南原繁と現代 今問われているもの |
鴨下重彦 (東京大学名誉教授・賛育会病院院長・南原繁研究会代表) |
No.856(平成18年1月)号 |
はじめに 鴨下でございます。この度は、伝統ある学士会の夕食会の講演をさせて頂くことになりまして、大変光栄に存じております。
夕食会や午餐会での講演は、学者や研究者の方が、ご自分の専門の領域について解説なさる、あるいはそれ以外の方でも、自分のお仕事に関係のある話題について、ご紹介されるのが普通だろうと思うのですが、今回は全く私の仕事とは関係のないことなのです。 実は本日の講演会の案内が出ましてから、「あなたと南原さんはどういう関係なの」という質問を随分受けました。
特にご参加頂いている方々の名簿を拝見しますと、法学部の方が大変大勢いらっしゃいます。たぶん多少ご説明申し上げないと納得頂けないかと思いまして、初めに少し、説明をさせて頂きたいと思います。 私が南原繁という名前を知りましたのは、今から半世紀以上も前、もう55年前になります。新制高等学校の1年生の時に、国語の教科書に『人間革命』の一部が、テキストとして使われていました。その時に国語の先生が「この南原繁という先生は大変偉い人です。文部大臣より偉いんですよ」と、こう言われたのです。当時私は文部大臣がどのくらい偉いのかわかりませんでしたが、ともかく大変偉い人として、その名前を心に刻みました。 昭和30年(1955年)に東京大学の医学部に入学しましたが、もう南原先生はお辞めになっていて、当時の総長は次の矢内原忠雄先生でございました。いろいろ紆余曲折を経て、私は学生時代に矢内原先生がやっていらした日曜日の聖書講義の集会に出るようになりました。医学部の講義は結構さぼりましたが、毎日曜、聖書講義は一度も休むことなく出席いたしました。そして当時から南原先生、矢内原先生の著書、演述集を愛読いたしましたことが、現在も私自身の糧になっていると思っております。 この南原、矢内原、戦後の2人の東大総長は、言ってみれば「余の尊敬する人物」でありまして、いつかその評伝を書いてみたいと思っておりました。ご存じの方もいらっしゃると思いますが、内部の不祥事で倒産してしまった日本学会事務センターが、『スキエンチア』という月刊の小冊子を出しておりました。たまたま、最終号に何か書けといわれて、かねてからの思いでありました2人の先生について、「私の見た南原、矢内原時代」という、短いスケッチのようなエッセイを書きました。 これが大変大きな反響を呼び、いろいろな方から「あなたの意見に賛成する。今の時代にこの2人の精神は非常に大事だ」というような手紙やメールを頂きました。日本学術会議会長の黒川清先生からは、「久しぶりに感激するものを読んだので、これを学術会議の全会員に配ったらどうだ」と言われたのですが、さすがにそこまで恥ずかしいことはできません。ですが関係の人には別冊を作ってお配りはいたしました。 そういうことがご縁で、南原先生の研究家や先生の思想に共鳴する方々が集まり、勉強会を始めることになりました。先生の著作をまずは読もうということで、毎月集まって読書会をやっております。それが「南原研究会」でございまして、まだ生まれて1年。老若寄り集まって、熱心に著作集を読んでおります。 たまたま昨年(平成16年)は南原先生がお亡くなりになってから30年に当たり、大きな節目ということで、11月20日にこの学士会館で「南原繁没後30周年記念シンポジウム」を行い、大勢の方にご参加頂きました。その記録も本として出版いたしましたので、おそらくそのようなことが團藤先生や大内先生のお耳に達して、今日の講演をさせて頂くことになったのかと思います。
南原繁先生の教育環境 南原先生は、明治22年(1889年)に香川県にお生まれになりました。この明治22年というのは、大日本帝国憲法が発布された年であります。また、かつて私が主宰いたしました東京大学医学部小児科学教室が、この年に創設されております。ちょうど100年後の1989年、これは昭和から平成になる年でございますが、小児科学教室が100周年を迎えましたので、100年前には何があったか、どういう人が生まれたかを調べました。日本では南原先生がおられた。ドイツではヒットラーや、それを支持した哲学者のハイデッガー、アメリカでは喜劇役者のチャップリンと、なかなか面白い組み合わせでございました。 小学生時代の南原少年は、まれに見る非凡な方であったと思います。小学校時代に書いた文章が残っておりますが、とても9歳の子どもの文章とは思えない。特に申し上げなければいけないのは、背後にあった、きくというお母さんの偉さでしょう。東大総長になられてから、お母さんへの感謝の気持ちを『母』という題で思い出として書いておられます。以前は大変裕福であられたようですが、当時諸事情により、南原家は没落をいたしまして、お母さんは大変な苦労をして裁縫で身を立て、近くの人に教えて、生活の糧を得ていたという状況であったようです。 南原先生は小学校を卒業したら、師範学校へ進む予定であったのですが、たまたまその頃、近くに中学校ができることになり、お母さんが入学式の前日に、南原先生を中学に進ませるという決断をされた。そこが大変偉いところだと思います。南原先生は「これが生涯の分岐点になった」と書いておられます。 これは小児科医としての私の持論ですが、大体偉い人というのは、母親が偉いのですね。父親ではありません。15年ほど前に、当時の科学技術庁の資源調査会で、「乳幼児期の人間形成と環境との関係」という調査検討会がございました。私も委員として加わり、特に創造性ということに興味がございましたので、そういった文献を調べました。江崎玲於奈、小田稔、福井謙一、西澤潤一といった方々、日本学士院賞を受賞された理科系の科学者や研究者70人余りに、「創造的な研究をするために、子どもの頃に何がよかったか」というアンケート調査がございまして、自然の豊かな環境の中で自由に過ごしたということが第1位です。それから、多くの人に共通するのは、親の姿を見て育った。勉強しろとは、一度も言われたことがない、ということで、私などは言われ通しだったので、もし言われなければ、もうちょっとましな人間になったのではないかと思っております。 母親の方が重要、これには生物学的な根拠がございます。母性遺伝というのがありまして、母親からミトコンドリアという大変重要な細胞内小器官を受け継ぐ。17,8年前になりますか、人騒がせな報告としてミトコンドリア・イブという論文が出たのをご存知でしょうか。現在の人類は約20万年前にアフリカにいた1人の女性から出ている、という学説です。ミトコンドリアのDNAを調べた結果の結論で、ミトコンドリアというのは、ほとんど母親由来なのです。ですから、時々「父親が偉い」という方がいらっしゃると、「それはミトコンドリアの選び方がよかったのでしょう」と、私は申し上げるのです。 ミトコンドリアというのは非常に弱いもので、酸素不足になりますと、機能不全に陥ります。地球環境の保全、自然保護は、動植物のミトコンドリアを大事にすることに帰すると思っております。
人の身体的な成長や精神的な発達には、このミトコンドリアも含めて、遺伝子、DNAの働きが非常に重要でありますが、環境の影響ということも、おそらく遺伝子以上に重要ではないかと思います。環境にもいろいろございますが、人間の場合には教育環境ですね。特に若い時に、優れた先生、よい友人に出会うということが、非常に重要ではないか。南原先生の場合にも、小学校の時に4年間担任をしてもらった、阿部正樹という大変優れた先生がおられたことを、先生自身が書いておられます。
中学に入られましてからは、往復20キロを徒歩で通われ、日の短い冬には、朝には星を仰ぎ、夕べには月影を踏んでという毎日であったようです。ここでまたお母さんが偉いと思いますのは、中学生南原繁に浄瑠璃を習わせた。それは、芸術的なものに触れた最初であろうと思います。おそらく後年歌人としても有名になられて、歌集『形相』を残されておりますのも、浄瑠璃を習ったことが下地となって、作歌にもつながったのではないか。経済的には大変貧しい中でありましたけれども、南原少年は豊かな自然環境で過ごし、精神的にも豊かな環境で育った。それはおそらく先生の人間形成に大きな意味があったと思います。
さらに旧制第一高等学校に入られたことは、一層大きな、いわば精神的な革命であったかと思います。先生が第一高等学校に入学された明治40年(1907年)当時は、一高の入学合格発表は成績順に、1点でも多い人が先でした。その時の1番が愛知中出身の真野毅、最高裁の判事をなさった方。2番が明治学院から進んできた三谷隆正。南原先生が何番かは先生ご自身書いていらっしゃらないのですが、3番か、4番か。同級生に森戸辰男。神戸一中出身の川西実三という方が隣の席で試験を受けて、お互いに意識し合ったということです。
キリスト教との出会い 当時の一高の校長は、札幌農学校2期生の新渡戸稲造でした。新渡戸の一高生に対する感化は、大変大きなものがあったと思います。 明治45年(1912年)一高卒業の柿沼昊作という方は、医学部第一内科の教授でしたが、医学部長の時代、ポポロ事件とか警察手帳事件といわれる事件で学内が騒然としていた昭和27年(1952年)4月、東大構内三四郎池の西側で自治会の学生に囲まれて、ばったり倒れられ、心筋梗塞で亡くなられたのであります。その柿沼先生が一高に入られた時、いきなり新渡戸校長が講堂に入ってきて、「俺の名はNitobe,Not to do,but to be.」と黒板に大書されて、度肝を抜かれたそうです。このto be が to do より大事、doing よりも being が大事だというのは、イギリスの哲学者トーマス・カーライルの『Sartor Resartus―衣裳哲学』という中に出てくる言葉で、新渡戸稲造の愛読書であったのですが、南原先生もその言葉に非常に感動され、大事にされました。
明治43年(1910年)南原先生は一高から東京帝国大学法学部に進まれます。その当時、新渡戸稲造以上に先生の魂に大きな影響を与えたのは、新渡戸とは札幌農学校の同期であった内村鑑三でありました。内村は一高の前身の第一高等中学校に教師として勤めていたのですが、明治23年(1890年)に発布された教育勅語に敬礼をしなかったということで、日本中から国賊と非難を浴びて、免職になったという不敬事件があります。以後はキリスト教の伝道者として、無教会主義という新しいキリスト教の流れを作り、毎日曜日に新宿の一角で聖書の講義をしていた。南原先生は東京帝大の学生時代、ずっとそこに通っていらっしゃったわけです。 後にキリスト教から離れていった人もおりますが、当時内村の門に学んだ人たちの名前を挙げますと、天野貞祐、小山内薫、志賀直哉、前田多門、塚本虎二、鶴見祐輔、黒崎幸吉、森戸辰男、藤井武、川西実三、河合栄治郎、高木八尺、三谷隆正、江原万里、田中耕太郎、矢内原忠雄、錚々たる人たちです。このうち一高出身だった人たちは柏会というグループを作りました。南原先生は少し遅れて入りましたので、それとは別に、聖書の言葉で、白い雨と書いて「むらさめ」と読む白雨会という会を組織されております。
内務省へ
大正3年(1914年)に、学部の首席で銀時計を下賜され卒業された先生は、内務省に入られました。産・学・官というのは今でも使われる言葉ですが、当時の東大の卒業生はみんないずれかに属しました。 その面接試験では、6~7人の局長の前でいろいろ質問を受ける。南原先生がクリスチャンであることを知って、人材局長が「あなたは神社の前でお辞儀をするか」と非常に意地の悪い質問をしたそうです。先生は「しません」「なぜだ」「あれは建物であって、本当の神ではない」と答えられた。その気迫に局長のほうが負けて、採用が決定したということであります。内務省に入られて、大正6年(1917年)に富山県射水郡の郡長になられます。当時の郡長というのは、たぶん今の市長よりも偉かったのではないでしょうか。 富山へ出発される時の、白雨会の送別会の写真(写真1)を見ますと、前列の真ん中に内村鑑三、その右隣が南原先生、左側は東大工学部土木出身の青山士。この人は新渡戸、内村と札幌農学校で同期だった東大工学部土木教授の広井勇の弟子で、パナマ運河の開削に参画し、荒川放水路の水門を作った技師です。後ろのほうに、白雨会のメンバーが並んでいますが、そのなかの星野鉄男氏(左から3人目)の妹さんが、南原先生の最初の奥様になられます。
南原研究会のメンバーで都市工学出身の白井芳樹さんは、建設省に入省され、長い間富山県の土木部長をしておりましたが、南原先生の射水郡長としての足跡をいろいろ調べて、1冊の本にされました。
富山の射水郡長としては、2年足らずの短い勤務の間に、2つの大きな事業を残されております。1つは、射水平野の治水工事です。赴任された時、地図にはない大きな湖が汽車の窓から見えて、あれはなんという湖かと迎えに来た人に聞いたところ、この辺りは非常に土地が低くて排水が悪いために、毎年雪解け水が全部ああいうふうにたまるのだという話。それはなんとかしなければいけないと考えた先生は、いろんな専門家を呼んで排水工事を計画され、知事と交渉して治水工事をなさった。もう1つは地元の教育で、村の若い青年を教育する農業公民学校の創設を立案された。
これはどちらも始まったばかりの段階で、大正8年(1919年)に本省に呼び戻されます。当時は大正デモクラシーの時代で、第一次大戦が終わって不況ということもありましたし、シベリア出兵によって米騒動が起こったりと、勤労者層が勢力を持ち始めて、内務省ではなんとかしなければと、南原先生に労働組合法を作ることが命じられたわけです。 南原先生の富山での仕事ぶりは、白井さんによりますと、いわゆるリーダーになる資質を備えていた。それは洞察力が非常に鋭い。決断したら必ずそれを企画して実行する行動力が優れている。どういう小さなことにも全力投球をする方である。そういった姿勢が先生の生き方であったと指摘しています。 本省に戻られましても、労働組合法の立案にあたって、やはりいろいろ調べられ、心血を注いで案を作られた。それを内務大臣床次竹二郎に提出し、内務省案として原敬総理大臣まで上がったものの、南原先生の労働組合法草案は、原の机の引き出しに入ったまま、ついに日の目を見ることはなかったのでした。非常に斬新な内容であったため、当時としては保守的な考え方の人にはなかなか受け入れがたい面があったのではないかと言われております。
そういう意味では、富山でも、内務省でも、心残りな思いをしながら、大正10年(1921年)に、東京帝大学法学部の助教授として戻ることになりました。
東京大学法学部へ
南原先生の学問上の師、小野塚喜平次教授は、おそらく日本で政治学という学問を体系づけた最初の学者と言われております。昭和3年(1928年)から9年まで総長を務められ、東京大学の中興の名総長と言われました。自由主義者であったため、当時代表的な右翼のイデオローグであった蓑田胸喜からマークされる一方、総理大臣の浜口雄幸とは東京帝大で同級生だったということで、浜口が大蔵大臣を連れて東大総長室に挨拶に来たということであります。『小野塚喜平次 人と業績』という立派な伝記が、昭和38年(1963年)に岩波書店から出ております。総長時代のこと、晩年の小野塚喜平次について、南原先生が分担で執筆されております。あとの著者は、矢部貞治、蠟山政道。南原先生が東大に戻られた頃には、まだいわゆる大正デモクラシーの気風はかなり残っていたのではないかと思います。 実は、私が今勤めております賛育会病院といいますのは、その大正デモクラシーの旗頭の1人、吉野作造という東大教授が、創立メンバーの中心でありました。賛育会病院のある墨田区の辺りは東京でも特に貧しい地域で、病院というより貧しい掘っ立て小屋に机1つ、診察台1つで診療の始まった大正8年(1919年)、日本の乳児死亡率が188と、最高値を示しました。地域差もかなりありまして、本所、向島辺では1,000人の赤ん坊が生まれて、5歳までに500人、半分は死んでしまう。子どもが生まれても育てられないというので、生まれた赤ちゃんをもらってくださいという広告が新聞にずらりと並ぶような所でした。吉野作造はそれを捨てておけないと考え、帝大基督教青年会(現在の東大YMCA)の会員である医学部の教授や学生を動かして、キリスト教の隣人愛の趣旨に基づき、妊婦と乳児の保護、保健、救療の目的をもって「賛育会」を始めたということになっております。 デモクラシーの訳を民本主義と言ったのが、吉野作造です。次第にファッショ、軍国主義の嵐が起こってまいりまして、言論統制も始まり自由主義者は圧迫され、さらに共産主義者はもちろん、左翼系の学者、左翼思想の持ち主はターゲットにされて軒並み捕えられるような時代となってまいります。 さて、東大に戻られた先生は、学者としてその後の歩みに3つの原則を立てられました。1つは流行の学問は追わない。1つはジャーナリズムには乗らない。これは、吉野作造が最後は朝日新聞の記者になったくらい、ジャーナリズムにいろんなことを訴える方だったようですが、そうはしないという決意。もう1つは大学での役職にはつかないと。先生は、 かたつぶりの殻にひそめる如くにも
われの一生のひそみであらな
という歌を残しておられます。こういった態度は、結果として南原先生を右翼の弾圧から守ることになったのではないかと思います。そして、戦後、東大の総長になられてからは、この掟を破らざるを得なかった。周囲がそうしてしまったということでしょう。 助教授の間に、イギリス、ドイツ、フランスに留学をされました。この留学期間は、日本に病弱の奥様を残していかれましたので、気が晴れない思いであったようです。しかし、ドイツでは、特にカントの哲学を研究をされ、これが先生の政治哲学の基礎を作ることになりました。たしかドイツ留学時には、矢内原忠雄先生のほうが少し早くベルリンにおられて、ロンドンから移られた南原先生は、先ず矢内原先生の下宿を訪ねたということであります。帰国されてまもなく教授に昇進され、政治学史の講義を担当されました。 大正9年(1920年)に東京大学に経済学部が設置されますが、経済学部ではいろいろな問題があったようでございます。その中で、昭和12年(1937年)12月1日、かねてから狂信的な右翼ににらまれておりました矢内原忠雄教授が辞表を出された。 Y君の辞職きまりし朝はあけて
葬りのごとく集ひゐたりき 葬りというのは葬儀ですね。心配された同僚の教授が何人も集まってこられたという歌ですが、南原先生も経済学部の廊下で待っておられて、「その時に『学間以外のことでご迷惑をかけて申し訳ありません』と、矢内原君が頭を下げた、その寂しそうな顔を忘れられない」と書いておられます。 経済学部は大変荒れまして、その3カ月後に、今度はいわゆる教授グループ事件で、副理事長のお父様でいらっしゃいます大内兵衛教授、有沢広巳、脇村義太郎といった優秀な助教授の方々が治安維持法違反で検挙されました。大内兵衛先生は早稲田署に留置されて、かなり気骨ある態度であられたためかと思いますが、警察からはひどく厳しく冷たく扱われた。たまたまその早稲田署の署長が南原先生の教え子だったということがありまして、南原先生は本を差し入れた。その本は、『斉藤茂吉読本』、ルソーの『孤独者の思想的散歩』、小川正子の『小島の春』、これを大内先生がどういう思いで受けられたか。南原先生の、そういった苦境にある人たちに対する友情とか思いやりというのは、これは大変感動的であります。 経済学部ではその後、河合栄治郎事件、あるいは平賀粛学という喧嘩両成敗などがありまして、多数の教官が辞表を提出し、学部崩壊の危機に曝されました。教授グループ事件の裁判も最後は無罪になりましたが随分長くかかりました。 戦後は幸い大内、舞出、矢内原の3長老により経済学部が再建され、昭和24年(1949年)には、学部創立30周年の記念式典が行われました。その時南原総長が、「経済学部は30年で、もうお祝いか」と冷やかした。それに対して、「経済学部の30年は、他の学部の100年にあたる」と、矢内原経済学部長が胸を張って答えた。「矢内原君は経済学部は最小であるが、最弱ではない、”smallest but not weakest”と言った」。これは大内兵衛先生の言葉であります。
南原先生の処女作 南原先生は洞窟の哲人という別名をつけられておりますが、あまり本をお書きにならなかったんですね。昭和17年(1942年)11月に、処女作『国家と宗教―ヨーロッパ精神史の研究―』(岩波書店刊)という有名な本を出されました。副題がついておりますように、この本は、プラトン復興、キリスト教の神の国とプラトンの理想国家、カントにおける世界秩序の理念、そしてナチス世界観と宗教、こういう4つの章からなる275ページもの、いわばモノグラフです。
この内容を、私などがとうてい論評できるわけではありませんが、特にこの最後のナチスの章、これは明白なナチス批判であります。しかも天皇制のファシズム下の日本の祭政一致体制、そういうものに対する批判の意味も、かなり痛烈にこめられております。 私は、内容もさることながら、この本が出たタイミングに注目します。昭和17年11月といいますのは、太平洋戦争の真っ只中、もうすでにミッドウェイの海戦で日本は海軍の大半を失った。翌18年にかけましては、南方のガダルカナルでの死闘に移ろうという時であります。よく発売禁止にならなかったと思います。 この本の寄贈を受けた矢内原忠雄先生が昭和17年12月3日に南原先生に宛てた、お礼の手紙があります。「ただ、恐れるところは、蓑田胸喜一派に食いつかれないか。しかし、貴兄のことであるから、十分お覚悟の上でご出版と存じ、一層尊く感じました」と述べておられます。いろいろ考察がなされているようですが、1つには南原先生があまり本をお出しにならなかったので、いわば無名であったということ。それからこの本の内容が難解で、蓑田胸喜等右翼の人間にはよく理解できなかったと、そういう考察もございます。 戦局はいよいよ日本に不利になりまして、昭和18年9月には、教育に関する戦時非常措置ということで、それまで大学、専門学校の学生は徴兵猶予がされておりましたが、文系の学生については猶予が停止され、学徒出陣ということになりました。これについても、南原先生は大変憂慮され、東大の安田講堂で行われた盛大な壮行会には敢てお出にならなかったようです。 今年(平成17年)はちょうど東京大空襲60年目にあたりましたが、昭和20年(1945年)3月10日午前0時、サイパンから飛んできた325機のB29が、38万発もの焼夷弾を東京に落とし、死者の数が10万を超えたと言われております。警視庁の正確な統計によりますと83,793人、それでも広島の原爆で即死をした70,000人よりも多い数ですね。下町は壊滅状態になりました。賛育会病院の辺りはいちばん激しく燃えましたが、昭和5年にコンクリートで建てられた病院の建物だけが真っ黒焦げで残った。あとは隅田川を挟んで、まっ平になった写真がございます。病院近くの錦糸公園に1万数千人の黒焦げの遺体が、山のように積まれたという記録が残っております。 大爆撃に一夜のうちに焼け果てし 市路に立ちて声さへ出でず と先生が詠んでおられます。 実はその前日に、南原先生は法学部長に就任されておりました。そして学部長として最初に着手された仕事が、終戦の和平工作でありまして、当時の法学部の有力教授、高木八尺、田中耕太郎、末延三次、我妻栄、岡義武、鈴木竹雄といった方々と、7人で密かに終戦工作を始められました。 一度に全員が集まると目につきますから、最初は南原先生と高木八尺教授がいろいろ構想を練り、他のメンバーとは数人ずつ集まって原案を作った。終戦の時期は5月のドイツ降伏の時とする。無条件の降伏、しかし天皇制は維持する。アメリカを相手に交渉する。敗戦の収拾時の総理は宇垣一成陸軍大将に頼む。かなり具体的なことまでいろいろ決められて、近衛文麿、若槻礼次郎、東郷茂徳、木戸孝一といった重臣と密かに接触をされたということであります。 これは、先生ご自身は「実を結ばなかった」と言われておりますが、昨年11月のシンポジウムに来て頂いた三谷太一郎東京大学名誉教授は、昭和天皇がポツダム宣言を受諾する過程で、この南原案は少なからざる影響があったと証拠を挙げておられました。
東京大学総長として 昭和20年12月に内田祥三総長が辞め、その後を受けて、これは選挙というよりも推薦だったそうですが、南原先生が総長に選出されました。ご自身は「自分が選ばれるのは非常に意外であった」と書いておられますが、摂理的な意味があったと、私は思います。東大の歴史でもっと法学部の人が総長になっているのかと思いましたら、法学部出身の総長は、小野塚総長に次いで2人目で、やはりピンチの時には法学部から出て頂くのがいいようですね。
総長になられてからの先生のお働きは、大変多くいろいろなことがありますが、特に教育改革ですね。戦後の教育改革にいちばんの力を発揮なさったのが、南原総長であろうと思います。しかし実際には、東大は8月15日のあとしばらくは、電気、水道、ガスといったライフラインが不十分で、総長になられてからもその修復に苦労されたそうです。
最近PTSD(Post-Traumatic Stress Disorder)とよく言われますが、その当時は日本国中が、物質的にも大変でしたけれども、精神的にも国民は1億総PTSDだった。そういう中で南原総長が立ち上がって、まずは東京大学の中で学生や職員に(写真2)、さらに国民全体に対して、スピリチュアルなメッセージを送られた。
先生が総長時代に残されたご講演は「演述」と呼ばれました。演述集はいずれも本当にすばらしい論文ばかりです。その中で私が特に以前から注目しておりますのは、総長に再選されて間もない昭和24年(1949年)12月9日に、アメリカ国務省が共催して、首都ワシントンで、被占領国に関する全米教育会議が開催され、南原先生も敗戦国の教育関係者として日本を代表して招かれましたおりの、「日本における教育改革の理想」という演題のお話です。
これは読んでおりますと、とうてい日本が敗戦国とは思えない、格調の高い内容です。この会議には、イタリア、ドイツが欠席、あるいは講演をしませんでしたので、いわば第二次大戦の敗戦国を南原先生が代表するような形になりました。これを先生は1つの与えられた使命であって、日本全国の大学からのメッセージにしたいというお考えで、原稿の英訳を、当時一橋大学の経済学部長をしておられた上田辰之助教授に依頼されました。この上田教授がまた立派な方で、南原先生が個人的思い出も書いてもおられるのですが、徹夜をされて、2~3日ですばらしい英文の原稿を作られた。それをまた上田教授の紹介で一橋大学の講師であったホルムグレンという米国人牧師から、発音やイントネーションの指導を受けられ、何度も練習されて、講演に臨まれたということであります。 これを聞いたアメリカの教育学者から、日本はアメリカと戦争をして負けた国ではないのか。負けた日本にこんな立派な教育者がいるのかと、驚きの声があがり、その原稿が、アメリカの教育関係で最も権威の高い Educational Record という雑誌の新年号の巻頭を飾ったのです。
ワシントンの会議に出かけられる南原先生の写真(写真3)を見ますと、着ておられる外套の丈が少し長いように思われますが、実はこれは新渡戸稲造の遺品でありまして、高木八尺教授が譲り受けておられたのを借りて行かれたという。これは私の推測ですが、単にワシントンの冬が寒いからというのではなくて、若い時に、「我、太平洋の橋とならん」というアンビションを持って後年国際連盟事務次長として世界の平和に貢献した恩師新渡戸稲造の、いわば精神で武装して、ワシントンに乗り込まれたのではないか。そういう決意であったのではないかと考えるのです。 先生はこの講演の中でも、将来の講和条約の締結には、全面講和以外にはありえないと言われ、この教育会議が来るべき講和条約のプレリュードになること、さらに新しい世界秩序の創造に対しても、歴史的役割を果たすことを望むという、そういうお言葉で、最後を結んでおられます。そしてその会議の後に、ハーバード、コロンビア、イリノイ大学といったアメリカの有力大学を回られ、総長とお会いになって全面講和を説かれた。コロンビア大学の当時の総長は、大統領になる直前のアイゼンハワー元帥でありました。
それらの報道が日本に伝えられて、当時の吉田茂首相を烈火のごとく怒らせたようでありまして、「全面講和を叫んだ南原東大総長は、国際問題を知らぬ曲学阿世の輩で、学者の空論である」と、大変激しい論争に発展したようです。南原研究会で戦後教育改革の問題に関して詳しい法学部出身で建設省におられた山口周三さんによれば、中国の『史記』に「真理を曲げた学問によって、世におもねる」という言葉がありますが、南原先生は自分の説は曲げていない。吉田茂の間違った比喩の使い方である、と断定されているのですが、その通りと思います。
晩年の南原先生 もう時間がだいぶ追ってまいりました。今日は時の記念日ですから、時間を守らなければいけないと思いますが、もう少し続けさせて頂きます。
昭和27年(1952年)に東京大学総長を退かれた先生は、昭和36年(1961年)に郷里で心筋梗塞で倒れられましたが、本当によく養生なさいまして、昭和39年(1964年)には学士会の4代目理事長に就任されました(写真4)。こういった講演会を始められたのは南原理事長のご発案だったようです。昭和45年(1970年)には日本学士院の第9代院長にも就任されましたが、上野にあります学士院の建物は、先生の最後のお力で完成したとされております。 南原先生の主治医は東大の第三内科の冲中重雄教授で、私どもも学生時代習いました名医ですが、昭和48年(1973年)の秋に、南原先生は体がだるいと言って、当時虎の門病院におられた冲中院長を訪ねられました。胃の悪性腫瘍が疑われ、その段階ですでに貧血も高度で、手術は無理であるという結論でした。先生は「最後は自宅で死にたい。私は家で治療を続けたいと思う。私はこの病気が致命的であることを十分承知している。老人であるから、これ以上何かをして頂く必要はない。自然に任せたい。どうもお世話になりました。帰ります」と、親しい看護婦さんに伝えて、病院を去られた。
平成9年(1997年)11月、日本医師会の創立50周年の記念式典が行われ、やはり東大総長をなさった日本医学会会長の森亘先生が「美しい死」という題で記念講演をなさいました。膵臓がんで亡くなられたご自分の恩師である病理学者太田邦夫名誉教授の病理解剖に立ち会われて、無理な治療をしない、ある程度自然に任せるというのが品位ある医療であり、その結末が病理学者の目から見ても、美しい死であったという感銘深いお話でありました。そういう意味では、南原先生はご自身で決断をなさったということで、私は医師としましても、何も申し上げることはないという思いであります。 南原先生は医学教育に関して、たった1回だけ講演をされたことがありました。それは昭和25年(1950年)7月、アメリカから医学教育の専門家を迎えて日米医学者協議会が東大で開かれた時の挨拶であります。これを読んで先生が見事に核心を突いておられる、と思いますのは、医者の教育にとっていちばん大事なことは、人間教育である。いわゆるリベラルアーツの教育であるから、そういうことについても、よく日本の医学教育を見て頂きたい。医学は高いヒューマニズムの精神の上に哲学や宗教と固く手を握って進まねばならない、ということを言っておられるのです。最近医療事故等が多く報道され、医師・患者関係もおかしくなって医療不信が強まっておりますが、医師の人間性教育、そういった方面に今後はもっと力を入れる必要があると思います。
さいごに もう一度、先生の生涯あるいは教育に対する考え方を振り返ってみましょう。先生が最も大切に考えられたことは、人間性の確立、自主独立の精神、そして正義に基づく平和、特に国際平和ということです。先生が戦われた相手は、戦前はファシズムであり、戦後は米ソ二大大国の対立、核戦争でありました。
21世紀に私どもが戦わねばならない敵というのは、それとはまた別の次元で大変難しい手強い相手であります。地球環境問題、人口・食糧問題、あるいは貧困、経済格差、テロ、エイズその他の感染症等々、多種多様な重い課題ばかりであります。私どもだけでなく、後に続く次の世代がそれらを担って、解決してくれなければならない。そういう状況下で南原先生が残された精神、思想、あるいは特にその生き様が今こそ問われているのではないでしょうか。それを是非若い人たちに受け継いでいってもらわなければならないのではないかと、そんなことを毎日考えております。 何かまとまりのないお話となり、もっといろんなことがあるだろうと、ご忠告を受けそうでございます。間違っていればご訂正頂くことにいたしまして、これで終わらせて頂きます。 ご清聴、ありがとうございました。
(東京大学名誉教授・賛育会病院院長・南原繁研究会代表・東大・医博・医・昭34)
(本稿は平成17年6月10日夕食会における講演の要旨であります)
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