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学士会アーカイブス

政治主導と行政 古川 貞二郎 No.862(平成19年1月)

政治主導と行政
古川 貞二郎
(恩賜財団母子愛育会理事長)

No.862(平成19年1月)号

 一、総理官邸勤務

昨今、官邸主導とか政治主導という言葉を聞いたり、目にしたりすることが多い。本稿では、この政治主導と行政とりわけ行政官との関係で若干思うところを述べてみたい。

私は一九六〇年に当時の厚生省に入り、九四年に退官したが、その間、総理官邸に二度出向した。厚生省を辞めた後、九五年に内閣官房副長官として官邸に勤務したので、結局、三たび、十五年近くを総理官邸で過した。

第一回の官邸勤務は、一九七四年から七七年にかけて、三年余にわたり内閣参事官として勤務した。田中内閣の終わりの時期と三木内閣及び福田内閣の前半である。内閣参事官の役割は、一口で言えば総理官邸の国会における触角とでもいうべきもので、国会が始まれば連日連夜、国会内の参事官室に陣どってあらゆる情報を官邸に伝えたり、総理などに対する国会答辨資料をまとめてお届けするのが主な仕事であった。

二回目の官邸勤務は、一九八六年から八九年にかけて三年余。中曽根内閣の後期と竹下内閣それに宇野内閣の一部。このときは首席内閣参事官(現内閣総務官に相当)のポストで、閣議案件の準備をはじめ、内閣運営の諸々の事務をこなした。最も印象に強いのは、竹下内閣で昭和から平成へと時代の移行に伴う事務方の責任者を務めたことである。

天皇の葬儀については、戦前は皇室喪儀令などにこと細かに儀式のやり方等の定めがあったが、新憲法下では、その制定がGHQ下にあったこともあってか、皇室典範には、「皇位の継承があったときは、即位の礼を行う」とあり、また「天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」とのみ明記されているだけで、儀式のやり方など一切が後世に委ねられていた。特に葬儀については、憲法二十条に定める宗教との関係もあって、極めて難しい検討を強いられ、後世の指針ともなる新しいルールづくりに腐心したことが記憶に新しい。

三回目が官房副長官としての官邸勤務である。一九九五年二月、当時の村山総理に乞われて総理官邸に入った。一月十七日に発生した阪神淡路大震災のほぼ四十日後で、日本の危機管理のあり方が厳しく問われていた。更に就任後一と月も経たない三月二十日朝、国政の中枢を狙った地下鉄サリン事件が発生。その十日後には、治安の象徴的存在ともいうべき警察庁長官が朝自宅を出るところを狙撃され、重傷を負うという事件が発生した。同年六月には函館ハイジャック事件、九月には沖縄で米軍兵士による少女暴行という痛ましい事件が発生し、沖縄米軍基地問題が大きく吹き上った。

こうした時期に副長官の任務をスタートした私は、村山内閣に続き、橋本、小渕、森、小泉と五代の内閣に八年七か月にわたり仕えることになった。その間、変革の時代を反映して数々の構造改革をはじめ、中央省庁再編、安全保障問題、沖縄基地問題、地方分権など多難な日々を過し、二〇〇三年九月、小泉総理の了承を得て副長官の職を辞任した。

 二、内閣総理大臣の在任期間

わが国の総理の在任期間は、おしなべて極めて短い。安倍総理は戦後二十九代の総理であるが、小泉総理までの二十八代中、在任期間三年以上は僅に六人に過ぎない。小泉総理の在任期間は五年五か月だが、佐藤総理、吉田総理に次いで戦後第三位の長さとなっている。一年以上三年未満が十三人。一年未満が実に九人を数える。竹下内閣から小泉内閣までの十一代の内閣の事務担当副長官は、私の前任の石原信雄氏と私それに後任の二橋正弘氏の三人で約十九年に及ぶ。大変革の時代で政治が安定しなかったという事情が背景にあったのかもしれない。小泉内閣の後を受けた安倍内閣は、内外の課題が山積する中、長期にわたり安定し、現在及び将来の国民のため良いまつりごとをしてもらいたいと切に願う。

 三、行政手法の大転換

五年五か月にわたり稀有の指導力を発揮してきた小泉総理の力の源泉は、国民の高い支持にあったと思う。高い支持があれば思いきった手が打てるし、反対しようにも反対しづらい。そのことがまた大きな支持となってはね返る。小泉総理の人気の要因にはいろいろな見方があると思うが、私は以下の三つに大別できるのではないかと考える。

第一は小泉総理自身の政治的資質である。簡潔な言葉による明確な意思表示。そしてぶれない。更に清潔感など。よく小泉総理は大きな方針を示して「あとは任せる」と言い、細部ややり方にはあまり拘泥しなかったように思う。また「ぶれない」ことも、国民の信頼を得る上で極めて大切なことだ。

第二は、政治環境の変化である。派閥の弱体化はその最たるものといえる。そのことで人事でも比較的自在な人事ができたのではないか。更に閣僚の在任期間も長くなった。数年前になるが、私は副長官在任中、土曜の午後、無報酬を条件に、ある大学の客員教授を務めたことがある。その折調べたところでは、竹下内閣以降森内閣までの十代のうち、一年に満たない宇野、細川、羽田の三内閣を除く七内閣の閣僚の在任期間は九か月から十一か月。これに対し、小泉内閣の閣僚のそれは、当時すでに十八か月に達していた。ほぼ倍である。政策に明るい閣僚が相当の期間在任することで、政と官の関係も変わってくる。実質的に政治主導が発揮しやすくなるわけである。

更に小泉内閣が発足した二〇〇一年四月当時は、政治、経済、社会全般にわたって国民の間に閉塞感が漂い、その空気を何とか変えたいという気分が強かったように思う。そのことも小泉総理の人気にプラスに作用したと考える。「改革なくして成長なし」と声高に叫び、構造改革に邁進する小泉総理の姿に多くの国民は深く共感を覚えたのではないか。

第三は、行政手法の転換である。橋本行革において内閣機能の強化、中央省庁等の再編、行政のスリム化、透明化などが打ち出され、二〇〇一年一月、実施に移された。内閣機能の強化では、総理の発議権の明確化や総理の補佐体制の強化などが挙げられるが、とりわけ重要なことは、智恵の場としての内閣府に経済財政諮問会議と総合科学技術会議が設けられたことである。いずれも議長は総理自らこれに当たり、メンバーも関係閣僚のほか、民間の学者や経済人が有識者として参加する。諮問会議とは称しながら、総理自ら議長となって会議をリードするところに大きな特色がある。

経済財政諮問会議は、総理の諮問に応じて、経済、財政全般の運営の基本方針や、予算編成の基本方針等を調査審議する。また総合科学技術会議は、科学技術の総合的、計画的振興を図るための基本的政策や科学技術関係の予算、人その他必要な資源の配分方針などについて調査審議する。その上会議では、政策実現のための基本的な作業工程も示す。課題山積の中で何を重点的にとり上げ、どのように推進していくかが極めて重要である。まさに「選択」と「集中」である。会議で定められた基本方針と作業工程に従って、政府は予算や人その他の資源を重点的、効率的に活用していく。

これまでは各省が与党の政務調査会の関係部会などと諮って調整し、立案したものが内閣官房に上ってくるので調整の余地は少なく、まして大幅に変えることはなかなか困難なことだった。これに対し新しい行政手法は、最初に基本方針と作業工程を決め、これに従って各省が施策を具体化していくこととしている。もちろん基本方針等を策定する段階で関係省もこの会議に参画し、議論をする。こうした新しい行政手法によって、政策が総合的観点に立って、重点的、効率的に推進されることになる。その意味では、行政手法の百八十度転換と言ってもよいのではないかと考える。

二〇〇一年一月、橋本行革の成果が実施に移されたすぐ後に発足した小泉内閣は、この行政手法を実にうまく活用したと私は思う。特に経済財政諮問会議において、このことを強く感ずる。今後、時代の変化や運営の衝に当たる人の違いによって、ある程度運用に違いがでてくることは避けられないが、私は基本的にこの行政手法が元に戻ることはないと考える。もとより問題がないわけではない。今日は政党政治の時代であり、与党の意見をどのように反映させていくかとか、施策を具体化し、実施する各省との関係をいかに円滑化させるかなど課題も少なくない。試行を重ねながら、より良いものにしていく智恵と努力が求められるところである。

今一つは、総理官邸における人事検討会議の存在も行政システムとして忘れてはならないものの一つである。行政官の任命権は各大臣が持っているが、次官や局長など一定以上の職にある行政官の場合、内閣の承認を必要とする。そのために官邸に官房長官と三人の官房副長官から成る人事検討会議が設けられている。この会議では、あらかじめ評価の基準を公表しており、加えて検討する側に対しても恣意的にならないよう内規を定め、評価が厳正、公平に行われることを担保している。この会議の存在も、官邸主導の無言の支援になっていると言ってよい。

 四、政治主導と行政官

私はこれまで政治主導のあり様について主に小泉内閣の例を引きつつ申し述べてきたが、ここで強調しておきたいことは、政と官の関係である。今日言われている政治主導の対極には官僚主導があると思うが、政治主導が声高に叫ばれる中で、私には政と官の関係についていささか理解に苦しむところがある。それは官を敵とみなす風潮がみられることである。秘密主義や省益、組織益等の弊害をなくせという意味であるならば、私にはなんの異論もない。こうした弊害は、行政に限らず、政治、経済、社会のあらゆる分野で官僚主義の名で存在し、その排除はまさに必要なことだからである。問題は行政官を行政官というだけで敵とみなす風潮である。これは明らかに間違っている。議会制民主主義の体制の下では、本来政治主導であるべきは当然のことである。政治主導を強調するあまり、行政官を敵とみなしたり、これを排除したりすることは、いかがなものであろうか。これが私だけの誤解だとすれば幸いである。

長年行政の世界に身を置き、加えて官房副長官や首席内閣参事官として国政の中枢で仕事をしてきた経験からすると、何か本当のところが十分理解されていないか、あるいはためにする議論もあるのではないかという疑念が消えない。私の知る限り、行政官の多くは高い志を持って行政の世界に入っている。

私事で恐縮だが、私は九州佐賀の出身で、父四十五才、母四十一才のとき出生。家業は農家であった。年老いた両親が田畑で働く姿を見て育ち、私自身も子供の頃から牛や鶏の世話、農作業の手伝いなどをした。そのことから両親のように真面目に働いた人は老後は幸せであるべき、それを担うのは厚生省だと考えて同省に入った。散々苦労してやっと入省できた私は、心の中におよそ三つの行動基準と言うべきものを定めた。一つは逃げない。道は必ず開ける。その二はポストは国民からの預りもの、その三は人の心の痛みがわかる行政官であり続けたい、というものである。三つ目は幼い頃の母の無言の教えでそう感じたものである。周りには、私と同じような思いの行政官も少なくない。生涯をかけて行政の道を選んだということは、要するに公のために良い仕事がしたいのである。

内閣の申合せでは、政と官の関係は以下のようになっている。政と官は、役割分担の関係。それぞれの役割分担に基づき、一体として国家国民のための職務を遂行する。政と官はそれぞれの役割を尊重し、信頼関係を築くことに常に努める。政策の決定は政が責任をもって行い、官は職務遂行上把握した国民のニーズを踏まえ、政に対し、政策の基礎データや情報の提供あるいは複数の選択肢を提示するなど、政策の立案、決定を補佐する。以上が基本原則であり、このことは関係者によってしっかりと認識される必要がある。

要は、政はそういう官を公のために使いこなせばいいのである。公のために見識を持って仕事をする政に、官は必ず応える。かりそめにも敵というふうにみてはならない。各省には、大臣がいる。大臣は人事権を持っている。次官、局長など高いポストにある者は、そのポストにせいぜい一年か二年しかとどまれない。大臣から辞めてくれと言われたら、その仕事にどんなに愛着を持っていても辞めざるを得ない。次官、局長も含めて一般職の者は、一たん辞めたら首がつながることはない。官の地位とは、そのようなものである。もとより大臣も恣意的に人事を行ってはならないし、あくまで公の立場に立って適切な人事権を行使することが前提である。

政も官も志を高く持って、それぞれの役割を深く自覚し、自省すべきは自省し、見識をみがき、協力して国家国民のために良い仕事をしてもらいたい。私は理想や夢物語りを申し上げているのでは決してない。これは意識の問題である。常にそう強く意識し続けて欲しいと願っているのである。民主制の政治形態であれ、共産制であれ、王制であれ、志の高い行政や行政官なくしては、良いまつりごとはできないと思う。

重ねて申し上げるが、政にとって官は敵ではなく、パートナーである。相互信頼の上に立って、それぞれの役割分担に照らし、政は官を使いこなせばいい。そのことを心から願っている。

(恩賜財団母子愛育会理事長・九大・法・昭33)