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二十一世紀の科学と人間 米沢 富美子 No.835(平成14年4月)

二十一世紀の科学と人間
米沢 富美子
(慶応義塾大学教授)

No.835(平成14年4月)号

はじめに

こんにちは。今日は「二十一世紀の科学と人間」というタイトルで、お話させていただきたいと思います。二十世紀は「科学の世紀」、あるいは科学の成果を踏まえた「技術の世紀」と言われ、また「戦争の世紀」とも言われてきました。科学技術を使って、記述出来ないくらい恐ろしい兵器をつくって殺し合いをしてきた「戦争の世紀」。

二十世紀の間に戦争で亡くなった人は、一億人を超えているんですね。ということは、日本中の人口が全部いなくなるのと同じくらいの人が、死ななくていいのに戦争のために死んでいる。そういう世紀だったわけです。そういう世紀をみんなが見てきた。一世紀生きてきた人もいるし、後ろ半分生きてきた人、後ろ三分の一を生きてきた人もいると思いますけれど、そういう話を聞き、目撃してきたわけですから、二十一世紀こそはみんなが平和的な話し合いで解決出来るのかな、人間の英知がもっと平和な社会をつくってくれるのかなと思っていたのですが、いきなり武力による報復の連鎖が始まってしまって、まさにサイエンスと人間のあり方がますます問われる世紀になってきたなという気がします。

ですから、「二十一世紀の科学」ということを今から論ずることは、予想することもなかなか難しいですけれども、それの目安として、むしろ二十世紀の間、私たち――特に私は物理を専門にしている物理屋と言っているんですが――は、どんなことを明らかにしてきたかということを、なるべく専門の用語は使わないように話してみたいと思います。

百年前の二十世紀の予言

自然科学の中には、物理、化学、そして生物などの分野があるわけですが、私が専門にしているのは物理学です。物理学というのは、書いて字の如く「物の理を解き明かす学問」と私たちはとらえています。物というのは何かと言うと、森羅万象、この宇宙に存在する一切のものを対象にしているということになります。二十世紀の百年間は、人間の歴史が始まって以来のどの百年よりもサイエンスが進んだ世紀なのですね。二十一世紀を予測するために、百年前の人たちはどういう予測をしていたかということを、少し振り返ってみたいと思います。

二十世紀の最初の年の一九〇一年、一月二日、三日の報知新聞に「二十世紀の予言」という記事が載っています。私は今、慶応大学に勤めていますが、慶応大学では本でも資料でも探したいものは必ず見つけてきてくれます。大英博物館まで行って見つけてくる誇り高き図書館、「メディアセンター」があるおかげです。そこで探してもらった百年前の報知新聞というのは、当然、電子化されたデジタルな情報ではないので、新聞も皺が寄っていてボロボロになっているのですが、確かに「明治三十四年一月三日 二十世紀の予言」と書かれています。

いろいろな予言が載っていますが、まず、『無線電話が進歩して、東京にある者が倫敦(ロンドン)、紐育(ニューヨーク)にいる友人と自由に対話することを得ベし』と載っています。これは今では当然ですが、昔は電話というのは線でつながっていて、太平洋とか大西洋の中に太いチューブが通っていて、その中に電話の線が入っていたわけです。無線もあったのですが、それはモールス信号でツーツーとか、トントンという信号で情報を伝え合っていたわけですね。当時から、モールス信号でSOSを伝えたりすることは出来たわけですけれども、実際に、モールス信号を使って最初にSOSを伝えたのは、一九一一年のタイタニック号が沈んだときだと言われています。

その頃は、それこそ鉄道唱歌ではないですけど、新橋から汽車が通っていて神戸のほうまで行っていましたが、一日仕事というか、かなり時間がかかったようです。それが、二時間半で行けるようになると予測しています。これは、科学的な根拠があったわけではなくて、これくらいになるだろうとか、なってほしいという気持ちだったと思うのですが、非常にいい予想で、今、新幹線「のぞみ」に乗れば二時間半ちょっとで行くことが出来ます。

それから、車の世の中になる。これはもう、ぴったり当たっていますね。

それから電気。昔は、電気はどこの地域でもあったわけではなくて、しかも夕方六時頃から朝の六時頃まで本当に暗い間だけ電気がきて、天井に裸電球が一つある。今で言うならば東南アジアの途上国のような状況だったわけです。ですから、クーラーや暖房なども当然ないし、冷蔵庫ももちろん使えないわけですね。それが、今は日本じゅう津々浦々、電気がないところはない。離島みたいな所でも自分たちで発電している。この点については、もしかしたらアメリカより進んでいるかもしれません。アメリカは広すぎて、電気を網羅することが出来ない部分もあるようです。

身長も、昔は五尺だったみたいですが、いまは六尺。明治時代は、男性でも百五十センチくらいだったのが、今は百八十センチくらいが普通になっていますね。そして、病気の治療も進歩した。

予想がはずれたのは、暴風を防ぐということですね。今、天気予報で「台風何号が沖縄の南の海上を風速何メートル……」と、やってくるのが分かっているのだから、止めてくれればいいのにとも思いますけれども、それは出来ませんし、そういうことをすれば地球の環境をものすごく破壊してしまうことになるわけですね。ですから、何時に何処へどのようにやってくるかということが分かるだけでも、大きな進歩だったと思います。

もうひとつ予想が当たらなかったのは地震の予測ですね。これは多分、何年かかっても難しいと思います。何故難しいかというと、地震が起こるには非常に多くの異なる要因が協力現象的に働くわけですね。その異なる要因というのは、あるものは非常に長い時間で働いていて、あるものは非常に短い時間で働いています。そういうものが混ざっているときは予測が出来ない。複雑系という話が数年前に流行りましたが、地震のメカニズムはまさに複雑系そのもので、ぴったりと予測は出来ない。例えば「あと百年の間に東海地方で大きな地震が起こる可能性が何十%」とか、そのくらいの予測しか出来ないわけですが、予測してもこれはどうかなという面もありますし、いつまでたっても予測は出来ないでしょう。むしろ、そういう予測不能の自然に畏れを抱きながら暮らしていくことが大切かな、という感じが私はしています。

子どもの頃の二つの疑問

女性で物理学を専門にしているのはめずらしいことのようなのです。私自身はぜんぜんめずらしく思わないのですが、皆さんは「何で物理学をやったの?」と、聞かれるのですね。インタビューなどでそういう質問をされて、私は何故物理を専門にしたのかと考えるようになりました。そもそもの発端は子どものときに抱いた疑問ではないかという気がします。

私が子どもだったときは、周りでおこっている全てのことが不思議で、「何故こうなの、これは何で? 何故、どうして……」と、親や先生に片っ端から聞いて、周りも「うるさい子だなあ」と言って、私の傍に寄らないようにして、大人が逃げちゃっていました。そういう状況だったのですけれども、様々な不思議があった中で、二つのことが非常に不思議でした。

私は大阪府の吹田市という所で生まれましたが、その頃はまだクーラーなどはありませんので、夏には夜になると外に出て夕涼みをするわけですね。当時はネオンサインもないし、いろいろな公害もないので、空がすごく綺麗で星が綺麗に見えたんです。今とは比べ物にならないくらい、たくさんの星が見えました。その星たちを見ながら、私の母が星座の名前をいろいろ教えてくれたんですね。それがすごく綺麗だし、不思議で仕方がなかったんです。「あの星座の向こうの、宇宙の端っこまで行ったらどうなっているのだろう。宇宙が全部を包むものだとしたら、端っこというのは何を意味するのか。その端っこの向こうは何だろう」というようなことが心配で、夜も寝られなかったんです。まあ、寝られないと言っても子どもですから、すぐ寝ちゃったわけですけど。

もう一つは、宇宙がいつ始まったかということが不思議だったんですね。子どもだから、無限大というコンセプトは分からないのですが、無限の昔からずっと今まであるのか。あるいは昔のある時点でこの宇宙が始まったのか、それが不思議だったのです。周りの人は誰も答えてくれなかったわけですが、私が子どもだった頃の世界の物理学の状況では、まだこの質問に対して全て答えられるような状況ではなかったと思います。五十年くらい前ですけどね。

二十世紀の物理学が解明してきたもの

でも、それから五十年の間に、二十世紀の前半に積み上げて来たものを後半に花咲かせて、この両方のことが分かりました。それで、パラダイムシフトに関する小論文を九年くらい前に書かせていただきましたが、二十世紀の物理学のパラダイムをおこした理論は、要素還元論と量子論、そして相対論です。

要素還元論というのは、実は二十世紀の専売特許ではなくて、十七世紀頃からデカルトが科学の方法として既に提案していたものです。それから、量子論、相対論はアインシュタインその他、二十世紀初頭の物理学者たちが協力してつくり上げたもので、これは二十世紀に出来た新しい方法論です。

まず、要素還元論というのはどういうことかというと、私たちが目にする物体は種々雑多な形、数えきれない多くの形をしているわけです。例えば、私たちの体、このマイクロホン、机、すべて違います。肌触りも違う、見た感じも違う。だけど、それを分解していくと、そんなにたくさんのものではない要素で出来ているに違いないという考え方です。ですから、どんなに複雑なものがあっても、それを構成している要素は単純で、しかも有限の数だということですね。

元素周期表をご覧になったことがあると思いますが、水素に始まってヘリウム、酸素や炭素、シリコン、窒素などいろいろ並んでいます。今、見つかっている元素は百十くらいあります。それらの元素でもって、私たちの体も机も出来ているというのが、要素還元論です。その小さい、小さい、構成要素をつきとめて行ったのが二十世紀の物理学です。しかし、その要素は半端なものじゃなく、本当に小さいのです。私が単に「本当に小さいんです」と言ってもなかなか伝わらないと思いますので、比較しながら説明します。私たち物理屋さん、あるいは化学屋さんたちが実験するときは、顕微鏡の下とか、今は顕微鏡以外にもありとあらゆる測定器がありますが、その下にサンプルを入れます。そのサンプルは一センチもないくらい、何ミリとか、〇・何ミリです。目で見ることが出来て、ピンセットで取り上げることが出来て、普通の物差しとか秤で長さを測ったり重さを測ったりすることが出来るものです。それが、実はさっき言ったように元素あるいはアトム(原子)から出来ているわけですが、アトムがどのくらい小さいかを見るために、私たちの使っているサンプルを地球の大きさとすると、アトムはやっとパチンコ玉の大きさになります。そんな小さいものが、この私たちの体やマイクロホン、机の中にいるわけです。

アトムとはもともとギリシア語で、「それ以上は、小さく分けられない」という意味でした。ところが、実はアトムも究極の要素ではなくて、他のもので構成されているということが二十世紀になって分かってきました。パチンコの玉大にしたアトムですが、真ん中に原子核があって、その周りに電子(エレクトロン)が回っているわけです。電子は最近、電子メールとか電子マネーとか、皆さんも、日々、お聞きになっていると思いますが、その電子ですね。

アトムを原子核と電子に分けたときに、アトムがパチンコの玉だとすると、原子核は針の先で突いたくらいの大きさなのです。その原子核も最終のものではなくて、まだ原子核も他の部分から出来ているのです。原子核を構成しているものは陽子(プロトン)と言われるものと、中性子(ニュートロン)と呼ばれるもので、その中にクォークというものが入っています。クォークは、この頃、テレビでも頻繁に出てきたりするので、わりと耳慣れていらっしゃる言葉ではないかと思います。今の段階では、クォークこそが究極の素粒子、いちばん元になる要素だと考えられています。

けれども原子核が針の先で突いたようでは、クォークはどうやって表現したらいいか分からないので、原子核の中に入っている陽子を、今度は太陽系とします。そうすると、クォークはやっとパチンコの玉になります。太陽系ですよ。さっきは、サンプルを地球としたのですが、太陽系は太陽の周りに水星・金星・地球・火星・木星・土星・天王星・海王星・冥王星と覚えたと思いますが、とても大きいんですね。陽子をそのすごい大きいものだとしたときに、クォークはやっとパチンコの玉だということが分かりました。ですから、二回拡大操作をしているわけですが、それくらい小さいものまで二十世紀の物理学は解明してきました。

次に、大きいほうを考えてみます。この世の中でいちばん大きな存在は、宇宙そのものです。全ての大きさを一つのグラフで表現するのは難しいのですが、次のように考えましょう。皆さんも光が走る速さをご存じでいらっしゃると思います。

光というのは、この世の中でいちばん足の速いものなんですね。光は、一秒間に地球の赤道の周りを七周り半します。私の声とか一般の音は一秒間に三百四十メートル、一キロ行くのに三秒かかるわけです。光は、一秒間に地球七周り半のすごいスピードで走って、太陽まで行くのにどれくらいかかるかというと、十分くらいかかります。ですから、太陽が日の出で見えたとき、本当は約十分(八分何秒ですが)前に太陽から出た光が、一秒間地球七周り半の速度で、せっせ、せっせと一度も休まないで地球にやってきて私たちが見る。それが、十分くらいかかるわけですね。

では、その光の速度で宇宙の端から端まで行くとどうなるかというと、それは百億年かかるんです。ちょっともう考えることも出来ないくらいの大きさです、宇宙は。「そんな見てきたような嘘みたいなことを、よう言うて」と思っていらっしゃるかもしれませんが、それは地球の上に降り注いでくる宇宙線とかいろいろな情報を解析することによって、二十世紀の物理学はそういうことが分かるようになったわけですね。

いちばん大きいのが光の速度で百億年かかる宇宙。いちばん小さいのが二度拡大してやっとパチンコの玉になったクォークです。この間、宇宙からクォークまで四十四桁のものを、私たちはこの百年間に明らかにしてきたわけです。宇宙があって、それからだいぶ下がって太陽系――これは、十の十二乗メートルくらいです。それから地球があって人間があって、またずっと下がって原子があって原子核があって、クォークがあるというわけです。私たちは、それだけの広さのものを解明してきたということになるわけですね。

人間は、だいたい一メートルのところです。私などは、ご覧になってお分かりのようにあまり背が高いほうではないので、いつも「あと十センチ欲しいな、せめて五センチ欲しいな」とか思うのですけれども、四十四桁の関係を考えるととても壮大な気持ちになれるので、私は宇宙からクォークまでのことに思いを馳せるのが大好きなんです。以上は、長さに関する話でした。

次に、宇宙の時間のことを考えてみたいと思います。今、ビッグバンという言葉は、例えば「経済のビッグバン」とか、いろいろなところで使われていますけれども、もともとは宇宙の始まりを表すために使われたものです。ビッグバンとは文字通り大爆発があって、非常に小さかったものが爆発して、それが膨張していって今の宇宙が生まれてきたことがわかりました。ビッグバンがいつおこったかについては、百二十億年前とか百五十億年前とか、そのとき、そのときの研究のデータで変わります。ですから、これも見てきたような嘘みたいなことなんですが、今はだいたい百二十億年くらい前が妥当な線だろうと言われています。

我々の太陽が出来たのは、それからだいぶ後です。八十億年前から五十億年前の間に太陽が出来て、太陽からちぎれて太陽系の惑星がだんだん出来てきたわけですね。その一つである私たちの地球は、四十三億年くらい前に出来て、その上に生命が誕生したのが三十七、八億年前だと言われています。ただ、生命といってもイヌとかチューリップの花とか、そういう進化した形ではなくて、単細胞、たった一つの細胞のものが三十七、八億年前に生まれたんですね。これは、かなり確実なインフォメーションで、地質などを調べれば化石になって残っているのでわかります。その単細胞の生命が、私たちが今見ているほど進化していなくても、ともかく多細胞になるまでにまた三十億年かかっているわけです。

そして、ちょうど六億年くらい前に「進化のビッグバン」と言われるものがありました。ここでビッグバンというのは、別に何かが爆発したわけではなくて、動物とか植物の種の数が爆発的に増えたので「進化のビッグバン」という呼びかたをしています。ただ、ここで生まれたものの九九・九%は、もう、今はありません。絶滅しています。ですから、今残っているものは〇・〇一%あるかないかだと言われています。今、地球上にある動物、植物、熱帯雨林などではまだ解明が進んでいないものも多く、全容は解明されていないのですが、進化の中で生き残ることは環境との兼ね合いでとても大変なことなのです。一桁下がって、六五〇〇万年前に恐竜が絶滅しました。これは、いろいろな説がありますけど、地球に彗星が落ちて地球の温度や環境が激変したために、恐竜が絶滅したと考えられています。他の動物も植物もいたわけですが、体の大きいものほど環境の急変に対する対応が苦しいようです。

恐竜が絶滅したおかげで、恐竜に食べられていた哺乳類が繁栄するようになって、その中から人類が出てきたということになるわけですね。地球が出来てから、あるいは生命が生まれてから三十億年、四十億年かけて、今の地球環境がつくられているわけです。その途中のプロセスで、海の温度が一度高くなったり、何かがちょっと違っていたら人間なんて存在していない。私たちは、今、この会場にいないかもしれない。ですから、私たちが今地球上に生きているということは、何十億年をかけてつくられてきた環境にいちばんフィットするもの、いちばん合ったものということになっているわけです。せっかくそのいちばん合った環境の中で進化し、残されてきた自分たちの住みやすい環境を、たったの百年で変えてしまうというのは、すごく恐ろしいことなのです。ですから、「地球が住みづらくなったら、火星に移住すればいい」とか、そういう話ではすまない。私は地球というものを、とっても大事に大事に考えていきたいなと考えています。

これが、二十世紀の物理学です。もう、とてもたくさんなことをやったので、何もすることが残ってないのではないかという説もあるくらいですが、そのような状況の中で二十一世紀の物理学の新しいパラダイムが出てくるわけです。

二十一世紀の科学技術の特徴

①進歩の速さが加速度的
 まず、二十一世紀の科学技術の特徴を考えてみたいと思います。第一に進歩の速さが加速度的で、あまりに速過ぎて、人間の英知や倫理というものがついていけない面があると言えると思います。

いちばん典型的な例としていつも話に出るのは、電話ですね。電話はそれこそIT、情報革命のいちばん元になったものです。先ほど、二十世紀の予測のところで「無線電話が出来る」という話がありましたが、ちょっと振り返ってみると、三十年前の一九七〇年頃には、まだ一軒に一個の電話があったか、なかったかというような状況でした。近所に商売をしている家や少しお金持ちの家があると、そこには電話があってそれを借りて使う。名刺に電話番号を書いて、(呼)という字を悪びれず堂々と書いてある名刺がしょっちゅうありました。それで、電話がかかってくると、おばさんが「電話ですよ」と言って呼びにきて、「あ、すいません、すいません」とか言って借りに行くという状態だったんですね。でも、一九八〇年頃になると、だいたい一軒に一台の電話が行き渡るという状況になったと思います。

そういう状態になるまで、一九〇〇年から非常にゆっくり進んできたわけです。ところが、その頃からは進歩が加速度的になる。一軒に一台の電話があると、今度は公衆電話が増えます。公衆電話は、いくらそんなものがあっても自分の家に電話がなかったり、かける相手の家に電話がないと役に立たないわけですね。かける相手が電話を持っているととても便利になるもので、公衆電話が非常に増えてきたと思います。それが、一九八〇年頃の状況です。

そして、一九八〇年代の中頃になってファクスが出てくるわけですが、それでもまだ少なかった。私は、一九八六年にある新聞社のコラムを持っていて、五、六紙の新聞を毎朝読んでその批評をするコラムでした。あるニュースについて、どう取り上げている、これはああだ、あれはこうだというコラムなんです。それは、日曜日の朝刊に載るのですが、金曜日の午後四時が締め切りなんです。金曜日の朝にきた五つの新聞も読まないとならないから、とても忙しい。

金曜日の午後二時になると、その新聞社のお兄さんがバイクに新聞社の旗を立てて取りにくるわけです。その二時から四時までの二時間が追い込みに貴重な二時間なので、私は思い切ってファクスを買ったんですね。多分、その原稿料を全部入れても買えないくらい高かったんですけど、まあとにかく時間が欲しかった。それでファクスを買って、四時に仕上げて新聞社に電話をかけて、「今、ファクスで送りました」と、ちょっとかっこよく言うわけです。そうすると向こうは、「あ、すいません。ファクスは二階の科学部にしかないので、ここは五階ですから行って見てきます」とか、そんな感じだったんです。日本一と言われる大きい新聞社でもそうだった。ところが、一九九〇年頃になったら、もう電話とファクスを併記している名刺が当たり前になりました。

それから、ポケベルが普及しだして、病院でも先生を呼び出すのに使われていたし、いろいろな使われ方をしていました。やはり高校生たちがポケベルを使って通信をして、ポケベルはアルファベットとか数字とか限られたものしか送れないわけですが、それでいろいろ言葉を使って、「ポケベル用語」みたいなもので通信をしていたわけです。

そしてすぐ、九〇年代の中頃になって、携帯が出だした。私も一九九六年に、事情があって携帯を買いました。私は結構ミーハーなので、デザインをいろいろ見て、そのときいちばんかっこいい機種を買ったわけです。それで、みんなに「かっこいいでしょう」と言って見せていたのですが、その携帯は黒くて七〇〇グラムくらいあるんです。充電器が三〇〇グラムくらいあって、両方で一キロ。ですから、出張のときはその一キロを持って行くか行かないか、ずいぶん悩みました。その携帯はいまだに私の傍にあって、電話をかけるという機能自体はまったく不足なく働いています。でも、Eメールを送ることはもちろん出来ないわけです。今は、みんな電車の中で使っていますが、掌に入るような軽い、軽いものですね。学生などに、私のその第一世代の携帯を見せると「先生、もうそろそろお宝鑑定じゃないですか」とか言われちゃって、五年間でもう化石になってしまう、骨董品になってしまう、そういう速さなわけですね。

コンピュータもそうです。去年買ったものと今年買ったもので、速さが十倍違うんですね。一昨年買ったものと比べれば、速さが百倍違うわけです。今年買ったもので一時間で出来る仕事は、一昨年買ったものでは百時間かかったわけです。一時間と百時間程度だったら、まだかわいいかもしれないですけれど、一年ですむものに百年かかっていたとしたら、学生は卒論など書けないわけですよね。ですから、去年や一昨年に買ったものは、粗大ゴミになってしまうのです。コンピュータというのは、すごい苦労をしてお金をつくって買って、買った途端に一所懸命働いて元を取らないと、どうしようもない。今の進歩の仕方でしたら、そういうものだという感じがします。

とにかく、そういう加速度的になっている状態は、コンピュータだけではなくて生命科学についても言えると思います。例えば、クローンにしても二十一世紀もずっと先にならないと出来ないと思っていたものが、二十世紀の内に出来てしまったわけです。

②科学の対象となる分野が広範
 それから、科学の対象となる分野が非常に広くなります。ですから物理学だけではなく、生命そのものや、生まれるときの技術、それから死ぬときの技術ですね。人工授精であったり、死ぬときもそう簡単に死なせてもらえなかったり、生と死の両方が管理されてくるという感じです。

当然、科学の中の各分野も領域が拡がってきます。従来でも、DNAは二重螺旋(ダブルヘリックス) だというのをワトソンとクリックが一九五三年に発見したのですけれども、ワトソンもクリックも物理学のPhDを取った人で、それを発見した手段はX線回折なんですね。X線というのは、皆さんが胸のレントゲンを撮るときのあのX線です。DNAの二重螺旋の発見を、まさに物理学そのものの手段でやっているわけです。

一世紀前、二十世紀初めの頃の生物学は分類学みたいなものでしたし、私たちが高校で学んだ生物もその程度だったと思うのですけれども、DNAなどのレベルになってきたときは、やっぱり物理学のレベルでの解析が非常に大切になってくるということです。こう言うと物理学が威張っているような感じがするのですが、物理はあらゆるサイエンスの基礎で、これから物理化学、生物物理といった境界領域がますます重要になってくると思います。

③利潤追求が明らさまに
 また、科学技術研究の推進力として、利潤の追求がとても明らさまになってきました。例えば、ヒトゲノム計画という言葉をお聞きになったことがあると思います。人間のDNAをすべて解読するという計画で、ノーベル賞を取った人がそれをやってみようと、一九八八年にスタートしたわけですね。ヒトゲノムの解読というのは、非常に退屈な仕事です。DNAを一つずつ取って、それをケミカルに分析してコンピュータに入れるという非常に退屈な仕事なので、世界の科学者や技術者がどれだけ協力してくれるか分からない。ですから、これが完全に解読出来るのは二〇二五年か二〇三〇年で、それから利用が始まると言われていましたので、「ああ、私はもう間に合わないな」と密かに思っていたのです。

ところが、DNAを解読してパテントを取って二十一世紀の治療や薬に使うということになれば、何兆円マーケットになるということに、もう皆さんもご存じであるベンチャー企業が、あるとき気付いたわけです。そこで、大学や研究所では遅いコンピュータでゆっくりとやっているのを、そのベンチャー企業は大きな体育館みたいなところに何百台ものコンピュータを置いて、人を養成してアッという間に解読してしまいました。何故、そんなことをしたかというと、それを使って二十一世紀の医学、薬学、医療技術のすべてが、そのパテントを通さないとつくれないというようなことになったわけですね。そういうわけで、利潤の追求が非常に明らさまになったということです。

④個人の欲望の肥大化
 それから、個人の欲望が肥大化した。昔は、欲望を語ることは恥だったわけです。それを明らさまに語ってよいことになった。そのこと自体は、ポジティブな面だと私は思っています。ただ、必要以上に欲望が肥大化してしまって、ちょっと寒いとセーターでも羽織ればいいのに暖房をつける。いろいろなエネルギーの無駄をしているわけです。そういうことをしているアメリカやヨーロッパ、日本もそうですけれども、そういう国と極度に貧困な国との差が開いてしまったことも、二十一世紀の欲望の肥大化の別の面として現れていることだと思います。

⑤科学のプラス面、マイナス面がともに拡大
 そして、科学のプラス面が大きくなった分だけマイナス面も大きくなって、その落差が大きくなっているということですね。科学で生み出すものは、必ずプラスとマイナスの面があります。人間は、石器時代から石の斧をつくって生活を向上させてきたわけです。石の斧で木を切ったり、薪を割ったりして、その後は石で刃物もつくりましたね。そういうもので調理も出来た、家も建てることが出来た、服もつくることが出来た。でも、その同じ石を人に向かって使えば、それはすぐ凶器になるわけです。ですから、原子力の平和利用と原子爆弾といった大げさな話を持ち出すまでもなく、全てのものは、使いようによってはプラスにもなりマイナスにもなるのです。プラス面が大きくなった反面、マイナス面の不安も大きくなっています。

以上、五つのことを述べましたけれども、これはすべて絡み合っていて、とても大事なことだと思います。ですから、こういうことをいろいろ考えていきながら、もう科学は科学者の手の内にあるだけではなくて、全ての人類が一緒に考えていかなければならないことだと思います。

二十一世紀は生命科学

先ほど、團藤先生にご紹介いただいた私の著書『複雑さを科学する』などのように複雑系という方向で申し上げますと、多分こういうことが一つ考えられます。これは別に物理学だけではなくてどの分野でも考えられることですが、物理学の話で考えてみたいと思います。

「創発」という言葉があります。この日本語は、私自身はあまり好きではないのですが、定着した言葉になっているので一応この言葉を使います。英語ではエマージェント、「現れ出てきた」という意味です。これはどういうことかと言いますと、例えば、生物を細かく細かく要素に分けていくと、いちばん小さいのはクォークとか、電子とか、究極の素粒子たちですね。その素粒子が集まって原子、分子になって、それがまた集まってDNAが出来ているということになるわけです。そのときに、原子・分子に生命はないわけです。ところが、それが集まって出来たDNA、それからDNAが集まった細胞組織、あるいは臓器は生きた細胞です。ですから、階層とかハイエラーキーとか呼んでいますが、下のものが集まったときに、下の階層にはなかった性質が上の階層では出てくる。そういうことをエマージェントと呼んでいます。これについては、何故そうなるかまだ解決が出来ていません。

例えば、ハエ一匹を分解して、酸素が何ミリグラム、窒素が何ミリグラムと上から下に分解することは出来る。だけど、その分解したものを集めて、電気炉に入れてスパークを当ててもハエにはならない。ですから、何が必要なのか、どういう協力現象が起きて、この生命のないものから生命のあるものが生じてきたのか。その生じてきたことを「創発」、エマージェントと呼んでいますが、その仕組みは分かっていません。

それから、これは生きた細胞にすぎないわけですが、それが生物の個体となると個体の臓器一つずつは生きた細胞で、シャーレに入れて栄養を与え、環境を与えたら増殖していくわけです。でも、生きた細胞と生命とは、また違うわけです。生命というのは、脳があり、知能があり、心がある。ですから、生きた細胞が集まって生命になるときに何が起こるのか。だんだん上にハイエラーキーと言うか階層を上がって行ったときに、下の階層ではなかったものが上の階層で出てくるということを解明する。それが多分、二十一世紀の生命科学です。生命科学というのは、物理学も化学も生物学もすべてが関係した分野であって、これからは、それがいちばん大事なことではないかと思います。

二十一世紀を予測する

それでは、その二十一世紀の具体的な予測ですけれども、二十一世紀と言っても、今はまだ始まったばかりで百年の予測は出来ませんが、でも考えてみると、既に過ぎてしまった二〇〇〇年に、遣伝子治療と免疫療法を合わせたガンの治療が出来ています。そして二〇〇五年、もうすぐですけれど、インターネットにつながったコンタクトレンズが出来て、目を閉じていても電子メールを読んだり、ホームページをサーフィン出来るようになる。嘘っぽく聞こえるかもしれないですが、こういうものは出るかもしれないという気がします。

それから、ゲノムが解明されたので、おそらく遺伝子が関連するような病気のルーツは、すべて二〇一五年頃までに解明されると言われています。それから二〇二五年になると、SFみたいですが脳にメモリー素子のような機械を差し込んでコンピュータにつなぎ、何か考えたらすぐ命令がコンピュータに入力出来る。皆さんのお孫さんなどに「私たちが若かった頃は、キーボードというものを使っていたんだよ」なんて話をすることになるかもしれないという感じはします。

また、人工の肺や腎臓、肝臓が出来る。人工眼球、義足などはかなり早くから出来ていますが、これからは工場(ファクトリー)でつくったものではなくて、クローン臓器がかなり現実味を帯びてくると思います。クローン臓器というのは、クローン人間をつくって、その人から臓器を取るということではなくて、なるべく人間に近くて、余分なネガティブなものが入ってこないブタとか、そういうものの中で臓器をつくる。

今、臓器移植は他の治療法がすべてだめな場合に考えられているものですが、二つの大きい壁があるわけですね。一つは臓器不足。もう一つは拒絶反応です。臓器移植は、いつも誰かの死を前提に語るという暗い面もあって、あまり明るいニュースにはなりませんが、クローン臓器を動物の中でつくるとするならば、必要な人のDNAをその動物に入れておいてつくればいいわけで、そうしてつくられた臓器DNAは、臓器の必要な人のDNAと一緒なので拒絶反応もないということになります。ですから、治療面では、今私たちが想像出来ないようなことが出来るようになると思います。そうなると、私たちはなかなか死ねないわけですね。これはちょっと先かもしれませんが、二五〇〇年には平均寿命が百四十歳。百四十歳の人もいるというのではなくて、平均が百四十歳ということです。二五〇〇年というと、ちょっと私も待てない。でも、二十一世紀の間に百二十歳になるということは、かなりの確率で言われています。ですから、まだ皆さんも、平均寿命の半分も生きていらっしゃらないということになるかもしれないですね。

日本人の平均寿命を調べてみると、百年前の一九〇〇年では男性が四十三歳、女性が四十四歳くらいでした。これは、抗生物質がなくて、結核などの病気がたくさんあったことと、衛生状態が悪いので乳幼児の死亡率が高かったわけですね。今は日本が世界一になってしまって、男性が七十七歳、女性が八十四歳。男性はもうちょっと伸びると思いますけれども、とにかく不老長寿社会になった。これが二十一世紀の内に百二十歳になる。もちろん、炭疽菌にもかからず爆弾にも遭わないで、狂牛病などいろいろ恐ろしいものもありますけど、そういうものから弾を避けるように逃げてサバイブ出来た場合に、百二十歳が普通になるようです。ですから、皆さんもこれからの人生の時間というものを考え直していただいたほうがいいかもしれないですね。

二十一世紀は女性たちに期待

もう一つ言いたいのは、今の世界はやっぱり女性と男性、両方の性が平等にあるという状況ではないですね。私が専門にしています物理学の世界の話をさせていただきますと、まず、大学における物理学科の女性スタッフの占める割合。教授、助教授、講師、助手クラスまでの人たちの女性スタッフの占める割合ですが、三十一か国についての資料を申し上げますと、いちばん多いのはハンガリーで四七%。続いて、ポルトガル、フィリピン、ロシア、タイ、イタリア、トルコ、中国、ブラジル、ポーランド、スペイン、フランス。フランスはマリー・キュリーの影響でまだ多いですが、先進国はあまり登場してきませんね。そのあとも、ベルギー、インド、南アフリカ、旧東ドイツ、アイルランド、台湾、オーストリア、ニュージーランド、オーストラリア、オランダ、メキシコ……。この辺までいっても、フランス、イタリアなどを除いてG8クラスの国は入ってこない。そのあと、女性スタッフの割合が数%というレベルに英国、アメリカ、韓国、ノルウェー、スイス、旧西ドイツ、カナダがくるのです。ですから、先進国と言っているところほど女性の参加率は少ない。

日本は一%いかないんです。女性はとても少ない。この調査を行った三十一か国の中で最低です。私が属している日本物理学会は会員が二万人で、マンモス学会と呼ばれています。その中で、女性の会員は二~三%で五百人くらいしかいない。その二~三%も、ほとんどが大学院の学生なのです。物理学会は、春と秋にいろいろな地方の大学で学会があって、そこに登壇して発表するには学会員でないといけないので、大学院の学生が学会員として登録するわけです。その彼女たちも、卒業後は企業に就職したりして、その後続けて会員にはなってくれないので増えないんですね。それで、いつも二~三%です。

最初にご紹介いただいたように、私は物理学会始まって五十二年目の会長に女性として初めて選ばれたのですが、これは立候補したわけでも何でもなく、会員全員の選挙の中から選んでいただいたのです。ですから、選挙してくださったのはほとんどが男性なのです。これはいろいろ分析をしているのですが、多分私が女性だと気がつかないで入れちゃったということだろうと、いまだに思っています。それくらい、女性の比率は少ないのです。日本は、結構進んでいるように見えますけど、物理の分野もそうですし、他の分野で比べても、それこそ今問題になっているイスラム圏の人たちと比べても、女性が少ないような感じがします。

今、タリバンが占領しているカブールでは、女性は目だけ開いた「ブルカ」というハロウィンのお化けみたいな布切れを被せられて家の中に押し込められていますけど、タリバンがくるまではカブールの大学は四〇%が女子学生だったんですね。お医者さんになって貧しい子どもたちを助けたいとか、そういう女性がたくさんいて、私がいる慶応大学にもマレーシアなど様々な地域からムスリムの女子学生が理工学部にきています。すごいと思うのですが、留学してきている。

そういう留学生を見ていると、日本はいちばん遅れている中の一つではないかと思います。先進国みたいな顔をしているけど、違うのではという感じがします。女性の参加率が少ないのは、例えば、私が大学四年のときに就職しようと掲示板を見ると当時はまだ「男子のみ」というのがあって、その後、男女雇用機会均等法ですか、赤松良子さんという私が尊敬している先輩たちがつくってくれたのが一九八六年です。まだ十五年くらい前なんですね。ですから、これからあらゆる分野で女性が増えるかどうかは、まさに男性の胸一つにかかっているわけですよ。男性方のお心が広ければ、これからは女性も増えていって日本も発展していくと思います。皆さんのご協力を得て、これからの女性たちは住みやすくなるようにしてあげてほしいと思います。

おわりに

ここからは少し余談になるかもしれませんが、私の夫は五年前に他界しました。夫との出会いは、京都大学のエスペラントというクラブでした。私は理学部ですけど、彼は経済学部で私の三年先輩でした。非常に優秀な証券マンだったのですが、夫は他界する十年くらい前にその大手証券会社を辞めて、お友達と二人で会社を経営していました。辞めてしまった証券会社はその後、潰れてしまいました。夫は、潰れそうなのを察知して会社を捨てたのだと思うのですけど、日本で初めてM&A――今でこそM&Aと言ったら、皆さんにそのまま言葉を理解していただけるのですが、まだ「M&Aって何?」と言われていた時代に、日本で初めてのM&Aを二人でスタートしました。

その彼が、まさにさきほどの話と絡んでくるのですが、今から四十年ほど前、私にプロポーズしたとき、私は京都大学の三年生だったのですけど、物理をやるとしたら子どもを生むことは出来ない。子どもを持ったら物理を続けるのはものすごく難しい。物理で最先端に行こうと思ったら並大抵のことではないので、それは出来ない。どちらかしか出来ないと思って、どちらを取ろうかと私は悩んでいたわけです。いろいろ考えて、これはプロボーズを断ろうと思っていたときに、彼はそれを察知して「どうして、両方やらないんだ」と言ったのです。逃げられたら困ると思ったのかもしれないし、本当にそう思ってくれたのかもしれない。でも、本当にそういうふうにしてずっと支えてくれました。彼は最後まで私が仕事をすることをいつも支えてくれたし、私が物理学会の会長になるとか、科研費の予算を取るというときには、奥さんのほうが名前が出るからジェラシーを覚えるということがまったくなくて、いつも支えてくれました。夫が亡くなってから聞いたのですが、私のことを自慢するように友人に話していたことがあったそうです。

私もいろいろ病気をして、最初の子どもは胞状鬼胎で亡くしました。その後、子宮ガンに近い子宮筋腫で子宮を全部、これはニューヨークにいたときに取りました。それから、乳ガンで乳房を両方とも全部取りました。満身創痍という感じですけれども、とても元気でやってこられたのは夫の支えがあったからだと思います。今はガンで二回手術したケースなどはめずらしくなくて、二十一世紀の医学になると、もっと臓器を入れ替えてサイボーグみたいになって生きていられるのかもしれないですね。

五年前に夫が他界した後、一年くらいは精神的に立ち直れなかったんです。夫とのことを話していても、今もだんだん涙声になってくるんですが、その頃はもう本当にボロボロだったんです。けれども、『二人で紡いだ物語』(出窓社)という本ですが、その本を書くという作業でもって、自分でセルフカウンセリングしたのではないかなという気がします。

今日は、ご清聴どうもありがとうございました。

(慶応義塾大学教授・京大・理博・理・昭36)
(本稿は平成13年11月9日夕食会における講演の要旨であります)