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学士会アーカイブス

歌舞伎の女形 永山 武臣 No.847(平成16年7月)

歌舞伎の女形
永山武臣(松竹会長) 平成16年7月(847)号

*———————-はじめに———————–*

【永山】 本日は歌舞伎のお話をというご依頼を賜りましたが、私が歌舞伎の話を申し上げるより、雀右衛門さんに来ていただいて、雀右衛門さんの女形がいかにしてできあがったかというお話を直にお聴きいただいたほうがよいと思いまして、歌舞伎座の支配人である大沼さんにも聞き役として来ていただきました。大沼さんは昭和46年に東大の文学部を出ております。
  異例かもしれませんが、まず、私がお話をいたしまして、次に雀右衛門さんにお話ししていただき、最後に雀右衛門さんと大沼さんに歌舞伎の女形について座談をしていただくかたちで進めたいと思います。

*——————-変わらないものをめざす———————–*

 私は誠に幸運と申しますか、一度も試験を受けたことがございません。幼稚園は学習院の幼稚園で、入園試験はございませんでした。当時は青山にございまして、女の子と一緒でございました。初等科1年から6年を終えて、中等科にそのまま上がり、高等科2年間もそのまま行きました。そして京大の経済に入りました。時代が時代でございましたので、どうせ大学に行っても勉強にはならないと思い、試験も受けないでおりましたら、豊橋の予備士官学校に入れとすすめられ、昭和20年8月1日に豊橋の予備仕官学校に入り、伍長になりました。6日ぐらいで何もすることがなくなりまして、30日には疎開先に帰りました。
  10月に京都大学にまいりました。私は真如堂という紅葉のとても綺麗な素晴らしいお寺の中にある喜運院の離れを2間借りて、そこから吉田山を越えて吉田神社を降りて、京大に通ったのでございます。
  京大経済学部に進み、一所懸命勉強しようと思ったのですが、大学に行きましても、「きょうは共産党の集会があるから来い」とか、「きょうはどこそこで集会があるから来い」ということで、私は、いったいなぜこんなにも世の中が変わってしまったのかと思ったんですね。たった2ヶ月の間に、なぜ共産主義ばかりがこんなにもてはやされて、従来から日本にあったものがもてはやされないのか、ひと冬真如堂に立てこもり、誰とも話しもせずに考えました。「そうだ。こんなに世の中が変わるのだったら、変わらないところで行こう」、「変わらないところは何だろう」と考えに考えて、思いついたのが歌舞伎でございました。

  そのとき、私は「歌舞伎は変わらない」と思ったのです。実は私の母が歌舞伎好きでございまして、昭和12年の『仮名手本忠臣蔵』を歌舞伎座でやりましたときに、私は3円50銭の2等席を2枚買い、母と一緒に4時開演の『忠臣蔵』を観に行きました。花道のすぐ側の席でした。歌舞伎については、なにか勘のようなものがあったのですね。

*———–歌舞伎と私 ──大谷会長の教え—————–*

 私はのちに松竹に入り、やがて監事室で一日中芝居を観ている社員になりました。監事室というのは東劇の客席最後方右側の上手のほうにある、大谷竹次郎さんがご覧になる部屋でした。
  あるとき学習院で1つ年上だった三島由紀夫さんが、私が松竹に入っているのを見て、「永山、お前、どうしたんだ。野球と柔道しかやらない男がなんでこんなところにいるんだ」とびっくりされ、実は松竹に入って、歌舞伎をやるんだと言いますと、「へえ~。どうしてお前が歌舞伎なんだ」と重ねて驚かれたので、「歌舞伎をやると決めたんです」ときっぱり申しました。

 松竹入社時に、私は大谷さんにも「歌舞伎をやります」と申し上げました。大谷さんが、「永山くん、歌舞伎を本当にやるんだな」と念を押され、「本当にやります」と答えますと、「それならば2つのことを君に言う。1つは絶対に嘘をつかないでくれ。2つ目は役者にいっさいおべんちゃらを言うな」と、その2つだけを言われて、松竹に勤めることになりました。私から大谷さんには、「私は切符売りは一切いたしません。舞台の制作だけさせていただきたい」とお願いいたしました。そういう経緯を三島さんに説明しますと、「ふうん、そうか」と納得されたようでした。

 大学を卒業する半年前の昭和22年の10月、大学はもう試験だけ受けにいけばいいので、私は夜警として東劇に入りました。夜警というのはなかなか怖いもので、芝居が賑やかでざわめいていた劇場も、お客が帰り、シーンとしています。夜、真っ暗ななかをずうっと3階まで上がって、懐中電灯で照らしますと、馬の首があったり、人間の首があったり、そういうなかを回るわけです。東大生が3人と京大生が1人、半年間夜警をやりました。そして監事室に入り、大谷さんに先ほどの2つのことを言われたわけでございます。
  東劇が3年、歌舞伎座が8年、監事室というところに11年おりまして、芝居を毎日観て、そこに現れる久保田万太郎さん、吉井勇さん、大沸次郎さんら作家の諸先生、山口蓬春さん、前田青邨さんら絵描きの先生、皆さんにつかわれて私は演劇の制作の勉強をいたしました。

*———————–制作部門へ———————–*

 歌舞伎座に斎藤さんという名支配人がおりました。戦争中の新橋演舞場、東京劇場と昭和26年にできた歌舞伎座まで、ずうっと支配人だった斎藤さんが、昭和33年に制作にまわることになり、7月に第一劇場で斎藤さんの初めての制作で歌右衛門さんが『四谷怪談』をやることになりました。ところが役納めを全部すませた10日の日に斎藤さんは亡くなってしまいました。そして13日か14日には歌右衛門さんの奥さんが亡くなられ、『四谷怪談』というのは本当に怖いものなんだと、本当に大変なものだと、私はつくづくそのときに思いました。ですから、『四谷怪談』をやる前には必ずお参りに行くことになっております。

 8月から私も制作に行くことになっておりましたが、突然上司がいなくなってしまった。制作する主な人がいなくなったわけですから、私は大谷会長に直に、役納めというものはどういうものか、俳優さんというものはどういうものか、半年にわたり教えていただきました。幸い歌舞伎座の監事室におりましたから、俳優さんは全部存じあげておりました。
  11年間制作をやりますうちに、今度は誰も私の上がいなくなって、私は42歳で、たった一人の演劇の役員になりました。そのときに川口松太郎さんが東宝の菊田一夫さんや演劇界の方々、そして五島昇さんとかいろんな大先輩を呼んで、お祝いのパーティを開いてくれて、「若くして高廈にのぼる者は災い多し。どうかこの永山くんが将来立派に育っていくようになってもらいたい」という名演説をしてくださいました。
  翌年常務になりまして、昭和44年に今の団十郎を新之助から十代目市川海老蔵にしたり、48年には菊之助に七代目尾上菊五郎を襲名させたりいたしました。その間、昭和35年から歌舞伎の海外公演が企画されまして、大谷さんの代わりに松尾國三さんが団長代行、私が事務局長になって参りまして、アメリカにふた月、初めて歌舞伎の公演をすることになって、そこから海外公演が増えていったわけです。

 そんなことで振り返ってみますと、私は本当に試験に関しては全く苦労がない、幸せな男でございます。何だかいつのまにか常務になり専務になり副社長になり社長になり、とうとう会長になって現在があると、こういうわけでございます。
  本日は雀右衛門さんに、歌舞伎の女形ということでお話をしていただきたいとお願い申しましたところ、お引き受けいただきました。ここに飾りました写真は1月に雀右衛門さんが歌舞伎座でなさいました『鎌倉三代記』の時姫の写真でございます。
  では雀右衛門さん、お願いします。

(松竹会長・京大・経・昭23)

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【中村雀右衛門】

*—————–思いがけず女形へ———————–*

 雀右衛門でございます。女形の雀右衛門とおっしゃっていただくと大変ありがたいのでございますけれども、私はもともと大谷友右衛門という錦絵にもございます立役(男役)の家の子供でございまして、父は六代目大谷友右衛門と申しておりました。ですから私は子供のころ、自分が女形になるとは夢にも思いませんでしたし、まことにヤンチャで、家の周りも学校も楽屋の中も駆けずり回っているような子供でございました。それがたまたま歌舞伎の舞台に出していただくようになりまして、五世歌右衛門、初代鴈治郎、十五代目羽左衛門、六代目梅幸、二代目延若、六代目菊五郎、初代吉右衛門、七代目中車さん、ほかにも名優がたくさんいらっしゃいました時代に、それぞれのお芝居で私は子役として使っていただくようになってしまいました。

 父は父なりに、子供を普通に育てたいと思いましたようで、暁星のほうへ私を入れてくれましたが、舞台に出る数が多うございますので、学校へ行って勉強をする時間がございませんでした。その当時は親切な先生が楽屋まで鞄を持っていらして、「これはこうだよ、ああだよ」と教えてくださることもございましたが、何しろ舞台が忙しくて勉強する時間もございませんでした。がむしゃらに悪餓鬼で育ちまして、ボクシングはいたしませんでしたが、運動は何でも、スキーもスケートも、たいがいやりました。喧嘩は負けませんでしたし、なかなかのヤンチャでございました。
  あるとき自動車の運転をしたいと思いまして、ポケットマネーを貯めて、自動車の運転をすることになりました。18歳でございました。その当時は芝浦の広っぱで、「真っ直ぐ」「前進」「後退」「ぐるっと回って」「車庫入れ」「オーケイ」と、こんな調子でございました。暁星ではフランス語を少し齧りまして、フランス語の映画を観ると嬉しくてしょうがなくて、その当時の帝劇はフランス映画の専門劇場みたいでございましたので、学校へ行かないで、帝劇にばかり行っておりました。切符売り場では私の名前がわかっているものですから、「坊ちゃん、また来たの。いいんですか、学校は」とよく言われましたが、「はい」と言って観ておりました。

 19歳のときに召集がまいりまして、自動車隊で外地へ行くことになりました。行く先もわからないまま芝浦から船に乗せられて、まず、孫文の生まれました香山の周辺で10日間ほど自動車訓練を受けまして、ベトナムへ流されて行きました。あとはどんどん、どんどん流されて、タイからマレーシア、マレーシアからシンガポール、シンガポールからスマトラへと渡りまして、日本へ帰ってまいりましたのが6年後の21年の暮れでございます。やんちゃな子供が外地へ行ってムチャクチャをやってきたわけでございますから、帰ってまいりましても、にっちもさっちもいかないような状態でございました。父親は亡くなっておりましたが、母親はこよなく私を愛してくれまして、母親の英知というか力添えのおかげで、もう一度歌舞伎役者に戻ることができました。

 そのときに拾ってくださいましたのが、今の松本幸四郎のお祖父さま、七代目松本幸四郎でございました。息子さんが長男は団十郎(十一代目)になり、次男は吉右衛門(初代)の婿になって八代目幸四郎になり、三男は六代目菊五郎のところで二代目松緑の名前を貰うというようなことを、全部プロデュースした方です。この方は温厚な方でございましたし、私を可哀相に思い、拾ってくださったのだと思います。
  その当時、私は(大谷)広太郎と申しておりましたが、当時は歌舞伎座も明治座もございませんでしたから、三越のホールと東劇と演舞場の3カ所で公演をしておりました。いま申し上げました名優の方たちがきら星のごとくいらっしゃる時代でございましたし、休演も多かったので、「申し上げまする」の腰元にしても、「なんでござる」の案内人にしても、私たちが出していただくような役はなかなかございませんでしたが、私はいろいろ取り立てていただいて、三越ホールで『毛谷村』のお園という役をいただきました。

 これまでお話いたしましたとおりの男でございますから、女形をやるといいましても、何にもできないのです。右を見ても左を見てももう無に近いのです。歌舞伎の先輩たちが事細かに教えてくださるのですけれども、1を教えてくれて、2を教えてくれて、3、4、5、と教えてくださるのですが、1と2の間はどうしていいのかわからない、3と2の間はどうしたらいいのか、4と5の間はどうなのか、わからないことづくしで女形になりまして、ただただどうやってやらせていただいたのか、未だにわからない舞台がございます。

 一つの例でございますけれども、『毛谷村』のお園は、男の姿に身をやつして仇を討ちに行こうという人ですから、虚無僧の恰好で登場いたします。天蓋を被り尺八を持って高い下駄を履いて、バッサバッサと歩いて花道から出ていくわけでございます。所作舞台と申しまして、舞台の上に台が置いてございますが、そのときは滑りのよさそうな所作舞台が花道に敷いてございました。ドサドサ出ていくつもりでございましたのに、ガタガタ、ガタガタ、音がするのでございます。何でガタガタ音がするのかなと思っておりましたけれども、天蓋を被っておりまして前は見えませんし、横もわかりません。自分の顔を下にして自分の足を見てみますと、自分の足がガタガタ、ガタガタ震えているのです。何でこんなに震えているのかと思いましたのですけれども、浅はかなものでございまして、女形として舞台に出た経験のない者が経験のない仕事をしますと、そのくらい衝撃が伝わってまいりまして、もう一幕中ガタガタいっておりました。

 女形になりました最初のときは、皆さまもそんなようなことだったと思うのですけれども、私は特に立役として育てられていまして、戦後になりまして急に女形をやることになりました。歌舞伎の家は先輩なり親たちが「お前はこうだよ」「お前はこうだよ」とみんな決めてくれるわけです。自分から女形になりたいとか、自分から立役になりたいというようなことはほとんど申しません。今後はわかりませんが、私の時代はそうでございました。私は立役の多少の体験がございましたけれども、子供のころですから大したことはございませんし、19~21までの、いちばん勉強するべきときに外地にいて何もしていないわけでございます。それが初めて女形になったのでございますから、それはとてもではありません。女形はどうしたらいいかということで、できるだけ先輩に付いて教えを乞うておりましたが、何しろ元が全くございませんでした。
  大先輩の六世梅幸さんは『梅の下風』という女形のことを書いた本を出していらっしゃいまして、その中に指の使い方について、絵を入れながら説明していただいているのです。指の使い方というのは、人さし指で指すのに、こう指を反らして自分を指しますと、これは若い女の表現だと。手の横を使いましてこうすると中年の女、こうしますとお婆さんだと、図に出して芸のことを記していらっしゃいます。歌舞伎のことでございますから、猫になったり鼠になったり狐になったりいたしますので、猫とか犬とかの指の使い方もそれぞれ違うわけでございます。

*———-女形の型をなぞり、心をこめる————-*

 そんなこんなで、歌舞伎の舞台に戦後出していただけて、ご先輩の言葉で女形になりましたのでございますけれど、今度は女形として心を出すということがなかなかできませんで、どういうところに女形の気分というのがあるのかなと、ずいぶん考えましたけれど、なかなかわかりませんでした。

 結局、いろいろなお役を付けていただいて、舞台で演じてみるわけですけれども、できません。芳沢あやめという昔の役者が普段から生活上でも女の真似をしていたというようなこともございます。女の方を観察してそのようにやれば少しはいいかなと思って、女のようにやりましたら、そこはお目障りはあるのでしょうが、何とかそれらしくいきました。しかし、それが少しずつでも順調にいけばいくほど、「何だ、あれは。女の真似をしているんじゃないか。女優と同じだよ」というお言葉が出て、10年ぐらいそういうふうに怒られた次第でございます。そのうちに、だんだん自分の心の中にその役の心柄を温めておりますと、自然とそういう気分になってまいりました。

 1つの礼儀として、歌舞伎では朝初めて会った人に「おはようございます」、帰りは「お疲れさまでした」と申します。昔は明かりがございませんでしたから、明るいうちに小屋を開けて舞台をつとめて、終わるころにはもう夜になっておりますから「お疲れまでした」と帰るわけです。それが習わしになりまして、今ではどんな芸界でも「おはようございます」「お疲れさまでした」というようになったのでございます。
  朝から一所懸命やっておりましたも、なかなかそういうものが身につくということは難しいことでございまして、まして人の心を女形として表現するということになりますと、これは並大抵のことではございません。やはり歌舞伎でございますから、先輩からいろいろな型を教わりまして、その型どおりになぞるのですが、なかなかなぞってもなぞりきれないということが多いわけでございます。
  なにしろ女形というものは心を皆さまに提供して、何かを感じていただくということでして、立役もそうでございますけれども、女形は特にそういうことでございます。また相手の役の方に自分の気持ちを投入して感じてもらうには、自分がどれほどの努力をしてどれほどの気持ちになっていったら、向こうに感じてもらえるかなという、そういうようなことも繰り返し繰り返しやっているうちに、少しずつわかってまいりました。でも、皆さま方と違って聡くございませんから、あちらに当って「痛い」、こちらに頭をぶつけて「痛い」、ということばっかりの連続で何十年か過ごしてしまったわけでございます。

*———-先輩の教えを課題に推進————-*

 女形というものは、女の真似ではございません。女の真似をして綺麗な方はこの世の中にいくらでもいらっしゃいますし、またそういう職業で成り立っている方もたくさんいらっしゃいます。ですけれども歌舞伎の女形というのは、ただ女と紛うばかりではだめでございまして、そういうものがプラスしている分にはよろしいのですけれども、見た目も美しく生まれて、立ち居振る舞いも優しいというようなことは、それはひとつの先天的なものでございますから、あったほうがいいかもしれませんけれども、でもそれだけでは歌舞伎の女形はつとまりません。なんとかそこを探求してというと大変難しいのですけれども、いろいろなお役をいただいて、あとから探っていくうちに、何となくそれがわかってまいります。それをご説明申し上げてもなかなかやっていただくわけにもいきません。そういう点では、いろいろな体験が私を今日にしてくれたのだと思います。
  それは私の場合には、先輩が全部教え込んでくれたことを、自分がどれほどにいま活かしているかということにかかっておりまして、私はまだたくさん課題を持っておりますので、これからいくつ回答が出るかわかりませんけれども、できるだけ先輩にいただいたものを、こういうふうに課題を出して皆さまに見ていただいて、少しでも何かを感じていただけるような女形になれればいいなと思っております。

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*———立ち居振る舞いからの女形修行————-*

【大沼】 どうもありがとうございました。今のお話を伺いますと、雀右衛門さんはとにかく戦争からお帰りになる前の若いころは、男役だとずっと思っていらっしゃって、女形になるなんて夢にも思っていらっしゃらなかったのですか。
【雀右衛門】 はい。
【大沼】 それが、七代目幸四郎さん、『勧進帳』で大変有名な、弁慶を千何回も演じたという方に「女形になれ」と言われたわけですか。
【雀右衛門】 そうなんです。なんでそんなことをおじさまがおっしゃるのかわかりませんでしたけれども、「はい」と言いました。
【大沼】 やはり、どこかそういう素質をお持ちであるというふうに見抜かれたのでしょうかね。そのときに、「女形になってもすぐにはモノにならないよ」とおっしゃったと伺っておりますけれども……。
【雀右衛門】 それはそうでした。「お前、女形にこれからなるんだけど、俺の鞄持ちをして一緒に歩けよ」と言われまして、鞄持ちをして歩いておりました。そのときに、「ちょっとそこに鞄を置いて、座ってごらん」、「今度は立ってごらん」、「もう一度座ってごらん」、「スッと前を歩いてごらん」と言われます。歩きますと、「今度は横向いて、向こうへ行ってごらんよ」と。  「それはまだ女形になっていないから、できないだろうけど、そういう気持ちを持ってもう一度やってごらん」と言われまして、立ったり座ったり歩いたり、ぐるっと回ったり、いわゆる立ち居振る舞いの修行ですね。24時間中、日常茶飯事のしぐさを全部、教育をしてくださいました。お茶を出すと、「その手はなんだ」と怒られたこともあります。そんなこんなで、日常茶飯事の所作動作を指摘してくださいました。私はヤンチャでございましたから、「女形なんて嫌だよ」なんて言っておりましたのが、言葉遣いも「左様でございますか」というように努めました。
【大沼】 日頃の心掛けがやはり大事なんでしょうね。
【雀右衛門】 そうだと思います。俳優さんというのはみんなそうだと思いますけれども、どの分野の、どんな方であっても、この方はこうじゃないかな、あの方はああじゃないかなと観察をするんですね。これをスケッチと申します。でも歌舞伎の女形は、今の綺麗なご婦人をそのまま真似をしたのでは務まりません。私はそのまま真似をしたものですから、「あれは女形じゃなくて女の真似だ、女優だ」と言われたわけでございます。でも、それも1つの方法で、ただそれが主体になってはいけないのですね。女形にとって優しいということは必要ですし、優雅であることも必要ですし、綺麗であることも大切なことなのですけれども、それをいかに心のこもった人間像にしていくかということだと思います。難しいことですけれども。

*——先輩に教わった役は教わったとおりに演じ遂げる——*

【大沼】 具体的に言いますと、さきほどの『毛谷村』のお園という三越劇場で大変評判になったお役は、どのお方にお習いになったのですか。
【雀右衛門】 それは中村錦之助(萬屋錦之助)さんのお父さまの三代目時蔵さんです。
【大沼】 たとえば『毛谷村』のお園ですと時蔵さんにお習いになって、また三代目中村梅玉さんにもお習いになりましたね。
【雀右衛門】 そうですね。『吃文』のおとくなんていうのは梅玉さんから教えていただきました。
【大沼】 やっぱりお役をいただくと、そういう先輩の女形さんのところでお習いになるのですか。
【雀右衛門】 そうです。必ず先輩のところへ伺って教えをいただくわけです。教えをいただきましたら必ずそれをやり遂げるということです。
【大沼】 変えてはいけないのですか。
【雀右衛門】 ええ。自分が拙いとか、能があるとかいうことで、その役を歪めたりすることはいけないのです。
【大沼】 きちんと教わったとおりにやらなくてはいけないのですね。
【雀右衛門】 ええ。そのうちに自分に力がつけば、ここは誰それ流だから、少し変えてみてはとかいうことは出てくるかもしれません。でも、それはなかなか……。
【大沼】 初めは絶対にそういう勝手なことはしてはいけないわけですね。
【雀右衛門】 よほどの秀才でないと……。
【大沼】 そうですか。いちばんお習いになった先輩はどなたでしょうか。
【雀右衛門】 私はまことに幸せでございまして、私の父の六代目大谷友右衛門は五代目中村歌右衛門のお弟子さんでございまして、ご縁が深いんです。ですから、この間亡くなりました六代目歌右衛門さんとは私も大変ご縁が深くて、当時大阪で大役をさせていただきますときには、何もわかりませんので東京まで飛行機で戻ってまいりまして、歌右衛門さんに教えていただいて、そのまま、またとんぼ返りをして帰って、教えていただいたものを持って稽古を務めるというようなことを10年間ぐらいしておりました。
【大沼】 大阪に10年間ぐらいいらして、その間に市川寿海さんのもとで、相当いろんな大役をなすったのでしょうね。
【雀右衛門】 そうですね。それで、現在なんとかやらせていただく素地をつくっていただきました。
【大沼】 寿海さんは関西にいらしたけれども、どちらかというと、江戸の方ですね。
【雀右衛門】 江戸出身の俳優さんですから、江戸好みのお芝居ですね。
【大沼】 逆に関西には、そういう江戸好みの芝居ができる女形さんというのは少なかったのでしょうか。
【雀右衛門】 その当時は、東京からもずいぶん女形さんはいらっしゃいますから、少ないということはなかったと思いますけれども。私は何もできない男でしたから、純粋にいろいろ叱ってくださって、曲がったものを真っ直ぐにするとか、真っ直ぐにしたもの少し矯めて柔らかくするとかいうことは、寿海さんのお陰でやらせていただいたのです。寿海さんのおじさまも何もできないところが却っていいかと思ってくださったと思います。
【大沼】 その関西での10年間というのは、今の雀右衛門さんにとっては大変な芸の肥やしと言いますか、蓄えになられたのですね。
雀右衛門 そうですね。さっきもお話しました五代目歌右衛門、十五世羽左衛門、初代吉右衛門、六代目菊五郎、六代目梅幸、七代目松本幸四郎、二代目左団次……。
【大沼】 きら星のごとき名優ですね。
【雀右衛門】 きら星のごとくいらした方たちにお目に掛かれて、ご一緒に舞台をさせていただいたことが、私にとっては宝でございますし、誇りでもございます。
【大沼】 子役の目から見たそういう名優たちというのは、皆さんそれぞれ違う個性をお持ちなのでしょうか。
【雀右衛門】 違いますね。十五世羽左衛門なんていう方は本当に素敵でしたね。今風というか、スッっと様子が良くて、キレが良くて、お声も素晴らしかったし、とてもハンサムで素晴らしいと思いましたね。それから、二代目左団次という方は、「大統領」という声が掛かるぐらいですから、本当に立派な男性でしたね。こういう人がお父さんだったらどんなだろうかと思ったぐらいでした。
【大沼】 五代目歌右衛門さんは?
【雀右衛門】 奥の深い、柔らかくて、上等な方でしたね。それでいて、タキシードなんかをお召しになったのを拝見したことがありますけれども、とってもよく似合うんですよ。
【大沼】 歌右衛門さんとはどんなお役でご一緒になったのですか。
雀右衛門 私は『先代萩』の千松をやりました。
【大沼】 毒饅頭を食べる役ですね。
【雀右衛門】 そうです。これはお笑い種ですけれども、『先代萩』のなかで、毒が入っているというので試しにご飯を炊いて、それを千松に食べさせ、結果どうだと毒味をさせるわけです。板の上に小さなおにぎりが2つ載っかっておりまして、「食べなさい」と言われると、いただくわけです。ちょっと塩味が付いているおにぎりが美味しいので、最初の3日間ぐらいはどんどんいただいていたんですけれども、子供ですから、4日目ぐらいになると、「また、おにぎりか」と思いましてね。これはちょっと嫌だなと考えちゃっていると、「食べなきゃだめだ」と言われましてね。食べるんですよ。おにぎりばっかりじゃ可哀相だなと思し召して、中に餡をちょっと入れた道明寺のお菓子を、おにぎりに真似てつくってくださったんです。それはまた美味しかったので、どんどん食べちゃって、「はやすぎるよ」と言われて怒られたことがあります。3日ぐらい食べたら、「また、道明寺か」とまた飽きちゃって、食べるような顔をして、そっと出しちゃったんです。そうしたら政岡が側へ寄ってきて、台詞と同じような声で「食べなきゃだめじゃないか」って。そんなことがございました。
【大沼】 初代鴈治郎さんという方は?
【雀右衛門】 私が見たのは『八犬伝』のだんまりで出てくる犬山道節という役でしたが、扉を開けて出てきますと、子供心に、扉中が顔みたいに思いました。そのぐらい大きな感じがする方でした。その次に『河庄』の治兵衛を見ました。ほおかぶりをして花道に出てきて、トトトッとたたらを踏んでパッとかぶりをとる。東京にはない、市村羽左衛門や菊五郎や吉右衛門にはないような、とても上方風の何ともいえない柔らかみがございました。子供心に、「へえ、あの人がこんなになるの」と思ってびっくりしたことがございます。
【大沼】 二代目の実川延若さんという方も大変な役者さんで……。
【雀右衛門】 ええ。延若さんは体の立派な方でした。『盛綱』で、私は子供で出たんですけれども、ああ、立派な方だなと思ったんです。そのあとで、『西郷と豚姫』というので女形になられて……
【大沼】 お玉という大変に太った女の役ですね。
【雀右衛門】 仲居のお玉ですから、太っているのは別にいいんです。何ともいえない色香が漂うというか、色っぽい、それでいて優しげな女の人を感じましたね。
【大沼】 その他、六代目菊五郎さん、初代吉右衛門さんとか……。
【雀右衛門】 六代目菊五郎という人はまた名人でしたから、何でもやりこなしました。特に印象に残っておりますのは、立役のほうはもちろんよろしいいのですが、女形で『道成寺』を踊りますときには、私はしょっちゅう坊主の役で出ておりましたから、そのほうでは私は家元でしたから……(笑)、もう年がら年中六代目さんの『道成寺』を拝見していて、その当時は立役が志望でしたが、「僕も大人になったら『道成寺』を踊ろう」なんて思って拝見していましたね。
【大沼】 『盛綱陣屋』というお芝居の小四郎という子役は大事な役ですよね。それを何回もやられて、そのたびに十五代目羽左衛門さんとか、初代吉衛門さん、鴈治郎さんと共演されたわけですが、それぞれみんな違うのですか。
【雀右衛門】 違いますね。お芝居は子供なりに拝見していて、この方はこういうふうにするのかなと。役者の子ですから多少普通の方よりわかるんですね。舞台も変わります。
【大沼】 十五代目羽左衛門さんなんかの場合ですね。
【雀右衛門】 羽左衛門は軒のある高い屋台の陣屋です……。東京は吉右衛門もそうですね。
【大沼】 鴈治郎さんは違うのですか。
【雀右衛門】 鴈治郎さんは平舞台です。大きな御殿の中になっているんです。
【大沼】 それは今では珍しい演出ですね。
【雀右衛門】 そうですね。
【大沼】 でも、それだけの名優さんにお付き合いになった子役さんというのは、本当にいらっしゃらないのではないでしょうか。
【雀右衛門】 そうだと思います。いっこうにうだつが上がりませんけれども、ただ、そういう体験をさせていただいたということは誇りに思っております。

*—————–女形としての心掛け—————*

【大沼】 女形さんになられて、さきほど、日頃からの訓練というお話でしたけれども、舞台の上での女形の芸の大切なことといいますか、さきほど心のことをおっしゃいましたけれども……。
【雀右衛門】 それはもちろん、袖の扱いだとかいろいろありますけれども、それは形でございますしね。お姫さまだったらこのへんとか、町娘だったらこのへんとか、指と同じでいろんな袖の扱いがございますけれども、それはものを進行させていく上の1つの動きでございます。やはり心でございましょうね。
【大沼】 ここに飾ってありますのは、先月の時姫ですね。これは歌舞伎の中でも三姫と言われる難しいお姫さまの役の1つですよね。『本朝廿四孝』の八重垣姫、『金閣寺』の雪姫と、この時姫の3つがお姫さまの中にでも特に難しい役と言われております。これを雀右衛門さんはこの2~3年で立て続けになさいましたね。
【雀右衛門】 はい。それは前から先輩に教えていただいて何回か重ねてはおりますけれども、この一月にやらせていただきました時姫がいちばん大変でございました。
【大沼】 時姫がいちばん難しいのですか。
【雀右衛門】 役は3つとも大変なのです。八重垣姫がなぜ大変かと申しますと、何も知らないお姫さまなのです。事件も何もわからない。あとでご自分が事件の中に入って兜を持っていくというだけですから、何も知らないお姫さまというのはいちばん難しいんですね。何か点がありましてそこへ寄るということはできますが、あの人が嫌いとか、この人は好きとかいうことはできますけれども、そういうことが全くありませんから、ひたすら亡くなった勝頼に向かってこうして拝んでいるという純真なお姫さまですから、表現のしようがないんですね。ひと通り歌舞伎の表現で、袂を持ってこうやるとかいろんなことをやりますけれども、それはそれだけのことでして、大して心を表しているというわけでもないんですね。
【大沼】 特に八重垣姫は最初、お客さまに背を向けていますね。そういう意味でも難しいお役なんでしょうね。
【雀右衛門】 全体に難しゅうございますね。何にもできませんから。「あなた好きよ」とか、「嫌いよ」とか言えませんし、こうやって見て「いい男」とか「悪い男」とか、何もできませんしね。
【大沼】 もう居るだけでお姫さまに見えないといけないと……。
【雀右衛門】 おっとりと、こうやっているだけでお姫さまだと。たまたま自分の恋人とよく似た人が現れて、そこでちょっと心が動揺するわけですけれども、それにしても普通の町方の娘が動揺するのとは違いますから。
【大沼】 深窓のお姫さまですからね。
【雀右衛門】 ええ。それでいて結構、お姫さまといいますから内輪にものを言っているかと思うと、浄瑠璃の世界ですから、大変な間近なことをおっしゃるんですよ。
【大沼】 積極的ですよね。
【雀右衛門】 それはもう、すぐにでも着物を脱いでオーケイですよ……みたいな、浄瑠璃の世界では、そのくらいのことをまことに楽しんで浄瑠璃作者は書いていたのだと思います。町にいるお嬢さんとか娘さんとか、あるいは御殿につとめている人たちをひっくるめて、女の人というのを庶民にわかりやすく楽しめるようなお姫さまを書いたのが浄瑠璃の作者だと思いますね。
【大沼】 こちらの時姫も10代ですよね。本当に若い娘ですけれども、雀右衛門さんは舞台で本当に10代に見えるから不思議だと思います。
【雀右衛門】 とんでもない。あれは加工品ですから、いい加工をしてあれば、何とか誤魔化せるんですけれどもね。歌舞伎座という大きな器がありまして、衣裳とか鬘とか、照明、そういうことがとても大きな力になりまして、それによって女形が綺麗に見えるか見えないかは絶対にあると思います。
【大沼】 衣裳や照明で綺麗に見えるということは確かにあると思うのですが、やはり「お姫さまに見える」ということは外だけでなくて、体の中から……。
【雀右衛門】 もちろん役者の心掛けが悪ければ、いかにいい衣裳を着せていただいて、綺麗に顔をつくって、いい頭をかけていても、やっぱりそうは見えないかもしれませんですね。
【大沼】 七代目の幸四郎さんが「女形は60にならないと」とおっしゃられたそうですが……。
【雀右衛門】 私の場合は、ですよ。なにしろ私は27歳から、初めていろはのいの字を書き始めたものでございますから、推薦してくださった七代目松本幸四郎にしても、「そういうふうに言ったけど、こいつは60にならなきゃ形にならないだろうな」と思し召したのだと思います。でも私はそのときは若かったので、60になるまでというと、これから何十年……どうして生きていくのかなと、そういうことを先に考えたぐらいでございますよ。
【大沼】 女形さんは体の上では、たとえば背中のほうに肩甲骨がありますけれども。
【雀右衛門】 だいたい女形というのは、背中の肩甲骨をこうつけるようにして、肩を下へ落とします。そうしますと、いかり肩の方でも線がこう降りますね。
【大沼】 苦しいですよね。
【雀右衛門】 それは苦しいです。そして、なおかつ腰を入れて、足は内股にしますから、たいへん変な恰好の労働でございますね。
【大沼】 その上、衣裳も鬘も重いですね。
【雀右衛門】 ええ。重いのになりますと40キロくらいあります。
【大沼】 何がいちばん重いですか。
【雀右衛門】 揚巻の衣裳がいちばん重いですね。
【大沼】 『助六』の揚巻ですね。
【雀右衛門】 ご承知の五節句と申しまして、節句の5枚の衣裳を着るわけでございますから、それはとても重うございます。
【大沼】 何キロぐらいあるのでしょうか。
【雀右衛門】 そうですねぇ。全部入れると50キロ近いのではないですかね。
【大沼】 慣れないと、鬘が大変に痛いそうですね。
【雀右衛門】 重いですね。慣れた人が私の頭に合わせてうまくつくってくれるといいんですが、ただ被っただけでは危ないんですね。後ろにひもが付いておりまして、これで結ぶわけです。それだけではまだ隙間といいますか、余裕がありますから、歌舞伎の言葉で言うとコミと申しますが、パッキングをこっちとこっちに入れるんです。そうするともう動きません。首筋と背中に力があれば、どんな重いものでも平気です。
【大沼】 揚巻の場合には、じっとしていますね。もし鬘が合わなかったら大変に頭が痛くなりますね。
【雀右衛門】 ええ。ですから、私たちの場合にはそれも十分注意しておりますのでそういうことはございませんけれども、長控えすると申しまして、揚巻の後ろに座っていますあの人たちはまあまあ経験がある人がやるわけですけれども、なかには未経験の人もいるので、いいと思って被っているうちに、だんだんだめになってきますね。なかには引っ込んじゃう人までいます。
【大沼】 辛くて、ですか。
【雀右衛門】 ええ。そういうこともございます。
【大沼】 さらにそこに高い下駄を履いておりますね。
【雀右衛門】 そうですね。面白いことに、八ツ橋でも揚巻でも道中をするときは、息杖と申しまして、若い衆の肩に手をちょっと乗せるんです。それでずいぶん助かりますし、こっちへ回転しようとするときはリモコンみたいにちょっと合図をすると、体がこっちにズーッと来ます。それはああいう正装をしたときだけのことでして、部屋着を着て歩いているときは、ほとんどありませんね。
【大沼】 そうすると、本当に体をお大事になさらないと、女形はつとまらないですね。
【雀右衛門】 そうですね。

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*—————-女形の完成点——————–*

【永山】 本当に60になったときには、女形になれたとはお思いにならなかったですか?
【雀右衛門】 思いません。今でもまだまだだめです。そう思わないでください。できないと思って生きているわけですから。
【永山】 そんなことはないでしょう。
【大沼】 先々代の藤間勘十郎さんですか、「女形は内臓を動かさなくてはいけないと……。」
【雀右衛門】 そうなんです。女形と申しますのは、いくら立っていても色気はないんですけれども、ここの中が動きますと、自然とこう優しげな、たおやかな風情が漂うと申しますか……。腰もそうです。それは決して実際の女の方がこんなふうに動かしているわけじゃないんです。それは女形だけの発明……でしょうか。
【大沼】 舞台を拝見していても、なかなかお客さまは気がつきませんよね、そこまでは。だけれども、そのように見えているというか……。
【雀右衛門】 ですから、あんまりそんなところは気がついていただくと困りますけどね。
【大沼】 そうしないと、女の方のようには見えないということなんでしょうかね。
【雀右衛門】 そうでございますね。
【永山】 雀右衛門さんがおっしゃるとおり、七代目幸四郎という方は本当に偉い方だったと思います。今度、新之助が海老蔵を襲名いたしますね。これも長男団十郎、昭和の海老様と呼ばれ、戦後の歌舞伎の元をつくった方です。そして次男を幸四郎にし、三男を六代目のところに預けて松緑にし、そして雀右衛門さんの女形をつくった。雀右衛門さんは歌右衛門さん亡きあとも、俳優協会の会長をちゃんとなさって、女形というものがいかに大切かということを身をもって示していらっしゃる。戦後のあの時代にそのことをきちっとお考えになった七代目幸四郎という方はとても偉い方だったと思います。
【雀右衛門】 そうなんです。私なんかを採用していただいたのはどうしてかと自分でも不思議に思ったぐらいですし、こんな辛い仕事を10年も20年もやるのだったら、明日にでも辞めさせてもらおうかと思うぐらいでした。そう言われてみると、やっぱりそれを守っていかなければいけないかなと思いましたので、今日まで何とかやらせていただいております。
【永山】 俳優協会の会長と簡単に申しますけれども、全俳優の会長でいらっしゃって、その方が女形であるということは、全くこれは七代目松本幸四郎さんの考えどおり、新しい女形をつくられたのだと思います。また、雀右衛門さんはちゃんと努力をなさいました。そして大谷さんの偉かったことは、一時、映画に行かれまして『佐々木小次郎』で人気を得たりなさいましたが、帰ってきたらすぐに関西に移して寿海さんの側につけて、女形として勉強されたわけですね。こういうことが大谷さんも偉かったのではのではないかと思います。
【雀右衛門】 そうなんでございます。あのとき、大谷会長からのお言葉がなければ、まだウロウロしていて、今はどこかの道路掃除でもしているかもしれない。もちろん歌舞伎へは帰りたいとは思っておりましたけれども、自分の力ではとても歌舞伎へ戻ることはできませんでした。大谷会長が「お前、いい加減に、全部整理してやるから帰っておいでよ」とおっしゃってくださったので、それで帰れたんです。
【永山】 そのあとですね、昭和39年に友右衛門から雀右衛門という大きな名前を継がれて、立派な女形をつくられました。そういう点は七代目幸四郎と大谷竹次郎とが今の雀右衛門をつくりあげたと言えるかもしれませんね。もちろんご本人の努力もすごいものだと思いますが。
【雀右衛門】 ただ転がっていたような気がいたしますけれども……。手を差し伸べてくださった大きなお力があったからだと思います。
【大沼】 雀右衛門さんは6年ほど前にパリで初めて海外公演をなさいました。あのときの評は素晴らしいものでしたね。「歌舞伎の神は年をとらない」と、パリの人たちも雀右衛門さんの美しさと芸の力にびっくりなさったと思います。
【雀右衛門】 パリはご承知のように、異文化のようなものも受け入れてくださるような体質ですから、やらせていただいてよかったと思います。

*—————-おわりに——————–*

【永山】 歌舞伎のことをお話いただきました。俳優さんにはお年はないのでございますけれども、雀右衛門さんはこの現在を保つためにどれだけ努力をしていらっしゃるか、それはご察しのほどお願い申し上げたいと思います。非常に運動をしていらっしゃるし、非常に努力をなさっておられるわけでございます。
【雀右衛門】 皆さまもそうだと思います。皆さまもお歩きになるとか、何かをやっていらっしゃいますよ。椅子の上で手を上げたり下げたり、そういうことでもよろしいのだと思います。私の場合は女形ですから、特に足を使いすぎておりますので、皆さまが少し具合が悪いなというよりは、その度を越しておりますので、ちょっと強烈なことをやっております。
【永山】 最後に、お年はお幾つでいらっしゃいますか。
【雀右衛門】 48歳でございます(笑)。
【永山】 逆さにいたしますと、そうゆうことでございます。どうもありがとうございました。
【大内】 たいへん面白いお話を伺いました。ありがとうございました。私は最近すっかり不精になって歌舞伎も文楽も観なくなったのですが、おそらくここにいらっしゃる我々と同年輩の方はそうだと思うのですが、昔は旧制高校に入りますと、歌舞伎だとか文楽とか新劇とかそういうのをしょっちゅう観に行きました。カネがありませんから立ち見席で観ていて、いつ声をかけるのかということを先輩から教わって、「さあ、お前声をかけてみろ」と尻を叩かれて声をかけるようなことをやったり、学生時代にそんなことをいろいろ経験したわけです。
  そういうときは、もちろんただぼやっと感心して観ていただけでございまして、今お話いただいたようなそれぞれの芸というものをひとつ身につけるということの難しさ、それに必要とする大変な努力というものについて、この年になるまであまり考えたことがございませんでした。私も学者の端くれとして、一種の芸で一生を過ごしてきたと言ってもいいのかもしれませんが、しかしどうも今のお話を伺ったような苦労をした覚えはあまりないものですから、大変恥ずかしい思いをいたしました。しかし、今まで全く知らなかったことをいろいろ教えていただきまして、どうもありがとうございました。厚く御礼を申し上げます。

             (本稿は平成16年2月20日午餐会における講演および座談の要旨です)

【中村雀右衛門氏プロフィール】
昭和2年市村座で初舞台。6年にわたる軍隊生活を経て、昭和23年三越劇場で女形として再スタート。昭和23年七代目大谷友右衛門襲名。昭和25年「佐々木小次郎」で映画デビュー、5年間に約30本の映画に出演。昭和30年歌舞伎座に復帰。昭和39年四代目中村雀右衛門襲名。平成3年重要無形文化財(人間国宝)の指定を受ける。文化功労者ほか受賞多数。著書『女形無限』(平成10年、白水社刊)。