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学士会アーカイブス

タテ社会からヨコ社会へ 山口 昌男 No.814(平成9年1月)

     
タテ社会からヨコ社会へ
山口 昌男
(静岡県立大学教授・東京外国語大学名誉教授)
No.814(平成9年1月)号

 19世紀後半以降において日本は2つの敗戦を経験しました。それは明治維新という国内戦争と第2次世界大戦という国際戦争です。明治維新を敗戦と呼ぶのは必ずしも正しい表現ではありません。しかしながらこの戦争は西の側と東の側の日本の国内戦争で、結果としては東の側が敗けました。そこで敗者の東の側から言うと、この戦争は敗戦であったと言うことが出来ます。

 なぜ今更、この2つの敗戦を問題にするかと言うと、この2つの敗戦が近代の日本人の生き方の2つのタイプ(型)を決定したからであります。

 1868年の戊辰戦争ではイギリスの支持を受けた朝廷側が勝利を収め、将軍は降伏し、最後まで抵抗した会津を中心とした東北の諸藩は見せしめのため新政府によって徹底した処罰を受けました。そして、将軍は版籍奉還により、諸藩の1つとして、将軍家の起源の地である静岡に移住させられ、将軍の家臣の中には俸禄(給料)を払われまいがお構いなしで、静岡地区に移住した人がたくさんいました。

 この静岡の地で将軍も大学(御学)を創立しました。しかしもっと注目すべきは、前の幕府の蕃書取調所の教授達を中心として創られた沼津兵学校という新しい大学でした。ここには薩長の新政府に仕えることを好まない数多くの旧幕臣のすぐれた学者達が集まりました。何故優秀かというと、この学者達の多くは漢学を学んでいたばかりでなく、幕府に仕えたころ、オランダに学んで西欧の学問的教養をすでに身につけていたからです。

 この沼津兵学校が反中央政府の拠点になることを怖れた薩長政府は2つの方法でこの大学を解体しようとしました。1つは東京に創立した大学南校に沼津の教授達を高給をもって迎えることで、西周(校長)以下その招請に応じて、東京に移った人もいます。しかし政府の招きに応じない教授もいたので、政府は明治3年(187O)に、政府命令によってこの大学を兵部省の一部として併合して、教授達に東京に移る命令を与えました。

 教授の中に中根香亭という人がいました。この人は初め蕃書取調所の教授を務め、漢学、蘭学、絵画、音楽(琴)をよくした詩人でした。

 この人は戊辰戦争の時、幕臣として幕府の側に立って戦いました。徳川方が敗れた時、彼は一度姿を匿しました。

 しかし、彼は沼津に姿を現し大学の教授となりました。そして、彼は前に述べたような理由で新政府の兵部省の少佐に任命されました。彼の任務は陸軍の作戦用の兵要日本地理小誌を書くことでした。ところが地理書が出来た時、彼の上官である鳥尾小弥太少将が、西軍・東軍と書くことに異議を唱え、西軍・東軍と書くのは間違いである。官軍と賊軍と書くべきであると主張しました。中根は不可能であると言って上官の要求を退けて兵部省を辞職しました。

 辞任してからの彼は、明治30年まで金港堂という出版社の顧問を務めました。そして短期間文部省に勤務した他、2度と公職には就きませんでした。彼は滅び去った徳川の時代の文化を限りなく愛していました。明治33年に、妻と最愛の息子を失っていた彼は金港堂顧問の役を辞任し、家と蔵書を親戚に頒ち与え、比丘の姿になって、全国放浪の旅に出ました。大正2年(1913)、彼は静岡県の興津(清水市)に現れて友人と弟子を集めて、自分が病のため10日後に死ぬと告げて遺言を残し、予告した日に死にました。自らの節を全うした人です。

 一説では、彼の臨終の席に立ち会った友人に大槻如電という人がいたそうです。この人もやはり敗けた側の生き方を追求した1人でした。彼は、蘭学者で仙台藩の家老の息子でした。彼の父大槻磐渓は藩主(東北6藩同盟の盟主)の命令によって抵抗の命令書を書いたために、裁判を受ける機会も与えられず投獄されました。維新後彼は文部省に史料編纂官として仕えましたが、明治3年(1870)に努力の甲斐あって父親が釈放されると、彼は官を辞して、昭和6年(1931)に死去するまで一切の公職に就きませんでした。何をしていたかと言うと出版社のために書物の校訂をして暮らしました。

 もう1人の人物を紹介しましょう。それは山中

共古
[
きようこ
]

という人物です。山中共古は江戸の四谷に生まれました。彼の家系は忍者(お庭番)の系譜に属していました。彼は14歳の時から、大奥の広敷添番として江戸城の中で仕事をしていました。つまり忍者の1人であったのです。徳川方が敗けてから、彼は将軍に従って静岡に移りました。そこで彼は英語の学校で勉強し、カナダ・メソディスト教会の最初の牧師となりました。しかし形成期の教会での出世争いの戦いは激烈なものでした。静岡教会で彼の1年後輩の平岩宜保という人は、このピラミッドを登る競争に大変上手な人で、たちまち共古を抜いて中央の総監督になりました。この人は東京帝大の前身の予備門出身でした。

 山中共古はピラミッドの階段を駆け登っていくのは不得手で、地方の教会を牧するのを好み、地方廻りを選んで、自分が牧している地方の民俗的事実を集めるのが好きで、知らないうちに大博物学者になっていました。ところが大正13年、カナダ・メソディストの集会の席で、平岩は共古のことを、地方の異教の習俗の蒐集に熱心で、布教に充分の力を注いでいない人間がいることが残念であると、名は挙げず批判しました。そこで共古は直ちに辞職して、或る大学の図書館司書として生涯を送り昭和3年に亡くなりました。

 共古は江戸時代の江戸の民俗に大変詳しく、江戸期の図書についても大変豊富な知識の持ち主でした。彼の廻りには、大学のピラミッドに属する事を好まない町の学者が集まり、明治19年(1886)から昭和19年(1944)に日本が戦争に敗けるまで自分達の力で「集古」という雑誌を刊行しました。この「集古」のグループの主なメンバーには旧幕臣及びその関係者が大勢いました。

 その主な人の名を挙げると、林若樹(軍医総監、林研海の息子)、赤松範一(海軍提督、赤松則良の息子)、坪井正五郎(東京帝国大学教授、蘭方医の息子)、三村竹清(竹の商人)――これらの人々はそれぞれ、江戸時代の事物の大変な蒐集家たちでした。彼らは定期的に集まって事物や書籍を展示し合い、知識の交換も活発に行いました。官立大学の学問が上・下のピラミッド型の条件を整えているとしたら、この町の知識交換会は横につながる関係から成っていました。

 今日、西欧の模倣の上に創る日本の大学の学問が行きづまりに達しているという意見があります。そういう時に、薩長が作り上げたピラミッド社会で、自らの経験で築き上げた横のつながりに基づく文化の歴史の研究の実例を示す、このような「集古」の会のようなキャリア中心の水平型人脈図――ピラミッド組識としての大学の可能性と限界を越える、このようなつながりがあったことを知るのは心強いことです。日本ではこのような広がりを持ったつながりが、特に江戸時代に物産会として数多くありました。江戸時代は政治組織はサムライを頂点においたハイエラーキカルなものでしたが、そういった縦のつながりを横断するネットワークのようなものが数多く存在しました。山中共古が中心となって刊行された「集古」は、そのようなネットワークの生き残りの形だったのです。

 江戸時代では、こういったつながりは講とか、連中と呼ばれていましたが、不思議にも近代においては大半が消えてしまいました。その理由は薩長が打ち立てたピラミッド型は天皇を頂点においた全国的なものだったからで、官の方はそれでよいとしても自由な市民が協力して作った筈の民間会社組織も官の真似してピラミッド型になってしまったのです。戦後まで続いた日本の官僚統制という産業統治の型はこのようにして出来上がったのです。

 元来、「集古」のようなつながりの廻りには、江戸時代の都市のゆとりのある文化が作り出した「通」と呼ばれる自由人がいたのです。その代表的な人物として淡島椿岳と寒月という2人の人物を挙げましょう。

 椿岳父の方は幕末に淡島屋という裕福な菓子製造・販売の家の養子に入ったため、生涯経済的な苦労を何も味わわずに絵を描いて暮らしました。彼の絵は明治になってから外国人の評判が高くなり、値段も高く売れるようになりました。彼は明治13年に向島という隅田川の東の地帯のレストランを使って「竹馬会」という子供の玩具の物産会を起こしました。この会が「集古」会や、のちに三越が巖谷小波という少年物語作家に依頼して作った「流行」という集まりの源泉、ヨコの社会の始まりになるのです。特に息子の寒月は画家としてもすぐれていましたが、世界の玩具を蒐集して大変な量のコレクションを持っていました。この人は外国に行ったことが無いにもかかわらず、自分で諸外国の文化についての情報を大量に集め、それを整理していました。従ってこの人は明治にあって、大学教授より早く人類学・民族誌学を自分のものにし、戦後の国立民族学博物館より早く、玩具に関する博物館を持っていました。

「集古」のメンバーの中に清水晴風という人がいました。この人は家業としては荷物を運ぶ運送店を親より受け継いで行っていましたが、本人は神田っ子で町内の面倒をよく見る人でした。清水晴風も玩具については一見よく知っているというので、「玩具博士」という称号を受けていました。この人は6冊の玩具についての画集の著者です。

 数多くの大学教授や好事家たちの中に、“いも繁” というあだ名を持っている奥山繁次郎という人もいました。彼は焼き芋を売る店を経営していましたが、考古学が大層好きで発掘を手伝っていました。後に本当に好きな道に近づくために古本屋を営むようになりました。

 こういった人達は勝った側につかなかったというだけで、旧幕臣ではありません。しかし江戸の文化を愛し薩長の粗っぽいピラミッド体制を好かなかったということで、新しい体制の人ではありませんでした。しかし、これらの人がどうしてこれ程横断的につながることが出来たのか、これは不思議です。趣味を共有していたというのはその説明の1つです。薩長の支配するピラミッドの縦型支配のハイエラーキー社会が出来上がりつつある中で、自分個有の生き方を作り出すためには、趣味の方がピラミッドより大事だと、これらの人は思ったのです。山中共古がその典型的な例でした。

 たしかに薩長が作り出しつつあったのは人間を縦にも横にも寸断する社会でした。その中で人々が趣味を使って横につながる術を提供したのが徳川時代以来の同好会(物産会)でした。この会は徳川時代には盛んに行われた博物誌の残存物であったのです。明治維新の政府は徳川体制の時代後れだったことを示すために、博物誌の代わりに進歩と変化の学問を奨励しました。つまり化学と物理学でした。

 しかし、人間の心を廻りの自然に向かって開くためには博物誌(本草学、石学等)の方が有効であることを忘れない人がたくさんいました。中でも国内の諸地方の玩具が人間と人間をとりまく物(木、水、糸、etc)とを直接に結びつけることによって、人間をもっと広い世界に向けて解放することを知っている人がたくさんいました。「集古」はそういう人達の会だったのです。

 明治に入ってから消えてしまった徳川時代の興味深い遊びに

立版古
[
たてばんこ
]

と呼ばれる遊戯があります。

 立版古というのは少年の遊びでした。秋祭りの季節になると、あちらこちらの神社の廻りで縁日が立ちました。この縁日には立版古売りの店が立ちました。この店は縁を切りとったり刻みを入れたりして作る版古という建築の遊びです。少年たちはこの建築のモデルを如何に早く立てるかという競争を行ったのです。廻る店が定まっていました。順番も定まっていました。その順番の中で誰が定まったコースを1番早く廻るかという競争でした。だから、この競争に数年参しているとどこに手強い競争相手がいるかということを少年達は知るようになり、最後にはお互いに知り合うようになります。ここに、横断的なつながりが出来上がります。

「集古」に参加した人には、この立版古の記憶を持っていて、忘れていない人がいたに相違ありません。この遊技は少年の世界のものです。少女達は「着せ替え人形」という遊びを楽しんでいました。少女達はこれも切り抜いて作る着物を、紙で作った人形に様々に着替えさせることを愉しみました。静的な変身を楽しむのと、製作者を含めて動的な遊びの違いはありますが、グループ遊びの要素は満足させます。形成されつつあった縦社会に対して、横縦の楽しみを与えたのはこのような境界を越える遊びの愉しみであったに違いありません。つまり明治と大正日本の可能性は遊びの世界の中に残されていたに違いありません(森下みさ子『江戸の微意識―生成する都市と〈女・子ども〉―』新曜社刊参照)。

 この講演のはじめに、私は明治以来、どのように敗戦を受けとめたかで2つのタイプの日本人が形成されたと言いました。1つは、敗けたという事実から、勝った側の一元化に同意しないで、

 

 (1)

別のピラミッド組織に属しながら、横断的なつながりで自分を生かした人々(山中共古、坪井正五郎)
 (2) ピラミッドに全く属しないで生涯遊技の世界の中で自由を求めた人々(淡島椿岳、寒月)
 (3)

ピラミッド型の日常生活を捨てて、その外に出てしまった人々(中根香亭、大槻如電、etc)



 彼らは政治的には敗者で、必ずしも恵まれていたとは言い難いのですが、新政府に媚びることなく、時代にも自分にもある程度の距離をおき、薩長の築き上げたピラミッド社会に組み込まれるのを良しとしない人々でした。彼らの精神風土には、敗けた側としてのメランコリーがあり、そのメランコリーをプラスに転じて、メランコリーな気分を楽しんだ――潔い生き方であったという気がします。

 彼らの生き方は、歴史の風雪に耐えて、歴史に打ち克った人々という印象を与えるもので、この“敗者の精神史”とでも言うべきものは、地下水脈のように綿々と流れ、人々に影響を与えつづけてきたのではないかと思われるのです(詳しくは、岩波書店刊『「敗者」の精神史』参照)。

 では勝った側の日本人及び勝った側と自己同一化しようとした日本人には何が起こったのでしょうか。それは次のように要約出来ます。

 (1)

勝った側の日本人は天皇を中心に富国強兵の出世社会を作り、ピラミッド社会の中で自分の地位を高め、他人の批判に注意を払わないようになりました。残念なことに、このタイプの日本人は外国の人に対してもこの態度を応用しました。さらに人間の間だけでなく、自然に対しても限りない収奪を行うようになりました。
 (2)

このタイプの日本人は、人間が自然とのハーモニーの中で生きるという、日本人が発達させた調和ある生き方を捨てて、勝者が弱者を犠牲にするという生き方を作ってしまいました。そして第二次世界大戦に突入してしまいました。



 そして、第二次大戦において日本は敗北しました。その結果何が起こったでしょうか。この第2回目の敗戦では第1回の敗戦と異なり、半分ではなく、すべての日本人が敗北しました。その結果何が起こったのか。前回の戦いでは敗けた側の日本人の中から、勝った側のピラミッド化に抵抗して、システムの外へ出て、独自の生き方を追求する動きが起こりました。今回はこのような動きは起こりませんでした。何故か。それは勝った側がもたらした民主主義のイデオロギーには抵抗し難いものがあったからです。このイデオロギーは人間中心の物質主義を伴っていました。敗けた日本人は映画などを通じてアメリカの物的繁栄の生活を見せつけられて、すっかりあこがれてしまいました。

 第1のデモクラシーには抵抗する理由は何もありませんでした。しかし第2の物質中心のイデオロギーには抵抗すべき余地がありました。この第2の点についての間違いには日本人も気がつきはじめています。特に環境汚染が過度の産業優先と自然についての情感の喪失から来たことについては、論議が盛んに行われています。

 第1のデモクラシーについてはどうでしょう。敗戦後の虚脱状態において日本人は、デモクラシーを実現するために、薩長が作りあげた中央集権のピラミッド構造を破壊して、中央政権による権力と財政と情報の独占を否定すべきであったのです。

 しかし、このような事は起こりませんでした。何故ならば日本人はデモクラシーと薩長が作ったピラミッド型社会を両立させようとして成功してしまったからです。勿論薩長の影響力は1920年代に大きく後退してしまったのですが、彼らが作り上げた中央集権のピラミッド型出世社会はそのまま手つかずに残りました。それ故こうした社会の主役つまり高級官僚はそのまま残っております。この人達は根っからの官僚主導の統制社会を信じています。ということは、官が尊く民は卑しい。従って官は民を指導し、民は官に従うべきである。民はこのような官を捨てて日本から脱出すべきだったのです。

 そういった意味で、動機は色々であるにせよ、私は日本を1度は捨てた海外日本の祖先たちに最大の敬意を払いたいと思います。はっきり言いますと、海外に入植者を送ることは日本の政府においては棄民に過ぎなかったのです。しかし、それは同時に海外に出た人にとっては、日本という国を捨てる事でした。薩長の作った日本は捨てられても仕方がないところまで行きました。

 国を捨てるには2つの立場があります。1つは、国外で入植者になること。もう1つは、明治の敗者の如く、国内にいて、自らの選択において1度システムの外に出て忘れられることを選ぶ立場です。残った人が属したピラミッド型のシステムは今、重大な危機に直面しています。

 それでは、今日の日本人はどのような生き方を選ぶべきでしょうか。我々は、戊辰戦争後の日本人の2つの生き方があったことを知りました。そうして、第1の、勝者と自己同一視する生き方は破産に瀕していることも知っています。勝者に対して距離を置く生き方は今に至るも有効であることを知っています。第2の生き方がよく知られるようになったのはつい最近のことです。海外に出た日本人の多くの先祖達は国内のピラミッドに安住することが出来なかった人です。

 私は北海道の生まれです。父は子供の時、鳥取県の農村で育ちました。父の父は日清戦争で死にました。そこで父は母に連れられて国内移民となり北海道へ行きました。私が薩長システムに批判的であるのはこの背景の故でしょう。

 よく知られているように榎本武揚は中央政府に抵抗して函館戦争を戦い、のちに政府の高級官僚となり、明治24年(1891)農業移民を目的として旧幕臣の子弟の殖産も意図して東京農大を創り、明治27年には外務大臣としてメキシコとニュー・カレドニアへ移民団を送りました。

 国内外の入植者は国内亡命者と共通の立場を持っています。つまり自分の属している文脈の中から同時代の日本を抜き取って別の文脈で置き換えることです。日本国内の場合は縦型の構造に対して横のネットワークを作ることにあることは既に述べた通りです。国外にある日本系の人達は新しい異質の文化と対話をすることによって、国内で作り上げられた日本という現実のイメージに異なった要素を加えることにあると思われます。このようにして、私は日本という国の国境はそれほどはっきりしないが、日本的なもので世界がつながるネットワークが作られることが望ましい、世界のあらゆる文化がユニークな文化情報の発信源になることが望ましいと思います。そのために海外に滞在する人の役割は、日本国内で世界中を金と情報で支配しようと試みる人より遥かに大きいと思います。結論を言えば、海外日本人の精神的祖先、それは戊辰戦争で敗けた人であると思います。

  (静岡県立大学教授・東京外国語大学名誉教授・東大・文・昭30・文修[東京都立大])

(本稿は平成8年9月10日夕食会における講演原稿に加筆したものであります)