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学士会アーカイブス

発掘を科学する 田中 琢 No.809(平成7年10月)

発掘を科学する
田中 琢
(奈良国立文化財研究所長)

No.809(平成7年10月)号

考古学のいま・むかし

私は大学で考古学を専攻して以来四十年になります。いま世の中は考古学ブームとか古代史ブームと騒がれ、当時から見ると隔世の感とはまさしくこのことだと思います。考古学関係の新聞記事なども、この頃は専らオウムやら阪神大震災が満載で非常に少なくなったものの、実際それまでは、平均すると一日に一件は考古学関係の記事があったと言っていいほどです。私どもの研究所では、発掘や建造物等の文化財関係の記事を毎日全部切り抜いて保存しております。私は数年前に新聞社に一年間の記事の総量を問い合わせ、一年分の切り抜きをもとに統計をとったところ、発掘など遺跡関係の記事は全新聞記事の〇・七%でした。日本の国家総予算の中に占める発掘・遺跡関係のその年の予算を計算したら、〇・〇二一%でした。ということは、日本国政府が遺跡関係に費やしている金額の三十倍以上も社会の関心は高いことになる、という計算をしたことがあります。

発掘調査と言えば、地下に埋もれていた先人の営みの跡から、過去の歴史に関する情報を収集することで、いま日本中で恐らく八千件以上の発掘調査が行われ、それに従事する専門職員は五千人を超えております。

いまなぜ、発掘調査、考古学に対する関心が高まっているのかと言えば、やはり世の中に余裕が出てきたからだと思います。人間誰しも年を取って少し余裕が出来ると、由緒正しいお家柄の方は別として一般庶民というものは、家の紋所がどうだから先ず先祖はどうであったか、と旦那寺に行って過去帳を調べるとか、いろいろ過去に対する関心が高まって、調べたくなるもののようです。さらに進んで、自分の家だけではなく日本人の祖先あるいは人類への関心が非常に高まってくる。そのような状態は、社会の大きな一つの変化です

考古学が専門と言うと、世間知らずで、いつも汚い格好で、ブラ下げた袋の中に土器の破片などを入れてうろついている男というイメージがあります。しかし、それでも私の家内などは、近所の奥さんに「考古学をやっておられる。いいですねぇ」と言われるそうで、世の中の考古学に対する認識も変わってきたのは確かです。

考古学自身の本質も相当変わってまいりました。考古学の調査研究方法で大きく変わった一つの点は、理工学的な手法・技法の導入です。地下に埋もれている遺跡、遺構、遺物の調査研究に、いままで採り入れてこなかった新しい方法―理工学の方にとっては新しくも何ともないにしても、人文学の考古学として見れば非常に新しい方法を適用することによって、地下の考古資料から過去の我々の祖先の営みに関する情報を抽出する。これがここ二十年位の間に大変盛んになりました。

昔は考古学の専門家だけが発掘していて、たとえば人骨が出たりすると、人類学教室の先生にすぐ来て調べてくださいと電話して、骨を持ち帰って報告書の一部にその骨のことを書いていただく程度でした。いまは、理工学系の方にある段階から発掘現場においでいただき、関連のモノが出そうになったら一緒に掘って出土状況―どういう状況で埋まっているかをきちっと把握して、より良い資料を作成するという認識です。つまり、本当の学際的研究という段階になってきたと言えます。

考古学と地震

私は若いときから朝型で、夜は十時に寝て朝は三時半か四時ぐらいに起きております。一月十七日の阪神大震災の朝も早く起きて、パソコンを使って炬燵で仕事をしておりました。奈良に住んでいますが、生まれて初めて経験するたいへんな揺れでした。今回の地震でポピュラーになった噴砂とは、土層の砂や水分が多い所が揺すられて砂が噴き上がったり砂の溝が出来たりするような現象のことです。実は考古学の遺跡ではここ十数年前からその種のものの調査をしておりました。地震の専門家で通産省工業技術院地質調査所の寒川(さんがわ)旭(あきら)さんが、発掘現場でふと噴砂の話をされた折、そういうものなら遺跡にもあるということから調査が始められました。

私も三十数年前の滋賀県での発掘調査中に、砂の入った溝が出てきて、これがいくら掘っても底が出ないばかりか下の方がかえって広くなっていく底なしの溝で、不思議に思ったのですが、いまから考えると、あれは噴砂で地割れして砂が噴き出した痕跡だったのです。つまり、考古学の発掘調査をする側は、そういう現象があることは知っていたが、それが地震による噴砂であるということは、地質の専門家との共同研究によって初めて分かったという次第です。

東海地震が問題になっています。太平洋のプレートと大陸のプレートが日本列島の太平洋岸の海底でぶつかって出来る深い溝が南海トラフです。そのプレートがぶつかっているところが少しずつ押し合って、エネルギーが溜まってくるとパシッと弾けて、東半部で東海地震、西半部で南海地震が起こるんだという説のようです。その東海地震と南海地震がいつ起こったかは、文献資料でかなり分かります。東海地震は、一〇九六年に最初に文献に出ており、いちばん新しくは一九四四年、その間に六回記録に残っております。南海地震は古くは六八四年、天武天皇の頃に先ずあって、いちばん新しくは一九四六年、その間に八回です。東海地震と南海地震が双子のようにセットになって起こっていることが、ある程度推定がつきます。

二、三年から場合によると五年ぐらいのギャップはあるものの、同じプレート現象の東と西の方ですから、片方が起こると次が起こる。ところが、東海地震の記録はあるものの南海地震の記録らしいものがないとか、片一方の記録が落ちている部分があるのですが、遺跡を発掘して、噴砂や地割れが出てくることによって、そういう文献資料に残っていない地震があったことが、いま遺跡の調査でかなり見つかってきております。東海地震と南海地震は、間違いなく双子の地震であり、百年か百五十年周期で同じ年か二年以内に起こると寒川さんは言っておられます。この東海地震、南海地震の噴砂と思えるもので、現在いちばん古いものは弥生時代ぐらいまで見つかっております。

寒川さんは噴砂発掘は地震予知のための非常に重要な研究と認識しておられ、通産省の工業技術院でも大きなテーマとしているということで、我々としても、ご一緒に仕事をさせていただいております。

余談になりますが、ペアで起こる東海地震と南海地震のいちばん新しいものは、南海地震が一九四六年、東海地震が一九四四年ですから、百年か百五十年周期とすれば、二十一世紀の後半ぐらい、我々が生きている間には起きないことになる。これも一つの仮説にのった考え方ですが、その仮説をたてるデータが遺跡から見つかるということです。

阪神大震災で思い出したのは、神戸市の浜の方の古墳群の一つである西求女塚古墳でした。先年それを整備し、公園にするというので発掘したところ、前方後方墳の後方部のところの石室が崩れて遺骸を埋葬している部分がガサッと三メートルほど半分落ちており、そのお蔭で盗掘されずに副葬品が全部残っていました。三角縁神獣鏡の類も十二面ほど出土して、たいへんな収穫でした。石室が落ちたのはいつの地震か確実には分かりませんが、太閤さんが桃山城にいた時に地震があって加藤清正が駆けつけたという、あの慶長の地震ではないかと寒川さんは考えておられるようです。

西求女塚古墳の場合は正確に年代は分からないにしても、たとえば竪穴式石室が年代の分かる地震で壊れたとすれば、間違いなくその地震より前の古墳であると言えるわけで、年代をある程度限定することが出来ますから、これは考古学の上でプラスになります。逆にその地震の痕跡より後に造ったものならば、その地震より以後のモノというように、一つの年代推定の上での手掛かりになります。

最大の前方後円墳は仁徳天皇陵ですが、容積的には大阪河内の応神天皇陵が大きく、これは前方部の北西の角が大きく崩れています。大坂夏の陣で陣営を造るために崩したという説や、考古学者の中には未完成の古墳だと説く者ありで、諸説ありましたが、寒川さんによると、ここには活断層があって、マグニチュード七・一クラスの地震で崩れたということで、学会でいろいろ言われていた説がパッと消えてしまいました。そうしたことを経験しながら地震学、考古学、その他いろいろな分野の方と一緒に仕事をしております。

考古学では、いつのモノか? ということが非常に重要なポイントです。年代の分からない歴史は意味がないので、先ず年代が知りたい。年代を決める方法はいろいろあります。たとえば弥生時代の年代は、大体持ち込まれた中国製品で決めます。弥生時代は、紀元前四世紀から紀元後三世紀頃までと、いまは考えられております。漢の中頃、前漢後漢の間の頃のモノ、前漢の終わり頃の鏡の類が日本の弥生時代の遺跡に出てくると、大体中国の年代に照らし合わせて、こちらはその時代か、それより少し新しいか、という推定をする。

ところが、弥生時代と古墳時代は連続している筈ですが、前方後円墳の時代と言ってもいい古墳時代が発生した年代は一体いつか? となると、考古学会でもいろいろな考え方があります。

『魏志倭人伝』に邪馬台国の卑弥呼の墓は径百歩の大冢であったとあります。これを古墳だと解釈すると、三世紀も半ばぐらいになりますが、四世紀だという説もあり、もっと古く二世紀に近い三世紀という説もあります。私は三世紀の後半のどこかだと思っているのですが、中国製品が来ているということだけでは必ずしも年代は決まりません。

自然科学的な年代推定法に放射性炭素年代測定法というものもあります。シカゴ大学のリビーという化学の先生が開発した方法で、これでノーベル化学賞を受賞されました。

この方法は、測定した年代にプラスマイナス一五〇年とか二〇〇年とかが付く。たとえば今から千三百年前プラスマイナス二〇〇年と付くので、一五〇〇年から一一〇〇年までの間ということになり、これでは正直言って縄文時代くらいまで、千年単位の古いところでは少し役に立つものの、弥生時代以降には殆ど役に立ちません。

年輪年代学

何か新しい方法はないかということで、二十年近く前から私どもの研究所が中心になって「年輪年代学」に取り組んでおります。木の年輪はいちばん樹皮に近い外側で毎年一つずつ作られ、幅が広かったり狭かったりします。外皮が残っている木を見ていつ伐ったものかが分かるのではないかという発想です。この方法はアメリカのダグラスという天文学者が一九〇〇年頃から研究を始めました。太陽の黒点活動と気候の変動とが関係しているのではないかと考えた彼は、記録以前の古い時代の気候の変動を何とか知りたいと思い、木の年輪の幅の広さである程度分かるのではないか、と調べ始めたのです。そこで彼はアメリカインディアンの住居跡に残っている木を調べて、伐った年代を測定するという方法を開発しました。その方法は、実は日本でも第二次世界大戦前から知られており、何人か試みたようですが、学会の主流からは全然相手にされませんでした。

ダグラスが調べたアメリカのアリゾナは単純な気候で、しかも乾燥地帯だから測定出来たのであって、日本のように四季の変化が大きく、地域によって差がある国では、山の背一つで日当たりのいいところと、日当たりの悪いところとで年輪の幅は違ってくる。だから、そんな当てにならない年輪を基準にして年代は決められない、という思い込みがあって、日本では無視されていたのです。戦後に書かれた概説書でも、年輪年代学は日本では応用出来ないとはっきり書いてあります。

ヨーロッパの文献を見ると、第二次世界大戦前ぐらいからヨーロッパでも年輪年代学を採り入れて、しかも効果をあげていることが分かったので、ヨーロッパで出来るものなら日本でも可能性はあるのではないかと研究を始めました。私どもの文化財研究所は、考古学だけではなくいろいろな専門家がおります。たとえば庭園史の専門家の中には、農学部の林産出身で樹木を専門としている人もいますので、そういう若い研究者に声をかけてみました。かなり優秀な樹木の方の専門家で、もう三十歳近くでしたので、私もちょっと迷いました。仮に十年間研究したとして、上手くいけば、日本における年輪年代学の先達ですが、世の中の一般の説のように駄目だったら、学問的に成果を挙げるべき大事な期間を無駄にしてしまう。その方法は日本では駄目であると分かれば、学会全体としてはプラスとしても、本人にとってはたいへんな問題です。どうしたものかと迷った挙句に本人に相談したら、面白そうだと取り組んでくれて、遂に成功しました。

要するに木の年輪の幅が何ミリという絶対値だけで比較するわけではないのです。今年は幅が広いが前の年は狭かった。その前も狭かったが、その前年は広かったと、グラフを書いていく。比較すべきはその変化のパターンなのです。日当たりのいいところで条件のいい年は幅が広いし、日当たりの悪いところの樹木でも、条件のいい年はそれなりに広い。年輪とはそういうものなのです。日当たりのいいところの木と日当たりの悪いところの木は百年で太さがかなり違ってきますが、年輪は一つ一つ見ていくと、それなりにいい年は太く、悪い年は狭く、変化のパターンとしては非常に似ているということが分かってきました。

いま檜は紀元前八世紀頃まで、杉は紀元前六六一年まで、基準になる変化のパターンが出来ております。皮の付いた檜や杉が出てきたら、その年輪の幅を測って変化のパターンに当てはめる。コンピュータがこれは確率何パーセントと、幾つか候補を出してくれますので、グラフで調べて遺跡の出土状況も考慮し、間違いなくこの年代だと言えるまでになっています。

初期に試みたモノに、東大寺南大門の仁王像があります。先年修理をしましたときに、寄木造りの仁王像を、全部解体しました。その中に樹皮の付いている材木があったので、この年輪年代で測ったところ、一二〇一年の冬から一二〇二年の晩春の頃に伐った木が何本か使われているということが分かりました。文献記録によると一二〇三年の三月から十一月まで、僅か八カ月程の間に仁王像二体を作っていることが分かりますので、キチッと合う。一二〇三年の三月から使われた木は、一二〇一年から二年の春にかけて伐ったものをすぐに使っており、その木が山口県の木だということが分かった。さらに、既に山口県の仏像で作ったパターンと比較したところ、東大寺の仁王像のパターンと非常によく合う。これは同一産地以外では考えられない。従って材木の産地も年輪年代で解明出来るのです。

山口県の仏像を調べてみると、平安時代の後半あるいは末のものだと言われている仏像も檜のパターンで見る限りは、鎌倉時代に作ったものであることが分かる。これは、美術史の様式の年代観と絶対年代とが、ずれているということで、地方では新しい時代にも古い様式が用いられ、中央の近畿地方では鎌倉様式が既に出来ている。

山口県は長門の国、東大寺を再興するときに材木を採るところです。東大寺を最初に造ったころは近江の国で材木を採りましたが、平家が東大寺を焼き払い、鎌倉時代に再興したときは、長門の国から採った。江戸時代には、いまNHKの大河ドラマ「八代将軍吉宗」に登場している桂昌院があちらこちらのお寺に寄進をして大修理をし、大和の寺も修理しているのですが、そのときの材木は、鹿児島、日向あたりから持って来ている。現在は台湾やアラスカから持って来た木を使っています。

年輪の幅が広いと生育条件は間違いなくいいわけです。ただ、雨量がキイ・ポイントなのか、あるいは気温なのか―何月の雨、何月の気温がどう関係するのかが難しく、簡単にはいきません。アメリカは、コンピュータで解析するためのプログラムがあるのですが、日本でやってみてもうまくいかない。もう一つ残念なのは、日本の気象データが明治以来の百年ちょっとで少ないことで、せめて二百年あれば、気候変動と年輪の変動の相関、何月の雨がどう効くといったデータが出せるわけです。しかし、まだ日本では気候を年輪から解析するというところまでいきません。

朝鮮と中国の国境にある長白山(白頭山)の十世紀ごろの大爆発が原因で、勃海という国が滅亡したとする説があります。その大噴火がいつだったか、厳密には分かりません。いまその土石流で埋まった材木を、中国の遼寧省の人たちと共同して調べています。中国から二十数片資料を持って帰り、年輪を測っているものの、日本の杉と檜の変動のパターンとピシッと合わない。つまり、その材木はカラ松でしたか、ちょっと違う木なので、それなりのパターンを作らなければならず、これはたいへんな作業です。

いま生きている木を伐って作る現代のパターンは、三、四百年くらい前まで作れます。その先は、たとえば江戸時代の古い建物に使っている木などでパターンを作り、その年輪の新しいところと、現生の木の古いところを合わせていって、都合よく年輸の合うところで繋いで先に延長出来ますから、そういう形で、次々に紀元前八世紀頃まで繋いできました。ところが、中国のあの辺の木はあるにしても、古い木材からパターンを作れるような建物がないので、繋がらない。これを繋げることが出来れば、世界的にも大きな成果になるということで、これからの仕事です。

この年輪年代学で真贋の判定も出来ます。京都のあるお寺の漆塗りの木製の容器で星祭りをする道具を入れる箱は、美術工芸的にも非常に立派なもので、裏に天福元年(一二三三年)と銘が書いてありました。美術工芸の専門家の中には、年代も分かっていて非常に重要な貴重品だから、重要文化財に指定しようという考えもあったようです。材質は何かを調べて欲しいと私どもの年輪年代をやっている水谷君のところに依頼が来たので、ついでに彼が年輪の幅を測って調べたところ、その残っている最も新しい年輪の年代は一五六七年であって、一二三三年ということはあり得ないことが分かりました。贋物だと言うと、たいへんですから、多分、古いのが壊れたので新しいのを作って、銘は昔書いてあった通りに書いたのでしょうと私は言っておきました。

ヨーロッパでは、オランダ画派のレンブラントの板絵で年輪を調べたところ、レンブラントが死んだ後に描いたレンブラントの絵というのが出てきた。レンブラント派は一人ではなくグループで描いているので、その弟子たちが描いた作品だったわけです。そういうことが、年輪年代で分かるようになっています。

遺跡のほうでもいろいろな謎が解けてきます。ご承知のように、八世紀は奈良に都が置かれました。その八世紀の中頃に聖武天皇は恭仁京、難波京、紫香楽宮を一時転々とされ、また奈良に帰って来られたわけですが、その紫香楽宮―いまの信楽焼の信楽町の辺りで大仏を作るという記録も『続日本紀』に出ております。現在、国が紫香楽宮の史跡に指定しているところに礎石が残っていますが、その遺跡はどう見ても甲賀寺の跡で、宮の跡ではないので、紫香楽宮跡はどこにあるのかが長い間の謎でした。一つの候補地として宮町という字名のところが、紫香楽宮の指定地から何キロか北の方の狭い谷間の平地にあり、そこから掘立柱の根元の部分が出ていることが分かっていました。

奈良時代の建物の建て方には二通りあります。一つは礎石の上に柱を据え、瓦を葺く大陸風の工法。もう一つは地面におよそ一メートル四方の穴を掘って約三十センチの柱を立て、固めた上に建物を建て、屋根は瓦葺きは少なくて檜皮や板で葺く方法です。平城宮で申せば、天皇、皇后、皇族一同が住まいする内裏は、掘立柱で檜皮葺の建物が圧倒的に多く、大極殿や朝堂院―儀式をしたり、新羅や勃海からの使者に応対するような場所は礎石で瓦葺きになっています。

掘立柱は地面に埋めますから、地上面との境目のところで腐ってきます。建て替えるときに、そこで切るとか折るとかして外して、根元の部分だけそのまま地中に残しておくことがかなりあり、それを我々は柱根と呼んでおります。
宮町遺跡から出る樹皮が残っている柱根を年輪年代で測ったところ、七四二年か三年頃に伐った木が、何本かありました。紫香楽宮は、七四二年の八月に建設を開始し、七四五年には平城宮に帰ってしまって放棄されるわけですから、年代的にピタッと一致して、宮町遺跡が紫香楽宮跡の一部である蓋然性が非常に高くなりました。いずれ紫香楽宮跡はここだという証拠が見つかると思います。年輪年代学では、殆ど誤差なしで、その年の春から次の冬までの間に伐ったものか、冬から春までの間に伐ったものかまで分かるようになっております。

最近、大阪河内の丘陵地帯にある狭山池という『日本書紀』にも出てくる大きな池の土手を大阪府が改修工事をいたしました。土手を掘ったところ、いちばん底に最初の堤があって、その上に奈良時代に行基が大砂防工事をした堤が重なっており、さらに、その上に片桐且元が大工事を施した堤、さらにその上に現代の堤があるという状況が分かりました。いちばん下の堤のところに、池から外に水を流す四角い木樋が埋めてあって、これを年輪年代で調べたところ、六一〇年に伐った木材だと分かりました。

『日本書紀』の記述を信ずれば、狭山池は四世紀ごろの開発になりますが、狭山池の堤の工事が七世紀の初めとすると、完全に二百年以上のギャップが生じてしまいます。『日本書紀』のそのへんの記述は信用出来ないということがはっきりしました。また、河内辺りの開発と生産力をバックにして大和朝廷が力を得たという河内王朝論説にしても、狭山池の工事は少し新しすぎます。年輸年代は王朝論、大和国家成立論に問題を投げかけるような成果が得られるようになってきました。

フッ素量による年代

年輪年代は樹木を利用した研究ですが、動物の方の生物学的な研究と繋がった共同研究、学際研究も、たくさんあります。縄文時代の遺跡から犬の骨が出てきます。恐らく日本では縄文時代の初めから犬を飼育していたと考えられます。犬は一万二千年程前に西アジアで狼から馴化したというのが定説で、日本の場合は、犬は大陸から連れて来ております。

縄文時代には、人間と同じように穴を掘って犬を埋葬しています。貝塚というのは一般に食べ滓の貝を捨てた場所と思われがちですが、捨てるという感覚とはちょっと違うようです。アイヌの風習では、不要になったモノを特別にあの世に送る場所として納める場所があるように、貝塚もそういうものではないかという説があるのです。使えなくなった石器や土器もそこに納めるし、人間の体も、犬も納めて、あの世に送る。お墓にもなるわけです。縄文時代はそうしておりました。

ところが弥生時代の犬を見ると、埋葬したものはほとんどありませんし、出てきた骨には解体した痕跡があります。骨には筋肉だとかいろいろなものが要所要所に付いていますから、切り離すと特定の場所に傷が付きます。解体痕と我々は呼んでいますが、これからすると、弥生時代には犬を食べていたことが明らかです。

さらに新しい例では、広島県福山に草戸千軒町遺跡があります。鎌倉から室町にかけてのお寺の門前町兼港町が芦田川の川底になっているのを、広島県が二十年ぐらいかけて発掘しました。中世の町並みとしては非常に面白いデータが得られ、同時に骨もたくさん出てきました。出土した哺乳類の骨を調べてみると、半数以上が犬で、その殆どに解体痕がある。江戸時代でも、関東地方の城跡などを掘ると、解体した犬の骨が結構出てきますし、東北地方の大名の屋敷の裏を掘ると、解体痕のある犬の骨が出てきます。

天武天皇の時代に、仏教思想の影響で殺生肉食禁止令が出ています。馬、牛、鶏、猿、犬などの肉食の禁令が出たということは、それまでは食べていたのでしょう。しかもこの禁令をよく見ると、禁止している期間が、四月の一日から九月の三十日までとなっている。猪の肉のいちばんうまい冬の間は食べていいというこの禁令は、いかにタテマエかということが分かります。タテマエの世界では肉食はなかったのでしょうが、実体の世界ではどうだったか、これが出土した骨でいろいろ分かるわけです。朝鮮では犬の肉をごく普通に食べます。中国にも東南アジアにも犬を食べる風習があります。日本もかつてはその文化圏の一部だったということです。欧米のような牧畜社会では、家畜をコントロールする上で犬は欠かすことの出来ない動物、人間の友です。友だちを食うことは考えられないという文化もあるし、初めから犬は食べるものだと思っている文化もあるということで、いまは犬の肉は食べませんが、日本もその中の一部であったことが次第に浮かび上がってくる。そういう成果も挙がっております。

牛、馬についてもいろいろなことが分かってきました。歴史の本によると、縄文時代ぐらいから牛や馬がいたと書いてあったと思います。貝塚を発掘すると、牛や馬の骨が出てくるので、そういう通説がありました。私は若いときから、それは考えられないことだと思っておりました。縄文社会で農耕が行われていたかどうかは、いま大きな議論があるとしても、基本的にはやはり狩猟と漁労、採集―木の実を採ったり、猪や鹿を捕ったり、海から貝や魚を捕って生活していたと考えられ、家畜を飼っていたとしたら、もっと違う社会になっていたのではないか。縄文時代の貝塚には、土器がいっぱい埋まっています。江戸時代にそこに牛や馬を埋めるために穴を掘って、その土を元に戻したら、牛の骨の横から土器が出てくる、というぐらいに疑ってかかるべきではないかと思います。

現在は、出てきた牛や馬の骨の中に含まれるフッ素の量を測ります。地下水の中に含まれているフッ素は、土中で骨などに沈着します。フッ素含有のパーセンテージが全然違うので、明らかに新しい近世のものだ、ということがいま実証されつつあります。かつて縄文時代のものだと言われていた牛や馬の骨が、いまは次々に否定されております。狩猟漁労社会でもし家畜がいたら、もっと富が偏在するとか、いろいろな問題が出てきたはずなのに、そういうものが伺えない。家畜だとか農耕といったものは基本的なものではなかった。犬は飼っていたとしても、これは狩猟用で、家畜と言えるかどうか。そういう常識というものも考古学全体を考える立場から大事なことではないか、と私は思っております。

古代のトイレ

発掘現場などでよく聞かれるのは「トイレはどこにあったのか」という質問で、これには七、八年前に九州の鴻臚館で初めてトイレ跡が見つかるまでは、我々は回答出来ませんでした。その後は奈良の藤原京跡からも長さ三メートルに幅が六十センチくらいの穴が発掘されました。最初はなんの穴か分からないまま底のほうに黒いネバーッとした土が溜まっていたので、その土を持って帰って花粉分析の専門家に見てもらいました。花粉分析はかなり古くから行われている方法で、花粉は条件さえよければかなり残りますから、いまではこの方法でかつての植生環境が復元出来るようになっています。たまたま動物考古学の専門家がトイレには寄生虫の卵が残るという英国のレポートを読んでいて、その話を花粉分析の専門家に教え、プレパラートを覗いてみたところ、一立方センチ当たり五千個、周辺の土では数百個が見つかったことから、明らかにそこはトイレであったことが分かりました。その他にも植物の種や瓜や茄子、野ぶどうや麻の実、ハエの蛹やらがいろいろ出てきます。カタクチイワシの骨があって、目刺しにして食べていたのではないか、と当時の食生活を推測したりしています。

寄生虫の卵は人間の体から排泄されると、たとえば川の魚などに宿り、それをまた人間が食べてお腹の中に入るという循環をします。川魚を焼いたり煮たりして食べれば卵は死んでしまうから大丈夫なのですが、ナマで食べていたので寄生虫が多いのです。岩手県平泉の藤原四代の館跡のトイレからは、一立方当たり五万個という寄生虫の卵の塊みたいな遺跡が見つかっています。サケやマスに宿生する寄生虫の卵が圧倒的に多く、アユや川魚による寄生虫の卵が西日本には多いのと対照的です。この西日本と東日本との食生活の違いは、いまでもあります。

土の中には動物の脂肪が残っていることも分かってきました。旧石器時代の遺跡から出てきた石器が、ナウマン象を解体するのに使っていたということも分かる。あるいは弥生時代の墓から出土した銅剣の切先からは、突き刺してポキッと折れて体内に残ったもので、その皮下脂肪の厚さが三センチ、血液型はB型、ということまで分かりました。

人間の歯を調べて、家族の構成などを明らかにする研究もあります。卑弥呼の時代の社会は、『魏志倭人伝』に卑弥呼には男弟がいると書いてあるように、どうも兄弟姉妹という関係の男と女とが、いろいろの[まつりごと]を取り仕切っていたと思われる表現があります。それが父系制社会が中心になっていくのは、五世紀から六世紀ぐらいにかけてで、この頃は、他所に嫁に行った娘でも実家の墓に葬られていたことも分かってきました。嫁入り先のお墓に入るのはそれ以後のことで、恐らく六世紀ぐらいになると、家父長の奥さんだけはその家の墓に入る。しかし、その弟の嫁とか妹とかは、他所に嫁に行っても帰ってきて実家のお墓に入っています。これは歯の縦横の比率を統計的にとっていろいろデータ処理することで判明したことですが、どこまで遺伝学的に正しいか、疑念が持たれる面もあるので、今後も研究が必要です。

今日は考古学における理工学的な部分の研究を、ほんの一部だけご紹介しました。考古学がいままでまったく関係がないと思われていた理工学分野の人たちともクロスオーバー的にここ二十年ほど仕事を続けてきて感じることは、理工学的な部分で我々が一緒に仕事をする分野は、いまの理工学の調査研究では必ずしも主流ではないということです。たとえば動植物学で言えば、考古学に先ず必要なのは、分類学なのですが、いまは分子生物学のたぐいが主流で、分類学は流行らない。やっておられる方はどれだけおいででしょう。人類学も、文化人類学が主流で、人骨の調査にしても、DNAの調査は盛んですが、人骨そのものの調査である形質人類学的な分野は、戦後たいへんな成果が挙がったものの、今はそういうものを研究する人は非常に少ないのです。

医学部の解剖学にしても、いまの医学部は、先生方がお辞めになると、せっかく集められた出土人骨の標本も「その標本は不要だから、捨ててしまえ」と言う。大学にもたくさんの標本があったのに、人類学の先生が定年で辞められた後、そこで助教授をやっていた人が別の大学に行ったりしますと、もう骨も要らないということになりかねません。そういう貴重な資料は、どこかで集中的に保管出来るような施設を作らなくてはいけないと痛感し、いま我々も努力しておりますが、どうも陽が当たらない。私は生物学で分類学というのは基礎だと思うのです。分類学は常に変化し、絶えず進んでいく学問であって、生物に対する考え方が変わってくれば、分類学もどんどん変わってくる。始終やっていくべき学問だと思います。

ある学会で、放射性炭素年代測定法の発表があり、某大学の先生が胸を張って「私の測定値には一切誤差はございません。プラスマイナスはゼロです」と断言された。この放射性炭素年代測定をずっと研究してこられた学習院大学の木越先生が近くにおられたので、真偽の程を尋ねますと、「いや、彼は科学者じゃないよ」の一言でした。要するに放射性炭素の同位体が幾つかある中の、十四の電子量を持っている炭素はガンマー線とかベーター線を出しながら壊れていくわけで、ガンマー線、ベーター線を一定時間測って、どれだけ残っているかを調べると、元々あったモノが半分になるのに五千何年かかる。だからそれで計算して、その木が伐られたのは、あるいは動物が死んだのは、何年前だということが分かるわけです。簡単に言えばガイガーカウンターで測るようなもので、永遠に測っていれば無限にゼロに近づくでしょうが、数時間なり数日間測っただけではかならずプラスマイナスが付くものなのです。私がつくづく感じるのは、他分野の方と一緒に仕事をするに当たって、その境界領域でキチッと仕事をしておられる方と共同研究することが重要だということです。そのような方々がここ十数年多く出てきましたので、かなり安心して共同研究が出来るようになったことは、本当に喜ぶべきことだと感じています。

いままで申し上げてきた一つ一つの事柄は正直言って「なかなか面白いな」という程度かも知れません。私は歴史学の研究というのは石垣を積むようなものだと思います。一つ一つの石を積み重ねていって、大きな石垣になっていく。いまはまだ一つ一つの石で、こんな石はたいしたことないと思っていても、いずれはそれが歴史を取り囲む大きな石垣になると、そう感じております。

まとまらない話を申し上げました。時間になりましたのでこのへんで終わります。

(奈良国立文化財研究所長・京大・文修・文・昭31)
(本稿は平成7年4月20日午餐会における講演の要旨であります)