学士会アーカイブス
蛙と柿と雪 金子 兜太 No.859(平成18年7月)
名前の由来 しばしば名前についてきかれますが、「兜太」は本名でございまして、俳号ではございません。どうしてそういう名前がついたのか、前座のつもりで、ちょっと簡単に申し上げておきます。 私の父親は医者でございました。昔、上海に上海同文書院という日本人の学生だけで構成されている学校がございましたが、ちょっと縁があって、学校を卒業すると同時に、若いながら校医になりました。父はもともと漢文を読むのが好きで、漢詩にも一応目配りし、少しは俳句も嗜んでいたようで、高浜虚子のところへ投稿しております。そういう男なものですから、私が生まれたときに、いろいろ漢籍を漁ったようで、どういう本から採ってきたか分かりませんが、「兜」という字を選んで、兜太とつけた。「男らしい男になれ」という気持ちだったと言うんですが、真偽のほどは分かりません。 父は兜太と命名して、「トウタ」と母の実家に電報を打った。トウタというと、田舎の人の常識ではムカデ退治の俵藤太秀郷の「藤太」だろうと、「藤太」と届けたところ、後から手紙が来て「兜太」と書いてあるんで、あわてたようです。大正八年当時、その名前の書き替えに大変時間がかかったようでございます。私はどうも夏の生まれ、多分八月生まれじゃないかと思うのですが、ゴタゴタしているうちに、九月二十三日という秋彼岸の中日に生まれたことに決めたようでございます。だから、沙汰の限りにあらずという生まれでございまして、おかげで毎年おはぎをつくって祝ってもらっているという、多少甘い男ということになるんではないでしょうか。 父親としては強い男になるようにという気持ちで兜太と命名したようですが、ご覧のとおり文弱の徒と化しまして、専ら俳句をひねっている。これは父親も母親も大変不満でございまして、父親は途中で諦めたようですが、母親の方は百四歳で死ぬまで不満でございました。母は「はる」っていうんですが、根が丈夫で、子どもを六人パッパッと産みました。取り上げた産婆は私の叔母だったんですが、「おはるさんはね、丈夫な人だよ。おめえも多分丈夫だろう」と言われて育ちました。子どもを産むのも、ポッと気張るとポンッと出たということで、私もそういう生まれでございますから、極めて人間が単純なわけです。顔つき、体つき、私は母親にいろんなところが似ているようでございまして、胃腸の強いのも母親譲り、現在、満で八十六でございますが、割合元気にしております。 実はその名前につきまして、こんなことがありました。平成十七年三月に中国で漢俳学会というのができまして、その発会式に招かれて、北京まででかけました。漢俳と申しますのは漢字の俳句で、日本の俳句五七五の一字一音にそのまま漢字をはめると俳句になるんです。伝達量は日本の俳句よりずっと多くなりますので、彼らは「五七五でもまだ長い、もっと短くならないか」と言っておりましたが、漢詩の五言絶句よりも短いというのが珍しいようで、漢俳をやる人が中国で結構増えてまいりまして、ついに全国組織の漢俳学会というのができました。会長さんは劉徳有という日本に長かった方で、非常に日本通で、実に流暢な日本語をしゃべります。劉徳有さんと席が同じだったから、「金子兜太」という名前についてきいてみました。それまでも中国には何べんも行っていますが、パーティ席上などで名前を言うと、その座になんとなしに笑いが流れる。ニコニコっていうんじゃない、何かニャニヤという感じの笑いが流れるんだが、「兜」という名前に何か不思議があるんですかと、聞いてみたんです。劉徳有さんは、言っていいのかなという顔でしばらく考えていましたが、「どうぞ遠慮なく言ってください。どうせ笑い話ですから」と言うと、兜というのは、発音の仕方によって褌という意味になるそうで、褌が太いと。しかも姓の金子も多少猥雑なようですから、それできっと笑うんでしょうと、こう言われました。 親父も非常に先見の明があったと申すべきで、俳諧を楽しむ人間の名前を褌にしたというのは、これはなかなか親父は偉い男だったと、最近改めて感心しているんですけれども、そういうエピソードがございます「兜太」でございます。
一般性と一流性を兼ね備えた俳句 そういう一般性と一流性を兼ね備えている俳句について、今日は私なりのことを、具体的に申し上げてみたいと、そんな気持ちで参上いたしました。 日本人なら誰でも知っていると言っていいほどよく知られていて、一流詩としての格調をもっている俳句はあるんだろうかということを、私はいつも考えてきました。この間も、五、六人の俳人が集まったときに、どんな俳句があるか議論をいたしました。みんなで、「これはどうかな」と出し合って、十句くらい出たのを絞りに絞って、結局最後に落ち着いたのが三つでした。この三句を表すのが、本日のタイトルであります「蛙と柿と雪」でございます。 蛙は言わずと知れて、すぐお気づきのとおり、松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」でございます。柿は正岡子規の「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」と、これも知らない人はないでしょう。三番目の雪は、お気づきの方はまだ少ないと思いますが、言えばあっと思われるでしょう。「降る雪や明治は遠くなりにけり」という中村草田男の句でございます。草田男は東大の独文から国文に移り、ずいぶん長く東大に在学していた間にホトトギスに参加して高浜虚子に褒められて、それで俳人になったという男ですが、芭蕉と子規と草田男と、三つに絞った理由をこれから申し上げたいと思います。
蛙飛び込む ほとんどの訳が蛙は一匹で、A frog jumps in, かA frog jumping in, で、たいして訳は違いません。 日本人でこの句を最初に英訳したのは正岡子規でございまして、東京大学の卒業論文として「詩人としての芭蕉」という論文を全部英文で書いております。その論文中に、「古池や蛙飛び込む水の音」を英訳してありますが、The old mere! A frog jumping in,The sound of water.と、これも一匹の蛙です。正岡子規のこの訳が影響したんじゃないかという説もございます。 芭蕉のこの句を含む日本の俳句が珍重された時期がこれまでに二度ございました。一度は第一次大戦後、二度目が第二次大戦後です。二度目のときに、海外への俳句の紹介に一役買ったのが、R・H・ブライスというイギリス人でした。日本が好きで、奥さんが日本人で、天皇の人間宣言の英語版の草案を書いた人です。ロンドン大学を卒業し、戦前は京城帝国大学で教鞭をとり、戦争中は神戸の収容所に収監されてつらい思いもしたようですが、戦後は学習院大学等で教えたり、皇太子の家庭教師をした人です。禅と俳句が好きで、禅は鈴木大拙の弟子でございます。禅をやりながら俳句を好きになって、一九五〇年頃に『HAIKU』という四冊本を出しました。それが、アメリカで紹介されて、ギンズバーグとかシュナイダーといった当時のビート派の詩人たちの間で俳句が非常に珍重されたんですね。アメリカでは大拙などの影響で禅が盛んでございまして、その禅を基本に俳句を受け入れている者にとって、蛙が一匹ぽちゃんと古池に飛び込むという禅味が一般化したのではないかと思います。ブライスはたくさん芭蕉の句を訳していますが、やはり一匹のー蛙でございます。禅味があるということで珍重されたんではないかと思います。 ところがやはり、小泉八雲という人は感覚柔軟でして、そういう捉われた考え方をしませんでした。おそらく八雲は一読、たくさんの蛙の飛び込む水の音がしていると感じたのでしょう。古池に飛び込んだというふうには受け取らなかったのではないかと私は思います。「古池や」で切れ字になっておりますから、この韻文の構成上、切れ字があれば、それは別に置かれて、「や」以下のものが、また別に置かれて、二つ組み合わせて映像をつくって詠むというのが、特に現代俳句では常識とされております。「古池や」なんですから、古池へ、とか古池に、と詠むのは一般的ではないわけです。だから八雲は、蛙が古池に飛び込んだという受け取り方はせずに、古池という映像があって、蛙の飛び込む水の音という映像があって、その映像が結びついた何とも言えず瑞々しい感触が小泉八雲の感興をそそった。だから、咄嗟にfrogsにしたのだと思います。ところが、禅ばやりのアメリカに持ち込まれたブライスの本の力で、いつの間にか禅味を持った俳句と受け取られて、蛙が水に飛び込んだというふうになったと。 朝日俳壇で私と一緒に選者をしております川崎展宏さんは優秀な国文学者でございますので、江戸のころに「や」という切れ字はどんなふうに扱われていたのかと聞きましたら、彼もよくは分からないが、蕉門の文献などを読むと、江戸時代は「や」という切れ字を現代俳句ほどにはきちっと受け取っていなかった形跡がある。だから「古池や」というのは一種の感嘆詞ふうに扱って、古池に、とか古池へ、くらいの気持ちも含めて、一気に詠んでいたのではないだろうか。芭蕉の弟子たちの書いたものを読んでいても、そういう受け取り方がみえて、当時は「古池に蛙が飛び込んだ」という受け取り方が一般的だったようですよ、という返事でした。 江戸のころは、「や」という切れ字には今ほどこだわっていない。一気に読ませて受け取るものを楽しませるという感じだったのかもしれません。現代俳句では映像を中心に俳句を書くようになって、切れ字というのを重んじて、二物を結びつけている映像を重んじる傾向がある。どっちにもとれますよと川崎さんも言うし、私もそう思う。その人の好みでどっちにとってもいいわけです。いいわけなんですが、禅味をもった俳句だという前提で考えると、学者さんや専門の詩人は別として、こんなにも一般の人が愛好する句にはならないんじゃないか。 その疑問に、ある日ふと「いや、ありうる」と思いつきました。芭蕉のほぼ同時代に書で有名な仙厓という禅坊主がおりまして、「古池や芭蕉飛び込む水の音」という本歌取りならぬ本句取りで芭蕉をからかっております。元の句があらたかな句であれば、それをもじって楽しむという、一種の諧謔の味を楽しめる面があるわけです。また、二十年位前に中学生・高校生の雑誌の選者をしておりましたところ、宮崎県の高校生から投句がありまして、その句は「古池に蛙飛び込み複雑骨折」と。さすがに現代っ子だから「や」としないで「古池に」とはっきりしております。オートバイを乗り回している彼らの感覚では複雑骨折なんて日常的ですからね。私もこれは面白いってんで採って褒めたんですが、元の句があらたかな内容だから、そういう「もじりの句」が楽しめる。そういうことで一般化してきたんじゃないか、という見方もできます。 ですが、私はそう受け取りたくはないんですね。俳句を享受する基本には、感覚の喜びがあると思うんです。俳句をおつくりになっている方はすぐお分かりでしょう、感覚の喜びがあるから俳句をつくるという方が多いんですね。感覚に訴えてきて、感覚で楽しめる。感覚がある亢進剤を与えてくれる。そういう喜びが基本になっていないと一般性はもてないんじゃなかろうか、と思うんです。
高浜虚子の解釈 芭蕉がその句をつくったときの経緯を、弟子の各務支考が「葛の松原」という本に書いています。支考は岐阜県美濃の人で芭蕉十哲の一人。支考がいなかったら芭蕉はこれほど有名にならなかっただろうと思うくらいで、蕉風というものが一般化したのも、私に言わせれば、それはすべて各務支考が自分の欲得のためにやった結果であって、自分の先生を天下に名だたる者に仕立て上げてしまった。自分の書いたものを芭蕉の考えだと平気で書く男ですから、これも嘘か本当か分からないんですが、嘘としても面白い。 どういうことが書いてあるかと申しますと、「蛙飛び込む水の音」というのを芭蕉が初めて気づいたというんです。蛙飛び込む水の音に気づいて芭蕉は得意だった。いよいよこれで俳諧が開けた、というような気分があったかもしれません。それまでの和歌の世界では、柳にぴょんと飛びつくとか、蛙が飛び込むという題材はあった。しかし、その音を聞いたという和歌はない。だから、和歌の世界では捉えられなかったことを芭蕉はここで捉えたんです。蛙飛び込む水の音というところに新風が生まれている。 では、上五をどうくっつけるか。上五がなければ五七五になりません。そこへたまたま弟子の宝井其角がやってきたので、「中七下五ができたけど、お前なら上五をどうつけるか」と聞いた。其角はしばらく考えて「山吹や、としますが」、と言ったそうです。「山吹や蛙飛び込む水の音」と。芭蕉は「蛙と山吹なんて、和歌の世界でも散々出尽くしている。それでは新味がない」と蹴って、しばらく自分で考えて、「古池」という言葉が出てきた。「古池や」というのは後からきている。 その「葛の松原」に書かれていることで面白いのは、「音」までいったのは芭蕉である、和歌の世界を一歩超えられたと言っている。我々は「即物」と言いますが、物をそのものとして、ナチュラルに見ている。欧米の人は対物的だとよく言われます。対抗するように見る。日本人は即物的に見る。芭蕉はその即物という見方が成熟していたのではないか。飛び込む水音が聞こえてきたときに、「蛙飛び込む」というところで切らないで、音まで踏み込んだというところが画期的だった。物に即してみているから音が聞こえてきて、これがよろしい、これが春なんだと、芭蕉のものの見方の基本にこの即物という見方が熟していて、それが和歌を超えるものとなった。 もう一つ興味深いのは、宝井其角が「山吹や」と言ったのを認めていたら、一般の受け取り方はどうなったか。「古池や」で古池に蛙が飛び込むという解釈に倣えば、山吹の中に蛙が飛び込むことになります。句の構成上からみても、「古池や」としたときに、古池に蛙が飛び込んだという受け取り方はおかしくなります。だから、其角が「山吹や」という発想をしたということのなかに、もう既に蛙が古池に飛び込んだわけではないという謎解きがあるんじゃないか。 そう言われてみると、私もだんだん虚子が言うように、横の方で蛙がポチャンポチャンと飛び込んでいる。で、こちらには古池がぼやっとある。この二つが二物配合のなかに駘蕩たる春の訪れを感じているという、感覚的に瑞々しい句であるという受け取り方のほうが、どうも正しいように思えてくるわけですね。
芭蕉の発見ー和歌を超えた即物性への着眼 「野ざらし」の旅では、初めは漢詩調の言葉を使い、中国の文献を多用して非常に小難しい紀行文でございますが、どうも、桑名の辺りから句の調子が変わるんですね。若手の俳人たちが開催している「野ざらし紀行」のシンポジウムで筑紫磐井という人が私と同じ受け取り方をしていて驚いたんですが、意外にこれを指摘する人は少ないんです。それまで観念的で漢詩調の句をつくっていた芭蕉がにわかに柔らかい句をつくり始める。「道のべの木槿は馬にくはれけり」という淡々とした句であったり、近江を越す峠で、「山路来て何やらゆかしすみれ草」、「馬をさへながむる雪の朝哉」と、もう理屈は抜きにして、あるがままを句にしている。当時は俳諧の世界でも理屈というのが意外に大事で、その理屈を大事にして言葉を選んでいたわけですが、そんなことはどうでもいい、見たまま、ありのままでいいというところが斬新だった。当時、山道でスミレを歌うなんてことは和歌の世界にはなかった。芭蕉にしてみれば、山道を歩いていてスミレが咲いていた、ああゆかしいなと思った、それでいいじゃないかと。これが発見であり、俳諧であると。 和歌のようにその中に観念や理屈を放り込まないで、見たままに書く。物に即して書くという書き方が新しいんだという自覚が徐々に芽生えていったのではないか。この時期、にわかにそういう句が並ぶわけですが、私はそれを「芭蕉の発見」と申し上げたいんです。それまで理屈仕立てで俳句をつくってきたのに対して、芭蕉のこの即物への着眼というのは、ルネサンス的な行為であったのではないかと思うのです。 芭蕉は「発見の旅」から帰って、春の芭蕉庵に座っていた。蛙が水に飛び込む音が聞こえてきた。私に言わせればこれは隅田川だろうと。ピョンピョン飛び込む音が聞こえてくる。「ああ、駘蕩たる春の音、どこか陀しいな」という気分だったと思うんです。芭蕉が「野ざらし」の旅で発見した自分の方法論を実現した句であった。古池に蛙が一匹飛び込んだ、禅味である、なんてことには全くならないと私は受け取りたい。 そういうことを国際俳句交流協会で話しまして、私の感覚では「古池」というのは、青ミドロでドロドロした、いかにも春の駘蕩感を感じさせる古池のように思う。この句を愛好している多くの人も、そういう青ミドロの古池を見ているんじゃないだろうか。そういう古池があって、どこからか蛙がポチャンと飛び込んでいる音が聞こえる。なかには気まぐれなやつが一匹か二匹、その青ミドロの中に飛び込んでいるかもしれない。そういう風景だと思う。それがこの句の一般性を確保して、みんなの感覚に訴えている。理屈じゃなくて感覚に応えているんだろう、と申しましたら、早稲田大学教授で俳句にも造詣が深い星野恒彦さんからこんなことを言われました。アメリカで学生たちに、この古池をどう受け取るかと聞いてみたら、青ミドロのある決してきれいな古池ではなかったそうで、「あなたの感覚はアメリカの青年と似ている」と言って褒めてくれたんですが、素直に詩を読むと、感覚的にそう受け取れる。一言で言うなら「生き物感覚」をもっているということになりましょうか。古池の感覚も、蛙が飛び込む感覚も、すべて生き物感覚であって、生き物同士の共感という世界の中で生きている感覚である。それが、一般性を確保する根本である。そこにどれくらい哲学が入ってくるか、真理が入ってくるかということによって、一流性が確保される。この古池の句も、哲学が分かる人が読めば、そこにさまざまな哲学的な妙味を感じるのでしょうが、それは飽くまでも後からのことだと思います。 柿くへば 掻い摘んで申しますと、正岡子規は明治二十八年、日露戦争の終わり頃に従軍しております。子規の年齢は明治の年号に一つ加えりゃいいんで、二十九歳のときですね。どうしても戦争に行きたいと言って実現したんですが、間もなく戦争が終わる頃でしたから、五月に船で帰ってくる。その途中、玄界灘のあたりで喀血して、子規は須磨で療養の後、郷里の松山に帰ります。今、愚陀仏庵として松山に残っている下宿屋の二階に漱石、一階に子規というふうに同居いたします。この愚陀仏庵で句会がありましたときに、これはいま毎週土曜日にNHKのBS2で放送される「俳句王国」の前身ですが、ちょうど秋でございまして、私は「ニ階に漱石一階に子規秋の蜂」という句をつくった。まだまだ秋のハチは元気がいい、精悍な感じがあります。病んでいるとはいえ、子規もまだ精悍な時代だったろうと思い、ちょうど二人とも秋のハチの感じだなというんで、そういう句をつくったのを記憶しております。「この句のどこがいいの?」と言った人もいましたが、この句は割合に評判がよろしゅうございました。 子規は十月まで愚陀仏庵で漱石の居候のようなかっこうで過ごした後、大分よくなってきたので東京へ出ることにして、途中の奈良でつくったのがこの句でございます。「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」と、法隆寺のおそらく夢殿の近くの茶店の辺りで鐘の音を聞いたのではないか。これは東大寺じゃないかとする説もありますが、フィクションであろうと本当であろうと、そんなことはどうでも構わないということで、法隆寺でいいんじゃないかと思います。 では、一体この句のどこがいいのか。法隆寺にいて柿を食べていたら、鐘がゴーンとなったということで、奈良の気分があると言えばある。さらによく味わってみますと、「柿くへば鐘が鳴るなり」という感覚が実に新鮮なんですね。今でも新鮮なんだから、明治二十八年当時だとことさら新鮮だったと思います。 何が新鮮か。シナリオライターの早坂曉さんとこの句について話したことがございます。早坂さんは「花へんろ」や「夢千代日記」を書かれた方ですが、「これは早坂曉にとって印象的な句で、私はこの句を大変に愛好しています」と言っていました。印象的なところが二つあって、一つは、肺とか心臓に鐘の音が響く感じで、これは患ったことがない人では分からない。早坂さんは心臓を患っていて、あるとき音楽会に行ったらビートっていうんですかね、パンチの効いた音がバーンと嗚ったら心臓にベーンと響いて、慌てて会場を飛び出したそうですが、それくらい、病んでいる体には鐘の音とかビートの効いた音とかが響く。おそらく病み上がりの子規の肺にものすごく響いたんじゃないか。そういうことが、「鐘が鳴るなり」という言い方の中には感じられますね、と言っていました。 そして、「柿くへば」の方は、結核を患うといつも体が微熱をもちますので、冷たいものが欲しい。子規は柿が大好きで、寝たきりになりましても、食後に柿を二つ三つ食べたりしています。柿の冷たい感触が結核を患った人にとって快い。「だから子規は実にものが分かっている。病気の子規の感覚、ここで何か妙に新鮮な、ある意味では甦りの感覚をもったような、そういう瞬間の句になっている。その感覚が人に訴えるんじゃないでしょうか」と、早坂さんにそう言われて、なるほど確かにそうだなと私も思った。 微熱があって患っている子規が、一人ちょこんと茶店に座って柿を食べている。そういう子規の姿が見えてくるように思いました。 子規は一貫して俳句は文学だと考えておりました。だから論文「詩人としての芭蕉」で、芭蕉のことも俳人と言わず詩人と言っている。そういう進んだセンスの持ち主で、感覚も非常に鋭敏であり、先進的であって、決して古ぼけたものではない。体で捉えた新鮮な感覚が一般にもアピールするんじゃないでしょうか。「柿くへば鐘が鳴るなり」、非常にすべらかに、韻文の醍醐味があって、リズム感もいいですね。
降る雪や この句が発表されましたのが、ちょうど私が学生の頃でありまして、我々仲間うちで中村草田男を囲んで「成層圏」という句会をやっておりました。その句会で、「雪降るや」と言わず「降る雪や」としたこのテクニックがすごいということで、この句が評判になりました。「雪降るや」では散文的になって、硬くなるところを「降る雪や」ですべらかになって韻律が豊かな感じになる。この言い方が新鮮だとみんなで話したのを覚えております。この真似をして、ひっくり返す句も随分できました。 誰にでも「明治は遠くなりにけり」というようなノスタルジーはあるわけで、今だと昭和は遠くなりにけりというふうに、真似のしやすい句であることも、また親しみの一つということです。 先日の「朝日俳壇」にこれを煎じた句がありました。「湯たんぽや昭和は遠くなりにけり」と、奥西さんという福岡の方の句ですが、さすがに誰も採りませんでしたが、こういう捩りやすいというのも親しみの一つでしょう。これは、しかし根本的なことではありません。やはりこの句のもっている新鮮な感覚が基本だと思います。「降る雪や」と、こう感覚的にリズミカルに捉えて書いたということが、感覚をくすぐるんじゃないでしょうか? つまり感覚的に読めて、懐かしいという気持ちになる句であります。
さいごに 高浜虚子の「去年今年貫く棒の如きもの」、去年から今年にかけて、何かぐっと一本、棒のようなものが貫いているという句でございます。これは大岡信君も「折々の歌」で絶賛しておりました。おそらく国民文芸としての俳句と言ったときに、それを代表する句の―つに、「去年今年貫く棒の如きもの」は出てくるだろうと思います。結構な一流性がある句です。 この句がどうだろうかと話題になったときに、この句は観念臭が強いんじゃないだろうかと私がちょっと異議を唱えたんです。一般性を乗り越えるほど、虚子の句には観念の臭いが過ぎるんじゃないかという私の異議に、そこにいた連中も同意してくれまして、虚子には申し訳なかったのですが、四番手となったということでございます。 しゃべっていると切りがありませんから、以上といたします。 (俳人・現代俳句協会名誉会長・東大・経・昭18)
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