学士会アーカイブス
花見の話 白幡 洋三郎 No.825(平成11年10月)
花見の話
白幡 三郎
(国際日本文化研究センター教授)
No.825(平成11年10月号)
花見は日本独特の行事である。と思っていたし、そう語る人もいたから、間違いないものとおおよその結論を下していた。しかしこのところ、その思いがもっと強くなって、花見は世界中で日本にしかない、とほとんど確信するに至っている。
「桜の花は、世界中で見かける。日本にしか咲いていないわけではない。」こう反論する人がいるだろう。「桜の花見をしないとしても、各国にはいろんな花があり、それぞれ好みによって観賞は行われている。」こんな意見も出るはずだ。いずれももっともだが、私が問題にしているのは、それとはちがう。桜が生育しているか、花の観賞が存在するかではない。
きれいな花を咲かせる植物が存在すれば、一般的な観賞という行為は生まれるだろうが、ここで言っているのは「花見」があるかどうかである。花を愛でる心情、観賞する行為と私の言う「花見」との違いを説明しよう。
単刀直入、私の言う花見とは、「群桜」「群衆」「飲食」の三つの要素が備わったものである。この三要素があってはじめて花見が成立する、というのが私の考えである。一本数本の桜ではない群れ咲く桜であること。一人二人ではなく大勢の人出があること。たんに花を見るだけではなく飲食を伴っていること。これらが満たされたものが日本の「花見」である。こう考えると、世界には花見がないというほかなくなる。花見は世界中で日本にしかない。
この考えをだめ押し風に確信したのは、一九九七年イギリスに滞在した時だった。四月から翌一九九八年二月まで、ケンブリッジで過ごした私は、あの植物好きで園芸愛好家のイギリス人が、花を愛でながらも「花見」は一切しないと結論を下したのである。日本人がやるような、花のもとで飲み物食べ物を広げ、仲間と共に時間を過ごす、そんな習慣を一切もっていない。
ヨーロッパでは、日本の花見にあたるような屋外での楽しみ方は、どこにも見られない。かつて一九七五年から七七年にかけて、二年半のあいだ過ごしたドイツで、どうもそのようだと感じたのが最初である。
一九七六、七年の春を含め、ドイツの春は四度体験した。ドイツにも桜は咲く。町なかに咲いている桜を、ドイツ人は「日本桜」(Japanische Kirsch)と呼ぶ。どれも実がならない、花だけの桜である。ヨーロッパの桜は、サクランボのなる桜である。植物学上の和名はセイヨウミザクラ。一般の人は、実がならないのを「日本桜」と呼んで区別しているわけだ。
その日本桜がいかに見事に咲き誇っていても、群がって観賞する人もいなければ、花の下で弁当を広げる人もない。通りすがりに顔を上に向けて眺める人もほとんどおらず、立ち止まって見回すような人は一人もいない。花屋の店先はにぎわっており、花束を買い求めて行く人は多い。けれども、町なかの各所に咲いている桜の花を「愛で」ているような人は見かけない。
ドイツ人は、花見どころか桜の花の観賞すらまだ「開発」していない、と考えることもできる。しかしフランスも同じか、スペインやイタリアでは? そして、あの園芸愛好家の国イギリスではどうだろう。チューリップの国オランダではどうか。それをこの目で確かめてみなければ、断定はできない。
一九七五年以来ヨーロッパには、三十回以上訪れる機会をもった。一週間程度のこともあれば、数力月の滞在もあった。季節も春夏秋冬にわたる。地域としても北欧、南欧、東欧ほとんど回った。とくに春に訪れるときは、花見が行われていないか確かめようと公園や郊外の自然の豊かな場所へ、つとめて出かけるようにした。
森を散歩している人はいる。緑の草原で昼食のサンドイッチをほおばるピクニックはある。だが「花見」は一切ない! 私の経験の範囲で言えば、ヨーロッパには花見はない!
ヨーロッパの他、日系人の多い南米にも行った。北米、中近東、東南アジア、中国、オーストラリアも訪れた。どこにも花見がない。もうこれ以上私の目で確かめる必要は、ほとんどないだろうと感じはじめた。そして、イギリス滞在は、自分の体験の範囲で確信をもって言いきるための最後のだめ押しのようなものだった。
体験から言うと、花見は日本以外にはない。花見は日本文化である。
日本文化にはさまざまなものがあるだろう。花とのつき合い方、花の楽しみ方も日本文化の一つである。そこには日本独特のものがあるからだ。花見は日本独特のものだと言う人はこれまでにもいた。そうは思うが、確信をもって断言できないからこそ、私は長い間各国を訪れては、注意して観察を続けたのだ。では体験の範囲を越えても、花見は日本独特だと言い切れるか。というわけで現在の職場、国際日本文化研究センクーに移ってからは、各国から来る日本研究者に、次のように尋ねるようになった。
「あなたの国では花見をしますか?」
ドイツ、ポーランド、チェコ、イギリス、アメリカ、インド、エジプト、韓国、中国、ベトナムなどなど、各国から訪れる研究者に尋ねてみると、どの国の人も、まずちょっと考え込んでから「日本のお花見にあたるようなものはありません」と答える。そこで、私はたたみかけるように「ほんとうにありませんか?」「何か花が咲くのをきっかけに、外に出かけたり、お祭りをするようなことはありませんか?」と尋ねる。
すると、「そういえば、ドイツのある地方では、春にスミレの咲くところにピクニックに出かけます。」とか「インドでは、ある花が咲く頃に、よく散歩に出かける。」などという返事が返ってきた。
しかし私がさらに「そんなとき、大勢が車座になってご馳走を広げ、唄を歌って酒盛りをしますか?」「一カ所に何百人何千人の人出がありますか?」と突っ込むと「そんなことは起こらない。」「そんな人出は見られない。」という返事が返ってくる。
結局、各国いずれの人も最後には、日本の花見にあたるようなものは自分の国にはない、という結論になる。私の経験をひっくり返すような証言は、まったく得られなかった。どうやら花見は、日本独特の文化であると言って問違いないようだ。
さて、日本にしかない花見が私の言うような三要素を備えたのはいつ頃だろうか。かつては多様な「花」見があった。桜のほか、梅・桃・桜草・山吹・藤・つつじ・牡丹・萩・菊など、四季折々の代表的な花はすべて、広い意味での「花」見の対象だった。花見の「花」が、桜を指すようになるのはいったいいつ頃か。本居宣長は「玉勝間」(十八世紀末)の中で次のように書いている。
「ただ花といひて桜のことにするは、古今集のころまでは聞こえぬことなり……」
つまり、花と言って桜を意味させるようになったのは平安時代中期以降であるという。日本の古典の中から、花に関する記述を取りあげて研究した成果から見ると、たしかに古今集から桜を詠んだ歌が増えると言うことはできる。
数え方にもよるが、奈良時代に編まれた万葉集には梅を詠んだ歌が百首前後あるのに対し、桜を詠んだ歌はおよそその三分の一くらいである。ところが古今集ではその位置が逆転し、断然桜が多くなる。しかも前後関係から考えて、桜を詠んでいると思われるものが、ただ「花」と表現されていることが多いのである。本居宣長は古典についての教養からこの感じをつかんでいたのだろう。
一方、唐代の中国の詩文には、圧倒的に梅が多く現れる。その影響で、外来植物である梅が、奈良朝の貴族たちにとっては、花を代表するものだったのだろう。それが平安朝に至り、梅に代わって桜の花見が、貴族たちの重要な行事になる。歌に詠まれる花も桜が多く占めるようになる。つまり貴族文化の中では、奈良朝から平安朝にかけて、春の花見の対象は梅から桜へ重心を移行する。
一方、農民の間では古くから、花の咲き始める頃に、飲食物を携えて近くの丘や山に登り、一日を過ごす行事があった。民俗学で「山入り」とか「春山行き」などと総称されるものである。冬を支配していた神を山におくりかえし、春の芽吹きをもたらす田の神を迎える宗教行事とする解釈が行われてきた。また同時に、桜の咲き具合によって稲の出来具合を占う農事であるとも考えられてきた。この当否は完全に決着がつかないが、桜の花が重要な鍵を握っていると言える。
このように花見には、大きく分けると貴族文化的な要素と農民文化的な要素の双方が入っている。花見が農耕儀礼から切り離され、貴族的な公式行事からも離脱して、それ自身を楽しむ独立した娯楽になるのは中世である。その後、唯一の都市であったと言える京都で、郊外の花見が富裕な階層に広まる。さらにそれが大衆化して多くの人々にとっての娯楽の年中行事になるのは江戸時代である。
貴族文化と農民文化の二つが、元禄期の都市文化の形成と結びついて大衆化したものが、現在につながる花見であろう。そしてしばらくのちの享保期(十八世紀はじめ)に、それが庶民層の楽しみとして、消費都市の性格が著しい江戸から定着する。都市政策を意識的に始めた将軍吉宗の時代、すなわち元禄期に比べてやや景気後退期にあたり、生活の見直しに目配りが始まった時期とが一致する。現在の日本を思わせるような時代が享保期だった。
とくに江戸で大衆化が著しかった花見は、都市周辺部つまり都市と農村との接点で開花した。享保期に開発された花見の名所である向島、飛鳥山、品川御殿山などはみな江戸の周辺部だった。ここにも花見が、長い日本の歴史を背負い、都市の貴族的な文化と農村の農民文化とを背景にした行事であることがうかがえる。
私は日本文化を考えるのに「桜」ではなく「花見」に注目したいと思っている。桜についての発言は、往々にしてイデオロギー的に日本を語る姿勢と結びついた。桜は、大和魂や武士道などと結びつけられ、精神史の観点から言及されることもあった。桜は、しばしば日本人の精神性を説明するキーワードにされてきたのである。
だが桜に結びつく大衆的な行動として花見を考えると、宴や社交など日本人の社会性、集団行動を問題にせざるを得ない。社会性や集団行動は、時代によって変化する。その変遷をきちんとあとづける作業が必要だ。桜に投影される個々の精神ではなく、花見という行動に映し出される集団の精神を探りたいと私は思っている。その作業を通じて、もし変化しない核のようなものが見つかれば、そこにこそまとまりとしての日本文化が見いだせるのではないか。そう考えているのである。
(国際日本文化研究センター教授・京大・農博・農・昭47)