然科学をやってきた私からすると、それはまさに驚異の言動で、非常なカルチャー・ショックを受けたことを覚えています。
  現在の大学においては、自然科学という学問は成果主義などと揶揄させることが多く、どれほどたくさんの論文を書いたかといった、専門性に特化しないとサバイバルが難しい状況になっております。ますます分野横断的な研究探索活動をするのが難しくなってきているのが現状です。スノーはこういった状況を、既に1950年代に、「二つの文化の亀裂」という言葉で示していたわけですね。
 

  私は東大を出て、ケンブリッジ大学に留学していた時期があります。皆様ご承知のように、イギリスにはもうひとつオックスフォード大学があります。オックスフォードのほうが、ケンブリッジより創立が少し早いので、オックスフォードの人たちはケンブリッジを、ニュー・ユニバーシティといったり、フェンランド・ポリテクニックといったりします。ケンブリッジがある場所は、もとは低湿地帯で、オックスフォードは、どちらかというと丘陵地にあるわけです。低湿地帯をフェンランドというのですね。ケンブリッジは自然科学の分野が比較的強いので、フェンランド・ポリテクニックと、揶揄した言い方をするわけです。
  余談ですが、イギリスのジョークに、「オックスフォード大学を出た人間は世界が自分のものだと思う。ケンブリッジ大学を出た人間は世界が誰のものでも構わないと思う」というのがあります。これは非常によく自然科学者の気質を表していると私は思います。ケンブリッジでは、スーツをパリッと着て、世界は自分のものという格好で歩いている学者はあまり尊敬されなくて、汚い格好で使い古しの自転車に乗っているような老学者を見ると、あれはきっと偉い学者に違いないと思うわけです。

 おそらく日本でも、自然科学的な世界観と人文主義的な世界観は分裂していると思うのです。例えば、夏目漱石の『三四郎』に野々宮宗八という人物が出てきます。世は明治、東京は大発展を遂げ、美しい女性とシャンパンの泡に満ちた非常に美しい世界が描かれています。そのような中で、野々宮は東大理学部の地下の研究室で黙々と玉を磨いている。つまり彼は光学の研究をしているのですが、その研究がいつ成就するのかわからない。穴蔵にこもって毎日毎日、玉を磨いている。ついでに申し上げると、この野々宮は寺田寅彦がモデルといわれています。三四郎が惹かれる美禰子の嫁ぎ先は当時、権勢を振るっている家ですが、それでも彼女には自然科学の探究を営んでいる野々宮がいる。この小説の背景には、そういう明治時代の世界観が美しく描かれていますが、その中にも、諸学の分裂が垣間見られると思うのです。

 現代の科学の状況はさらに複雑になってきています。情報科学(コンピュータ・サイエンス)という分野が出てきました。これは文系なのか理系なのかよくわからない学問なのです。自然科学は、昔は物質の学問だったわけですが、情報科学が出てきた瞬間に、どうやら人文主義的な世界観ともつながりをもつようになってきた。これは大きな変化かと思います。

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「クオリア」-脳と心の関係
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  私は1985年に理学部を卒業して、法学部に学士入学をし、その後また物理の大学院を卒業したのですが、そのころ私を非常に悩ませていた問題がありました。

  それは、いま申し上げたような文系・理系の典型的な体質とは少しニュアンスの違う話なのですが、物理学は問題を二行も書くと、それを解くのに何時間もかかるという世界で、例えば物理数学の試験を受けているとすると、試験時間が二時間あったとしても、その時間内に解けるものは誰もいない。仕方がないから教官が「あと一時間延ばそう」という。とうとう五時間延長したことがありました。それでも解けないというのが物理数学の世界です。

  そのころ私は熱烈なるワグネリアンでしたので、ワグナーのオペラが上野の森にきていたりすると、試験が終わると本郷から聴きにいくわけです。そこで音楽の流れに身をひたしていると、物理の試験中とは全く違う心的状態になっていくわけです。

  一方は数学や論理の世界で、他方は感情というある種の「質感」の世界です。この二つの世界が、当時の私には分裂しているように思えたのです。そのころの私は、自分が人生で経験したことをすべて作品に活かせる作家という職業が羨ましかった。自然科学者は非常に禁欲的な世界に生きていて、実生活で恋をしようが、芸術体験をしようが、それを仕事に活かすことができない。そういう人生を選択してしまった自分が苦しかったのです。

  私の中にある分裂した世界をどうしたらいいのか。そのようなことをずっと考えていました。

  その後、私は日本の脳科学の大家である理化学研究所の伊藤正男先生のもとで脳研究を始めました。その二年後に、「クオリア(Qualia)」という概念に出会ったのです。この「クオリア」はいま、脳科学における極めて重要な概念になっています。
  当時私は、電車で理化学研究所の通っておりました。電車の連結部でものすごい勢いでノートをとるのが日課になっていました。あるとき、ガタンゴトンという電車の軋み音が気になり始めました。自然科学の言葉でいえば、何ヘルツの周波数で、それがどういうスペクトルまで分布しているということなのですが、このガタンゴトンという軋み音の「質感」は数値化できない。例えば、いまお話ししている私の声の「質感」を周波数で記録することはできますが、数値化はできない。愚かなことに、このときはじめてそのことに気づいたのです。
  人生で最大の覚醒をした瞬間、私は顔が青ざめたのを憶えています。物理主義的な世界観、つまり数学的世界観の外にあるものがあったのです。電車の軋み音は現象学哲学の大問題なのだと。ウィトゲンシュタイン(Ludwig Josef Johann Wittgenstein)やフッサール(Edmund Husserl)、ハイデガー(Martin Heidegger)、アンリ・ベルグソン(Henri Bergson)、ホワイトヘッド(Alfred North Whitehead)といった人たちにとっては常識なのだということに、はじめて気づいた。人間の振る舞いも含めて、いずれ数式で書けるだろうと、ナイーブにも信じていた。しかしそれが不可能であるということに気づかされた瞬間です。
  ここでいう「質感」とは、例えば赤い色の質感、水の冷たい質感。これこそがまさに芸術が糧としているものです。ワグナーのオペラの前奏曲が鳴った瞬間に現れる「質感」。そのようなものに私はずっと馴染んでいたはずなのに、それが科学的世界観から見て大問題だということに気づかなかったのです。その概念が「クオリア」だと知り、その後の研究テーマに据えました。

  「クオリア」の問題(心脳問題、もう少し広く据えれば意識の問題、主観性の問題)は最近では科学界でも確立されたテーマになっています。FMRI(機能的磁気共鳴画像法)で、サルなどの脳に電極を通して、神経細胞の活動をリアルタイムで測定できます。脳の血流量を測って、それと主観的な体験との関係性を詳細にマッピングできるようになりました。その結果、従来は現象学哲学の文脈の中で扱いにくい問題だと認識されていた「クオリア」が、ようやく脳科学の研究対象となってきました。
  そういう意味でいうと、私が分裂に悩んでいた科学的世界観と芸術のようなものの間の橋渡しができる可能性が、「クオリア」という概念に期待できます。私は自分の実存として「クオリア」を研究テーマにすれば、分裂した時間が統合できると救われる思いでした。

  私は最近、「ノーベル」という単位を考案しました。1ノーベルは、それが解けるとノーベル賞がもらえるという難しさだとすると、「クオリア」を解くには、私の判断では100ノーベルぐらい難しいことだと思います。コリン・マッギン(Colin McGinn)というイギリスの哲学者が「クオリティ・オブ・クロージャー」といって、「クオリア」を解くことは不可能であるという議論を詳細に展開しています。確かに解けない問題かもしれませんが、「クオリア」を解こうといま、多くの研究者が挑戦しています。

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「クオリア」解析の副作用
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    人文主義的世界観と自然科学的世界観の間の分裂も、「クオリア」を通して再解釈すれば解を得られるかもしれない。しかしそこには、大きな問題があります。
  この問題は、どちらかというと、日本のメディアで脳が語られるときのある種の癖に関係しているのですが、例えば、英語を何歳で始めるのがいいのかという問題があるとします。なるべく早い時期から開始するほうがネイティブの発音は身につくという説と、まず日本語をきちんと身につけて、中学生ぐらいから始めるほうがいいという説があるとします。
  どちらの説が正しいのかを脳科学で証明せよという社会の要請に脳科学者も応えようとしているのですが、私は問題の設定の仕方に根本的な間違いがあると思っています。なぜなら、脳という臓器は、イエスかノーかを単純に決められるような柔軟なものではないからです。
  J・S・ミル(John Stuart Mill)は、幼少期から数ヶ国語を学ぶという英才教育を受けましたが、彼の脳が壊れたかというとそのようなことはなく、立派な経済学者になりました。私は12歳から英語を学び始めましたが、それなりに英語ができるようになっています。
  その人がどういう人生の経緯をたどるかは、マジックブレットを用意さえすればすべて解決するなどといった単純なつくりに脳はなっていない。
  先ほど申し上げたように、科学が心脳問題、つまり「クオリア」を通して徐々に主観性の問題に近づいているといいながら、相変わらず複雑な対象の部分を切り取って解析するという方法論をとらざるを得ないのです。その副作用として、あたかも解析の対象自体が単純なものであるというような一種の幻想が生まれてしまいました。その幻想が拡大しています。

  最近、ある番組で2万ヘルツ以上の音を聴かせると脳からアルファー波が出て、頭がよくなるという報道が流れました。鈴を鳴らすといいというので、学習塾の天井から鈴をぶら下げて、実験して見せた。
  地上波のゴールデンタイムの番組ですから、それを信じた視聴者も多いでしょう。受験勉強をするときに鈴を鳴らしてさえいれば受かるのだったら、こんな楽なことはないですね。これはもちろん論外ですが、じつは科学主義のある種の側面には、これと同じようなことはたくさんあるのです。

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分断的な「知」から総合的な「知」へ
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    では、どうすれば対象を機械論的に割り切ってしまう思考から離れることができるのか。これはスノーのいう自然科学的世界観と人文主義的世界観の対立ということのかなりクリティカルな側面だと思っているのです。
  というのは、人文主義的な研究というのは、そう簡単に対象を割り切れません。「だから駄目なんだ」と自然科学者はいうでしょう。
  例えば、江戸時代の歴史を研究しているとします。こういう理由で、江戸時代は暗黒時代なんかではなくて、近代日本の礎があったのだ、という記述があったとします。しかし、自然科学的な立場からいえば、その近代日本の礎を定義しろということになる。人文主義的な研究は必ずしも単純明快に書けるものではありません。カール・ポッパー(Sir Karl Raimund Popper)のいう「反証可能性」を満たすかというと、必ずしもそうではないということです。

  しかし一方で、人文主義的な自然言語による記述を通さなけれつかむことのできない、複雑な世界の様相も明らかに存在するわけです。自然言語というのは、私たちの住む複雑怪奇な世界の有様を何とか記述しようとして、人類が長い歴史の中で獲得してきた方法なのです。数式のように単純明快に割り切れる形には書けないけれども、自然言語にはそれだけの力が備わっています。一方では自然言語の弱点として、非常に曖昧な部分もありますが、だからこそいいという側面もあるわけです。
  ですから、ポッパーのいう「反証可能性」を満たすとか、あるいはスノーのいう「二つの文化」ということは、依然として人文主義的な世界観と自然科学の世界観の間に深い溝が横たわっていて、この間の乖離は解決されていない。
  人文主義的な教育を受けられた人間通の方は、鈴を鳴らすと頭がよくなるなどという話はあり得ないと思うでしょう。孔子の「十有五にして学に志す」という人生の利益のほうが、よほど人間のある種の真実を表しているわけで、2万ヘルツ云々というのは機械論的に世界を割り切る試みにすぎないと思われるでしょう。
  しかし一方で、2万ヘルツと割り切る行為を積み重ねることで、われわれが今日目にする驚くべき科学技術文明が構築されたことも事実なのです。

  では、どうすればこの分裂を解消できるのか。なかなか難しい問題ですが、私は一種の生命哲学をきちんとやることが大事だと痛感しています。
  科学技術文明は大変な進歩を遂げ、最近ではインターネット上で「知能ビッグバン」が起るまでになっている。最高学府はいまやインターネット上にあるところまできている。しかし一方では、近代科学文明が今もってしてもできていないことがある。それは「生命の解明」であります。
  東京大学名誉教授の養老孟司さんがよくいわれているのですが、「確かに科学は進んだ。しかし、われわれは20世紀に細胞一個つくれなかった」と。生命というのは基本的に鈴を鳴らすと頭がよくなる類の単純な割り切りでは解明できないのです。生命現象は多様で複雑で、非常に厄介なものです。これを理解するには、近代科学がこれまで行ってきたような実験をしてデータをプロットすることでは解明できません。
  例えば、「Nature」や「Science」などの科学雑誌に掲載されているのは、データをプロットした数点のグラフを付した論文です。それが生物学の論文だったら、生物という極めて複雑な現象を断片で理解しましょうということです。
  それもひとつの有効な理解の方法ですが、それらの断片から細胞が再構築できるかというと、それは不可能であります。生命はとても複雑多様で、単純に割り切ることはできない。それは我々が一人称の人生を生きる上で自覚していることであります。

  知性の問題も同様で、知能というものの一面をスナップ・ショットで切り出したとしても実現できるものではありません。
  私は昨年、京都大学で行われた湯川秀樹、朝永振一郎両博士の生誕100年のシンポジウムに参加させていただきましたが、あらためて湯川博士の功績を振り返って気づいたことがあります。湯川博士は中間子論の仕事をされたのではなく、理論物理学をされたのだと。理論物理学という学問は普通、専門性に深く根ざしたことをしなければ偉大な達成はできないと思われています。
  ところが、幼少時の湯川博士は漢籍を徹底的に素読させられている。小川家という学者の家に生まれ、非常に広範な教養を身につけられたわけです。私のイメージの中では湯川博士はノーベル賞をとられた後に知識人となって啓蒙活動をしたというイメージが強かったのですが、じつは逆でありまして、ノーベル賞をとられる前に『目に見えないもの』という優れた一般啓蒙書を世に出されています。文章力にも優れ、これほどの教養人はいないと思うくらいの方です。
  理論物理学という一つの分野で偉大な業績を挙げる人は、総合的な知性が備わっているのです。アメリカでは主体性の問題と刑法学の責任委譲の問題を結び付ける研究の動きがあるということを、先ほど團藤重光理事長からお伺いして、やはり碩学といわれる方は、総合的な知性が備わっているのだと、あらためて感心いたしました。私は本物の知性は、常に総合的なものだと思っております。
 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)は、万能の天才といわれていますが、彼の作品の中で後世に残るものは、おそらく絵画だけでしょう。彼の絵画は本当に素晴らしい。なぜなら、そこには人類の永遠に解けない謎が描かれているからです。彼の「モナ・リザの微笑」は、単に絵画的技法が卓越しているだけでは描けない。人間というものに対しての総合的な理解がなければ、あのような絵は描けないと思うのです。総合的教養を身につけた人が、もてる教養のありったけを注ぎ込んで、一枚のキャンバスの上に定着させようとしたからこそ、あのような歴史に残る名作ができたのではないでしょうか。

 そう考えると、「知性とは常に総合的なものである」という命題を再確認させられます。知性というものの本質を理解するうえでも、論文中に断片的に散りばめられた数点のグラフだけで理解することは不可能なのです。
 例えば、環境問題を解こうと、最近、前アメリカ副大統領のアル・ゴア(Al Gore)が「不都合な果実(An Inconvenient Truth)」という映画に出演して、温暖化問題をキャンペーンしました。彼はノーベル平和賞の候補にも挙がっているようですが、地球環境の問題は、部分ごとに解いても太刀打ちできるものではありません。そこには総合的な「知」のアプローチが必要なことは当然です。
 現代人が未解決の問題として放置している問題の多くが、じつは総合的な「知」のアプローチを必要とする。と同時に、それは近代的科学が最も苦手とする問題であったということが見えてきます。

 いままでの科学史の中で総合的なアプローチで成功した最後の大物は、おそらくチャールズ・ダーウィン(Charles Robert Darwin)でしょう。彼が『種の起原』を出版したのは50歳のときです。ダーウィンは50歳まで何をやっていたのかというと、ビーグル号に乗ったのが26歳です。5年もの間、世界中を船で放浪していたのですが、それから50歳くらいまで様々な生物学の知見を総合して、初めて自然淘汰により種の進化という、現代生物学の基礎がすべてそこにあるといっても過言ではないほどの革命的な思考に到達しました。
 そのような成功事例があるにもかかわらず、現代の我々は、成果主義の中で専門性に特化せざるを得ないという現状で、断片化を起こしている「知」の世界に住んでいるのです。

 脳科学も例外ではありません。メディアの中で接する脳の情報は、全く単純化されすぎています。脳が本来もっている豊饒さに比べ、たとえそれが科学的に手続きを踏んだ統計的に有意な結果を出している実験結果であるとしても、それで人間の脳の本質が解けたということにはとてもならないわけであります。
  私は、そういう単純化した、脳を割り切る話、つまり「脳ブーム」に終息宣言をしたほうがいいと思っています。私ごときが宣言しても全く影響力はありませんので、世間では依然として「脳ブーム」が続いていますが、ここでとどまっているようでは、人間に未来はありません。

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神経経済学そして生命哲学へ
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  それでは、これから何がくるかというと、私はある種の生命哲学だと信じています。そのときに、例えばフリードリッヒ・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche)のような哲学者が何を考えていたかということが大きな課題として再浮上してくると思うのです。

  ニーチェは『悦ばしき知識』の中で、「神は死んだ」といい、神が死んだあとの世界で人間がどう生きるかという命題を一所懸命考えた。その結果、「超人(スーパーヒューマン、ユーバーメンシュ)」という概念に達しました。この超人はナチスによって政治的に不幸なコノテーション(connotation:言外の意味)を付されてしまい、純粋な形では受け入れられない概念になってしまいましたが、ニーチェによって神の後継者として想定されているわけです。現代人はニーチェのいう「超人」として生きざるを得ない世界に住んでいるのです。

  我々には頼るものは何もありません。神を信じる人はいるかもしれませんが、インテリといわれる人の多くは無神論者、あるいは不可知論者になっている。

  この有限の生の中で何を頼りに生きていけばいいのか。人生の目的は何なのか。富なのか、名誉なのか。迷妄ばかりの中で生きているのではないか。そのような状況で、脳や人間を考えると、いかに生きるかという哲学に結びつかざるを得ないのです。

 神経経済学という学問は、まさに「生きるとは何か」という問題に抵触しています。神経経済学はもともと、プリンストン大学の経済学者で心理学者であるダニエル・カーネマン(Daniel Kahneman)が、行動経済学とう分野を起こしました。不確実な状況下で人間がどのような選択、決断をするかといったことを経済学の問題として研究するわけです。この研究でカーネマンは2002年のノーベル経済賞を受賞しました。
  この成果を受けて、「脳の中の報酬系」、つまり価値を表すシステムの動きをダイナミックスと結び付けて理解しようとするのが神経経済学です。現在のところは貨幣価値に換算できるような事象が研究対象です。

 「最後通牒ゲーム」というのがあります。ここに100万円あったとします。AがBに取り分を提案する。例えば、Aの取り分は99万円、Bは1万円だとします。提案された側は、最後通牒を受け入れるか拒絶するかの二者選択しかなく、もし受け入れれば、提案された分け前で金をもらえるが、拒絶すれば二人ともゼロになる。つまり、どんなにひどい分配額を提示されても、受け入れるほうが得なのです。しかし人間というのは、不公平な提案をされると、自分が損をするとわかっていても、なぜか拒否をするものです。
  これは一種の利他行動だと考えられています。社会の中で人に注意をすると、多くの場合は注意をした人が被害を受けます。注意をする側にコストがかかるのです。その受益者は誰かというと社会全体です。その人が注意することにより、注意を受けた側がこれからフェアな振る舞いをするようになれば、社会全体が得をするわけです。
  ですから、「最後通牒ゲーム」で受け取り側が拒否すれば、拒否することによって不公平な分配を提案した人が行動を改める。そのことによって、その後は、社会の中でその人と取引をする人は得をする。つまり自分のコストを犠牲にして、社会全体の利益を図る利他主義の進化という文脈で「最後通牒ゲーム」が研究されています。

 そういうニュアンスのことを神経経済学は研究しているとご理解ください。私のように伝統的な脳科学を知っている人間からすると、こういったアプローチの仕方は大変な進歩なのですね。伝統的な脳科学は、Aを押せばBになるといった非常に機械的な手法によって脳を解析しました。しかし、神経経済学のアプローチは、そこに主体性が入ってきます。
  人生は必ずしも貨幣価値に換算できるような事柄で成り立っているわけではありません。
  例えば、結婚相手に誰を選ぶかという問題で考えれば、その判断はとても難しいでしょう。まさに不確実性の暗闇へのジャンプです。相手のことを100パーセントわかって、慎重に吟味してパートナーを選んでいる人は、まずいないと思います。人間とは厄介なもので、相手に未知なところがあるほうが魅力的だなんて、愚かなことを考えてしまったりする。その結果、ひどい目に遭ったりするのですが、後悔したときにはすでに遅い。人生のさまざまな局面において、人間は小さな選択もすれば、大きな選択もする。そのときに脳の中では何が起こっているのか。これからの人生の中で、何を価値として自分の人生の選択をするのか。これは、とてつもなく難しい問題です。

  残念ながら、その命題に脳科学はまだ応えられません。脳科学の現状はせいぜいいま申し上げた神経経済学のあたりまで来ているということです。それは生命哲学のあたりまで来ているということです。これは生命哲学であらざるを得ないのですよ。「人生いかに生きるべきか」ということは大変難しい問いでありますが、しかし考え甲斐のある問題がそこにあるということでもあります。

 

  孔子の『論語』の中で、「七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず」という言葉があります。これはすごい言葉だなと思います。七十歳にして己の欲望の赴くままにしていても、社会的な倫理規範を踰えないようになったと。

  一般的に、倫理規範は個々人の欲望と対立するものというのが、われわれの理解だと思うのです。人間はいろいろな欲望をもっているが、しかし欲望のままに生きることは社会の中で禁止されている。場合によっては刑法の処罰の対象にもなる。それを行わないように心の抑制をしているわけです。

  七十歳にしてもつ欲望は、ひょっとすると青年のときと同じようにギラギラしているかもしれない。しかし矩は踰えない。本当にそのようなことがあり得るのか。孔子はひとつの理想像を説いたのか、あるいは本当にそういう境地が見えてきたのか。私はこの「七十従心」という言葉は、大変大きな謎を提示していると思うのです。

しかし、残念ながら脳科学を含めた現在の科学は、これを解明するところまで到っていない。人文主義的なアプローチでやるしかないのです。

 科学者はナイーブです。ナイーブだからこそ素晴らしい機械もつくれます。生命哲学者や歴史学者が1万人集まってもジャンボ機はつくれない。単純に割り切れることのできるエンジニアでなければつくれないのです。それはひとつの文明の驚異です。しかし、「人生いかに生きるべきか」という難問を考えるうえにおいては、ジャンボ機をつくるという知恵は、おそらくあまり役に立たないでしょう。むしろ孔子やニーチェが残した言葉を真剣に考えるほうが役に立つと思います。
 射程の中に補助線として、神経経済学で問題にしているような研究アプローチの向こうに、最終的には「七十従心」であるだとか、あるいは生命哲学につながる研究領域が開けてくるのだろうと、私は希望的観測をしていますが、今世紀中にその端緒につくのか、まだまだ先のことなのか。いずれにせよ、我々の生きている時代ではないでしょうが、生命哲学がそういう問題を解き明かす時代が必ずくるであろうと思っております。

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可能無限な「知」の世界を探求する
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  以上、私から見た脳科学、そして人間というものの本質を考えるさまざまな知的な確答の関係性についてお話ししました。不確実な状況の下で人間はどう判断するかという神経経済学は、いまや一大研究分野になっていまして、「ハーバード・ビジネスレビュー」は昨年、意思決定の脳科学という特集号を組んでおります。

  いままで脳科学はあまり役に立つことはしてこなかったように思います。脳と教育といっても、先ほど申し上げたような英語を何歳で学び始めるのが最適かという問題も含めて、およそ人間通、世間通の人が納得するような結論を出せないでいました。しかし、神経経済学だけは、おそらく近い将来、世の中の役に立つ成果が出てくるものと思います。下世話な話ですが、金儲けに直結するという意味での成果です。

 クリック・エコノミーという分野があります。インターネット上でネット・サーフィンすると、誰がどのサイトをクリックしたかでお金が回る。ですから、創業間もない会社でもどんどん成長していく可能性があります。
  クリック・エコノミーは神経経済学の研究対象になります。要するに、あるウェブ・ページに行ったからといって、そこに望む情報があるかどうか不確実なわけです。ですから、ユーザーがどのようなページをクリックするかは、まさに不確実な状況下での選択なのです。その過程を研究することは、即、お金に換算される研究をしているわけです。いま、ニューロ・マーケティングという研究も始まり、近い将来、脳科学から初めて生まれた応用分野になるのではないかと思います。アメリカ人はこういう分野には非常に目ざとくて、神経経済学の研究が爆発的に進んでいますが、日本はその後塵を拝しているといった状況です。

 じつは私は、ぜひ皆さんと共有したいビジョンがございます。それは、現代はどういう時代であるか。そして、これからどういう時代になるかということです。私は、これからの時代は福沢諭吉が『学問のすすめ』で説いたような時代と似たような状況が再び現れるだろうと思っているのです。
  私は85年に理学部物理学科を卒業して、法学部に入りましたが、それには時代背景がありました。85年という年は日本経済がまさにバブルな時代でした。あのころの風潮は、真面目に知的な探究をすることが非常に軽んじられた時代であったと思います。いまの日本は、依然としその後遺症の中でもがいていると私は思っています。
  福沢諭吉は「門閥制度は親の仇である」といいました。江戸時代の身分制度などはこれからの日本の発展を妨げると。一人ひとりみんなが学問をしろと、国民一人ひとりに呼びかけたわけです。いまの日本には、国民一人ひとりが学問のできる環境がネット上にあるのですよ。インターネットというのは落書きをするような場所だというイメージが日本では強いのですが、私はインターネット上に最高学府が実現しつつあると思っています。

  明治以降、大学は帝国大学を中心として文明の配電盤でした。歴史の中で大学が果たしてきた役割を考えれば、極めて重要なメタファーだと思います。ヨーロッパからいろいろな「知」を輸入し、津々浦々にまで配電するという役割を、帝大を中心とする大学は果たしてきた。しかし、それには副作用もあって、幸いにして大学に入れた人はいいのですが、入れなかった人からは学びの機会を奪ってきた。要するに「知」が大学によって独占され、囲い込まれていたわけです。

  しかしこれからは、あえて福沢諭吉の言葉を言い換えれば、「学歴社会は親の仇である」と。理想論ですが、大学に入ったか入らなかったかに関係なく、学問を志せば誰でも「知」を享受できる、そういう時代が来ています。その可能性に気づいた人々は、必ずや行動を起こすでしょう。われわれも一生涯学び続けるべきですし、そのためのマテリアルがインターネット上に極めて安価に、多くの場合は無料で存在しているのです。

 

 インターネット上では、まさに「知のビッグバン」が起きています。学問ほど人間の脳を喜ばせるものはありません。学問の喜びは無限です。一生学び続けたとしても、決して尽くすことはできない。食べ物だったら、おなかがいっぱいになれば食べられません。しかし「知」は、どれほど身につけたとしても、その先が必ずある。「フェルマーの最終定理」が解かれても、必ずその先があります。数学的帰納法でいえば「可能無限」であります。ある大きな数を考えても必ずその次の数があるというのと同様に、「知」はあるところまで行っても、必ずその先がある。それを追究していくうちに、残念ながら寿命を迎えてしまうことになりますが、学問を志している人が若々しいのは、「可能無限」に対面しているからだと思うのです。内面の輝きが価値をもつ時代が必ず来ると思います。まさにインテリの逆襲です。

 ソクラテスが現在の世に生きていたら、やはり彼に会いたいと思うでしょう。以下は、ソクラテスの言葉とプラトンが書いているのですが、古代ギリシャではさまざまな競技が行われ、それに対して賞品が与えられた。ところが、「知」というものに対して賞品が与えられないのはなぜか。ソクラテスはいいました。「『知』ほど価値のあるものはないからだ」と。つまり賞品というのは、成し遂げられた業績達成に対して、それと同等か、それより価値のあるものでないと意味がない。しかし、「知」を自分のものにしているということ以上に価値のあるものはこの世に存在しないということです。
 

 私は、これからはそういう時代になると思います。現代の混迷から脱するためには、本物の「知」の輝きが必要なのです。

 ケンブリッジ大学のダイニング・ホールにはハイ・テーブルが置いてあります。そこには大学のフェローしか座れません。そのテーブルに座ると、自分と同じ専門分野の人はいないのです。つまり、みんなそれぞれ違う専門分野の人が集まっているわけです。そこでの会話が非常に知的なのですね。そういう「知」の空中戦が日々行われ、ノーベル賞受賞者を多く輩出するような成果を挙げています。この学士会の夕食会で、皆さんがされている会話も同じです。機会がありましたら、ぜひ私も学士会のハイ・テーブルにご一緒させていただきたいと思います。ご清聴ありがとうございました。

(ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー・東大・理博・理・法・昭60)

※本稿は平成19年2月9日夕食会における講演の要旨であります。