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文学者が歴史を書く ドナルド・キーン No.839(平成15年3月)

文学者が歴史を書く
ドナルド・キーン
(コロンビア大学名誉教授)

No.839(平成15年3月)号

文学と歴史
 私は昨年(二〇〇一年)、明治天皇の伝記を完成しました。伝記が完成すること自体は嬉しかったのですが、しかし当時、日本人の友達は、「意外なことだ」というふうに言っていました。つまり、文学者が歴史のことを書くということを大変不思議に思っていたようでした。私はいろいろ考えました。たしかに多くの大学では、国文学と歴史は違う学科に属しています。そのためにたいていの人は、歴史と文学はまったく違う存在だと思っているようですが、歴史的に言うと、文学と歴史はほとんど区別できないくらいです。

 古代のギリシャの文学にも、傑作といわれるヘロドトスの『歴史』とか、有名な歴史書があり、読みものとしても非常に面白いです。全く信じられない記述もありますけれども、文学として最高です。古代ローマでも有名な歴史家が何人もいましたし、彼らの作品は文学として取り扱われていました。あるいは、中国でも司馬遷は歴史家でしたけれども、文学者としても大変尊敬されました。中国人は文学の話をする場合でも、どちらかというと小説の話はあまりせずに、むしろ歴史や詩歌について話します。中国人は、歴史は文学ではないとは思っていないのです。

 日本文学にも歴史物語というジャンルがあります。『保元物語』、『平治物語』、傑作である『平家物語』、そして『大鏡』、『増鏡』は、現在、歴史家が読みますが、文学者も同じ程度に読んでいるのではないかと思われます。それは、いまに始まったことではありません。たとえば松尾芭蕉が京都の弟子、去来の別荘である落柿舎に泊まるときに、本を持っていきました。まず『源氏物語』、これは当然だと言えます。そして私が面白いと思ったのは、『土佐日記』などの他に『大鏡』という歴史書も入っていたことでした。芭蕉は特別に『大鏡』の時代のことに興味はなかったと思います。文学作品として読もうと思っていたのでしょう。

 現在の概念では、『大鏡』は歴史書とは言えず、完全に文学になっています。美しい描写もありまして、登場人物たちが詠んだ歌も大分含まれています。構造は演劇的で、冒頭では二人の老人が登場し――ひとりは百九十歳、もうひとりの若い方は百八十歳です――、彼らは、それまで見てきたことを、自分の記憶として話しています。私たちの常識では、まず百八十歳の人はいませんし、仮にいても、頭が少しぼんやりするはずだと思われますけれども、歴史書としては信用できない部分があっても、読み物として申し分のない歴史物語として読まれていました。文学か歴史かと言うと、文学的な立場から読んでいたと思います。

 『平家物語』は歴史物語として最高ですが、文字通りには信用できません。たとえば『平家物語』の最後のほうで、後白河天皇が大原へ行って、寂光院で建礼門院に会います。それは素晴らしい文学です。二人は長々と過去のことを話します。この時、二人以外に誰も会話を聞くことはできなかったはずです。『平家物語』を書いた人はどういうふうにその話を聞いたのでしょうか。面会が終わってから、新聞記者のように鉛筆を持って「建礼門院さん、何を話しましたか」と取材したとはちょっと考えられません。要するに、『平家物語』は文学の世界なのです。著者は想像力を逞しくして、「こういう話があったのではないか」、「こういうことを言ったはずだ」と名場面を描写するという程度のことだったと思いますが、これでも歴史というべきかどうかというのは別問題です。

 建礼門院が亡くなる直前に障子、いまでいうと襖ですが、襖に書いた歌は、たぶん本当にあったものと思われます。逆説のようですが、軍記物語でいちばん歴史的なものは歌です。歌は誰かが書きとめて、それが残っています。会話と違って歌は永遠に残るものでしたから、それは信用してもいいでしょう。そしてその歌を読むことで、こういう背景があっただろうと人は想像するでしょう。『伊勢物語』に在原業平が詠んだ歌が残っています。そして業平の歌を読んだ別の人が、「むかし男が…」とか、いろいろ物語るのです。それは文学者が書くものです。

伝記を書くということ
 伝記は文学でありながら、歴史でもあります。あるいは逆に、歴史でありながら文学でもあると言ったほうがいいかもしれません。

 中国やヨーロッパでは古代から伝記がありました。『史記』、あるいは『プルターク英雄伝』は伝記ですけれども、これは読み物として面白いと思われました。中国の古い伝記には、誰それが、生まれてから両眼に二つの瞳があったために他人よりも二倍もよく見ることができたとか、あるいは三歳の頃から論語を暗記して、哲学者と論じることができたというような、奇跡のような話が非常に多く出てきます。そういう人がはたしていたかどうか、ちょっと疑問ですが、たいていの人はそれを信じます。

 日本の最も古い伝記、たとえば聖徳太子の伝記は中国の伝記と同じように、子供の頃からまったく苦労しないで奇跡的なことができたと書かれています。しかし、厳密な意味での伝記は、織田信長の伝記とか、豊臣秀吉の伝記など、桃山時代から始まりました。『平家物語』は平清盛の伝記として読まれないこともないのですが、清盛の傍若無人の振舞いがあまりにも誇張されているので、肖像画としてより漫画に近いです。平清盛が病気のときに非常に熱が出て、それを冷やすために水をかけましたら、水は直ちに湯気になってしまったというような記述がありますが、そんなのは見たことがありません。

 いまでも、伝記らしい伝記は日本には少ないようです。古本屋に行けば社長の伝記や軍人の伝記はあります。しかし、文化的な人物の伝記はほとんどありません。私が明治天皇の伝記を書くまで、明治天皇の伝記らしい伝記はなかったというのは信じられないことです。毎年、お正月に明治神宮に三百万人もの人が集まりますが、初詣での人たちは一度も「明治天皇とはどういう人だったか」というようなことを考えないのでしょうか、そういう好奇心がないのでしょうかと、私は不思議に思いました。

日本的な日記文学
 日本では、伝記よりも自叙伝が早く発達しました。日本文学のいちばん日本的なところは何かというと、それは日記文学だと私は思います。外国の百科事典を引きましても、日記文学全体についての記述はありません。しかし日本の場合は、それは大きな項目です。中国では、日記または自叙伝は日本よりもずっと遅れていましたし、とうとう重要な文学のジャンルにはなりませんでした。厳密に言いますと、日記と自叙伝とはかなり違いますが、ともに著者――日記をつけた人、あるいは自叙伝を書いた人が話の中心人物、つまり主人公だというところは二つとも同じです。

 平安朝から素晴らしい日記がありますが、素晴らしいのは女性が書いたもので、男性が書いた素晴らしい日記は大変少ないです。男性が書くのはだいたい漢文日記で、誰それが過去において必ず小さい門から宮殿に入ったとか、どういうときに土器の盃を使う習慣があるとか、自分の子孫に伝えたいことを書き残しました。それは非常に大切なことで、お辞儀をする時右手を上げなければならないという前例があったら、誰かが手を上げない場合は、「お前は間違えている」と自分の子孫が知っていて叱ることができますから大変得をします。大事な前例を子孫に伝える為に書き残すというのは男性が書いた日記のひとつの目的でした。男性の日記は秘密で、誰にも見せずに、長男だけに見せる。女性の日記は全部かな書きで、漢文の日記はありません。事実に沿って書かれていても、表現は主観的で、文学的だと私は思います。又、文学的だったので、誰が読んでも差し支えがありませんでした。

 私がこういう説明をするのは、文学者が歴史を書くという長い伝統が日本にはありましたし、文学と歴史という二つのジャンルを区別しなくてもいい場合もあるということを指摘させていただいて、歴史家としての訓練を受けていない私も、明治天皇の伝記を書いてもいいと信じたいからです。又、私の歴史家としての不足を逆用して、かつての軍記物語のように、詩歌も歴史の事実として使いたかったということを説明したいのです。

明治天皇についての資料
 私の明治天皇の伝記には、明治天皇が詠んだ歌をたくさん入れました。不思議なことには、明治天皇の気持ちを表わしているのは歌だけなのです。明治天皇は日記をつけませんでした。事務的なもの以外は手紙もほとんど残っていません。その点では、毎日九人の子供に手紙を書いて、日記をつけていたヴィクトリア女王とどんなに違うでしょう。ヴィクトリア女王の伝記を書こうと思ったら、資料が多すぎて、全部に目を通すことはできないくらいです。毎晩毎晩、少なくとも九つの手紙を書いていました。そして、子どもたちそれぞれに手紙を書いてから日記をつけました。

 明治天皇のことを書く場合には資料がひどく足りません。たしかに天皇は十万首の短歌を残しましたが、短歌の大部分は年始の初霞とか、梅の香とか、自然の美を詠んだ歌で、自分の悩みとか、自分の喜びとか、自分の気持ちを詠んだ歌は、残念なことに、大変少ないのです。しかも活字になっているのは、せいぜい一万首で、明治天皇の歌を全部読むことはできません。良心的な伝記作家は全部読むべきですが、私は読みませんでした。

 私は明治天皇がどんな人物だったのか知りたいと思いましたけれども、「肖像」がわかるような事実を探しても、何も残っていない、あるとしても非常に少ないです。明治天皇のお側にいて天皇のことをいちばんよく知っていた人たちは、沈黙を守っていました。二、三人の侍従がずっと後で思い出話を発表しましたが、それは天皇の食べ物の好き嫌いを教えてくれるもので、伝記を書くのにはあまり為になりません。

明治天皇の嗜好について
 明治天皇は大変変わった日本人でした。おさしみが大嫌いで、絶対に食べなかったそうです。川魚だったら食べましたが、海の魚はもう絶対に食べられないということです。さしみ以外は洋食でも何でも食べました。いちばん好きなものはアイスクリームだったようです。明治天皇は風呂が大嫌いでした。夏は仕方なく風呂に入っていましたが、あとはほとんど入らなかったようです。もうひとつ大嫌いだったのは花見です。いつもできるだけ口実をもうけて花見を避けていました。そういう趣味のようなことについては、侍従の残した記録にありますが、しかしいちばん知りたいことではありません。

 美術に関しては、明治天皇は、やはり日本画が洋画よりも好きでした。命令するような形で言っているわけではないのですが、「日本人はすぐに洋画にいってしまって日本画を忘れることは良くない。日本画の良さを認めていないのだろうか」というふうに言いました。

 明治天皇は電気が嫌いでした。若いときに火事に遭って、前の宮殿が焼けたことを覚えていて、なるべく電気は使わず、ロウソクを使っていました。ロウソクの明かりは大変詩的なものですが、天井もカーテンも全部真っ黒になりました。自動車も嫌いで、一度も乗ったことがないようです。当時はもう自動車がありましたし、他の人は乗っていましたが、明治天皇は最後まで馬車を使っていました。

 明治天皇は、外国のものだから嫌いということはなく、外国の食べ物でも、何でも食べていました。そして、自分は天皇だから、庶民と違うという考え方はなかったと思います。花火大会があると、「ぜひ見たい」、あるいは気球を上げるときにも「ぜひ見たい」と、見に行きました。庶民とまったく同じ楽しみです。サーカスも大好きでしたし、競馬場も好きでした。蓄音機が好きで、蓄音機で軍歌のレコードを聴いていました。晩年には映画を観ることもありました。当時の映画は子どもっぽいものでしたが、明治天皇はとても喜んでいました。

 侍従の証言には矛盾がかなりあります。ひとりの侍従は、「天皇は毎日何種類もの新聞を丁寧に読む習慣がありました」と書いていますが、別の侍従は、明治二十年頃までは天皇は新聞の大見出しに目を通していたけれども、ある新聞に自分の体重が報道されたことを怒って、それ以後、新聞を全然読まなくなったと証言しています。まったく同じ資格の侍従が、ひとりは「全然新聞を読んでいなかった」と言い、もうひとりは「丁寧に幾種類もの新聞を読み、外国の新聞も取っていました」と言う。どちらのほうが本当か分かりませんが、同じような矛盾が他の資料にもあります。

 たとえば、明治天皇は贅沢を大変嫌っていました。靴を修理すると新しい靴を買うより高くつくと聞いても、古いものを捨ててはいけないと、修理させています。軍服は、継ぎをあてて着ていました。明治天皇の記念品のなかに制服が余り残っていません。着古したものでしたから、燃やしてしまったようです。明治天皇はそういうことに無頓着でした。なるべくお金を使わない一面はありましたけれども、フランスの香水は大好きで、三日に一瓶を使いました。三日に一瓶というのはありそうもない話ですが、二人の侍従が語っていますから、たぶん本当でしょう。もうひとつ好きなものは、ダイヤモンドの指輪でした。日本や海外の物産展などでは、侍従たちは明治天皇がダイヤモンドの指輪に近寄らないように、別のところに案内しました。もしも寄ると、必ず二、三のダイヤモンドの指輪を買いました。もうひとつは、一晩に二本のシャンパンの瓶をひとりで空けたそうです。これもそうそうできないことです。ひとりで歩けないから、侍従の肩に寄って歩いていたそうですが、それほど飲むことができました。明治天皇は不明なところが実に多いです。しかし、ダイヤモンドの指輪が好きだったこと、一晩に二本のシャンパンの瓶を空けたことは事実のようです。

明治天皇の克己心
 私がいま話をしたことからは、明治天皇の本質は分かりません。本質は全然違っていました。明治天皇は何といっても克己心のある人でした。自分の周囲にあるものに全然興味がなかったのです。自分の軍服が古くなっても……

 明治天皇の代表的な軍服は、三十年か四十年遅れた古いものでした。外国人はそれを見て、「これは海軍大将か大使か、もう見られないものだ」と、みんな驚きました。ヨーロッパでは誰も着ないようなものですけれども、明治天皇はそういうことにはまったく無関心でした。

 また、明治天皇は、自分が暑いとか寒いとか、そういう表現はいっさいされなかったようです。東京の夏は、当時も現在とあまり変わらず暑かったわけですが、一度も夏の暑さから逃げるために別荘に行ったことはないんです。別荘はいろいろなところにありました。しかし、一度も利用したことはありません。その代わり、病身だった皇太子、後の大正天皇は、毎年必ず東京の夏と冬を避けて、葉山または沼津で何力月も過ごしていました。明治天皇はきっと、大変がっかりしたと思います。ずっと後に、韓国の皇太子が人質として日本に住むようになりましたが、明治天皇は、自分はそういう子どもがほしいと思っただろうと私は推測します。自分の息子は涼しいところに行ってしまいますが、この韓国の皇太子は、夏のあいだでも一所懸命東京で勉強していました。

 明治天皇は天皇になってからしばらくして、巡幸に出かけることがありました。歴史家のなかには、巡幸は国民を脅かすためで、明治天皇が見ているという印象を与えるためだという解釈もあるようですが、私はそう思いません。巡幸のいちばんの目的は、明治天皇の訓育だったと思います。

 明治天皇の前に、富士山を見た天皇はいないのです。伊勢大神宮に参ったのは、天皇としては明治天皇が初めてでした。海を見たのもたぶん明治天皇が初めてです。日本はこういう国だと知るために、周囲の人たちが明治天皇に進言し、好きであっても嫌いであっても、あらゆるところに行きました。明治天皇は、南は九州まで、北は北海道まで、籠に乗って方々に旅行しました。私たちは、籠の旅行というと何となく優雅だと思いますが、たえず揺れて、とても我慢できないようなものでした。真夏の巡幸のときは、籠の中はものすごく暑くなります。ある時、随行員はもう我慢できなくて、「歩かせてください」とお願いし、明治天皇にも「どうぞ」と勧めましたが、明治天皇は正座して、全然動かなかったということです。

 一日中、何時間も何時間も籠で揺られて移動するのもたいへんですが、もっとひどいのは、目的地に到着することでした。ようやくどこかの村に着いたら、一秒でも早くひとりになりたいと思うのが人間ですが、それはできなかったのです。村人たちが出迎えます。村長の長い長いご挨拶があって、副村長からもご挨拶がありました。そのあと、特産物も天皇に見せなければならないからと詳しい説明がありますし、ぜひとも見せたい古文書も見なくてはなりません。寝床に入るのは大抵朝の二時で、起きるのは五時でした。それが毎日毎日続いたのです。それが国民を脅かすためだとは思えないのです。

 明治天皇はそういう場合、暑いとか寒いとか、自分の苦痛のことは考えなかったのです。お父さんの孝明天皇はいつも憤慨していましたが、明治天皇はまず憤慨することはありませんでした。どこからその克己心が出たのでしょうか。私の感じでは、それは儒教からでした。明治天皇に元田[もとだ]永孚[ながざね]という儒学者がついて、儒教を教えていました。頭の中に克己心があって、義務感が非常に強かったんです。たとえ朝の二時までシャンパンを飲んでいても、必ず五時に起きて、六時から自分の御座所、つまり勉強部屋へ行って、やるべきことをやっていました。

明治天皇の義務感
 ひとつ明治天皇の義務感の例として挙げたいのは、日清戦争の頃のことです。日清戦争が始まったときに、明治天皇は「私が欲する戦争ではなかった」と、大変怒りました。侍従とかお側の人が戦争の原因を説明しようとすると、明治天皇は「汝はもう見たくない」と言いました。本当に日清戦争が大嫌いで、絶対に許すべきものではないと思っていました。しかし、戦争が始まってから、もう防ぐことができない状態でした。明治天皇はどうして日清戦争が嫌いだったかというと、やはり孔子様、孟子様の国だったからだと私は解釈していますけれども、どこにもそう書いてありません。

 日清戦争の間に、大本営が広島に移り、第一線で戦っている日本の兵士を激励する意味があろうし、自分の義務だと思って明治天皇は広島に行ったのです。明治天皇が泊まった家は、ごく粗末なバラックで、装飾品は壁に安い時計があるだけで、他には何もありませんでした。もう少しきれいな部屋にしましょうか、と言われても「いや、第一線の軍人はもっとひどいところで我慢している」と断ったそうです。ひとつの部屋が、昼間は事務所であり、夜は寝室となりました。

 明治天皇はものすごく退屈したと思います。同じ時代の他の皇帝、ドイツのウイルヘルム二世やロシアのニコライ二世なら、戦争の間いろいろ楽しみがあったはずです。軍事的に暗いロシアの皇帝は、「この連隊はどこそこへ進軍させたらいいだろう」と言えたでしょう。皇帝の命令があれば、軍隊はそこまで転向しました。明治天皇はそういうことは一言も言いませんでした。絶対的な権力をもっていましたから、明治天皇が命令したら、師団でも連隊でも明治天皇の言う通りに動いたはずですが、一度も命令したことがないのです。無能だったからできなかったと言う人もいますが、しかし人間の歴史をみますと、無能であるから遠慮するということはなくて、むしろ逆で、無能であるから命令することは楽しみなのです。明治天皇は、そういう命令は何もしませんでした。

 広島では、することはほとんど何もなかったので、侍従たちは困って、「女性がひとりもいないからご不自由でしょう、東京から誰か呼んだらいかがですか」と言いましたが、明治天皇は、「前線の兵士には妻はついていない」という返事で話が終わりました。夏に蚊帳を吊るのはそんなに贅沢ではないですけども、明治天皇は「第一線の兵士には蚊帳がないから自分も蚊帳は要らない」と言いました。

 何か第一線からの情報があれば、もちろん明治天皇の耳に入るのですが、明治天皇は広島にいるあいだ、本当に刺激のない生活でした。具体的に何をしていたかというと、蹴鞠をやっていました。蹴鞠もいいでしょうが、一日中ずっと蹴鞠をしていても面白くないと思います。絵を描いたり、ものを書いてはすぐに破ったりもしたそうです。明治天皇は、自分の字にまったく自信がなかったので、歌は十万首あると申しましたが、紙切れに歌を書いて字の上手な人に渡して、清書したら元の原稿を破ったので、直筆の歌は何も残っていないのです。

 明治天皇は皇后陛下に、絶対に来るなと言っていましたが、彼女は明治天皇のことを気の毒だと思い、明治天皇を喜ばせたいという意味から、皇后陛下は自分の意思で、側室の二人の女性も連れて広島まで行きました。皇后陛下は天皇の住まいのすぐ裏にひと月もいましたが、彼は一度もそこまで行かなかったのです。そして皇后も、天皇のところに行けませんでした。それほど明治天皇は義務感が強かったのです。

 明治天皇の克己心のもうひとつの面として、どんなに具合が悪くても、ほとんど医者に診てもらったことがありません。明治天皇が亡くなってから、周囲の人たちは、典医たちに「どうして何か異変を感じなかったのか」と責めました。典医の返事は簡単でした。「私たちは診察しようと思ったけれども、天皇陛下は『近寄るな』と言いました。だから私たちは何もできなかった」と。明治天皇は、長い一生で、一度も歯医者に行ったことがなく、歯を診てもらったことがないのです。最後は柔らかいものだけ食べていました。義務感が非常に強かったので、いろいろ無理もしていましたけれども、明治天皇は、自分が病気であることはいつも否定していました。

 明治天皇が最後に出かけたのは東京帝国大学の卒業式でした。明治天皇は、いつも東京帝国大学の卒業式と陸海軍の大学の卒業式に出席していました。その場合でも、激励の言葉は何もありませんでした。一言も言わなくても、卒業生たちは、「天皇陛下は私たちの卒業式に出てくださった」という意識があって、自分の一生を日本という国のために捧げたくなるだろうと明治天皇は判断しました。

 憲法をつくるときの会議は百何十回も開かれ、明治天皇は百回出席しましたが、一度も発言はありませんでした。明治政府の要人の多くは戊辰戦争のときに業績があった人たちでしたから、内閣はあまり法律に詳しくない人たちだったのです。もし明治天皇が臨席しなければ、冗談を言ったり、あるいは猥談を飛ばしたり、居眠りをする人もいたかもしれません。天皇の前では不真面目なことはできません。ですから、明治天皇は何も言わなくてもよかったのです。

 明治天皇の克己心は極端でした。憲法の会議のときに、次男が亡くなったという知らせが入りました。明治天皇はそれを聞いて、「うん」と言いました。それだけです。そして会議は何事もなかったように続きました。しかしそれは、明治天皇にとっては大変な打撃だったのです。のちの大正天皇は生来体の弱い子どもでしたから、次男さんがどんなに大切であるか、誰もが知っていました。しかし明治天皇は全然顔の表情にも何も示さなかったのです。克己心が非常に強い人でしたから、自分の弱さを絶対に人々に見せたくなかったということだと思います。

 よく歴史の本に、「本当の力は別の人のところにあって、明治天皇は愧儡とか、人形みたいな存在にすぎない」と言われたりしていますが、彼は決して愧儡のような存在ではなかったのです。何回も自ら決意しました。

 私が明治天皇のことを書こうと思いたった頃に、日本人の友達は、すぐに「女性関係は大変なものだった」と笑って言いました。たしかに明治天皇は、少なくとも十五人の女性と関係がありました。しかしそれは、義務感のひとつだったと考えられます。つまり、目的は子どもを生むことでした。もしも皇太子――のちの大正天皇に何かあれば、他に男性の子どもはいなかったのですから、誰が次の天皇になるか、という大きな問題がありました。その時点で、日本に内乱があり得るかもしれないし、皇室とあまり関係のない人が、「自分が次の天皇になる」と言い出すかもしれません。

 知られている子どもは十五人でした。そのなかで、十人が二歳にならないうちに亡くなりました。当時の農家では子どもの生存率はだいたい十人に六人ぐらいでした。天皇家は十五人のうちの十人までが、脳膜炎という同じ病気で早く亡くなりました。当時の医者たちの腕が未熟だったとか、皇居は陰気なところで子どもの生育には良くないとか、あるいは祖先から受けた血があったからとか、いろいろな説があります。

 明治天皇と皇后との関係は、ある意味で最高でした。彼女は素晴らしい人物だったと思います。しかし、結婚してからまもなく、彼女は子どもを生むことができないと分かりました。そうすると、どうしても側室、皇居の言葉でいうと、権典待[ごんのてんじ]が必要でした。その権典待は、最高級の貴族の娘ばかりでした。明治天皇が彼女たちを愛していたという証拠はまったくありません。子どもを生んでくれるなら誰でもいいということだったようです。明治天皇も好き嫌いはあったはずで、八人の子どもを産み、最後まで仕えた園祥子という女性を明治天皇はいちばん愛していたかもしれません。

 大正天皇の場合、明治天皇が大変厳しかったようで、彼は結婚するまで女性に近寄ることができませんでした。それは東洋の伝統に反していましたが、しかし明治天皇はそれを義務感のひとつだと、あるいは克己心のひとつだと思っていたかもしれません。要するに、当時の常識からみても、明治天皇の女性関係は、特に乱れたものではありませんでした。「自分は明治天皇の私生児の孫だ」と誇って言う人がいますけれども、信用しないほうがいいです。

 明治天皇が亡くなったずっと後に、明治天皇の娘のひとりは、「父親が笑うところは一度しか見ていない」と言いました。いつも怖い顔をして、子どもたちには非常に近寄りがたい存在だったのです。中国の歴史を読みますと、皇帝が女性のために悪政を敷いたとか、女性との関係で失脚したとかいう話があるので、明治天皇は絶対に女性に左右されたくないと思っていました。自分の娘たちに対しても、小さい子どものときでも大変冷たかったわけです。

なぜ伝記を書こうと思ったか
 どうして私自身が明治天皇の伝記を書こうとしたか、ということをお話しします。私はその直前に『日本文学の歴史』全十八巻(中央公論社・一九九四~一九九七年刊)を完成しました。毎日必ず大学の図書館に行って本を探し、日本文学の歴史を書くのに二十五年間かかりました。書き上げたときには、一応嬉しかったのですが、同時に生涯の伴侶を亡くしたような感じがして、とても寂しくなりました。二十五年前からずっと一緒だったその伴侶がどこかへ行ってしまって、もう私と関係がなくなったような感じがありましたから、私は違うことをやりたいと思い、誰かの伝記を書いたらどうかと思いました。

 ある出版社の編集者が、「三島由紀夫の伝記を書いたらどうか」と勧めてくれました。私は三島さんと大変仲が良かったし、長い付き合いでしたが、しかし私は、しばらく文学の世界から離れたいという気持ちがありましたから、誰か文学者ではない人の伝記を書こうと思いました。

 私はずっと前から、明治時代はたいへん不思議な時代だと思い、魅力を感じて、あれほど面白い時代はないと思っていました。そこで、明治時代の誰の伝記を書いたらいいかと自問しました。伊藤博文でもいいし、木戸孝允を書いてもいいし、いろいろ可能性がありましたが、私は明治天皇の伝記がないということに気がつきました。

 私にとって幸いだったのは、『明治天皇紀』(宮内省臨時帝室編修局編修・吉川弘文館刊)という十三冊の本があったことです。これは嘉永五年(一八五二年)九月の誕生から明治四十五年(一九一二年)七月まで、六十一年間の明治天皇の公私にわたる記述で、大正四年から昭和八年にかけて編纂された、大変立派なものです。引用文がある場合、必ず、どこが原典だったか書いてありますから、大変助かりました。

 私は、明治天皇のことを書こうと思ったときに、明治天皇を書くことはどんなに難しいかということを十分に知りませんでした。やってみますと、実に難しいことでした。立派な人物だと思いますし、大変感心しました。しかし、どういう人間であったのか、何を考えていたか、どういう気持ちだったのか、それをどうしても知りたいと思いました。

 結果としては、私の『明治天皇』(新潮社刊)という本の書評を書いた日本人の新聞関係の人は、みんな「明治天皇のことをこれほど詳しく知ったのは初めて」だと言って褒めていました。その後、英語の本も出ました。英語の書評も一応褒めていましたが、しかし、「明治天皇は遠い存在、分からない存在」とか、「まったく私たちと離れたところにいる人だった」と、日本の反応とは正反対でした。私は、海外でのそういう言葉も分かります。ヨーロッパの王様の伝記を読むときは、必ず王様の手紙や日記を引用しますが、明治天皇の場合は引用できるものがそれほどありませんでした。それで、西洋人は不十分だと思うのかもしれません。

 もうひとつの観点があります。それは、同じ時代の他の皇帝はどういう人物だったか。先ほどちょっと触れましたが、どう考えても、ドイツの皇帝ウイルヘルム二世は、本当に悪い人でした。彼は「欠点のある人」ではなくて、「欠点だけの人」でした。彼の行動がそうだったし、彼の伝記を読むと、サド的な面があり、人をいじめることが好きでした。彼はまた偏見の持ち主、東洋人は西洋人を脅かす存在だという「黄禍説」は、ウイルヘルム二世がつくったものです。

 ロシアのニコライ二世は、まったく無責任でした。彼のおかげで日露戦争が起こったと考えられます。彼は日本を訪問し日本国内を回っている最中に、大津で刀で刺されて怪我をします。いわゆる大津事件ですが、そのときから日本人のことをヒヒと言っていたことが、当時の内閣にいた人の記録に残っています。

 こういった自己顕示欲が強い、自分の好き嫌いであらゆることをやった同時代の皇帝と比べて、明治天皇にはわがままなところも、偏見もなかったと思います。彼は父親と完全に違う人間でした。孝明天皇は、外国人を一度も見たことがありません。そして、ひとりでも外国人が日本の土を踏んでいる間、日本の神々に対する大変な冒瀆だと思っていました。いつもいつも攘夷ということを考えて、しょっちゅう攘夷論議をしていました。

 孝明天皇が亡くなってから半年以内に、満十五歳の明治天皇が外国人に謁見をしています。当時の彼の姿が外国人の描いたものに残っています。顔は真っ白で、口紅をつけていました。歯は黒く染めて、眉は剃って、別の眉を描いていました。外国人はそういう彼を見て、これが近代の君主だろうかと思いました。しかし、それから半年たつかたたないかのうちに、明治天皇は髪を切り、軍服姿で写真を撮っています。新しい明治天皇の時代が始まりました。

むすび
 伝記を書く場合は、対象人物に惚れなければなりません。そうでなければ、途中でもう興味がなくなったり、書くのをやめたいと思うから、どうしても惚れたい。残念ながら明治天皇は、大変惚れにくい人でした。私は大変立派な人物だったと思いますけれども、しかし遠い存在でした。

 私は文学者ですから、明治天皇のことを書くときでも、なるべく楽しく読めるように、文学的に、なるべく面白く書きましたけれども、事実を曲げたことはないと思います。なるべく事実を曲げないようにして、分からない場合は「分からない」と書きました。

 雑誌連載は六十四回、五年以上かかりましたが、私は全部書き終えて、やはり明治天皇を書いて良かったと思いました。

 ありがとうございました。

(コロンビア大学名誉教授・PhD・文・コロンビア大・昭17)
(本稿は平成14年11月20日午餐会における講演の要旨であります)