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日本のリーダーシップについて 半藤 一利 No.843(平成15年11月)

日本のリーダーシップについて
半藤一利(作家) No.843(平成15年11月)号

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リーダーシップは軍事用語
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 「日本のリーダーシップ」という題をつけましたが、私は元々太平洋戦争の勉強から始めまして、まず昭和史、そして大正、明治と遡って勉強していった人間でございますので、現在の日本の話ではなくて、どうしてもそういう歴史の話になるかと思います。日本のリーダーシップとは何であったか、どういうものであるかということを、歴史の話を絡めまして、お話申し上げたいと思います。
  リーダーシップという言葉は、戦後になって盛んに言われるようになりましたが、これは外国では軍事用語です。外国の大学ではいわゆる軍事学というものを教えており、その講義の中でリーダーシップ論がしきりに論じられます。戦前の日本には軍事学というものはございません。軍事というのは、そもそも国民には知らしむべからずという秘密の領域でしたから、リーダーシップ論などというものが、東京大学、あるいは帝国大学で論じられたことは多分なかったのではないか。リーダーシップ論というのは戦後のはやりでございまして、戦前にはおよそなかった。あったとすれば、陸海軍の学校で多少は論じられた程度ではないかと思います。つまり、日本というのは元々リーダーシップ論-上に立つ人はいかにあるべきかということは、あまり論じられていなかった。それが初めて問題になったのは、明治10年の西南戦争であったと思います。
  この西南戦争は、明治政府が初めてまともに直面した国内戦争で、いわゆる徴兵制度による兵隊さんを使って、武士の集団である薩摩の軍隊とぶつかるという、まことに国難とも言うべき内戦でした。政府としてはいかに戦うべきかということが論議されて、総大将には宮様を置こうということになりました。軍隊の「ぐ」の字も知らない宮様を頭に戴いて下に参謀にしっかりとした人をつければ大丈夫であるという政府軍の構成でございます。このときの宮様が有栖川宮熾仁親王で、宮様の下に山縣有朋という歴戦の人物を参謀長につけた。山縣は侍出身、と言っても長州の足軽よりもっと下の出身ですが、外国を相手の下関戦争もやり、戊辰戦争では奇兵隊の軍監として、奇兵隊を率いて長岡城攻防戦をやり、という生粋の軍人でした。以下、参謀にたくさんの専門家をつけて戦って、西南戦争での政府軍は一応は成功を収めた。
  参謀さえしっかりつければ、総大将は少しぐらい戦いに疎くても、看板だけでもいい、とにかく参謀を大事にしようということで、日本のリーダーシップ、あるいは日本のいわゆる軍隊というのは、参謀重視になりました。
  とにかくしっかりとした参謀を養成して、参謀を中心にして指揮をすればよろしいのではないかと、参謀を養成するための学校として、明治16年に陸軍大学校が、明治21年に海軍大学校がつくられました。陸軍大学校のほうは完全に参謀養成で、国際法とか国内の憲法、世界史等も少しは教えましたが、軍事学が80%以上です。ここから後に、非常に視野の狭い、常識のない、軍事で凝り固まったような秀才参謀が出来上がっていくわけですが、とりあえずはそれで大丈夫だろうということで、養成したわけでございます。海軍大学校は若干陸軍大学校と違うのですが、一応参謀養成の学校でございます。

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つくられた日本的リーダー像
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 皆さんご承知のように、日本の陸海軍が最大の国難として迎えたのが、日清戦争であり、日露戦争でした。とくに日露戦争において、日本のリーダーはかくあるべしという、ひとつの典型が生まれました。陸軍においては、当時の満州軍総司令官大山巌であり、海軍においては、連合艦隊司令長官東郷平八郎です。
  大山巌さんも東郷さんも鹿児島出身の方で、寡黙な人であった。万事参謀に任せて、自分はゆったりと微動だにすることなく、平生の心がけを保っていた。そして、決めるときだけはきちっと決断した。あれこそ日本のリーダーの手本であるというふうに、この二人がリーダーの理想像としてつくられるわけです。実際は、大山さんも東郷さんも、参謀の上に乗っかってのんびりと構えていた人ではなかったのですが、とにかくそういう人物像がつくられた。
  大山巌さんはほとんど口を利かず、参謀任せでゆったりと戦争をしていた。ある朝、満州軍総司令部の参謀が無鉄砲な作戦を立てて、一連隊に前進を命じたものの、無謀であったために、この連隊がロシア軍に包囲されて、全滅に瀕しているという一大事が起きます。朝からドンドンパチパチという大砲の音がして、総司令部内はガタガタとしていた。大山さんが自分の部屋から出てきて、鹿児島弁で「今日は朝からドンドンパチパチ音がするでごわすが、何かあったとでごわすか」と聞いた。参謀が「いや、何もございません。どうぞご安心を」と言うと、「そうでごわすか。まあ、しっかりやってください」と言って、自分の部屋に戻っていって、泰然自若としていたと、日露戦争の公式戦史にそう書かれています。
  ところが、事実はそうではなかった。大山さんはこの作戦計画を全部きちんと自分に説明させて、何をそんな無謀なことをやるのかと言って参謀を叱咤し、さらに自ら指揮をして救援の一連隊を差し向け、全滅に瀕している一連隊を助けた、というのが本当のようです。そういう事実は公式戦史から全部消してしまった。
  東郷さんの場合は、あらゆる本に書かれていて、司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』の中にも、東郷さんが「ここに来るでごわす。大丈夫。バルチック艦隊はここに来るでごわす」と指差して、対馬海峡を動かなかった。この一言をもって、東郷は世界の名将の中に入ったと書かれています。私たちは子供のときから、5月27日の海軍記念日には必ず日露戦争の日本海大海戦の話を聞かされて、東郷さんは「ここに来るでごわす」と言って、泰然自若としておられた、あれこそ名将であったと聞かされたものでした。
  ところが、実はこれも事実とは違うのです。海軍大学校では若干教えていたようですが、日本海軍は一般的にはその事実をすべて隠した。なぜ隠したのか。陸軍の場合とまったく同じで、戦争が終わってからの論功行賞のためです。
  明治40年に一遍に当時の日露戦争の軍人および官僚の人たちが爵位をもらいます。陸軍関係、実に65人、海軍35人、文官31人、合計131人です。山縣有朋、伊藤博文、大山巌は、公爵です。井上馨、松方正義、野津道貫、桂太郎、これは侯爵。東郷平八郎、伯爵。乃木希典、伯爵。という具合に皆さんが爵位をもらっています。この論功行賞で、こういう人たちを貴族にするためには、履歴上まずいところは隠さなければいけなかった。
  本日のご参会者の名簿を見ましたら、伊地知さんという方がこの中にいらっしゃいますので、その方がもしご親戚だと非常に言いにくいのですが、乃木希典の旅順港攻略戦の第三軍の参謀長であった伊地知幸介という方は、司馬さんの作品でも無能の極致であると、こてんぱんにやっつけられています。実際に無能であったかはどうかはよくわかりませんが、少なくとも攻撃に次ぐ攻撃で大変たくさんの人が亡くなったということは事実でございます。この伊地知幸介さえ、男爵になっています。無謀な作戦を敢行した満州軍総司令部の参謀も偉くなっています。つまり、公になってはまずいことは全部隠蔽する。そのために海軍も陸軍もインチキの公刊戦史をつくり、それしか世の中に出ていなかったのです。

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極秘明治三十七八年海戦史
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 さすがに海軍は、これではまずいと思ったようで、『極秘明治三十七八年海戦史』という150巻もの正史をつくり、その中に全部の真実を書き込みました。この正史はわずか3部しかつくらなかった。公表してはまずいところを正史から省いたものが、一般に公刊されている『明治三十七八年海戦史』という本で、以前は私たちもその本しか読むことができなかったのです。司馬さんもその本しか読んでいませんから、『坂の上の雲』においては、東郷さんが「ここに来るでごわす」と言って動かなかった、そういうふうに書いています。
  私もちょっとお手伝いした覚えがありますので知っておりますが、司馬さんは『坂の上の雲』を書くのに当たって、海軍の軍人だった方たちに、海軍のことをいろいろ聞いて回られました。取材相手には何人もの海軍大学校出身の方がおられましたので、「実はね…」と、事実に近いような話を司馬さんの耳に入れていたようではあります。
  本当の日露戦争海戦史というものは3部しかつくられず、1部は海軍大学校に、もう1部は軍令部に、そしてもう1部は天皇のいらっしゃる宮中に差し上げたというのです。戦争に負けた時に、日本陸海軍は大事な書類をどんどん燃やしてしまいました。燃やさなくていいものも燃やしてしまったので、『極秘明治三十七八年海戦史』は燃やされてしまいました。
  ところが宮中には1部残っていた。GHQが入ってきた時に、日本の文献は次から次へと没収して、アメリカへ持っていきました。これは後に返してくれましたが、一時全部持ち帰って、アメリカで徹底的にこれを翻訳して、日本のことを分析したという事実があるのですが、宮中にまではさすがのGHQも手を伸ばさなかったので、そのままそっくりその大切な文書が保管されていたようでございます。それが昭和60年代の、元号が平成に替わるころに、これは歴史の参考文献としてそちらで使ったほうがいいだろうということで、宮内庁から目黒の防衛庁戦史室に戻されたのです。それを聞き込んで、私たちが飛んでいって見たら、新しい事実が飛び出してきたという次第です。

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炙り出される事実
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 ロシアのバルチック艦隊が日本に接近してくるのに際して、3つの入り口がある。バルチック艦隊はいったんウラジオストクに入って、あらゆる整備をしなおして、日本海に再び乗り出して、日本海軍と相まみえるつもりでしたから、目的地であるウラジオストクへ向かっていく時に、果たして敵は対馬海峡を通るであろうか、本州と北海道の間の津軽海峡を通るであろうか、本州と樺太の間の宗谷海峡を通るであろうか、連合艦隊司令部は大もめにもめた。
  民間のほうにも、ロシア艦隊はどこに来るかと大もめにもめたということは、伝わっていたようです。夏目漱石の『吾輩は猫である』の中に、猫が「俺も日本の猫だ。東郷さん以下がロシアを相手に死に物狂い戦っているのに、ぼんやりしているわけにはいかない。ねずみのひとつもとってやろうか」と決心をいたしまして、「ねずみは果たして台所の隅から来るであろうか、戸棚の横から来るであろうか」と、やはり3つ方向を想定して、「これは思案に余る」なんて、猫まで言っております。漱石があれを書いたのは明治38年から9年にかけてですから、当時のことを思い出しながら書いたと思います。そのぐらい日本中の大問題だったわけです。
  もうこれは、戦いの勝敗の帰趨を決めるような大事な決断であるわけで、連合艦隊司令部は、大もめにもめた。情報によれば、ロシア艦隊は、フランス領インドシナ(現在のベトナム)のバン・フォン湾を5月14日に出港し、日本に向かったということだけははっきりしていました。連合艦隊司令部は日本までの距離を計算し、仮に10ノットで航行すると何日になるかを計算します。そうすると、対馬海峡に来る場合は、計算上どう考えても5月22日ないし23日、早ければ21日ぐらいに対馬海峡に差しかかるという予測が成り立ちます。
  敵艦隊は22日には対馬海峡に来るだろう。早ければ21日。したがって、船を総動員して、5月18日ぐらいから、東シナ海一面に警戒艦、つまり監視船を出します。73隻出したといいますから、ものすごい網の目を張って待っていた。
  ところが、21日になっても、22日当日になっても来ない。警戒艦から何の通知もなし。このあたりから司令部内に焦りが少々生じてきまして、参謀たちの議論が始まります。23日になっても来ないとわかった瞬間に、議論が白熱いたします。敵は太平洋に出て、津軽海峡に向かったのではないかという説を唱える参謀が、次から次へと出ます。司馬さんの小説『坂の上の雲』の主人公の秋山真之という参謀も、本当に狂わんばかりに考え抜いて、これはもしかするともしかするぞと思いはじめるわけです。
  23日もまた暮れて、ついに連合艦隊の参謀たちは最後の決断を下さざるを得なくなります。このまま対馬海峡にとどまっていたのでは、「敵艦隊津軽海峡通過!」と情報が入っても、それから追いかけてもとうてい追いつかない。もうまったく手の出しようもない。どちらから来てもいいように、石川県の能登半島沖で待とうじゃないかという案も出る。能登半島沖で待つとなると、対馬海峡で来ようが、津軽海峡で来ようが、戦いはたった1日しか出来ない。2日目にはもうウラジオストクに入ってしまう。一回の海戦だとなかなか全滅させるわけにはいかない。しかし、何もしないよりはいいと、能登半島沖の案が出る。やはり対馬に来るという説も出る。津軽海峡に向かったのなら北海道の出口で待とうという案も出る。大議論が始まりました。
  この議論までは書いても何の支障もないのですが、そこからあとが消されたのです。
  23日が暮れたあたりから、もはやこれは、津軽海峡へ来ると判断せざるを得ない。北上説が優勢となり、連合艦隊司令部は、連合艦隊全艦艇に対して23日の晩に命令を出した。この命令は封筒に入れて封を閉じ、「明後日、5月25日午後3時、封筒を開けよ」という密封命令で、開けた瞬間にその封筒の中の命令は実行されたものと認む。したがって、この命令通り、全艦艇は行動せよ。これを配った。
  ここに一人、連合艦隊の焦りを感じ取り、どうも連合艦隊はここを動いて、錨を上げて北海道沖に行くことを決定したらしいと察し、「連合艦隊は何を考えているのか」と思う参謀が第二艦隊にいました。東郷さんがいるのがいちばん強い三笠以下の主力艦による第一艦隊です。それに次ぐ巡洋戦艦部隊が第二艦隊で、参謀長に藤井較一という大佐がおりました。この大佐が、第二艦隊司令長官の上村彦之丞中将に「連合艦隊はどうしてもおかしいから、意見具申に私を行かせてください」と頼んだわけです。
  上村さんは、「連合艦隊が決めたことをガタガタ言わんほうがいいんじゃないか」と、はじめは止めたのですが、「いや、これは国家の運命に関わることだから、どうしても行かせてください」というので、「よし、それでは俺も責任を負う。俺の命令によって行って来い」となって、上村さんの命令ということで、24日の夜、藤井さんがカッターで-このころは内火艇というのがあるのですが、合戦を前にして内火艇は全部艦上にあげておりますので、カッターを漕いで、戦艦三笠にまいりまして、「いったい何を考えているのか。敵は対馬海峡を来るに決まっておる。それを何をガタガタして、北海道へ行く必要があるのか」と連合艦隊の参謀たちを相手に大激論を始めたわけでございます。
  しかし、ある程度もう北進という方向は決定しておりますから、連合艦隊参謀部側としては何を言うかと、藤井さんを論破しようとする。ここで一人じっと聞いていたのが、連合艦隊の参謀長の加藤友三郎という少将でした。藤井さんとは海軍兵学校の同期生です。同期生というのは、気心が知れていると同時に、この男はどういう男かということもお互いによく知っている。つまり、藤井較一はそんなに無鉄砲な、猪突猛進の男ではない。むしろ計算高いぐらいの、非常に思慮深い男であるということを、加藤さんはよく知っている。だから藤井さんの議論を聞いていた加藤さんが言った。「あしたいかなることになろうとも、とにかく大事な合戦を前にして、連合艦隊全指揮官の意思が一致していない、バラバラであっては、これは戦に勝てない。だから、連合艦隊の意思を統一するために、もう一遍、明日の午前中に連合艦隊の首脳による会議を開く」と軍議召集を決定いたしまして、25日の午前中に全艦隊の長官、司令官、参謀長、および参謀に手旗信号で連絡を取りまして、集合を命ずる。
  翌25日は低気圧が来ておりまして、玄界灘は大荒れに荒れていたそうです。その中を押して、各艦からカッターを漕いで皆集まってくる。で、激論が始まる。連合艦隊参謀部の意思は曲げられないと、北進論者は藤井さんの意見を次から次に論破する。ほかの人の意見を尋ねると、大体において、連合艦隊の意見に賛成する。そんななかで、第二艦隊でいちばん遠くのほうにいた第二戦隊の司令官の島村速雄少将がようやく到着します。島村さんがびしょぬれになって入ってきた瞬間に、加藤友三郎さんが「お前はどこだと思うか」と聞いた。「対馬だよ。ほかに行くはずないじゃないか」と。これまた加藤さん、藤井さんと同期生の島村さんは、あっさりと言い、これを黙って聞いていたのが、東郷さんであった。
  東郷さんは「島村君と藤井君、ちょっと」と、連合艦隊司令長官室に二人だけを呼んで、二人の話をじっくりと聞いた。島村速雄は、戦士というものは、戦場が近づいてきた時に、遠回りをして迂回して、何日もかけて戦場から遠ざかっていくということは、許せないことだ。そんなことをすると士気が落ちるばかりだから、指揮官としては一直線に来るものだと、心理的な面から言う。藤井さんは、連合艦隊は10ノットで計算しているが、もう延々と航海を続けているから、貝殻もついているし、バン・フォン湾で貝殻を落としたと言っても、落としきれないはずだ。スピードが鈍っているに違いない。病院船や石炭船も連れている。とても10ノットは出ない。いいところ7ノットぐらいであろう。計算すれば、27日ないしは28日に対馬にやってくるはずである。何も錨をあげて北へ行く必要はないと、東郷さんに縷々説明したというのです。
  東郷さんはこれを聞いて「わかった。では、戻ろう」と言って、作戦室へ戻り、「密封命令の開封を24時間延期する」と決断を下したというのです。たった24時間と、この場合言ってはいけません。その24時間延期したことが、実はものすごい僥倖を連合艦隊にもたらしたのでございます。
  こうして、25日午後3時開封は26日午後3時開封に変更され、その26日が明けて、昼前には上海のイギリス領事および上海にいた海軍の人たちから「上海港に、ロシアの空っぽになった石炭船が5隻入港してきた」という通知が、大本営に入る。「石炭船がやっと今頃上海に入るということは、敵艦隊はまだ東シナ海にいるじゃないか」ということが明瞭になり、密封命令は直ちに破いて捨てろということになりました。
  26日の夜が更け、時計が27日にまわるとまもなく、最前線に出ていた信濃丸から「敵艦隊見ユ」という通知が入り、いわゆる日本海大海戦の大勝利がここに行われるわけでございます。
  これが、『極秘明治三十七八年海戦史』に書いてある事実です。日本の海軍はこういう経緯を全部消して「東郷さんは神のような英和をお持ちであった。そして泰然自若として『ここに来るでごわす』と言った。あれこそ日本のリーダーのとるべき態度である」と強調されたのです。こういう話が、そのままそっくり海軍大学校、陸軍大学校で教えられ、陸軍士官学校、海軍兵学校で教えられ、「日本のリーダーはかくあるべし」という形が出来上がったと言ってもいいかと思います。

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日本のリーダーは威徳を持たねばならない
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 さすがに陸軍も海軍も、泰然自若とか、動かざること山のごとしとか、講談のお話のようなことだけでは格好がつかない。日本のリーダーシップというものを考えようじゃないかというので、陸軍は昭和3年に『統帥網領』という、かなり分厚い本を出します。日本のリーダー、人を指揮する人間はどうあるべきかという考察を書いたもので、当時は極秘でしたが、現在は見ることができます。
  まず、1番目に、上に立つ人間は高邁なる品性を持たなければならない。2つ目が、リーダーは公明な資質を持たなければならない。3番目は、リーダーは無限の包容力を持たなくてはならない。4番目は、リーダーは卓越した識見を持たなければならない。5番目は、リーダーは堅確な意思を持たなければならない。6番目は、非凡な洞察力を持たなければならない。
  いいですか。高邁な品性、公明な資質、無限の包容力、卓越した識見、堅確な意思、非凡な洞察力、こんなに全部持っている人がいたら、これは神様だと思います。さすがに書いた人も恥ずかしかったのでしょうね、「要するに日本の指導者は、威徳を持たなければならない」と結論しています。
  威徳というのは、威厳と人徳ということです。つまり、私たち日本人が頭に描くリーダーというのは、この威徳を持つ人、威厳と人徳を持つ人であるということが、確定したわけです。以来、威厳と人徳を持つリーダーを戴いて、日本は太平洋戦争という、まことに壮大なる戦争を行ったわけでございます。太平洋戦争のいろいろな局面を見ますと、なんと日本の上に立つ人は、威徳を重んじて何もしなかったのだなということが、よくわかります。
アメリカの場合はどうか。アメリカにはいろいろな軍事学があり、いろいろなリーダー論がありますが、いちばん要求されるのは、国家に対するロイヤリティを持たなければならない、ということです。2番目は、指揮官はシンプリシティを重んじる-単純明快にせよ。ごちゃごちゃむずかしいことをやるなということ。3番目は、セルフコントロール、自制心をしっかりと持つ。4番目に、タクト。つまり手際のよさ。5番目に判断力。6番目に、勤勉にして熱心な素質。アメリカのほうは全部具体的ですね。一方、日本のリーダー論は、精神的なもの-威厳と人徳です。こういうことで、太平洋戦争が行われたと言ってもいいかと思います。

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リーダーシップ私感
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 いつまでも威厳と人徳でもあるまいと、リーダーシップについて私自身で考えてみました。280万から300万もの人が亡くなった太平洋戦争から、何か現代に生きる我々のための教訓を引っ張り出すことは出来ないだろうか、大本営も含めて、戦闘の指揮官ばかりではなくて、太平洋戦争のいろいろな局面を見て、日本のリーダーは少なくともこういう点にだけは注意したほうがいいのではないかということを、教訓として6つ、私なりに引っ張り出しました。
  1つ1つ、例を申し上げてお話しする時間がございませんので、項目だけを挙げて、そのうちの一つだけ詳しく申し上げます。
  まず、日本の指導者は、とにかく自分で決断しなければならない、ということだと思います。東郷さんが、密封命令の開封を24時間延ばすということを自分で決めた。この決めたことが大変すばらしいことだと思います。つまりリーダーは自分で判断をして、自分で決断をしなければいけない。人に決断を任せてはいけないのです。丸投げなどという言葉がはやっておりますが、これはリーダーとしてもっともあってはならない資質だと思います。日本軍はこの丸投げで散々たくさんの人を死に至らしめております。上に立つ人は少なくとも自分で判断をし、自分で決断をする。これはもう絶対的な条件かと思います。
  2番目は、明確な目標を常に部下に与えよということです。これは後でちょっとだけ詳しく申し上げます。
  3番目は、権威を明らかにせよ、あるいは焦点の位置に立てということです。日本の軍隊の1つだけいいことは、必ず命令書には「指揮官はこれこれにあり」と、自分がいる所を明示いたします。これは非常にいいことだと思います。上に立つ責任者が、どこに行ってしまったかわからないという状況を生み出すことを拒否するわけです。上がどこに行ったかわからないと、命令がいろいろなところから来ます。それでは困りますので、やはり「指揮官はここにあり」と明示する。海軍の場合は「指揮官先頭、率先垂範」という言葉がありますように、とにかく先頭に立てと。といって、あまり先頭に立ちますと、最初にすぐ戦死してしまう可能性があります。最初に死なれては困りますから、若干後ろにいるということも大切かと思いますが、いずれにしろ「どこにあり」ということを明示しなければいけないと思います。
  大事件が起きた時、前の首相がゴルフ場にいたというので物議を醸したことがありました。あれは、ゴルフ場にいてもいいんです。ゴルフ場のクラブハウスならクラブハウスにいて、「指揮官、ここにあり」と自分が動かなければいいのです。ところがあの方はフラフラと動いてしまった。そういうことではいけないということだと思います。
  4番目は、情報は確実に自分の耳で聞けということです。情報というものは複雑に入ってくるし、ニセ情報もある。いろいろな情報があるなかで、出所がわからない情報を大事にして、とんでもない判断を下すということは、危険です。
  レイテ沖海戦で、栗田艦隊が、レイテ湾に突入するという命令を持って行っているのに、途中から「後ろに機動部隊がいる」という変な情報が入ったのです。現在になってみますと、そんな電報は誰も打っていないのです。誰も打っていないのに、そういう電報があったという、妙な情報が流れた。敵の機動部隊が後ろにいるのだから、そいつをまず叩き潰してから突入しようということになって、栗田艦隊は「謎の反転」をした。これなどは指揮官である栗田さんが疲労の極致で、判断力が鈍っていて、そういうニセ情報にすぐ飛びついてしまったのだと思います。
  5番目は、規格化された理論にすがるなということです。社の何十周年記念をやる場合、「どういうふうにやりましょうか」「まあ、前回通りにやっておけよ」となりがちです。これがいちばん楽です。楽ですが、いつも前例どおりを踏襲していると、もうまったくやらないほうがましということになるわけです。日本海軍はどちらかというと、一遍成功すると、その成功体験を引っ張って、もう一遍同じことをやりたがるのです。日本人にはそういうところがいくらかあるのかもしれません。そのために何遍裏をかかれたことか。常に時代が動いている、状況は動いているということを勘定に入れずに、いつまでも同じことをやっていると、もう全部敵に見通しになるということだと思います。
  6つのうちの最後は、部下に最大限の任務の遂行を求めよということです。
  私の経験を申し上げます。私にもサラリーマン時代がありました。「ちょっと君、行ってきてくれないか。あの先生なかなか難物だから、たぶん君ではだめだと思うが、一遍顔だけ出して、適当に話をしてきてくれよ」と、部下を送り出してはいけないということです。文藝春秋社に、「お前が行って原稿を取って来い。何があっても取って来い」、と言われて送り出された新入社員が、「わかりました。取ってきます」と言って出かけて、一週間泊り込んだという伝説があるようですが、これは私のことでございます。
  私が入社してすぐの頃、当時桐生に住んでいた坂口安吾という作家の家へ行って、「何があっても原稿を取って来い」と言われたので、「よし、取ってくる」と、出かけていきました。もう出来ているんだろうと思ったら出来ていない。で、そのまま安吾宅に泊りこんだ。毎晩二人で酒を飲んで、坂口さんの話を聞きながら、「では、あしたの朝、お願いします」と寝床にもぐりこむんですが、翌朝もまだ出来ていない。とうとう一週間泊り込んだら、私の母親が驚きました。「うちの息子は行ったきり、帰ってこないのですが」と会社におずおず電話をしたところ、会社のほうでは、電話に出た人が、「おい、半藤なんて社員、いたか?」なんて言う。まだ入ったばかりでしたから、覚えていないのも当たり前ですが、「俺を桐生まで出しておいて、何を言っているか」と思いました。それはともかくとしまして、部下には最大限の任務の遂行を常に求めよと。そうしないといけないということです。

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むすび
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 以上、6つですが、いろいろと例を挙げてお話すれば長くなりますので、2番目の「明確な目標を与えよ」ということについて、ちょっとだけお話し申し上げます。
  山本五十六連合艦隊司令長官が、真珠湾攻撃という、破天荒なことをやったことは、皆さんご存知かと思います。これは、軍令部の全面的な猛反対があり、直接に攻撃に行く機動部隊の指令官からも反対があり、四面楚歌の中で、山本五十六がこれを押し通して、最後には、「どうしてもこの計画をやらせてもらえないならば、辞職をする」とまで言い出した。これは本来ありえないことです。連合艦隊司令長官というのは、天皇陛下の命令によって任命されているのですから、天皇の命令によって任命された男が、自分から辞職するなどということはありえないことなのですが、それを平気で言って脅しをかけた。そうしたら、軍令部総長の永野修身という方が「山本がそこまで言うなら、やらせてやろうじゃないか」と言った。こういういい加減な判断をする人がトップにいたということが、本当に恐るべきことですが、いずれにしろ、山本五十六のごり押しが通りまして、真珠湾攻撃は作戦計画になったわけです。
 ところが、ここからがまずいのです。山本五十六は何のために真珠湾攻撃をするか、何のために全滅を覚悟して、真珠湾に6隻のなけなしの空母を派遣して、乾坤一擲の殴り込みをかけるかという自分の真意を、誰にもしゃべっていないのです。私は、連合艦隊で山本五十六の部下だった参謀のうち戦後もご存命だったかたがた何人かに会いましたけれども、連合艦隊で自分の直接の部下である参謀にもしゃべっていない。
  戦後になって、真珠湾攻撃をなぜやるかという、山本さんが自分の本当の意図を明かした手紙が2通出てきました。昭和16年1月に及川古志郎という当時の海軍大臣に当てた手紙と、昭和16年10月、真珠湾攻撃の直前に、嶋田繁太郎という当時の海軍大臣に当てた手紙です。その手紙を読みますと、山本さんは「この戦争を終わらせたいからやる」と書いています。ここで乾坤一擲の大勝負をかけて、そしてこの結果、本当にアメリカの士気を奪い去って、同時に戦争を終結、つまりある種の有利な条件を持って、終わりにしようと。その意図をもって真珠湾に攻撃をかけるということを、山本さんははっきり書いています。
  戦争決意には反対である。戦争をやれば、日本は亡国である。3度も東京は空襲で丸焼けになるだろう。そして、海軍大臣以下、総理大臣を含めて皆、国民から絞首刑にあうだろうということも予言し、反対をしている。反対をしているけれども、連合艦隊司令長官というのは現場の長ですから、政治には参画しておりません。どうしても上のほうでやれというのならば、それ以外方法はない。この作戦を徹底的にやることによって、直ちに講和をもちかける、というのが山本五十六連合艦隊司令長官の意図であったのですが、このことを一言も言っていないから、誰もわからない。要するに博打でしかない。山本さんは、博打が好きな方でした。将棋も好きでしたから、「山本の、これは大博打だよ」と言って、人は皆、誰も山本さんの意図を知らなかった。知ろうともしなかった。また山本さんも悪い。そこまで自分が考えているのなら、自分の考えていることをしっかりと言って、最後までそれを押し通せばよかったのです。が、軍令部があまりにも猛反対して、それを自分が無理やり通したものだから、ある程度軍令部の言うことも聞いてやらなければいけないというので、真珠湾を攻撃する部隊に与えた命令が、「一撃をして、成功したら直ちに帰って来い」というものでした。これは、ちゃんと命令書に書いてあります。
  もし山本さんがそこまで考えているのであれば、真珠湾に居座って、ハワイの軍備が何もなくなるぐらい、猛攻をかけるべきでした。二撃、三撃、四撃とかけるべきだったのですが、「一撃してさっさと帰って来い」という命令では、機動部隊はサーッと攻撃して、サーッと帰還するのは当たり前です。あとは「勝った。勝った。万歳。万歳」で、和平などがどっかへ吹っ飛んでしまったという話があるわけでございます。
  つまり、この場合も山本さんの作戦計画が何を意味するのか、自分が一体何を狙ってやっているのか、部下に明確な目標を与えなかった。組織が今何をやろうとしているのかということに対する目標を、社員なり部下なりに明確に与えないと、何をやっているかさっぱりわからないままに戦いの場に出ていったのでは、本当の力にはならないということを示すものではないかと思います。
  つまり、日本のリーダーシップということを考えますと、情けないぐらいに、日露戦争時代のリーダーの、「威徳をもって最高とす」ということが、ずっと太平洋戦争まで生きてきたということが、そのまま言えるのではないかと思います。
  それは、何も今から50年も前の話だけではなく、現在もまた、私たち身の回りにあるものを見ていますと、日本のリーダーは本当のリーダーシップというものを承知しているのだろうか、どうだろうかと常々思わざるを得ないのでございます。なんとなしに格好だけつければリーダーではないということをもう一遍繰り返して、ちょうどお時間がまいりましたので、話を終わりにいたします。
  どうも、ご清聴ありがとうございます。

(作家・東大・文・昭28)
※本稿は平成15年5月20日午餐会における講演の要旨であります。