学士会アーカイブス
折々のうた 大岡 信 No.803(平成6年4月)
「埋め草」からのスタート 三千七百回も重ねたということで、一番びっくりしているのはこの私でしょう。朝日新聞からは今の「折々のうた」のスタイルでと言われたわけではなく、当初は、俳句について埋め草風の記事を書いてほしいという依頼でした。 当時はどの新聞も、大抵一番後ろのページにラジオ・テレビ欄を設けておりましたが、朝日新聞はそれを真ん中に置いて、囲碁・将棋、あるいは釣りの記事といった趣味の欄を一番最後にまとめ、当時連載中の司馬遼太郎さんの小説も最終ページの一番上の欄にありました。その小説欄の左隅に幅がせいぜい四、五センチの二段分の空きがあって、日によっていろんな種類の広告が載っていたのを、もう少し特徴のあるコラムにしたいということで、俳句が候補に挙がり、私に依頼が回ってきたということらしいのです。 そういうことなら俳人にお願いしては、と断わろうとしますと、俳人はそれぞれに派があって、その中からどなたか一人を選ぶわけにはいかないと、つまり、私は体のいい便利屋さんというわけでした。そこで、どうしてもと言うことならば、俳句とか短歌だけにこだわらず、自由に選ばせてほしいと注文を出しました。たとえば、私が書いている現代詩は俳句の読者の百分の一にも満たないが、そういうものも入れたい。それから日本の文学の骨格を成しているとも言える漢詩・漢文学にも触れていきたい。さらに、一般的な文学史で忘れられがちな古代や中世の歌謡、つまり流行歌も、決して低俗でもないし、一般の人たちに無視されていていいものでもないから絶対載せたい。俳諧文学も、江戸時代の川柳にはいいものがたくさんあるから、猥褻なものは別として是非紹介したい。その他に、外国のものでも翻訳されて、既に日本の詩としてみんなに愛誦されているもの――古くは平安朝のころの中国の詩、近代ならヨーロッパ、アメリカその他のもので、自分が読んでみて詩として面白いと思うものは何でも載せていいということならば、引き受けましょう、と条件を並べたてました。当然駄目だと思ったら、「そういうことをしていただけるんなら、願ってもないこと」と言われて、実は仕方なしに始めたというのが本当のところです。そういうわけですから、始まりまでの準備期間は、三カ月足らずだったと思います。長期にわたる連載になることが初めから分かっているならば、最低半年ぐらいはいろいろ準備に充てるのですが、そういう間もなく、いきなり始める格好になってしまったのです。 最初に何を出すかが大問題でした。その時に私が考えたことは、所詮自分はどの分野についても素人で、ただ自分の感受性だけを頼りに書くのだから、大海へ櫓も櫂もなしに船を出すようなもの、という思いから、第一回はそれを象徴するような、しかも非常に気持ちのいい作品を、と考えました。そこで選んだのが高村光太郎(明治十六~昭和三十一)の短歌です。 高村光太郎は、一般には詩人であると認識されていることが多いかと思いますが、彼自身は彫刻家と意識しておりました。彫刻に没頭しているうちに、だんだん自分を見失いそうになると、自己を取り戻す安全弁として詩を書くことを考えておられたのです。しかし今では、まず詩人としての高村光太郎であって、彫刻家というのは、その後で追い掛けてくるという感じです。それというのも多分彼の彫刻が木彫で、しかも、蟬とか、鯉、鯰といったように小さかったからだと思います。蟬はとても愛したらしくて、たくさん作品が残っています。果物では桃は彫りましたが、りんごは何故か制作しませんでした。 それぞれに理由があるのだと思います。たとえば鯰は、池の下でどっしりと地べたを這っていて、しかも何か体全体から精気が発散しているような存在感。桃はお尻のほうがちょっと膨らんで、安定感があって座りがいい、てっぺんは尖っていて、天を指し、小さいながらも宇宙の原理を表しているように思える。高村光太郎にとっては何らかの意味で方向性が必要だったのではないかと思うのです。りんごというのは、どちらが頭か分からない、多分方向性があまりはっきりしないから、制作の対象にはならなかったのだと思います。 蟬は、小さな体の中に、実に様々な形態を所有しています。音を鳴らすところは、ふいごのようになっているし、お尻のほうはぴくぴく動き、伸び縮みする時には蛇腹が出っ張ったり縮んだりします。羽は透明なのもあれば、焦げ茶もありと様々で、体全体が非常にバラエティに富んでいるところが高村光太郎の心をとらえ、『蟬』という小さな作品ですけれど、実にいいものを遺しております。 石川啄木(明治十九~明治四十五)の歌に、「手の大きな人に会った」と、その感動を書いているものがあります。高村光太郎と石川啄木は『明星』という雑誌で一緒だった時期がありますし、「高村光太郎の手は素晴らしく大きかった」と何人もの方が証言していますので、啄木の言っている人とは多分彼のことだと思います。私は手を握ったことはもちろん、生前にお目に掛かったこともありませんが、自分の手をモデルにしたものと思われる、実に美しい、しかも力強い手の彫刻があります。宇宙の中心を指しているような、方向性を感じさせる素晴らしい作品です。そういう優れた小品は別として、大型の作品となりますと、何人かの実業家などの肖像だけで、残念なことに代表作と言えるような作品がありません。晩年になって、十和田湖畔に「乙女像」を作られましたが、あの頃はすでに彫刻家としての力が衰えていることは、覆いがたいような気がいたします。 高村光太郎は、あまりにも彫刻に思いを掛け過ぎ、そしてロダンという巨人に憧れてしまったことから、“ロダンに惚れた彫刻家は気の毒だ”という典型のようなところがあって、彫刻家としてはあまり大きな決定的な仕事がありません。それから不運なことに作品が焼けてしまったこともあって、彫刻家としては大成しなかった。むしろ初めは余技的に始めた詩のほうで、大変に名を成した人です。 高村光太郎は東京美術学校――今の東京芸術大学美術学部の木彫科に通っていた頃に、一方では与謝野鉄幹・晶子夫妻の主宰する『明星』の若手歌人として注目され、ゴツゴツした、なかなか面構えのいい歌を詠んでおりました。彼はロダンを知ったことに触発され、美術を根底から勉強し直そうと再入学した美校洋画科を中途退学して、まずアメリカに渡りました。それからイギリスに渡って、最後は憧れのパリへと遊学しております。 パリでは、できればロダンのところで修行したいと思ったかもしれませんが、ロダンはあまりにも偉大で、一般のフランス人でさえも、ロダンの威光にひれ伏していた程でしたから、外国人にはとても近づけない。高村光太郎には、ポール・グセルが採録した『ロダン語録』という本のとてもいい翻訳があるのですが、何年間かのパリ修行中、ロダンの謦咳に接することはついに一度もなく、かえってボードレールやヴェルレーヌらの詩に親しんで、結局詩人として帰って来たということになります。 明治三十九年、アメリカへ渡る最初の船旅の道すがらに作った歌があります。 それ以前の明治三十年頃までは、和歌という言葉を用いるのが普通でした。五七五七七の詩形が、一般に「短歌」と言われるようになったのは、明治三十年代になってからです。和歌の時代は、宮廷の和歌集である『古今和歌集』の伝統を引いているものが主流となっておりました。 明治天皇が和歌がお好きだったことは有名ですが、その御歌所の歌人達は、ほとんどが明治維新の立役者たち――香川景樹の指導をうけた薩長の人達が主でした。香川景樹は、京都を中心にして門戸を広げ、江戸では力が及ばなかったものの、大変な勢力を持っていた人で、京都周辺や九州、中国地方で和歌を詠む人の間では彼の影響力が強く、その門流がそのまま、明治維新になってから御歌所の中心的集団になっていったわけです。その香川景樹は『古今和歌集』を重用し、『万葉集』には重きを置きませんでした。当時『万葉集』は、まだごく一部分の人にしか知られず、人気が出てきたのは、何と言っても明治三十年頃正岡子規が『万葉集』を称揚し始めてからのことです。
近代化への歩み もっとも、維新直後の旧派の歌は歌で、かなりアナクロニズムであるものの、面白いものがあります。折を見て「折々のうた」でとりあげようかと思っているのですが、作者の経歴がよく分からないものも多く、今のところ思案中です。ただ、面白いといっても、それらは微笑ましくも古めかしい面白さです。つまり、すぐ目の前でさまざまに起きている新しい現象を、和歌の使い慣れてきた雅語や古めかしい言葉で詠んでいることの可笑しさです。たとえば、「電信」と言えば済んでしまうところを、わざわざ別の言葉で言う――「海底をずうっと長い糸で伝わってきて、最後に耳で聞こえるもの」というような、謎とき風の面白さがあるのです。 その頃の風潮として、短歌などというものは古き時代のものであって、一部の老人達の趣味に過ぎず、ましてや俳句には全く意味がない。自分が目指していたのは、何といっても詩で、新しい時代の青年の最も成すべきことは、詩を書くことと思っていたものだ、と後々の大歌人達が思い出話として回想して書いています。 明治十年前後に生まれて、三十年頃にちょうど二十歳ぐらいの、文学に目覚めてきた青年たちは、皆詩を書き、小説を書きました。若い者で短歌や俳句を手掛ける者がほとんどいなかった時代に、短歌や俳句の優れていることを若者達に教えたのが、与謝野鉄幹(明治六~昭和十)であり正岡子規(慶応三~明治三十五)でした。コペルニクス的転回と言うと大袈裟ですが、古めかしい酒の袋に新しい酒は入らないものと思っていたところ、新しい酒を入れるに足る新しい袋にもなり得るということを分からせたのは、正岡子規と与謝野鉄幹の御陰です。それ以前にも落合直文のような人もいましたけれど、この二人が青年の心を一気につかむような俳句や歌を作ったのですから、大変なものだと思います。 どうしてそういうことができたのか。一言で言えば素人だったからで、昔のしきたりにこだわらなかったのです。与謝野鉄幹にしても正岡子規にしても、古いことをよく知っていた。しかし、古いものをそのまま踏襲して作るようなものは、もう駄目だということも分かっていた。そこで、古めかしい時代のしきたりは一切捨てて、出直しをするという気持ちで始めた与謝野鉄幹は、「亡国の音」という和歌批判の文章を新聞に連載しました。正岡子規も「歌よみに与ふる書」を書いて、それに続き、この二つは、決定的に旧派の歌人の急所を突き、全てを打ち砕いて、あっという間に短歌が新しくよみがえり、俳句も面目を一新していきました。 こういうことは、現代ではもう起き得ないことだと思います。つまり、明治十年に西南戦争のような内乱が起こって、その後の十年間というものはいろいろな制度や憲法の制定などに追われ、明治二十年頃までは、全くの無法状態とも言えるような状況が一方にあり、もう一方で文学というものが、やっと見直されはじめたという時代です。したがって、明治二十年代までは、文学は政治や社会学の従属物的扱いで、たとえば「社会学とは何か」ということを教えるためのものであって、長い詩の中に社会学の原理原則的なことが盛り込まれていて、しかも七五調ですから、字を知らない人でも覚えられたのです。そういう意味では、当時の新体詩はとても大事な教化の道具だったと言えます。こうした七五調の最初の、そして最大傑作の一つは、福沢諭吉の『世界 小説も、最初の頃は「民主主義とは」とか、「共和制とは」といったことを教えるために、人物も善玉、悪玉がすぐに分かるようになっていたり、この人は共和制主義者でこっちは王政派だといった色分けもはっきりしている。また話を面白くするために、大変に苦しい境遇におかれた佳人が運命的な様々な試練を経る、片や美しい青年が登場して、こちらも非常な辛酸を嘗めつつも、最後はハッピーエンドになるという類の小説が明治十年代から二十年代にかけての一つの流れであって、純文学と言われているものは、全く存在しませんでした。 若者が詩や小説の創作を志すなかで、与謝野鉄幹はまず新しい詩の運動を始めるということで、実際に短歌を作ったにしても、彼自身はそれを短歌と言わずに、短詩と言いました。つまり、短歌や俳句をもっと広々とした詩一般の世界に広げようという彼らの最初の動きは、たちまちにして若者たちに熱烈な反響を呼び、追随者が続々と現れるようになったのが明治三十年頃のことです。そして、三十二年に鉄幹が文学結社「東京新詩社」を創立し、翌三十三年にその機関誌『明星』を発行します。 ひとくくりに明治文学と言っても、前期と後期では全然質が違うのはそういう意味からで、一般に、近代短歌、近代俳句と言っているのは、明治三十年代から後のものを指します。要するに、若者に言わせれば、上の世代のやっているものは、もう古臭くて自分達の模範にはならない、という新興の意気あふれた、つまり書生っぽの文学なんですね。先生も生徒もほとんど年齢差がなく、与謝野鉄幹の場合は、二十代ですでに「大先生」で、その弟子が、やはり二十代、兄貴分と弟分と言ったほうがいいような師弟関係です。 正岡子規の場合も同じです。一番優秀な弟子は言うまでもなく高浜虚子(明治七~昭和三十四)と河東碧梧桐(明治六~昭和十二)ですが、二人とも中学生の時に入門しました。といっても、同郷ですからいつのまにか入門して、子規が東京大学の夏休みなどで四国の松山へ帰省している間の弟子でした。 子規は、何にでも非常に熱心で、それをすぐ人に教えたがる「教え魔」的性癖があって、夏目漱石(慶応三~大正五)もさんざん教えられた一人です。お祖父さんの手解きで子規は五歳ぐらいから漢詩、漢文を習っていましたから、漱石の作った俳句や漢詩などには、先輩だという思いから、ずいぶん手を入れたりしております。 いい師匠は、必ず褒め上手です。子規は褒めるべきところを本当によく心得た先生でしたから、非常にいい弟子が育ったということですね。正岡子規は大学生の身分で中学生の弟子を二人抱えて、俳句に夢中にならせたのですから、凄い先生ですが、その上達のきっかけは、「 観察するということは、絶えず注意していないとできないことです。題を出されて作る題詠は写生とは違うと思いがちですが、基礎に写生力があれば、題詠は簡単にできます。題詠ができないということは、はっきり言って写生力がないということになります。そういう意味で競吟の経験は、高浜清くんと河東 結局それも書生っぽだからできたことで、専門俳人という意識は何にもないままに、ただ、面白いというだけで夢中になっていた。しかし、面白いだけでは駄目だということに次第に気がついてきた子規は、江戸時代以来の主だった俳人の作品を逐一読んで、その中から十句とか二十句選び、「俳句分類」を始めたのです。十代の終わり頃から始めて三十五歳で亡くなるまで、二十年近くこれを延々と手掛けました。自分を慕ってやって来る若い連中、つまり弟子たちに分担させて写させたのですか、選ぶのは全部子規で、芭蕉や蕪村といった有名な俳人だけではなくて、芭蕉の弟子でも凡兆や丈草、去来という人々の俳句の中からも、一人十句とか二十句と決めて実によく選んであって、信じられないくらい見事なものです。正岡子規は、競吟で一日に何十句も詠める一流中の一流の俳人であったのに加えて、批評家としての力量も優れていたということです。
万葉集が基本 短歌のほうでは、源実朝等の歌を取り上げて称揚しましたが、最も基本に置いたのは『万葉集』でした。それまで実はあまり表立つことのなかった『万葉集』を有名にしたのは、何といっても正岡子規をはじめとするその一門の人達です。皆が皆、四千五百首の『万葉集』を全部読んでいるとは思えないものの、主なものは殆ど読んでいます。『古今集』については、彼自身がそれ以前に『古今集』の影響を非常に受けていて、『古今集』ばりの短歌も若い頃にはずいぶん作っています。つまり、子規の場合は『古今集』の長所も短所も知った上で、やはり今の時代には合わないと断じた。これは、非常に重要な、革新家としての子規の特徴だと思います。 みごとな言葉の芸を持つ『古今集』の代わりに『万葉集』を持ってきたのは、実に巧妙ですね。『万葉集』は技巧に走らず、事実そのもので迫力があるということを表に出した。『万葉集』にも、実は言葉の遊びがたくさんあるのに、その辺の所は子規はそれ程には見ていなかった。あまりいろいろなことを知るよりは、むしろ必要なことだけを知っていたほうが、彼の革新事業にとっては却って良かったのです。『万葉集』は、それ以前はごく一部の人が知っているだけで、専門歌人は全て『古今集』とか『新古今集』を知らなければならないという時代でしたから、ここでも非専門家の新しい声、つまり、『古今集』ではもう駄目だから、我々はもっと古い『万葉集』の伝統に則って、新しい歌を作るのだ、という書生っぽの声が通ったということです。短歌でも俳句でも、書生であるということは、その当時としては、そのまま新しいことができるということで、しかもみんな二十代ですから、その点は、現代とは全然違うところがあるような気がいたします。 明治三十年の後半からそういう運動が次第に拡がって、明治四十年前後には、本当に素人で、同時に素晴らしい歌人が何人か出てきます。その一人は、若山牧水(明治十八~昭和三)であり、もう一人は石川啄木です。他に前田夕暮(明治十六~昭和二十六)あるいは北原白秋(明治十八~昭和十七)もそうです。 詩人である白秋は歌人としても素晴らしい歌を作りましたが、やはり詩人が短歌を作ったということが歴然としています。素人として作っている歌が、素晴らしくいい、つまり明治三十年代の終わり頃から四十年代の初めにかけて短歌の革新運動の第一の成果を生み出した人達は、みんなまだ学生、書生です。白秋と同級であった若山牧水が、「幾山河……」の歌を作るのは、早稲田大学の二年生のときでしたか、一人の女の人に対する想いで作った歌が、初期の傑作群のほとんどで、年齢的にみると、二十二、三歳からの数年間です。二十七、八歳にしてすでに老成した歌作りになっている。二十五、六歳の頃まで素晴らしい歌を続々と作ったのは、誰に教わったわけでもない、素人の歌としていいわけです。 同じことは、この時期の歌人の誰についてもほぼ言えることで、啄木は明治四十年頃から『明星』に歌を載せ始めますが、我々がいま愛唱している歌は、『明星』に出していた頃よりも、もっともっと素人っぽい歌になってきてからの歌です。 当時の啄木は肺病で、血を吐きながら窮乏生活を送っていた。中学も五年で中退していましたから、まともな勤めができない。その頃でも、すでに学歴は、場合によって非常にモノを言ったわけで、「盛岡中学五年中退」の啄木が働けるところは、新聞社しかなかった。今と違って一般の人の感覚では、その頃の新聞記者というのは「ゴロツキ」程度に思われていたのですね。明治四十二年に東京朝日新聞の校閲係になって一応生活は何とか一人立ちする程度になったものの、本郷の下宿から何から同郷の国語学者金田一京助(明治十五年~昭和四十六年)さんにいわば庇護された形でした。そういう状況にもかかわらず、歌は本当に歌うように一晩に百首も作っている。その内容は悲しいとか苦しいといった歌だったにしても、多分それ以上に歌を作ることの面白さに夢中になっているのです。我々が詠んで涙が出てくるような歌になっているのですから、歌というものの不思議な力を感じさせられますね。専門歌人の砕心・鏤骨の歌作りなどというものではなく、歌うが如くに、言葉を投げ出すようにして作った歌が、後々我々が愛唱してやまない名作になっているということです。 明治四十年代の初めは、結局のところ若者の時代だったと言えます。尊敬すべき専門の先生たちはもちろん何人もいて、実際尊敬もされていたにしても、すでに第一線から退いていました。若山牧水、北原白秋、土岐善麿(明治十八~昭和五十五)さんも同じ時に早稲田の英文科におりまして、土岐さんは多少真面目に勉強しただろうと思いますが、若山牧水はいつも授業をさぼって校庭に寝そべり、空を眺めては自分の好きな歌――大抵の場合、カール・ブッセの歌を歌っていた。要するに怠け学生の典型だった牧水が、結局その次の世代の代表的な歌人、あるいは詩人になっていくわけで、素人っぽい歌の良さが最大限に発揮されたのが、明治四十年代から大正にかけての時代だと思います。 詩人の場合にも同じことが言えます。たとえば萩原朔太郎(明治十九~昭和十七)も初めは『明星』に属して十年以上も短歌を作っていましたが、突然詩を書き出し、途端に最高傑作が続々と生まれ、『月に吠える』という詩集にまとめられております。「折々のうた」の第一回に掲げた高村光太郎の歌にも、その良さがあると言えます。高村光太郎もやはりその時代の雰囲気を背負った上でいい仕事をしているということを、忘れてはならないと思います。 こんなに長々とお話するつもりはなかったのですが、書生っぽい人達の素人の歌が、近代短歌、近代俳句の推進力となったことを、時代背景を交えてご紹介いたしました。
台湾の万葉集 『台湾万葉集』には上、中、下巻とあって、編纂者である呉建堂という方が下巻を送って下さいました。台湾で生まれて台湾で育ったお医者さんで、剣道八段、第三回世界剣道選手権の個人三位という腕前ですから、これは本当に強い。一九二六年台北生まれで、まだ六十代ですね。 その呉建堂さんが六八年に「台北歌壇」を創刊し主宰して、今に至っているのですが、本来は「台湾歌壇」としたかったそうです。しかし、当時は中国大陸と台湾との関係が微妙であったことから、政治的な色彩がつくのをさけて「台北歌壇」にしたと御本人が書かれています。なぜ台湾の人が日本語で短歌を作れるのかというと、『万葉集』の研究で大変有名な犬養孝先生が、戦争中に旧制台北高校の国語の先生をなさっていて、『万葉集』しか教えなかった。その結果、台湾に「台北歌壇」が生まれ、『台湾万葉集』が生まれたのですから、これは凄いことですね。先生という存在が、時に大変な力を発揮することの一例だと思います。呉建堂さんは犬養教授に『万葉集』を学んで感動し、以来夢中になって、台湾に短歌を残すために奮闘しているわけです。明治二十八年(一八九五)に台湾は日本の統治下に置かれ、植民地となって、もちろん中には大変残酷な出来事もあったのは事実ですが、全般的に台湾の人と日本人との間はうまくいった世界的にも稀な例だと言われています。 五十年に及ぶ統治によって、ある意味では母国語を奪い、日本語を教えたわけですから、台湾の人たちは公の場では日本語しか喋れなくなってしまった。ついこの間日本で、初めてお会いしたのですが、呉建堂さんも、本当に見事な日本語を喋ります。言葉は実に丁寧で、全く訛のない、日本人でも珍しいくらいの日本語を喋り、冗談は何でも分かってしまうという大変な人です。戦後すぐの頃の台湾にはこういう人が、何千人、何万人とおられたのです。 しかし、日本の敗戦を機にその後は誰も日本語は教わっていないわけで、従って日本語ができる最後の世代というのは、だいたい私と同じ一九三〇年前後の生まれで、それ以後の人は、小さいときに日本語を習ったとしても、忘れてしまっています。戦争が終わった頃私は十四歳前後ですから、その頃までに日本語を身につけた人の中には、強制的に日本語を教わったにも拘わらず、やがて日本語が本当に好きになって、短歌まで作ってしまう人もいた。日常語に中国語あるいは台湾語を喋っているのに、中国語で詩や文章を書くと何か自分ではないような気がするし、漢詩より短歌を作ることのほうがずっと面白いという人々が、台北だけではなくて台湾全体にわたって大勢いたのです。それから、「台北歌壇」には戦後に向こうの方と結婚して住んでいる日本人女性もおられ、そういう方の場合には歳が若いのですが、台湾の人の場合は六十過ぎが最下限です。 歌の数で言いますと、この下巻だけでも相当な人数で、一人が十首、二十首、三十首と選ばれていますので、上中下、三巻で五千首に近く、本当の『万葉集』よりも歌の数としては多いのです。これは大変なことだと思いますね。日本の占領が終わってから、かれこれ半世紀近く経つわけですが、我々が仮にその立場だったとしたらどうか。たとえばかつて中国語でずっと教育を受けた人間が、五十年経ってまだ中国語の詩を書けるかというと、とてもそんなことはできない。ほとんど絶望的だと思います。中国人というのは語学力も凄いし、自分が好きであれば、他の人があんなもの駄目だと言っても、とにかくやってしまう国民性ですね。この『台湾万葉集下巻』が意外に面白かったものですから、暫くお休みしていた「折々のうた」を五月一日に再開してからすぐに始めて、二十日ばかり続けて紹介したところ、日本だけではなく台湾の人からも手紙が来たりして、大変な反響でした。 以前日航財団が世界各国の子供達に、俳句形式の短い詩を募ったところ、二十五カ国から応募があり、その俳句の全体数は六万篇に及びました。これは形式の恩恵ですね。俳句のような短い詩があることを知った全世界の子供達が面白がって応募してきた中に素晴らしいものがありました。それを紹介した時にも、全世界の子供達がこんなにも見事な詩を作っているのかと、大変な反響がありました。 『台湾万葉集』の場合には、日本人として、さらにいろいろな思いがあります。六十歳以上の方が短歌を作るには、日本語の教養が欠かせないのにどれも見事なものであることにまず驚き、五十年も経つのに、よく日本語を忘れずに、しかもこんなに面白い歌を作っていると、誰もが感心してしまいました。事業に失敗し、がんで早く死んでしまった方の歌を見ますと、最期の頃の歌でもユーモラスなんですね。これは台湾の短歌の大きな特徴で、ユーモアがほとんどない日本の短歌との驚くべき違いです。自分の生活も他人の生活もしっかり見据えた上で、客観的に評価し、裏からも表からも観察しているから、ユーモラスになるのでしょう。台湾の人の人生観、処世観はやはり日本人とは違うと思い、本当に感動しました。 この台湾の短歌に対して日本の歌壇人からは、一言も評判を聞きませんでしたが、一般の読者からはもう雨霰の如くに反響がありました。この本をどうしても欲しい、どこへ行ったら買えるか教えて、という問い合わせが多く、台湾で出版されているものをそう簡単に買えるわけがないのですが、「ついてはあなたの紹介で買えるようにしてください」と、言ってくる。そこで、来年(一九九四年)初めに復刻版が出ることになりました。四社からこれを復刻したいという申し出があって、一番熱心で、一番条件がしっかりしていた集英社に決まりました。私が序文を付けて、呉建堂さんが感動的な後書きを書いています。 もうあまり時間がありませんが、いくつかその歌をご紹介したいと思います。最初に載せたのは呉建堂さんの、 ユーモラスなのは沢山あって、たとえば、 悲しみと機知が一緒になった歌をもう一首、 それから、実におかしいのは、 戦争中の日本との関係を思わされる歌もあります。 それから、 もう一つ、先程お話した人のものを読みます。一九三〇年(昭和五年)生まれですから僕と同世代で、八一年に五十一歳で肝臓がんで亡くなっています。中学教師から貿易業者に転じて事業は失敗、自暴自棄の中で深酒に溺れる晩年だった。不思議にも、酔いどれているときに霊感がよく訪れて、多くの短歌を作った――これは、呉建堂さんが各人について、実に面白い評伝を書いており、それがまた読み物でもあるのですが、この人の評伝の部分にはさらに次のようなことが書いてありました。この人は、酔いどれていると歌ができた。自分で書くのが面倒臭いので呉建堂さんを電話口に呼び出して歌を怒鳴り、その歌を書き取らせる。そうして書き取った彼の最期の歌は、実に痛切を極める内容です。グラマンというのは日本人にとってはアメリカの一番怖かった戦闘機ですが、 今ご紹介した歌には全部に共通して、人生をひたと見据えて決して目を逸らさない強さがあります。そして、土壇場を迎えても笑いを失わない。これは、生得のものとしか言いようがないにしても、生得のものというには、余りにもみんなに共通している。福建省辺りから来た台湾の人々は民族的にやはりどこか違うと思わざるを得ないですね。 日本の現代短歌は、実に見事に技巧が優れているし、素晴らしい歌もあるのですが、究極の点でみんな平べったくて、どんなふうに技巧を弄してみても、センチメンタルに見える。それに比べて、こうしたおおらかな歌のほうが素晴らしいと思えてしまうところがあって、多分歌人の方々は、いつまで続けるつもりだろう、早く止めてしまえと、眉を顰められていたかも知れません。『台湾万葉集下巻』から二十人ばかり紹介しましたから、その間、日本人のものを載せないわけで、実際に「もっと技巧に優れた、きめの細かい歌を読みたい」と言ってこられた読者もいました。世はさまざま、と思いました。女性にも男性にもそういう方がいました。 それはとにかく、「折々のうた」を自分でも思いがけないくらいに長くやってきた御陰で、いろいろと他の国の短歌や俳句まで知る機会を得たことは、私にとってまず第一に大変有り難かったということでございます。
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