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学士会アーカイブス

「SF学部」の提唱 小松 左京 No.860(平成18年9月)

     
「SF学部」の提唱
小松左京 No.860(平成18年9月)号

今年の夏、私の『日本沈没』が三三年ぶりに再映画化され公開された。
この作品は、一九六四年から執筆を開始し、九年後、一九七三年の三月に光文社のカツパノベルス版上下二巻で出版した。その年の暮れには、東宝から映画公開されたのだから、映画人の馬力は大したものである。
それはさておき、私がこの作品を書き上げるのに、なぜ九年間もかかってしまったのか。それはもちろん、「日本を沈没させる」などという、べらぼうな大嘘をもっともらしい物語に仕上げるには、さまざまなファクトを押さえなければならず、厖大なリサーチと勉強をしなければならなかったからである。
まず、「日本列島の重さ」を調べなければ、それを沈めるためのエネルギーが計算できない。おおよそのエネルギーの見当がつかなければ、そのエネルギーを生み出す仕掛けを創造できないのだ。
当時の国土地理院に行って、「日本列島の重さを教えてください」と言ったら、怪訝な顔をされて、おかしな人を専門に扱う人が出てきて、適当に追い返されてしまった。仕方なく、地質成分と比重などによって、自分で計算したのであるが、当時はまだ電卓などない時代である。そろばんと筆算、計算尺によってやるので、目が疲れてくると一目盛り読み違えたり、計算間違いをしたり、一向に進まない。これも、時間のかかった大きな理由の一つである。実際、七〇年万博のあとに、一桁一万円の電卓が出て購入してからは、執筆速度が飛躍的に向上し、二年ほどで書き上がった。
そもそも私が日本列島を沈めてみよう、と思いついたのは、一九六三年、当時東京大学地球物理学教授だった竹内均先生の『地球の科学』(NHKブックス)に出会ったからである。この本では、ウェゲナーの大陸移動説が見直され、さらに、マントル対流が大陸移動の原動力として大きな役割を果たす、という新しい地球物理学の見解が紹介されていた。地震によって地盤が隆起したり沈没することは、子供時代から関東大震災を経験した母親から聞かされており、六甲山の上の方 に貝の化石があることなどからも、知っていた。しかし、竹内先生の本によって、地球の内部の動きと地殻、プレートのダイナミックな関係がまざまざと目に浮かび、興奮したのを覚えている。「揺るがぬ大地」は、とてつもない力で現在も動いているのだ。それが地球なのだ。

このようにダイナミックに動いている地球の上の、ちっぽけな島の上に生きている日本人について、私は書きたいと思った。

太平洋戦争の敗戦時、中学三年生だった私にとって、「本土決戦、一億玉砕」は、覚悟のことだった。近眼の人間には銃は渡されず、「竹槍で戦車の腹を突け」と言われていた当時、本当に自分は死ぬんだ、と思っていたが、「終戦の詔勅」で死を免れた。戦後大人になって作家になったとき、「日本」、「日本人」とは何だ、という問題について正面から取りあげなければいけな い、と決めていた。その時には、民族学的、歴史的、地勢的、文化的……、あらゆる角度から捉えなければならない。SFという表現形態ならば、それは可能である。一種の歴史シミュレーションが出来るのである。しかし、それだけ扱うデータは厖大になり、日本列島を沈没させるだけで、九年もの歳月がかかってしまった。当初の予定では、沈没したあとの日本人の運命も書くはずだったのだが、出版社はもうこれ以上待てないということで、しかたなく、「第一部完」というクレジットを入れてもらい折り合いをつけた(「第二部」は、ようやく谷甲州君の力を借りて、この夏出版にこぎ着けた)。
私の大学での専攻は、イタリア文学である。父親は理化学機械工場を経営していたので、理工系へ進むことを勧めた。しかし、私が文学部を選んだのは、広島、長崎への「原子爆弾」投下を経験したからだ。『子供の科学』や科学小説の愛読者だった私にとって、「原子爆弾」は、まだフィクションの世界のものだった。だが、一九〇三年のライト兄弟の飛行機の発明と一九〇五年のアインシュタインの特殊相対性理論の発見からたった四十年後に、同じ人間はB29に「原子爆弾」を乗せて投下し、一瞬にして何万人もの日本市民の命を奪った。科学技術はすばらしい可能性の道を拓くが、使い方によっては破滅への道も拓く。どちらも同じ人間の情念が生み出すものである。ならば、人間の情念を文字で表現したもの、「文学」を通して人間の「真理」を追究してみたかった。
しかし、「科学」と無縁な人間の営みはあり得ない。「原子爆弾」の投下を知ったときに、それをしみじみ感じた。現代の人間は、「科学」と無関係に生活することは不可能なのだ。E=mc2という物理法則を知ってしまい、空を飛ぶことを知ってしまい、地球が宇宙空間にあることを知ってしまった人間は、「原始時代の人間」には戻れないのだ。つまり、その時代の人聞が創 り出す「フィクション」と「ノンフィクション」は、隔絶したものではなく、同じ人間の営みの結果なのだ。人間は「イメージする動物」である。イメージしたものを論理的に探求するのが「科学的」、情緒的に深めるのが「文学的」ということで、いわゆる「理系」「文系」という分類がなされているのかもしれない。だが、「科学的真理」を探求するときに、情緒的な感性なくしては、その世界は広がらないだろう。
私は『日本沈没』の登場人物、地球物理学者の田所博士に、「科学者にとって一番大事なものは、菌感とイマジネーション」という言葉を言わせている。このようなことを書いたのは、私が実際に一流の学者と会い、お話を伺っているうちに感じたことだからである。
ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士とお会いしたとき、「最近の関心領域は、どのようなものですか?」とうかがうと、博士は、「月やあらぬ、春や昔の春ならぬ、我が身一つは元の身にして」と在原業平の歌を口ずさまれた。「業平ですね」と言うと、「さすが京大文学部、よく知っているな」「観察者の問題ですか?」と言うと、「そうだ」とおっしゃって、以後親し くお話を伺うことが出来た。
素粒子物理学の世界と、業平の歌の世界。全く関係ないようだが、人間のイメージの世界では重なっているのだ。SFは、文学としてそれら人間のイメージ総体を区別せず、そういう意味で非常に原始的(プリミティブ)な文学である。
最近、子供達の理科離れが問題になっているようだが、それは、理科だけの問題ではなくて、自分自身の想像力を広げることも貧しくなっているのではないだろうか。外界からの刺激によって、好奇心を持って何らかのアクションを起こす。他者との関係で生きているのが人間だが、他人との距離が測れない子供が増えている、という話を聞くと、私にはそちらの方が深刻な問題だと思えるのだ。
一方では、携帯メールで頻繁に友達とコミュニケーションをとっている、ゲームに夢中になっている子供も多い。良いではないか。とっかかりはなんでも良い。興味を持ったものを通して、自分の感性を伸ばし知識を深めていけばよいのだ。しかしその時気になるのは、新しい情報メディアが、人間の感性にどのような影響を与えるのか。それまでの人間の感性とどのように変わるのか。ゲームを作っている大人、情報を発信している大人は、その辺も考慮して対応しなければいけないだろう。私は『継ぐのは誰か?』という作品で、「新人類」への進化を示唆しているが、心理学者、社会学者、哲学者などアカデミズムの人間にも、新しい情報メディアを通してのコミュニケーションの変化が、人類にどのような変革をもたらすのか、もっと積極的に発言してもらいたい。そのためには、アカデミズムの世界も、人間を総体として捉える視点が求められる。
「理系」「文系」の分類にとらわれない、新しいアカデミズムのシステムを作ってもらいたいと思う。
「SF学部」を設ける、というのはどうだろう。あまりにも手前味噌過ぎる、という声もあるかもしれないが、実際、私の『日本沈没』や『復活の日』を読んで地球物理学の道、医学の道、生物学の道を選んだ、という人も多い。「サイエンス」が「冷たい」ものではなく、「人間的」なものであることを、「物語」を通して伝えることが出来るのが、「SF」だと思っている。アカデミズムの手法としては、新しいのではないだろうか。
SF作家の、いつもながらの「妄想」と思っていただいてもよいが、私はかなりまじめな提案のつもりである。

(作家・京大・文・昭29)