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日本外交の視点 大河原 良雄 No.812(平成8年6月)

     
日本外交の視点
大河原 良雄
(外務省顧問・日米協会会長・元駐米大使)
No.812(平成8年6月)号

日本外交の三原則
 「日本外交の視点」といういささかおおげさな題でお話し申し上げますのは、羊頭狗肉の感なきにしもあらずと、内心忸怩たるものがございますが、若干歴史的なことを、記憶をたどっていただくという意味で申し上げたいと思います。

 明治時代以来、外交と申しますと、例えば陸奥外交であるとか、小村外交、幣原外交、吉田外交というように、その時時の優れた指導者の名前を冠した呼び方が使われてきました。私どもが若い時代に二股さんという先輩がおられまして、「二股さんだけには外務大臣になってほしくない、二股外交になるからな」などと冗談を言い合った記憶があります。最近は自主外交と呼ばれる反面、追随外交・屈辱外交・土下座外交あるいは謝罪外交という、非常に暗い忌まわしい形容詞付の外交が、マスコミに絶えず登場してまいります。一方では、文化外交・スポーツ外交あるいは草の根外交という、非常に明るい、柔らかさを伴った表現もしばしば使われるようであります。

 とくに最近目立ちますのは首脳外交ということばであります。昨年の十一月に、大阪で第三回目のAPECの首脳会談が開かれ、主催国日本の総理大臣として村山総理がこの会合を取り仕切りました。これなどまさに首脳外交そのものです。この二月二十三日には橋本総理大臣が訪米され、クリントン大統領とカリフォルニアで会談することが報じられておりますし、三月の初めにバンコックで開かれるASEANとEUとの対話の会議(ASEM)に橋本総理大臣が出席する。さらに四月十九・二十日とモスクワでのG7原子カサミットにも橋本総理大臣が出席を予定されているというように、いま国際政治のうえで首脳外交というものが、非常に大事な意味合いをもってまいっております。このような首脳外交が活発になってまいりましたのは、一つには技術革新によって交通手段・通信手段がすばらしい発展を遂げたことにより地球がせまくなったということ、同時にまた、最近のグローバリゼーションという大きな流れの中で、国際的に相互依存関係が非常に深まっていることを反映するものだと言えます。

 しばらく前の状況では、たとえ重要な国際会議が開かれても、日本の総理大臣なり外務大臣は、国会開会中という理由に縛られて動きがとれないという、まことに残念な状態が続いてまいりました。しかし、それもいまでは、三月とか、四月という、国会開会中の重要な時期でさえも日本の総理大臣が首脳外交の第一線で活躍できるように変わってまいりました。これは五五年体制のもとでは考えられなかったことで、それだけ政治家の間でも、あるいは国会の中でも、国際情勢とのつながりが強く意識されてきている現れだと言ってよいのでしょう。

 この首脳外交というのは一体どういう場なのか。例えば、二月二十三日にカリフォルニアで開かれるクリントン大統領との会談について、橋本総理は、個人的な信頼関係を確立することが最大の目的であると述べたと報じられております。首脳同士がお互いに膝を突き合わせて話し合う際に、アメリカでは「ケミストリーが合う、合わない」という表現がよく使われます。つまり、「ウマが合う」、あるいは「お互いに性が合わない」ということが現実にはあり得るわけで、首脳外交が活発になればなるほど、このケミストリーが合うかどうかということは極めて大事な要素の一つになってきております。

 先般亡くなりましたフランスのミッテラン大統領とイギリスのサッチャー首相は、ケミストリーが合わなかったと言われ、もし二人のケミストリーが本当に合っていたならば、イギリスとフランスとの関係はもっと違ったものになっていたであろうという話は、内輪の茶飲み話などではよく語られたことであります。首脳外交がこれからますます華々しく展開される中で、各国首脳とぜひケミストリーが合うようなかたちで日本の指導者に活躍をしていただきたいと願わずにはおられません。

 少し遡って考えてみますと、戦後の日本外交の最初の段階で登場したのが、外務省がその後毎年発行している『外交青書』であります。これは昭和三十二年(一九五七)に「わが国外交の近況」という題名の報告書が、藤山愛一郎外務大臣のもとで第一回のものが出ており、英国外交文書のひそみに倣い青表紙であることから「青書」と呼ばれます。その前年の昭和三十一年に、日本は当時のソ連との間で国交を樹立し、それをもとに国連に加盟いたしました。そのような新しい外交活動の展開を背景として、この第一回の『外交青書』が出され、その中で、わが国外交の基本的な目標として、「自由と正義に基づいた平和の確立と維持を図る」ということを挙げ、そのための外交活動の三つの原則をうたっております。第一に国連中心、第二に自由主義諸国との協調、そして第三にアジアの一国としての立場の堅持、これが外交三原則として、その後日本外交の基調をなし続けたものだと言えます。

 第一の国連中心主義の考え方につきましては、第一回の『外交青書』の中で、「国連がその崇高な目標にもかかわらず、所期の目的を十分に果たすに至っていないことは、国際政治の現実として、遺憾ながらこれを認めざるを得ない。一方において国連の理想を追求しつつ、他方においてわが国の安全を確保し、ひいては世界平和の維持に貢献するための現実的な措置として、自由主義諸国との協調を強化してきた。」という記述があります。これは、一九五七年という戦後の比較的早い段階において、すでに国連が本来果たすべき役割が十分果たせていないという、冷厳な事実の認識を述べたもので、東西の対立による冷戦時代に国連が本来果たすべき役割を十分に果たし得なかったのは事実であります。

 しかし、一九八九年以後冷戦が終わり東西の対立が解消されて以来、とくに湾岸戦争を契機として、国連の存在意義が改めて見直されるようになってまいりました。これからの新しい世界秩序を担うものは国連であるという大きな期待感が生まれたものの、残念ながらその国連も、旧ユーゴスラビアの紛争解決に十分な力を発揮できないという限界を示す結果に終わっております。

 その間、日本は、国内的にいろいろな経緯があったにせよ、国連の平和維持活動に積極的に貢献し、役割を果たすという考え方のもとで、PKO活動に参加をいたしました。カンボジアで成果を上げ、国際的に大きな評価を得たことによって、国内でもPKO活動に対する理解が逐次深まり、現在日本の自衛隊が、ゴラン高原の国連平和維持活動にPKOとして参加をする状況になってきております。国連に期待される大きな役割、そしてまた現実政治のなかにおいて国連が果たし得る役割の限界を正しく理解しながら、国連中心主義という当初の考え方を進めていく必要があります。

 いま国連は恒常的な財政赤字に悩みつづけ、いかにして国連の財政を建て直すかという問題をかかえております。同時に、戦後五十年を経て、国連は発足当時に比べて明らかに状況が変わっております。具体的には、国連憲章が一九四五年に採択された際に五十五カ国であった加盟国が、現在百八十五カ国にもなって、五十年前の国連の仕組みは今日の国際政治の現状に沿っていないという問題があります。したがって、国連の組織を現実を反映した新しいものにしていかなければならないとの問題意識がひろがり、国連憲章採択五十年の機会に、国連の機構改革ということが、大きな課題として国際的に取り上げられてまいりました。日本の国連の安全保障理事会常任理事国加入という問題も、その関連において取り上げられてきているわけであります。

 戦後国連が安全保障理事会の常任理事国、具体的には米・英・仏・中・ロの五カ国で事実上支配されている状況は、今日の世界の実情から見て合理的でない、という基本的な問題意識のもとに、国連において機構改革が話し合われております。国連の財政建て直しに大きな役割を果たすことが期待されている日本としては、憲章改正、機構改革の問題においても当然大きな役割を果たすべきであり、また果たしてほしいという国際的な期待が生まれていると言えると思います。国内的には、日本が国連の安保理常任理事国入りをするということについて、いろいろな議論があることはご承知の通りでありますが、少なくとも国連政治においては、日本がドイツと共に何らかのかたちで安保理常任理事国として役割を果たすべきであるという、共通の一致した観方があります。

 次に二番目の、自由主義諸国との協調の問題について考えてみたいと思います。第一回の『外交青書』に挙げられたように、国連が本来果たすべき役割を果たさない以上、次の方策は自由主義諸国との協調の強化ということになってくるわけですが、現実の政策としては、対米協調路線が、戦後の日本外交の基軸をなしてまいりました。その日米の関係は、マンスフィールド元駐日大使が絶えず強調しておりましたように、「世界で最も重要な二国間の関係」であるという状況にまで発展してきました。

 この日米関係は、例えば一九六〇年に安保改正問題で大きな動きを示し、また七〇年代には第一次・第二次のニクソン・ショックや第一次・第二次の石油ショックもありました。そして八〇年代には、恒常的に巨額の貿易の不均衡ということを背景として、非常に難しい経済摩擦が絶えず日米関係に大きな影を投げかけてきましたものの、いろいろな試練を経て今日の日米関係が生まれているのであります。

 七〇年代の終わりから八〇年代の初めにかけて、全方位外交ということが言われたのをご記憶であろうと思います。これは、世界のすべての国と仲良くしていかなければならない、そのためにはあらゆる方向にアンテナを張り、あらゆる国々と仲良くしていかなければならない、ということでした。しかし東西対立の状況のもとで、あまりにもすべての国と仲良くしようとするとすべての国との関係が薄くなるという状況を生むことになります。七〇年代の終わりから八〇年代の初め、ちょうど冷戦の真っ最中に、日本が全方位外交という姿勢をとったことにより、対米関係に一時きしみが生じました。アメリカが、日本のそのような対外姿勢に対して強い問題意識を持ち、それが日米関係に大きな影を投げかけたのであります。この状況の中で、昭和五十七年(一九八二)十一月中曾根内閣が発足し、中曾根総理大臣が、一九八三年のウィリアムズバーグのG7サミットの際に、ウィリアムズバーグ政治宣言の発表に極めて積極的な役割を果たしました。大平、鈴木、中曾根内閣を通じて、日米関係調整のためのあらゆる努力が払われ、日米関係は日米軍事同盟であるということを日本側が明確に確認したことを通じて、日米間のきしみは直されたという経緯がありました。

 そして九〇年代になり冷戦が終結し、五五年体制が崩壊するという状況の中で、野党として戦後一貫して一国平和主義を唱え、戦争に捲き込まれるのは反対ということで安保反対の姿勢を絶えずとり続けてきた社会党の党首が、連立政権の首班の座に就き、それまでの対米追随外交批判の姿勢を一八〇度転換して、日米安保条約堅持・自衛隊容認ということを、村山総理自身が数繁くいろいろな場で表明するという状況になったのはご承知の通りであります。日米関係には、新しいいろいろな問題が登場しておりますが、これは後ほどまた、改めて申し上げたいと思います。

 三番目の外交の柱、即ちアジアの一員としての立場の堅持という考え方につきましては、これまたいろいろな発展がありました。五〇年代、六〇年代を通じて日本外交のアジアとの関係は、戦時補償その他、戦後処理にずっと追われてまいりました。そして七〇年代の初めに、ニクソン大統領による米中国交正常化という第一次ニクソン・ショックを契機として、日本は中国との国交の正常化を行い、新しいアジア外交の展開が見られたものの、一九七四年、当時の田中首相がアジア訪問の際に、バンコックやジャカルタで激しい反日デモに見舞われるということも起こりました。このような経緯を経て、一九七七年の八月に福田総理がアジア諸国訪問の最後にマニラにおいて演説を行っております。これは「福田ドクトリン」としてアジア諸国が非常に高く評価したものであり、今日に至っても福田ドクトリンということがいろいろな場で、アジアの人たちの口から出るほどであります。しかし、残念ながら日本の国内においては、この福田ドクトリンということばが聞かれることも、最近は無いような状況に思えます。

 福田ドクトリンの考え方としては、三つ挙げられております。まず第一が、日本は絶対に軍事大国にならない。東南アジアひいては世界の平和と繁栄に協力する。第二に、政治経済だけでなくて、社会・文化など広範囲な分野で真の友人となる。第三番目が、対等な協力者として、ASEANの連帯と強化の自主的努力に積極的に協力する。インドシナ諸国とのあいだに、相互理解に基づく関係の醸成を図る、というものであります。この福田ドクトリンの表明を通じて、日本の対アジア政策、アジアとの接触の甚本的な考え方が強く打ち出され、これがアジア諸国から高く評価されて、今日に及んでいるのであります。

アジア・太平洋地域の四つの特徴
 こうした基本的な考え方のもとで、日本はアジア諸国との経済協力を活発に進めております。一九五四年に技術協力を目的とするコロンボプランに参加して以来、日本は逐次経済力の発展を背景として、経済協力を強力に進めてまいりました。その間、日本のODA(政府開発援助)の対象国として、アジアが絶えず非常に大きな分野を占めてまいりました。一九八〇年には日本のODAの七〇・五%、一九九〇年には六〇・六%がアジアに向けられております。一九九四年にはODAの五七・三%がアジアに向けられ、金額的には約五十六億ドルという数字になっておりますし、日本がODAを提供している世界の十大国のうちの八国までが中国・インド・インドネシア・フィリピン・タイ等というアジアの地域の国であるということにも示されるように、福田ドクトリンの考え方に基づいたアジアとの経済協力関係が進められてきていると言えます。

 もう一つ、別の動きとして、一九八〇年一月に大平総理がオーストラリア訪問の際、メルボルンでの演説で、環太平洋連帯構想を提唱いたしました。アジア・太平洋地域の多様性を前提として、新しい地域協力を進めるべきであると訴える内容のものです。この大平構想を受けるかたちで、オーストラリアのフレーザー首相は、同一九八〇年に、PECC(パシフィック・エコノミック・コーポレーション・カンファランス)の開催を呼びかけ、今日PECCがこの地域での政・官・民の三者構成になる協力関係の場として活動しております。このPECCをさらに発展させるかたちで、一九八九年には、オーストラリア政府の呼びかけで、APECの発足をみております。

 アジア・太平洋地域の経済的な協力関係を話し合う対話の場として発足したAPECが果たしてどういう方向に動いていくか、当初ASEAN側ではあまり肯定的に受け取られなかったというのが実情でありました。しかしその後、APECの会合が回を重ねる毎に逐次姿勢が変わり、とくに一九九三年にシアトルでAPECの会合が開かれる際に、クリントン大統領が初めてこの地域の首脳レベルでの非公式な会合を呼びかけ大きな流れが生まれました。それが九四年のインドネシアのボゴール会議、昨年九五年の大阪会議へと繋がり、この地域の協力関係を進めるうえで、貿易と投資の自由化推進を旗印に掲げるAPECが非常に重要な役割を果たすようになってまいりました。その展開過程についてはいろいろな観方がありましょうが、少なくとも日本の立場としては、大平総理の提唱した環太平洋連帯構想が具体的に発展したものとの考え方であったと思います。

 また、アジア外交の場での大きな問題として、一九八九年六月の天安門事件がありました。人権重視のアメリカやヨーロッパの対中制裁志向の政策に対して、日本は歴史的な深い繋がりのある中国との関係において、米欧と若干姿勢を異にした独自の対応をいたしました。米欧との間に難しい関係が生まれましたが、独自の姿勢を貫き通したということは、アジア外交のうえで大きな意味をもったと言えます。

 最近の出来事としましては、九一年の七月に、当時の中山外務大臣がクアラルンプールで開かれたASEAN拡大外相会議の際に、一つの提唱を行いました。それは冷戦が終わってアジアにおいても安全保障の問題が非常に大きな意味をもってきている状況の中で、お互いのあいだの信頼関係を固めるために、対話の場を設けたらどうだろう、と呼びかけを行ったのです。その際にはASEAN側はやや否定的な態度でありましたが、その後これが実を結ぶかたちで、九三年のシンガポールのASEAN拡大外相会議の際に、ASEAN地域フォーラムを設けることが決定されました。九四年に第一回、九五年に第二回のASEANリージョナル・フォーラム――略称ARFの会合が開かれ、ASEAN加盟六カ国(ベトナムのASEAN加盟後は七カ国)のほかに、日本・中国・韓国・ロシア・アメリカ・豪州・ニュージーランド・カナダが参加をして、この地域の安全保障の問題を率直に話し合って相互の立場についての理解を深め、お互いが疑心暗鬼となって問題を複雑にすることを避けようという動きが進み、ARFがこの地域の安全保障のうえに果たす役割が、大いに評価されるようになってきております。

 APECが逐次かたちを整えて、経済分野における協力が進み、他方ではARFという安全保障分野での話し合いの場が定着してまいりました。また、ASEANとEUとの対話ということで、開かれた地域主義を標榜しているアジア・太平洋地域諸国とヨーロッパとの話し合いが、三月のバンコック会議によって動き出すという状況になってきております。

 このように、アジア・太平洋地域の政治・経済その他の分野において顕著な動きがありますが、国際政治から見てのこの地域の構造的な特徴について、次のような議論がなされております。

 まず、この地域の特徴の一つとして、経済発展のうえで不均等性がある。その経済発展が均等でないことによって、国際政治のうえで不安定な要因が生まれている、ということが挙げられております。かつて日本を先頭として、雁行型の経済発展形態が見られました。つまり、ある地域は経済的に非常にすばらしい発展を遂げているものの、後から追う国々の経済発展はなかなかそのレベルに達しない。その平等でない、均等でないということに伴って、政治的な不安定が生まれるという考え方であります。

 第二の特徴は、各国の政治体制の多様性ということです。民主主義国もあれば、独裁政治の体制もあるし、依然として社会主義体制を維持している国もある。政治体制の違いからなかなかお互いに正確に認識し合えず、誤解なり誤認を生みやすいという指摘であります。

 三番目には、もう少し積極的な意味合いから、多角制度化の進展ということで、接触の機会が増えることを通じて誤解や誤認が中和される、そしてそれが安定化に繋がるという意味で、先ほど申し上げましたような、APECとかARFというような地域内の協力や話し合いは、非常に望ましい動きだという捉え方であります。

 もう一つの特徴として、経済発展への期待と相互依存の深化が挙げられております。これから経済発展が期待できるという望みがある場合には、それぞれの国の不満なり不平というものが緩和されるであろうということ。アジアの構造的な四つの特徴というものを、この地域の問題を考える際に把握しておく必要があるという観方であるわけです。

 国際社会は冷戦後の新しい国際秩序を求めているのだと論ぜられます。しかし、現実に、この地域の情勢を見てまいりますと、ヨーロッパにおいては冷戦後の事態は明らかに変わってきているにしても、アジアの場合には依然として冷戦のしこりが残っている。政治的には非常に不確実不透明な情勢が続いております。経済的には世界の奇跡と言われるような躍動的な発展を遂げており、二十一世紀に向けてアジア・太平洋地域のすばらしい経済発展というものが、ますます国際的に期待感をもたれております。しかし、政治的に見ますなら、例えば朝鮮半島、台湾海峡、南支那海と、紛争の種になるものが現実に存在していることも見逃せません。冷戦時代に旧ソ連がこの地域に対して直接の脅威を与えていたことは否定すべくもない事実でありますが、旧ソ連が崩壊し、新しいロシアがかつてのような軍事力を行使できる態勢に必ずしもないという状況の中で、直接の脅威は無くなったと言えるにしても、紛争の種が存在し、危険が残っているということは、アジア地域の問題を考える際の、大事なボイントであろうと思います。

 最近新聞を賑わしている竹島の問題、あるいは尖閣諸島の問題、さらにはロシアとの間で長年難しい状態になっている北方領土の問題、というように、領土の問題一つを取り上げても、日本として譲ることのできない極めて深刻な問題を持っているわけであり、最近の状況は、厳に注意すべき問題を我々に投げかけていると思われます。

日米安保条約の見直し
 そこで、この地域の政治情勢を考え、それに基づく安全保障の問題を考える必要が出てまいります。安全保障の問題について日本のかねてからの基本的な考え方は、日米安保条約を堅持し、それに墓づく専守防衛の体制を固めていくということでありました。冷戦が終わり、新しい情勢が生まれてきたのだから、日米安保条約も、冷戦時代とは存在意義が違ってきている、もう安保条約は要らないのではないか、という議論がとかく登場しがちであります。しかし、いま申し上げたようなアジアの情勢を冷静に考えてみた場合に、どうして安保条約不要論が言えるのか、ということであります。そこで日米の間では、今日、日米安保条約の再定義ということが大きな政治課題になってきていることはご承知の通りであります。

 これまで日米安保条約は、日本とアメリカの二国間の同盟関係を規定したものとして捉えられてきております。一方、今日のアジア諸国は、この条約は単に日米二国間の問題ではなく、むしろアジアの平和と安定のうえに不可欠の重要な役割を果たすものだ、アメリカはこの地域に強力なプレゼンスを維持することを通じてアジアの安定に資しているが、安保条約がこれを支えている、という捉え方をしております。アメリカがもし何らかの理由によりプレゼンスを薄めたり、プレゼンスが無くなった場合に生じる空白を、どこが埋めるのか、アジア諸国は非常に心配をいたしております。その空白を埋めるものが、中国であっても困る。ロシアであっても困る。日本であってももちろん困る。ということになりますと、結局空白を生まないためには、どうしてもアメリカの軍事的なプレゼンスが必要だ、という考え方になってくるわけです。先ほど申し上げました福田ドクトリンの中での、日本は絶対に軍事大国にならないという考え方が、日米安保条約の存在によって裏付けられているというのがアジア諸国の観方だと言えます。

 日米安保条約は冷戦時代と同じであっていいのか、あるいは別な意味を持つことになるのか、専門家の議論もいろいろ生まれてまいります。いちばん端的に現れたのが、九五年の夏に、アメリカの『フォーリン・アフェアーズ』という有力な外交問題の専門誌に、国防次官補のジョセフ・ナイという、現在ハーバード大学に戻って教授をしている人の「米軍の撤退など論外だ」という議論と、チャーマーズ・ジョンソンという、代表的なレビジョニストの議論を展開してまいりましたカリフォルニア大学サンディエゴ校教授の「日米安保条約見直し論」とが、併せて掲載されたことがあります。この二つの相対立する観方は、アメリカの国内で、あるいは国際政治の専門家の間で、その後もいろいろな場で議論を続けられております。アメリカ政府は、昨年の二月に「東アジア戦略報告」を発表し、アメリカは今後、この地域において十万人の兵力展開を維持する。日本には四万七千人の駐留を行うという戦略を明らかにし、そのアメリカの前方展開戦略を支えるものは、まさに日米安保条約であり、それがアジアの平和と安定に不可欠な役割を果たすという姿勢を明らかにしております。

 その状況の中で昨年九月に例の沖縄の非常に不幸な暴行事件が発生し、沖縄の人たち、そして日本全国からも、在日米軍基地の整理統合、縮小を求める感情的な強い声が挙がってまいりました。

 昨年十一月に予定されていましたクリントン大統領の日本訪問が、今年の四月に繰り延べられましたが、今日日米の間の最も難しい、また大事な政治交渉は、在日米軍の基地のあり方であり、それはアメリカのアジア政策、あるいはアジア安全保障政策の根本にかかわる問題ということになります。

 今朝の新聞に、最近、国会議員からなる基地問題調査団がアメリカを訪問し、在日米軍基地の整理縮小を強く求めたのに対して、アメリカの専門家が、日本は一体どのような戦略情勢の認識を持っているのだと呆れ、議論が嚙み合わなかったという趣旨の記事が見られました。基地問題はまさに日米安保条約の根幹にかかわる問題であり、さらにアジアの平和と安定のうえでも中心的な課題でありますから、基地の整理縮小という方向でのあらゆる努力は当然必要でありますが、大局論に立ったバランスのとれた対応が求められるべきであり、感情論に流されて、基本的な問題をゆるがせにしてはならないということは、明らかだろうと思います。

 四月のクリントン大統領訪日の際に中心的な問題になるのは、おそらく日米安保条約の再定義ということであろうと思います。新聞報道によりますと、アメリカ側は、四月のクリントン訪日による橋本・クリントン会談が沖縄会談になっては困る、とトーン・ダウンを図っている由ですが、日本としては国内事情も十分考慮に入れながら、且つアジア情勢をも睨みつつ慎重に対応することが肝要であります。

 おそらくアメリカ側としては、日本の周辺地域、具体的に言いますと北東アジア地域において、一旦ことが有った場合に、日本は果たしてどのような対応をするつもりなのか、日本の安全にかかわる極めて緊要な日本周辺の事態に対して、どのように情勢を捉え、対応をしようとしているのか、日本が直接攻撃にさらされた場合に初めて防衛出動するという、これまでの考え方で、日本はアメリカの同盟国としての本当の役割を果たすことができると考えているのかどうか、という基本的姿勢を問題にしてくるであろうと思います。

 先ほどのジョセフ・ナイ対チャーマーズ・ジョンソンの、学者間の論争に関連して、アメリカの一部の学者が最近提起している問題を紹介いたしますと、日米安保条約堅持という基本的な姿勢に立ちつつも、ジョンソンが言うように、戦後五十年を経て情勢が変わり、経済的に強者としてのアメリカから絶えず庇護を受けてきた日本が経済大国になった今日、これまでと同じかたちでの付き合い方でいいのかという議論については、一概には否定できない点があるのではないか、と日本の集団的自衛権のあり方についての問題を投げかけています。

 結局、日米安保条約の問題を、いろいろな角度から突き詰めて、最後に登場する問題は、日本が集団的自衛権の問題についてどのような姿勢をとるべきか、ということに帰着するのであろうと思います。これまでの日本政府の立場は、日本は国家として集団的自衛権を本来的には持ってはいるものの、憲法との関係においてそれの行使は許されないということでありますが、憲法は憲法としてそのまま認めつつ、日本は本来保有する集団的自衛権の行使ができるのではないだろうか、その点をもっともっと突き詰めた考え方に徹すべきだ、という議論が、アメリカの学者その他の間で最近非常に目立ってまいりました。我々は、これまで憲法改正については極めて慎重であり続けてきましたし、これからもそうであり続けなければならないと思いますが、集団的自衛権の問題はアジア情勢が錯雑した展開を遂げている中において、タッチすべからざる問題だという姿勢をとり続けることはもはやできない状況になっているものと思われます。

将来展望
 先ほど申し上げましたように、世界が極めてせまくなって、グローバリゼーションという大きな流れが動いている情況のもとで、これからの日本外交の中で大きな意味合いを持ってくるのは、地球的規模の問題への取り組みであろうと思います。具体的に言いますならば、環境であり、難民の問題であり、人口の問題であり、麻薬の問題その他であり、これらの問題については、日本とアメリカとの間でも、すでにコモン・アジェンダというかたちで、日米が協力しあってこの問題に取り組んでいこうという基本的な約束ができ上がっております。これを今後具体的にどういうかたちで進めていくかということが問題であります。環境問題等は、日本は経験的にも知識のうえでもすばらしいものを持っているわけですから、それを最大限に活用することを通じて日本外交の幅を広げていくことが必要になってまいります。

 もう一つの問題は、世界平和の観点から軍備管理、軍縮の問題であり、これについて日本は今後どのような外交政策を具体的に進めていくべきかということが大きな課題であります。昨年来、フランスあるいは中国の核実験に対して、日本政府は強い抗議の姿勢を取り続けてまいりました。それにもかかわらず、フランスも中国も基本的な政策を頑として動かそうとしなかった。今年は、全面的な核実験停止条約がいよいよ結ばれそうな機運も生まれてきておりますし、日本としてはこの分野についてもっともっと積極的な役割を果たしていかなければならないと思います。

 その関連において、よく指摘される問題として、いわゆるODA大綱の問題があります。日本政府は九二年六月にODA大綱を発表して、世界でも一番大きな額を持つODAを進めていくうえでの四つの原則を打ち出しております。

 第一が環境と開発の両立、二番目が軍事的用途および国際紛争助長へ使用されることを避けるということ、三番目に、途上国の軍事支出、大量破壊兵器、ミサイルの開発製造、武器の輸出入等の動向に十分注意するということ、四番目に、途上国の民主化、市場経済化、基本的な人権や自由の保障に十分注意をすること、この四つです。日本は現在、年間約百三十六億ドルという巨額のODAを提供し、アメリカを遥かに抜いて世界最大の援助供与国ですが、その援助の供与に当たっての基本的な四つの原則が大綱にうたわれておりますので、中国の核実験に対して、日本政府が中国に対して円借款あるいは無償援助を行うのはおかしいではないかという議論が出てまいりました。日本政府はこの問題について、中国に対して核実験反対の申し入れを累次行うとともに無償供与を差し止める姿勢をとってはいるものの、すでに約束済みの円借款には手をつけないということで対処してまいりました。今後の中国との関係を考慮すると、なかなか思い切った手を打ち難いのが実情だと思います。ODAの原則を総合的に考えながら、今後どのような対応をしていくのか、環境や核軍縮の問題等、日本が役割を果たすべき問題に対してどのような対応をしていくのか、これからの日本外交のうえにおいて非常に大きな課題であります。

 二十一世紀へ向けて、日本外交としても総合的な将来展望を固めることが求められているものと思います。この関連で例えば、経団連が経済界としての立場から、最近「ビジョン2020」を発表しましたことが注目されます。これは、現在日本の国内で非常に強い閉塞感が漲っているが、一日も早くこの閉塞感を脱却して、魅力のある日本を創造しなければならない。長期的な展望に立ってビジョンをつくりたいということで出されたものです。その中で対外的に関係のある部分の内容をご紹介いたしますと、まず国内的に真に豊かで活カのある市民社会をつくる。そして対外的には、世界の平和と繁栄に貢献する国家をつくりあげていく。目指すべき未来像としては、国民の自由な創意工夫と活力が最大限に発揮され、地球的な視野で行動をし責任を果たす、活力のあるグローバル国家をつくりあげ、それを通じて、世界から信用され尊敬される国をつくっていくべきである、というのが経団連が二十一世紀に向けたビジョンであります。

 一例としてここに見られるような長期的な展望を描きながら、日本が置かれている国際環境の中で具体的にどのような外交活動を進めていくべきかということが問題であることは明らかであります。短期的には、例えば、現在アメリカで大統領選挙戦の予備選挙が行われて、明日にもニューハンプシャー州の結果が表れてくる。あるいは三月二十三日に、台湾で総統の直接選挙が初めて行われ、その結果いかんによっては、台湾海峡を挟んで中国と台湾との関係が非常にデリケートなものになってくる可能性がある。四月十一日には韓国で総選挙が行われ、昨年地方選挙で負けた金泳三大統領の与党がこの選挙で大勢を挽回しようとして、対外的には極めて強硬な姿勢をとり続けて、日本に対して非常に強い要求が次々と登場してきているという状態。あるいは六月十六日のロシア大統領選挙によってエリツィン大統領が再選されるのか。あるいはこれに対抗して有力視されている共産党のジュガノフ党首その他エリツィン以外の人が登場してくるのか。ロシアがそれによって対外的にどのような姿勢をとることになるのか。アメリカその他はその結果どのような対ロシア政策をとることになるのかと、いろいろな問題が今年登場してまいります。

 このように世界全体を見回してみると、今年は選挙の年でありまして、いずれの場合にも政府が弱く、国内政治重視の政策を志向せざるを得ないというのが共通に見られる問題となっております。日本の場合にも、三カ月以内か、六カ月先か、あるいは一年以内なのかは別として、いずれにせよ総選挙の実施の時期は迫っております。こういう状況の中で日本外交を積極的に展開するためには、強力な政治の指導が必要不可欠であります。

 「外交は内政の延長である」というむかしから言い伝えられたことばが、今日非常に直截的に考えられる状況であるだけに、ぜひ強力な政治を推進してほしいと考えるわけであります。

 駆け足でいろいろ触れてまいりましたけれども、私のお話はこれで終わらせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。

  (外務省顧問・日米協会会長・元駐米大使・東大・法・昭17)
(本稿は平成8年2月20日午餐会における講演の要旨であります)