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学士会アーカイブス

裁錦会と私 石川 忠久 No.836(平成14年7月)

裁錦会と私
石川 忠久
(二松学舎大学学長・桜美林大学名誉教授)

No.836(平成14年7月)号

編集部から、裁錦会のことを、との注文を受け、何気なく引き受けてしまったが、実は私は詩を寄稿してはいるものの、二ヶ月に一遍の例会には、近年殆ど出席していない。すなわち、裁錦会を代表する資格はない。そこで、今は最古参の一人となった私なりの思い出や感想を述べることとし、表記のように「裁錦会と私」と題した次第である。

「裁錦会」とは、学士会の中の、漢詩を作る会である。

「学士会会報」の末尾近くに、草樹会(俳句)や短歌会と並んで、会員の作品が載せられている。

そもそもこの会は、昭和六年に設立され、戦後途絶えていたものを、昭和四十二年に“復興”したのであった。今、手元にある「会報」No.六九五(一九六七-Ⅱ)を見ると、次のような記事が掲げてある。(五十頁)

裁錦会再興発会記事

昭和四十二年三月二十四日午後五時、漢詩同好の会が、戦前の伝統ある裁錦会の名の下に、久方ぶりに再発足することとなり、会館三階において発会を兼ね再興第一回の会合を開いた。

この日細雨を衝いて会する者十四名、和気藹々裡に晩餐を共にした後、会の運営方針について諮り、大綱を定めた。即ち今後当分の間、毎偶数月(八月を除く)の第三火曜日午後五時に会合することとし、各自持ち寄りの近作につき相互に忌憚なく所見を述ベ研鑽に資することとした。作品中各自選一首を会報に掲載することも全員之を諒とした。

次回、四月十八日の再会を約して午後八時半解散した。当日の出席者左の通り(卒業年次順敬称略)。

神山 政良(明42)  高田 真治(大6)
 香川 壽人(大 8)  成田 雄三(大10)
 福島 熊男(大10)  青木 三弦(大10)
  高島 令三(大12)  高野 源進(大12)
 清水 精吉(大12)  中島義四郎(大12)
 井上萬壽藏(大12)  齋藤  晌(大13)
 西脇  安(昭3)  安武 政敏(昭6) 以上

そして、三十八頁には、早速七人の会員の詩が載せてある。これらの方々のお名前をあらためて見ると、懐かしさが胸にこみ上げてくる。一番若い安武氏が昨年九十余歳で亡くなったのであるから、皆さんとうに鬼籍に入っておられる。思えば三十五年経っているのだ。

復興第一回の作品の中から、喜びの声を聞いてみよう。(訓読は石川がつけた)

喜裁錦會再興  裁錦会の再興を喜ぶ
               舒菴 井上萬壽藏
 群賢往歳錦同裁  群賢往歳 錦[とも]に裁ち
 俊秀今宵又會來  俊秀今宵又会し来たる
 學士館中人共喜  学士館中 人共に喜ぶ
 神州奎運自茲開  神州の奎運[]れより開かん

喜裁錦會復興憶土屋竹雨先生
    裁錦会の復興を喜び土屋竹雨先生を憶ふ
               櫨山 安武 政敏
 春宵衝雨集吟朋  春宵雨を衝いて吟朋集ひ
 裁錦詩筵復剗燈  裁錦の詩筵 復た燈を剗(けず)る
 多是竹翁門下傑  多くは是れ竹翁門下の傑
 劇談慷慨誓猶興  劇談慷慨 誓ひ猶ほ興る

当夜の雰囲気が伝わってくるようだ。安武氏の詩に見るように、土屋竹雨先生(昭和三十三年没)の門下の人たちが主になって、裁錦会を復興したことがわかる。

この会報の一つ前の号(No.六九四)に、朝倉毎人氏(号騎堂・京大・法・明40)が、「鷹揚茅舎詩草随筆」と題する文章を寄稿し、

「以前は本誌上に諸先輩の漢詩を好く見かけたが近来その淋しさを感じたので自らはからず不肖を顧みず、詩草随筆を載せることとした」

と述べ、自作漢詩三首(七言絶句)を披露している。

私が裁錦会に加わったのは、昭和四十五年の暮、安武氏に誘われたことによる。

もともと私は少年の頃、さる老先生に漢詩の手ほどきを受け、爾来何となくこの世界に魅せられて、東大では中国文学科に進んだ。ただ、戦後のこととて、学科の主流は魯迅を始めとする新文学であり、古典を専攻する学生は少なく、まして漢詩をやろうなどという者は皆無であった。

当てが外れ、仕方なく独りでポツポツやらざるを得ない。幸い、学科の大先輩に宇野哲人、塩谷温、佐久節といった高名な長老がたがおられ、茶話会などでその謦咳に接することが出来、大いに喝きは癒された。

そうこうするうち、昭和四十年からNHKテレビで「漢文」が始まり、それを担当することになった。四十四年からは、湯島聖堂の斯文会で「唐詩鑑賞講座」を依嘱された。斯文会で講座を担当するようになって、斯文会の詩会である「聖社詩会」の方々とも次第に馴染みになった。

聖社詩会はその頃、裁錦会のメンバーでもある高田真治、麓保孝、安武政敏の諸氏が中心となっておられた。私が裁錦会に誘われたのには、こういう背景があったのだと思う。

私が初めて例会に出席したのは、昭和四十六年二月であった。その時の様子を今も忘れない。

長老がたの醸し出す、一種ゆったりとした閑雅な雰囲気があたりを包み、次元の違う世界に迷いこんだような気がしたものだ。

会員の多くは、会の主宰的立場にある斎藤晌(荊園)先生(当時七十歳ぐらい)より年長で、九十近い人もおられた。何しろ、雑談の折、戦争の話になったが、チーフだの、チンタオだの、ダンケルクだの、タンネンベルクだのと、どうもおかしい。なんと太平洋戦争に非ずして、第一次世界大戦の話に興じていたのだった。

そういう古老の中に混って、四十そこそこの若造の戸惑いも大きかったが、皆さん、私を専門家として遇して下さり、次第に “忘年の交”を結ぶに到った。

酬裁錦會見招  裁錦会に招かるるに酬ゆ
               岳堂 石川 忠久
 役形牽俗渇詩情  形に役せられ俗に牽かれて詩情渇く
 二句三年猶未成  二句三年 猶ほ未だ成らず
 學裁錦社中裁錦鏽  裁錦社中に錦鏽を裁てば
 筆頭應有五花生  筆頭[まさ]に五花の生ずる有るべし

これは会報No.七一二(一九七一-Ⅲ)に載った“入会挨拶”のような作。「二句三年」は唐の賈島の、「筆頭五花生ず」は梁の江淹の故事を取りこんだもの。

なお、その号には、前後して入会した名古屋の下条猛彦(鳳嶺)氏の、「四十三年の老素門」(新年偶作)という作が載っているが、下条さんは今も常連として活躍しておられる唯一の人である。

その頃の例会の模様を述べてみよう。

まず、夕刻五時頃から(その後、昼の会になった)、学士会館本館三階の会場に三三五五集り、雑談に興じた後、各自の作品の説明と会員の批評、感想が始まる。詩稿は、安武さんの知り合いで聖社詩会の会員でもある、古屋さんという文房具屋の主人が筆記したガリ版刷りのもの。

一句切りついたところで、下の食堂に移り、簡単な定食をとる。ビールで乾杯し、談笑のうちに食事が済むと、また元の会場に戻る。

批評は斎藤先生を中心に進む。先生は部屋の長方形の机の向こう中央に坐られる。私は烏滸がましくもその隣に席を占めた。会の常連には、神山政良(虎峰)、篠崎敏治(晃南)、大石蜂郎(三清)の、明治・大正初期卒業の長老、青木三弦(鎌山)、高島令三(梅軒)、中島義四郎(淮洲)の医学博士三人組、これに船医をしておられる成田雄三(萬濤)氏も時々加わる。いつも難解な詩を作る哲学者の市野沢寅雄(敬堂)氏は水戸から、鶴を愛し理屈っぽい詩を得意とする理学博士の四宮知郎(方泉)氏は熊本から参加、元鉄道博物館長の井上萬壽藏(舒菴)氏と安武氏が幹事役を務められる。会は八時過ぎまで熱心に行われて解散となる。

会が終ると、大石翁のお孫さんの運転する車で新宿駅まで送っていただくのが例だったが、そのうち、数学の先生の宮本大典(咸亭)氏や、私の寮友山崎栄一君(故人)が加入してくると、下条氏も混え、若手は神保町の喫茶店へ寄って再度の検討会が始まる。長老の前では遠慮していたこきおろし[、、、、、]も出て、楽しい時間だった。

かくして、私にとって裁錦会は、日頃の俗事を忘れる得難い風雅の会であり、二ヶ月に一度が待遠しいのであった。だが、やがて会の取りまとめ役の井上舒菴氏が亡くなり、九十を越えられた長老方も櫛の歯の抜けるように世を去られると、何となく寂寥感が漂ってくる。

憶虎峰晃南二翁  虎峰・晃南二翁を憶ふ
               岳堂 石川忠久
 佳話能知天寶事  佳話能[]く知る 天宝の事
 清風恰似漢初人  清風恰も似たり 漢初の人
 白雲寂寞塵寰外  白雲寂寞たり 塵寰の外
 攜手遨遊何處春  手を携へて遨遊せん 何処の春

神山虎峰翁は九十六、七、篠崎晃南翁は少し若い。お二人が相次いで亡くなられたことを悼んだ。天宝は唐の玄宗の年号、漢初の人は商山の四皓のこと。今ごろはお二人で仲好くどこで春を楽しんでおられるか、と。晃南翁は文化勲章の制定に預かったことがご自慢だったが。昭和五十四年五月の作。

会の柄を執っておられた斎藤荊園先生は、四国は宇和島の人。昭和初期より、阿藤伯海(後に一高教授、昭和四十年没)などと親交を結び、少壮漢詩人として鳴らした。『唐詩選』の評釈など漢詩に関する著述も多く、当時令名第一であった。

斎藤先生の評は流石に的確であった。プロの厳しさがあった。“勝手流”を通すものには、それがきつく感ぜられたのだろう、「自分は教わりに来ているのではない」と反論する人物が現れて、その日以後、先生はお出でにならなくなった。

いわゆる“古き良き時代”は、これで終ったように、私には思われる。あの名評が聞けなくなったのは大損失だった、と残念でしかたがない。それにもまして、先生を囲んで風雅の道を共にする喜びを失ったことは、取り返しがつかない。私は忙がしくなったこともあり、例会も間遠になった。それから間もなく、詩稿が締切りに一日遅れたことを理由に、その頃、会を牛耳っていたあの人物から、「忙がしいようなので、辞めなさい」との通告を受け、それきりになった。下条氏も宮本氏も飛び出したそうな。

それから何年、会員の顔ぶれも大分代り、飛び出した人たちも戻って、会は活発になり、“新しき良き時代”となった。私にも復帰のお誘いがあり、「前度の劉郎」よろしく、近ごろは欠かさず詩稿を寄せている。ただ、現在も忙がしさにかまけて例会に出席できないのが心残りだ。

最後に、提起された問題がある。ごく最近、次のような通信が、裁錦会幹事会から届いた。

「…会員数も、現在は三十二名を数えている。…この傾向はまことに喜ばしいことながら、一方で問題も生じてきた。
①…古典漢詩理解の一般的な浅薄化、ないしは、やや性急な新風樹立への試み
②…学士会会報スペースの不足
前者については古参会員から、有り体に作品レベルの低下との指摘が行われている。
…他方、変遷する社会にあって、過度に古典的形式に拘泥すれば、せっかくの伝統が、単なる旧慣の墨守に堕する虞もあろう。…適度の革新的試みは、漢詩への新しい生命の賦与という見地から、全員で追求すべきテーマであろう。…」

とし、

一、歴史的に確立された古典漢詩の約束事の尊重
二、高度の思想・情緒表現としての「詩」に、不適当な主題や語句を排する

という準則を立て、会員に賛同を求めている。

和歌や俳句もそうなのだろうが、漢詩の場合はことに、基礎になる知識や、基盤になる語彙を要するものだ。思うことを、漢詩の形にするまでには、絵でいうデッサンやスケッチに当る稽古を、少なくとも三年ぐらいはしなければならない。勝手流をやっていては、いつまで経っても“形”にならない。その代り、我慢して稽古を積めば、着実に上達するのがわかる。つまり、習い事としては、稽古のし甲斐のある道である。

今回の幹事会の決定は、これからの裁錦会の進むべき正しい道を指し示していると思う。この道を行く限り、伝統ある学士会の裁錦会は亡びることはないであろう。

(二松学舎大学学長・桜美林大学名誉教授・東大・文博・文・昭30)