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20世紀と21世紀の分水嶺に立って 中曾根 康弘 No.827(平成12年4月)

     
20世紀と21世紀の分水嶺に立って  
中曾根 康弘(衆議院議員・元内閣総理大臣) No.827(平成12年4月)号

 
 皆さんご承知のように、今日は天皇陛下をお迎えして国会の開会式が行われました。また、この度はじめて国会に憲法調査会が設置され、私もその委員に任命されましたので、その第一回の会合にも出席しました関係で、こちらへ来る時間が遅くなり、ご迷惑をおかけした次第でございます。にもかかわらず、このように温かくお迎えいただきまして心から感謝申し上げます。
  お見受けしましたところ、皆さんは私同様戦前派に属する方が多く、考え方も国を憂える憂国派で似たようなものではないかと意を強くしております。私もその一員として常に国を心配する立場から発言して参りましたので、ある意味においては独断と偏見に陥り勝ちでございます。その点を予めご承知置きいただいてお聞き願えれば幸いであります。

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日本の歴史区分
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私は、やがて来る21世紀の最初の5年乃至10年間は巨大な文明的転換が起こる時代ではないか、言い換えればコペルニクス的転換が全世界を覆うだろうと予測しております。したがって、我々はそれに対応できる政治の準備を始めて行かなければならないというのが基本的な考え方であります。
  それでは、20世紀と21世紀の分水嶺に立つ我々の課題は何かと問われれば、それは、過去の清算であり、過去の継承であり、未来性を孕んだ発展を図ることであります。それには先ず、日本の歴史上、あるいは世界の流れの中で今の分水嶺がどういう位置にあるのかを確認することも必要ではないかと思います。そこで先ず、日本の歴史を俯瞰しながら私なりに大胆に申し上げてみます。
  日本の歴史を大きく三区分するとすれば、縄文時代から弥生時代に入るまでを第一期、弥生時代から徳川幕府時代の末期、明治維新までを第二期、明治現代以降までを第三期とする、という考え方に立っております。その理由として明治以降は、日本が世界の一員として正式に世界史に参画し始めた時代で、世界から大きな影響を受けると同時に影響も与えたという意味において、幕末以前とは大きく異なるのであります。
 第一期の縄文時代が日本文化の基層をなしていたとする説は、学者の一致するところであります。たとえば、死の扱い方にしても、中国やインドにおける仏教は思想的、哲学的な意味合いが強かったものの、日本では祖先崇拝的な葬式仏教に変わりました。これは縄文時代からの日本人の帰属観念が歴然と残っている証拠ではないかと考えられます。
 第二期で残ったものとしては、政治的、社会的には天皇制があると思います。また、文化的には「わび」「さび」「もののあわれ」といった人間の情緒を育んで、これを芸術化し生活にも取り入れたことが世界史の中では大きな特色と言えるでしょう。
天皇制は、祭政一致という古代社会からの流れの中で天皇が伝統的、文化的権威の保持者でありながら現実の統治は将軍に任せ、その将軍を天皇が任命する、つまり、権威と権力の分離が明確化された政治形態を維持してきました。したがって天皇は権威の象徴として神聖化され、権力闘争の外に存在することによって、永続性を不動にしてきました。日本が諸外国と比べて内乱や革命が少なく、民族のユニティが長い間保たれてきた背景には、天皇制が大きく影響していたと考えられるのであります。
 明治になって、天皇はプロシア憲法に倣って権威と権力、要するに笏と軍刀の両方を握ります。しかし、大東亜戦争の終戦とともに出現したマッカーサーによって天皇は伝統的権威、国民統合の象徴という立場にお戻りになられました。軍刀から離れた天皇は今度は笏の代わりに何を持ったかと言うと顕微鏡を持たれました。これは賢明な選択であったと思います。代って総理大臣が現実権力をある程度、三権と一緒になって実行するという政治形態に変わってきました。
 それから、「わび」「さび」「もののあわれ」といった情緒は、アジアモンスーン地帯にあって四季の移り変わりがはっきりわかる日本独特の風土の中から生まれたもので、それを芸術化し形式化したのが歌舞伎であったり義太夫、あるいは茶の湯や生け花であります。我々の生活の中に歴然として残っているこうした情緒が、外国人にどの程度理解されているのか。我々が感じているものそのものが果たして彼らにあるかというと、私はそうではないと思います。しかし、これらは高度情報化社会となる21世紀においては、外国の間で再発見され貴重になってくるのではないかという予感がしてなりません。
 第三期の幕開けとなる明治は、「坂の上の雲」の小説の如く上昇の時代となりますが、大正から昭和にかけては下降の時代となります。大東亜戦争を経て日本は新しい世界を迎え高度経済成長で上昇の時代に入ります。しかし、今度は平成のバブルが弾けて再び下降期に入ってしまった。そういう見方で日本の歴史を区分してみたわけであります。
とりわけ、大東亜戦争が世界史の上でも、また日本史的にも最も大きなポイントであったと思います。にもかかわらず、大東亜戦争の持つ意味、これから持つであろう歴史的考察が割合に薄いと私は感じております。何とはなしに東京裁判史観というものが渦巻いていて、大東亜戦争に対する冷静で正確な世界史的見方を妨げている嫌いがあります。
 私はあの戦争が間違った失敗した戦争であったという思いには変りはありませんが、結果的にみれば、アジア・アフリカという有色人種の世界が独立するトリガーになったという事実も認めざるを得ません。しかし、こうした発言も歴史の本ではあまり見かけません。私は、もっと冷徹に事実を見つめて、新しい世界に通用する判断や書き物が出てきてもいいのではないかと思っております。

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歴史の分水嶺
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 明治以降の最初の大きな失敗の1つは、第一次大戦中の1915年(大正4)の「対華二十一カ条要求」でした。日本が欧州勢力の後退に乗じて膠州湾の青島を租借し、さらに中国に突きつけた権益拡大要求の中身は、中国の軍隊に日本の軍人を顧問で受け入れよとか、特定都市に警察官を配置させよというようなことまで求める内容でした。これがその後の抗日運動を一挙に爆発させる端緒となり、また、それに続く日支事変への拡大に繋がって行ったことはご承知の通りです。そうした日本の野心を見破った欧米諸国は、ワシントン条約で日英同盟の破棄を求めます。これがまた、日本が暴走する元凶ともなりました。
  もう1つの大きな失敗は、統帥権独立という考え方であります。明治憲法の十一条には、「天皇は陸海軍を統率す」と記されてありました。これは軍令・軍政というのもがあって、軍令の参謀本部系統は天皇に直轄して内閣や陸軍大臣、海軍大臣の指揮を受けないと決められておりました。この解釈が正しいかどうかはともかくとして、明治の末年までは元老が軍令・軍政の両方を一体化して、天皇へ上奏するときには矛盾が起きないようにできていました。それが山県有朋や伊藤博文らの元老が亡くなって大正時代に入ると軍令・軍政が分裂してしまい、軍部の横暴、独走に歯止めをかけられず、満州事変から日支事変、さらに大東亜戦争へと一気に突き進んでしまったことは衆知の事実であります。
  歴史に「若しも」という仮定は意味をなさないかも知れませんが、大正の初めごろに憲法を改正して、あるいは天皇の詔勅で軍の横暴をしっかりと阻止できるような形を明確に作っておけば、このような悲劇は防げた、と言えるのではないでしょうか。
  現在の憲法第九条の第一項は、申すまでもなく武力行使の放棄ですから、私はできるだけ残したほうがいいという立場でありますが、九条の解釈はきわめて曖昧で変節を来しております。卑近な例では、かつて社会党の村山富市さんが総理大臣に就任して参議院で質問を受けた時のことです。それまでの社会党は一貫して安保条約も自衛隊も憲法違反であると主張してきました。ところが総理大臣として「あなたは安保条約や自衛隊が憲法違反だと言い続けてきたのに、今になってこれを認めるのはどういうわけか」と質問された時の村山総理の答弁は、「国際情勢の変化、国内情勢の推移等を考えてみた上で、そう解釈することが適当であると思うから」というものでありました。
  憲法第九条の解釈のキーポイントは、必要最小限の防衛力を超えてはならないという点にあります。その必要最小限を社会党時代の村山さんは「もう超えている」と解釈していました。ところが総理大臣になるや「いや、超えていない」と変節してしまう。必要最小限の概念が適当に移動してしまうというのでは、これほど曖昧で危険なものはないでしょう。そういう意味において憲法第九条は、改めて洗い直して動揺しないよう確定しておく必要があると思っております。
  そこで私は、大東亜戦争に至る迄の経緯を踏まえた上で、日本のあるべき姿として次のような外交四原則を唱えております。
  その第一は、自国の力量を常に的確に把握して、国力以上のことを実行してはならない。第二は、推測や憶測に基づく判断、つまり、ギャンブルで外交を行ってはならない。大東亜戦争の場合は、三国同盟側が勝つだろうとドイツと手を握って見事に失敗したわけですが、負けるかも知れないという冷徹な分析が行われていたなら戦争は避けられたのかも知れません。
  第三は、内政と外交とを混交してはならない。先頃のシアトルでのWTO(世界貿易機構)閣僚会議をクリントン大統領が流してしまったのが好例であります。新聞によれば、ゴア副大統領の当選を画策するアメリカの労組等をはじめとする保護主義の動きが活発化してきたことと環境団体が急に先鋭化してきたので、これを11月選挙のマイナス材料と判断したことによるものと論評していました。こうした事実からも、国内の政治的な都合を国際社会に関連させることの危険性が十分読み取れるのではないかと思うのであります。日本にもこのような過ちは沢山あります。
  第四は、世界史の正統的潮流の上に乗って行かなければならない。たとえばヒットラーの『マイン・カンプ=わが闘争』に魅せられて共鳴するのは邪道であって、平和、人権、自由とか民主主義や国際的価値というものを基準において、世界史の流れを見ながらその方向に乗って行かなければ道を間違えてしまうのではないか。これが、私の唱える日本のあるべき姿の外交四原則であります。

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戦後政治の総決算
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 大東亜戦争の終戦後は、吉田茂首相が防衛問題をマッカーサーに任せ、占領政治に巧みに対応して行きました。しかし、半面において安全保障問題や憲法に対する考え方、あるいは教育といった問題を先送りにした感は否めません。その矛盾が我々の時代に表面化して、大いに苦労しなければならない事態に陥っております。とはいえ、占領当時は平和主義的な共産党が強かったこともあって、選挙に勝つには一国平和主義の方向で論陣を展開した方が得策だったという点は理解できるところではあります。しかし、吉田首相はもう一言、独立国家は自ら国を守らなければならない。さらに国連に加入すれば、相応の国際責任を果たし、国際貢献をしなければならないと、国民に教えておくべきだったのです。英国流の功利主義が優先され過ぎました。
  私はその当時から芦田均さんと共に憲法改正を主張し、防衛問題をはじめとして日本の独自性を回復させ、独立国家たる体制に移行せよと声を挙げてきました。これが鳩山一郎・緒方竹虎さんらの共鳴するところとなった背景には、吉田政治の軌道を修正するという意味もあったと思われます。それが結果的には、保守合同を促進させ大きな勢力になって行きました。
  そうした力をバックに自民党の歴代首相はいわばタッグマッチを敢行してきました。鳩山さんはソ連との国交を回復させ、岸信介さんは日米安保条約を改正し、池田勇人さんは高度経済成長を実現させた。佐藤栄作さんは沖縄の返還、田中角栄さんは中国との国交回復、というように継続性を持って努力してきたものであります。
  私は、戦後政治の総決算を掲げました。第一は、明治以来の中央集権的な官僚統制国家の体質改善。次に戦後水膨れした日本経済、つまり役所も企業も縮減し、緊縮した効率的な組織に変る。これが私が土光敏光さんに依頼した行財政改革でありました。
  こうした国内のデレギュレーションの徹底化を図って国際協力に貢献すると同時に、安全保障上も国際責任も果たさなければならない。その機会が訪れたのはウィリアムズバーグ・サミットでした。それまでの日本の総理大臣は、サミットにおいて特に安全保障問題に関しては発言を控えてきたように思います。
  83年のウィリアムズバーグ・サミットにおいて、アメリカがパーシング2をソ連のSS20に対抗して展開するかどうかという議論が起りました。サッチャー首相やレーガン大統領はもちろん展開を主張しましたが、ミッテラン大統領は展開には賛成するものの、それを政治宣言に盛り込むことには反対でありました。その宣言には、世界の安全保障はインディビディブルかつグローバルであると謳われているのですが、ミッテラン大統領は、「我が国はドゴール以来独特の考えからNATOには加盟していない。したがってNATO司令官のアメリカに従わなければならない謂れはない」という反対理由を挙げ、インディビディブルとかグローバルの文言を消せと主張したため会議が決裂しそうになり、レーガン大統領も顔色を失いました。
  私はその時に以下のように主張しました。日本は憲法第九条で戦争の放棄を掲げているので、日本の歴代総理大臣はこれまで安全保障に関して口を噤んできた。しかし、今ここで我々が結束してソ連に立ち向かう決議もできないのでは、相手を利するばかりだ。しかも状況を見る限りソ連はかなり苦しく、ブレジネフ体制も窮地に陥っている。我々は今こそこの声明に合意するべきではないのか。
  欧米諸国はNATOの軍事的大戦線に守られているが、アジアには何もなく開けっ放しだ。我々は軍事的行動を共にするわけには行かないが、中国は中立的だからできるだけソ連に対抗する方向にもって行きながら、アジアに政治的第二戦線を作ってもいいと考えている。私が日本に帰れば、日本はいつからNATOの一員になったのだと集中砲火を浴びることになろうが、それは甘受する。だからミッテラン大統領も理解を示して欲しい、と説得しました。遂に彼も黙ってしまったのを見てとったレーガン大統領がシュルツ長官を呼んで宣言案を指示し、ウィリアムズバーグ声明に漕ぎ着けた次第であります。
  私は、日本もG7の一員として対ソ陣営の一角を形成しているのであるから、軍事的には行動できないものの、政治的な立場から安全保障問題の件は憲法の範囲内のぎりぎりのラインまでは協力して行くという考えでおりました。その背景には、ソ連側の情報が各方面から私のもとに集まっていたこともありました。とりわけ政治的腐敗に加え経済的にも破綻が近く、特にSDI(スターウォーズ構想)をアメリカに配備されたらソ連はとても対抗して行けない、というところまで分析が進んでいました。
  83年の2~3月当時、NATO側ではソ連がシベリアに配備してある百基は致し方ないとしても、ウラル山脈から西に配備したSS20は撤去させろという議論が展開されておりました。私はその情報を得ていたので、断じて私はそれは承知できない、一緒に全部撤去させるべきだ、とレーガン大統領に手紙を送りました。そういう強硬姿勢を印象付けた後の5月のウィリアムズバーグ・サミットでしたから、私も主張すべきタイミングにそれができたと思っております。
  その後もアメリカから、たとえばロムニー大使等の使いが何度も訪れましたが、私はその度に「アブソリュートリー・ノー」だということをレーガン大統領に伝えて欲しいと繰り返し返答しました。それを聞いたレーガン大統領も「ヤスの言う通りにやろう」と頑張り続けた結果、遂にシベリアの百基も撤去させることに成功しました。これを最も喜んだのは中国ではなかったでしょうか。
  その一方で、国際協調にも貢献して参りました。その1つはODA(政府開発援助)への増額で、アメリカに匹敵する100億ドル程を援助しました。また、さらに貿易黒字還流の効果を挙げ、IMFや世界銀行と協調して発展途上国に日本が600億ドルの資金援助を行いました。これらが国際協調の具体的な例であります。
  私は、昭和30年から47年~8年頃は、日本歴史の中でも特筆すべき時代であると思っております。この時代は、科学技術の向上が目ざましく、その国民生活や文化の高度性、中央・地方の普遍性、また、非軍事性を考えると、私は、戦後のあの時代が日本歴史の中で1つのピラミッドを築いた時期だったと見ておりますが、その背景には、今の憲法の存在が大きく役立っていたということは疑い得ないところであります。
  平成時代に入ると、先ず政治のバブルが崩壊しました。世界ではソ連の崩壊に伴い米ソの冷戦が終焉を迎えました。戦後50年の金属疲労が祟って自民党が分裂し、細川内閣以後は日本政治の漂流が始まります。竹下君以後11年間に9人の総理が出現しました。
  続いて経済のバブルが弾けました。ご存知のように銀行以下金融機関が堕落して、不況をこれだけ長引かせてしまいました。さらに社会のバブルの崩壊へと続いて行きました。警察から防衛庁にいたるまで汚職が蔓延し、社会の犯罪も激増する一方で、学級崩壊が叫ばれ、教育体系が憂慮すべき状況に陥っております。まさに日本社会全般がバブルの崩壊に苦しみ、そこからの立ち直りを模索している感があります。
  特に教育は急を要する問題です。しかし、これは一文部省だけでどうなるものでもありません。これは戦後の一種の非常に根の深い文明病だと思うのです。つまり、アメリカ流のプラグマティズムや英国流の個人主義の影響を強く受けて、明治以来我々が身につけてきた儒教文明の仁義礼智信とか恥や武士道の概念が消滅してしまいました。したがって、日本全体の中であらゆる面から国民運動的な自覚を促し、みんなで一緒に病を治そうという決意を持たなければ解決しない問題であります。一学校の問題でも先生の責任でもない。全国民的レベルでの改革論が出てこなければ改革できません。ですから、これはどうしても国民運動として全日本において全日本人によって改革と匡正を実行しなければならない。私はそういう信念をもって国政に臨んでおります。

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21世紀への展望―世界の5つの流れ
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 私は冒頭に、分水嶺に立つ我々の課題は、過去の清算と継承であると申し上げました。一体、20世紀はどういう時代であったのかを改めて振り返って見ると、私は非常に悲劇的な世紀であったかと思っております。すなわち2度の世界大戦、大不況、あるいは独立運動や部族抗争、粛清等、小にしては8千万人、大にしては1億5千万人ぐらいの人間が悲惨な死を遂げたと言われております。
  しかし、また一面においては物理、科学、医学等あらゆる分野で学問の水準が高まることにより、それが我々の生活に反映されて非常に高度な物質社会が展開されました。また、ノーベル賞やオリンピックなど世界共生のプロジェクトも開始されました。科学的には20世紀を物理学時代とする所以であります。
  それでは21世紀をどう予測するかとなれば、私は生命科学と電子情報の時代だろうと見ております。つまりゲノム生物学やサイバーのような時代が到来し、特にインターネットが社会を大きくリードする時代が訪れると思います。もう既にアメリカでは、インターネットによる見積もり、決済、預金、株式や金融取り引き等が直接行われるような動きが出ています。日本の政府も許認可などのすべての手続きをパソコンのインターネット上で済ませる「電子政府」への移行を今春から本格的に実施するとしており、通産、運輸の2省は2003年までにすべての手続きを電子化する予定でおります。こうしたインターネット関連の将来を予測した動きとして、昨日の新聞では、これに関するソフトのベンチャー企業株の5万円株が1億円になったと報じられておりましたが、すでに時代は急速に進んでいることが窺えるのであります。
  世界が、これまでの電話社会からインターネット社会に変わるにつれて、国際社会はボーダレス化が進み、国家の形態も大きく変化する可能性があります。しかし、安全保障や財政、税制、社会保障、環境問題等は依然として人間社会の叡知を借りなければならず、国家主権は厳然と守られて行くでしょう。EUが徹底した統合体を作り上げていく一方で、自国の自然や文化を大切に守って行こうとする力が一層強まって行くように、人格の問題や歴史的、伝統的、文化的価値に対する防護の力が大きく働きますので、こうした二律背反の要素を調整する役割としての国家が、やはり永遠に続いて行くことになるでしょう。
  インターネット社会の実現で、これまでの流通過程が省略され、問屋的要素は不要となるでしょう。組織の中でも中間管理職の部長、課長の存在は意味をなさなくなるかも知れません。彼らの雇用をどうするか、逆に新しいチャンスとしてどう切り換えて行くのか。こうした点も社会的、文化的、政治的課題になることと思うのであります。
  政治も変わってきます。選挙も投票所に行かずに自宅でボタンを押すようになれば、国民投票あるいは首相公選の時代も接近してくるだろうと見ています。しかし、社会の調和を図り矛盾を解決して行くためには、やはり国会という機関は必要で、国民投票も限られたケースとなるでしょう。
  いま世界には、5つの流れがあります。1つはインダストリアリゼーションで、これは産業革命以来の流れです。ヘッジファンドのような遊蕩児の出現によって、修正資本主義的傾向を帯びてくるのではないでしょうか。2つ目はデモクラタイゼーション、民主化の動きです。未熟なところでは独裁が仮装して出てきます。次はナショナリズム、これは過去に経験済みです。4番目はリージョナリズムで、EU、APEC、NAFTAといったように、地域が1つの主体になる傾向です。そして第5はグローバリズムです。国によって歴史も伝統も国民性も違うこうした流れをどう調和させながら発展させて行くのかが、政治家の腕の見せどころとなるでしょう。

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内政と外交問題
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 現代は第3の開国を迎えていると言われておりますが、その第1が明治維新で第2がマッカーサーです。明治維新には近代国民国家形成という確たる青写真があり、薩長の強大な権力を背景に近代化が推進されました。次に大東亜戦争の終戦を機に、超憲法的な力を携えたマッカーサーが、アメリカ民主主義の実現という青写真を持って民主化を推し進めました。第3の開国にあたり、現代の我々には青写真も力もない。これが分水嶺に立っての悩みであり、課題でもあります。
  いま、青写真の内容の重要部分として具体的に掲げられるのは憲法と教育基本法の問題であります。憲法についてはいろいろと議論の分かれるところですが、昭和21年3月6日に出てきた「マッカーサー憲法」の当初の反応は、社会党の左派はもとより共産党も大反対でした。しかし、その内容を見た国民は平和憲法だとして歓迎しました。社会党も民族主義的なことばかり主張しても国民の支持が得られないとして、これは平和憲法なのだと「思い込もう」と懸命な努力をしました。我々保守派は、これを受け入れれば天皇制は維持されるので天皇制を守るほうが大事だという立場でした。すなわち、「避雷針の役目」をさせるという考え方です。片や「思い込み憲法」、片や「避雷針憲法」という要素も多少はあった、ということを私の経験から申し上げておきたいと思います。
  それはともかく、21世紀に我々が政治を推進する国策の機軸として考えなければならないことは、やはり大量破壊兵器、原水爆といった問題をできるだけ早く絶滅させるという基本姿勢を持つことであります。その他に、地球的防護の問題や南北問題も控えておりますが、高度情報化時代では落差がさらに拡大するでしょう。このような基本的課題を捉えて、日本は先進民主主義国と発上国との間をうまく調和させて行く。ある場合にはそれなりに身を削らなければならない要素も出てきます。そういう立場に立って世界的調和を図るというのが我々の機軸であります。
  今はG8まで拡大しましたが、いずれは中国も加えてG9まで持って行く、それが我々の次のコースだろうと思います。しかし、中国の民主化や経済政策の転換は、まだ今すぐというわけには行かないでしょうから、できるだけ早く促進するように協力して行くのが我々の目的で、G9ができれば非常に世界的に安定してくるだろうと思っております。
  こうした基本的課題を抱えながら我々は政界の再編成をさらに推進させなければならない時期に来ていると考えております。かつての社会主義と自由主義といった政党の境界線がなくなった今は、共産党以外はみんな同じになってしまいました。民主党の鳩山代表も憲法改正、首相公選では私と同じ事を言っている。境界がないのであれば何をやっても同じで意味がない、と国民もダレてきて無党派層が多くなったと思っております。確たる政治的アイテムを持って国民に明確な境界線を示しながら、どちらを支持してくれるのか、と問う形に持って行くのが政治に活力を回復させる源であると考えております。
  日本の教育基本法は、日本解体時期の昭和22年にできました。内容はまことに立派なもので文句をつけるところがなく、人種や自由、民主、人格、個人、平和、文化といったことが格調高く謳われております。しかし、民族や国家を正面から考えるとか、伝統や文化、歴史や郷土や家庭、共同社会等に言及したものは全然ありません。言い換えれば蒸留水なのです。国の基本法としては余りにも純度が高すぎても窮屈なものです。この基本法は世界のどの国に持って行っても適用できるような整ったものではありますが、私は、日本の実情に最も適用するような教育基本法をもう一度考え直してはどうかと申し上げているわけであります。
  それには政党間の境界線を明確にすることであります。そして力を持たなければなりません。そのためのステップとして自民党と自由党の合流、さらに力をつけるために公明党を加えて強力にしました。しかし、これだけでは単なる離合集散の類に過ぎないので、解散総選挙後は今の憲法や教育基本法など国の機軸を中心に政界の再編成を実現させ、国民が判断できるよう境界線をはっきりさせる。それが本当の実力となるのです。その上で憲法や教育基本法の青写真を作り、分水嶺に立った次の時代の目標とすべきであります。
  憲法問題については、今日の憲法調査会でも発言したのでありますが、いろいろ論憲するのは3年とし、4年目に各党に改正試案を出させ、5年目に国民的に議論をして民間の憲法試案を続出させ、今回は国民の作った憲法にすべきです。そして6年から8年後くらいに憲法改正を完了させてはどうかと提案して参りました。
  教育問題を簡単に申し上げると、日本の小学生は実力があり、世界に伍していく力があるし、よく頑張っていると評価できると思います。しかし、高校、大学となるとアメリカからは格段に落ちます。そして小学校は人間が生きていく上での基本の型を学ぶ場として、正直、思いやりとか父母兄弟姉妹を大切にするとか社会のために尽くせといったことを繰り返し教える。高校以上に対してはモチベーションと言いますか、国家や社会に対する使命感を与えるような教育の仕方でなければならない。教育の基本的な改革はそういうところにあるし、また、たとえば大学に予科を設けて旧制高校のような教育制度を復活させることによって高校生もゆっくり考える時間を持ち、余裕のある学校生活が送れるように改める必要があると思っております。
  また、教師側も「デモ・シカ先生」ではなく、かつての高等師範学校のような、教育に使命感を持つ1つの系統の人間を育成することも大事でしょう。それが学校で競い合う雰囲気を作り出し、教育に活力を与えることになるのではないかと考えております。
  財政経済については、今は短期計画で進めておりますが、「二兎を追う者は一兎をも得ず」ですから、現状は小渕首相を支持しております。しかし、莫大な借金を残したままでは我々の子供や孫が重税に苦しむばかりで申し訳ないので、秋以降には中期計画を作らなければなりません。政府は、景気回復が本格化した後に財政再建に取り組む方針を示しているようですが、それに真剣に取り組む政治的環境作りも急を要する課題であります。
  外交問題は時間の関係で手短にいくつか申し上げます。1つは北朝鮮です。私はできるだけ早くアジア太平洋国家の中に組み入れて、早く窓を開けさせたほうがいいと考えます。彼らは、一旦窓を開ければ政権が潰れてしまうという恐れから今は応じないわけです。日本と中国とアメリカが連携して北朝鮮に対応し、鄧小平政策を推し進めれば、中国も反対しないでしょう。窓を開けて危なくなったら、日本も中国もアメリカも政権を助けるという安心感を与えながら、次第に経済から内政をも上昇させて、やがて韓国と統一できるような基盤を作り、アジア太平洋国家の一員として早く迎えられるような形にすることが賢明だと思うのであります。
  中国と台湾問題については、中国は台湾を武力で開放すると脅しておりますが、そういう発言は台湾の反感を買うばかりだから控えた方がいい、と私は中国の要人にも注文をつけております。将来、同胞として迎えるためにも、親が子供に銃口を向けるようなことはあってはならないことで、平和統一に徹することが肝要であると説いております。
  台湾も独立するとか国連に入るといった北京を挑発するような言動は厳に慎み、両岸政治で新しい展開を模索して行くべきです。それには中国が提案する通商、通行、通信の3通政策を受け入れることでしょう。台湾側の恐れは、主権が侵害されることでしょうが、その体制が受け入れられるよう両岸政治が胸襟を開いて話し合えば、自ずと道は開けると信じ合うことが前提でしょう。いずれにしても現状維持を中心にして両岸政治を進め、きな臭い要素を除去することが先決であります。
  先頃、ニュージーランドで中国の江沢民国家首席と小渕総理と韓国の金大中大統領の3人が会談しました。こうした3首脳会談を制度化し、それに外務大臣会議や安全保障大臣会議等をも付属させて、必要に応じてアメリカもオブザーバーで参加させながら東北アジアの安定機構を作る。同時に、タイがヘッジファンドで蹂躙されたことを教訓にして、東アジアを中心に東アジア金融協議会を作るべきだと、私は以前から提唱しております。この中には、米、欧、IMF、世銀の代表等もメンバーとして入れてよいが、アジアの国が主導すべきです。日本も相応の資金を拠出しながら、それを基礎に東アジア経済圏を発展させるという構想の実現が望まれるところであります。
  それからアジア・リージョナル・フォーラム=東アジアの安全保障対話機構を形成して、信頼醸成措置(CBM)を中心に紛争の抑止と紛争の処理に当るというところまで機能を拡大して行くことも必要であります。我々は日米安保条約という二国間の安全保障機構を持ってはいるものの、それとは別に国際多元的機構を作って、両方から次の時代の安全を維持して行くのが望ましい姿であると考えております。我々は核兵器を持たないという基本的条件で安全条約は堅持して行く一方で、東アジア全体の調和も考えて、安全保障の機軸を多元的に作って行くということも、次の世代の目標ではないかと思っているのであります。
  私は日本人という民族は、相当に粘り強く底力のある国民だと信じています。歴史を見てもずいぶんいろいろな危機に遭遇しているにもかかわらず、危機になればなるほどその力を発揮する国民性であります。大事なことは国民に目標を与えることと、優れた指導者が出るということであります。ただいま申し上げたような青写真を練り上げ、そして立派な指導者を我々の手の中から作り上げて協力し合えば、必ずこの危機は突破できると確信しております。
  それではこれで私の話を終わりにします。
  ご清聴ありがとうございました。

(衆議院議員・元内閣総理大臣・東大・法・昭16)
※本稿は平成12年1月20日午餐会における講演の要旨です